僕達は何処にも行けない

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「――ええ加減にしろやお前!」

 会議室で怒号が響いた。
会議室の壁を薄い突き抜けて響く怒声に社歴の浅い中途社員が肩を震わせ、私はまた始まったよ、思いながらも報告書をパソコンで打ち込んでいた。
私はもう慣れたものだが、ビビる中途社員の気持ちは良くわかる。例え自分に向けられたものではないとしてもドスが効いた低い声で怒鳴られれば腰も引けるというものだ。

三島課長の説教癖、或いは罵声癖は社内では有名だ。
些細なミスでも烈火の如く怒り狂う瞬間湯沸かし器は今日も今日とて絶好調らしい。社会人として叱ることは必要だと思うがあそこまでいくとそれも考えものだ。私も新入社員時代にはああやってよく怒鳴られたものだが、あんな怒り方では反骨心しか生まないだろうに。

厄介なのが課長は実務の面では極めて優秀であり、言っていることは全て正論であるという事だ。自分で言って悲しくなるが、学閥なんてものが幅を利かせるほど大した会社ではない。その中でも課長は叩き上げの営業社員で、自分の腕一本で課長まで伸し上がってきたのだからその手腕は確かなものだ。

「越谷君、今度は何したのよ」

 私の隣に座る事務の小菅さんがこそこそと私に耳打ちしてくる。話題を振りながらもパソコン捌きには淀みがない。流石はベテラン事務員というべきか。

「ちょっと私は把握してませんね」
「薄情じゃない?貴方の後輩なんだからちゃんと気にかけてあげなさいよ」

 私の突き放したような物言いは彼女の神経を僅かばかり逆なでしてしまったようだ。テンションが上がるとマシンガンの如く捲し立てる話好きの彼女は事務員で敵に回してはいけない筆頭だ。口やかましいだけで決して悪い人間ではないのだが、あまり対人能力に秀でているわけではない私は小菅さんに苦手意識を持っていた。
小菅さんは自分の息子と同い年だという越谷をよく可愛がっていたから、余計に気に掛けているのだろう。
そして件の越谷の社歴はこの会社で一番短い。新卒切符を凄まじいブラック企業で消費したらしい越谷は九月という実に中途半端な時期に第二新卒扱いで入社した。
入社してからは一応私が教育係として指導に当たっていたのだが、運が悪いことに事あるごとに課長の怒りの捌け口にされている。越谷が別に無能というわけではないのだが、社歴が浅くまだ若いという事で課長にとっては怒りをぶつけやすいから、目を付けられてしまったのだ。

「まあまあ、越谷君も一応は独り立ちしたんだから、もう付きっ切りでわけじゃないだろ?」

 小菅さんを宥めるかのように、向かいのデスクから梅畑さんが言った。

「そうですね。一応OJTは先月で終わってますし、私の顧客の一部を引き継ぎで担当してもらっています」
「でしょ?越谷君も学生じゃないから、ちゃんと自己責任っていうものを学んでもらわないと。ああでも、きちんとフォローはしてあげてくれよ。きっと今はキツイ時期だからさ」

 どこか梅畑さんは遠い目をしていた。今年で七年目、中堅社員として定着した梅畑さんにもあの罵声は身に覚えがあるらしい。初めの方は私もビビッていたが今では慣れたものだ。少なくとも怒声を聞きながらのんびり雑談が出来る程度には。
十分ほど経つと説教は終わったようだった。会議室から出てきた課長は贅肉で重くなった腹を揺らし、不機嫌そうに自分のデスクにどっかりと腰を下ろした。越谷は自分の席には向かわず、私達に背を向けるように従業員用の通路に向かっていた。
軽薄な雰囲気だが意外と打たれ弱い越谷は説教の後は毎度の如くトイレに行っている。そこで顔を洗っているのだ。

「すいません、ちょっと出ます」

 小声で小菅さんに言い残し、私は席を静かに立つ。小菅さんがやたらかっこいい仕草で親指を突き立てた。越谷の背中を追いかけるが、オフィス内で走るわけにもいかず不審にならないように早歩きでトイレに向かう。私が越谷に追いついた時には既にトイレから帰ってくる途中のようで、顔にはまだ湿り気があった。それでも僅かに潤む瞳は誤魔化せない。

「あー……大丈夫?」

  私の言葉に越谷は何故か小さく噴き出した。一応こちらは心配してやっているのに実に失礼な奴だ。

「たまに思うんですけど、先輩って意外と不器用ですよね」
「そんだけ無駄口が叩ければ大丈夫かな」
「いやぁ、あんまし大丈夫じゃないっす。でも先輩の顔見てたらなんか安心しました」

 どういう意味だと問い詰めたくなるが、今の状態で詰るのは流石に気が咎めた。

「……まあ、いいけど。通路で話すのもアレだからちょっと下に行こうか、煙草でも吸いにさ」

 私達の会社は高層ビルの丁度真ん中の階に入っている。エレベーターで一階のエントランスに降りて奥に進むと、そこに大きな喫煙スペースがあるのだ。手招きする私に越谷は逡巡したようだが、微かに頷いた。

「でも良いんすかね、就業時間に煙草吸って」

 そういった部分は真面目な越谷は煙草休憩の言う名のサボりに抵抗があるようだった。

「大丈夫でしょ。この会社はそういうところは寛容だし、課長も喫煙者だし」
「いや、俺も……失礼。僕も煙草吸いたかったから良いっすけどね」
「今は煙草休憩だから口調は楽でいいよ」

 エレベーターを降りて喫煙スペースに入ると私達と同じく、勝手な煙草休憩を取りに来たらしいサラリーマン達が屯している。
それなりに年季があるビルだからか、壁はヤニですっかり黄ばんでいた。奥に設置されている自販機に小銭を入れて微糖のコーヒーを二本買って、ジャケットのポケットから煙草を取り出していた越谷に一本手渡す。

「微糖で良かった?」
「はい、ありがとうございます」
「いいよ別に、コーヒーの一本くらい」

 私も煙草を取り出し、火を点ける。深く煙を吸い込み、それを吐き出す。それは雑多な喫煙スペースの充満している煙と溶け合っていった。

「それで、今回はどうした?課長は大分おかんむりだったけど。発注ミス?」
「それもありますね。この間契約したお客さんなんですけど」
「それもって、後は何があるの?」
「見積もりミスですよ」
「あー、それは……」

 人間なのだからヒューマンエラーはどうしたって付きまとう。けれどミスをしたら怒られるのは社会人として当然だ。それが防げる些細なケアレスミスなら猶更。

「入金は?」
「いや、それはまだ。お客さんにはもうアポとって明後日正しい契約書持って印鑑もらいにいってきます。怒ってはなかったですよ。気を付けな、ぐらいで」
「……大事にならなくてよかったよ。今回は君が悪いね。課長も些か怒り過ぎだとは思うけど」
「今回は反論の余地なく俺が悪いっすからね」

 はっはっは、と越谷は乾いた笑いを溢した。

「別にお客さんからクレームがあった訳じゃないんすよ。あそこまで言いますかね……」

 越谷はコーヒーをぐびりと呷り、爺臭い溜息を吐いた。入社当時、フレッシュな空気を纏っていた越谷は半年も経っていないのに老けたように見えた。

「……挫けそうですよ。最近は夢にもあの人が出てくるんですよ」

 冗談かと思いきや、越谷の暗い顔を見る限り事実のようだ。私なりに夢の情景を想像してみると確かに悪夢だ。少なくとも、あの大きな丸顔がいきなり出てきたら愉快な夢ではないだろう。

「なるほど、相思相愛ってやつかな。あ、でも課長結婚してるよ」

 子供も二人いるし、と私が言うと越谷は嫌そうな表情を作った。

「いやぁマジで勘弁して下さいよ。本当に電話が鳴る度にビビりますからね。家に帰ってもあの人の声が聞こえますからね」

 トラウマですよ、と越谷はぼやいた。
まるで数年前の私と同じだ。あの時は直近の先輩が梅畑さんだったから、私もよく愚痴を聞いてもらっていた。
そう考えると、どうにも不思議な構図のように思える。
越谷は数年前の私の姿で、後数年も経てば越谷も後輩社員の愚痴を聞いているのだろう。
歴史は繰り返す。教科書に載っていることだけではなく、こんな小さなことでさえも。

「私だって入社した時には、それはもう派手に怒られたよ」
「先輩がですか。なんていうか、先輩ってそういう立ち回りは得意そうですけど。あ、いや、失礼な意味じゃないですからね」

 信じられない、という目は越谷は私をまじまじと見つめた。
一体越谷は私の事をどう思っているのだろう。私はただの凡人でミスなんてそれこそ数え切れないほどしてきたというのに。
コソコソと姑息に立ち回るのは意外と得意だから、傍目から見るとソツなくこなしているように見えるのかもしれない。しかしその程度が私の限界だ。

「本当本当。今でもやらかして怒られることなんてザラだし。でも割ともう慣れた感じはあるし、平気になった」

 特別なスキルのない新卒に何を求めているんだ、と言い返したくなるような事も頻繁にあったが、今では慣れたものだ。
生物は環境に順応していく。それは人間とて同じだ。非日常はいつの日か慣れて日常になる。少なくとも自分に向けられるものでない限りは課長の罵声もそよ風のようなものだ。
それに課長は凄まじい勢いで怒るが、熱が引くのもまた速い。それに仕事とプライベートをキチンと分けるタイプだ。怒鳴った数時間後の飲み会ではビールジョッキ片手に笑っている。会社では恐れられているが、ああ見えてそれ以外では意外と慕われていたりするのだ。あの説教は慣れるまではキツイが、それを超えてしまえば途端に楽になる。

「人間の脳って都合良いからさ、昔の事なんて直ぐに忘れる。一年後には酒の席で笑い飛ばせるようになってるさ」
「自信ないッス、正直……」

 灰皿に短くなった煙草の吸殻をねじ込み、二本目の煙草を咥えて気だるげに越谷は言った。

「そりゃ、怒られた事なんてこの会社に入るまでいくらでもありましたけど、あそこまで強烈なのはなかったですからねぇ」
「前にいた会社は?厳しかったんじゃないの?」
「あそこはまず人格否定から始まりましたからね。聴く価値がないって受け流せればそれで良かっですからね」

 越谷の精神が図太いのか繊細なのか、どっちか分からなくなる。

「それなら課長の罵声も受け流せると思うけど」
「いやぁ、課長の場合は語気は荒いですけどキチンと正論で攻めてきますから。結構精神削られるんですよ」
「ふーん。……越谷、付き合いの長い友達っている?」
「はい?まあ中学からツルんでる奴ならいますけど……」
「結構長いね、私も小学校の低学年から付き合いがある友人がいたんだ」
「はあ」

 私は適温になった缶コーヒーのプルタブを引っ張りながら、昔の事を思い出す。掛け替えのない宝物だったものは最早一つの過去に成り下がっていた。

「高校の時に交通事故で死んだ。苦しまずに即死だったのが不幸中の幸いだったかな」
「……それは、また」

 どう反応していいものか、という心の声が私には聴こえた。

「まあ、その時にも色々あって暫く引き摺ったんだけど、もう平気になった。仲は凄い良かったんだけど、もう顔はアルバムでも開かないと全然思い出せないし、名前を思い出す時にもちょっと時間がかかるようになった。でもそういうもんだと思うよ」
「……いやあ、そんなヘビーな話をさらっとされても困るんですけど」

 短くなった煙草の灰を落として越谷は言った。引き攣った表情は曖昧に笑っているようにも、苦み走っているようにも見えた。

「私にとってはそんな重い話じゃないんだよ。当時はそりゃ悶々としてたことも心が締め付けられることもあったけど、もう大分経つしさ。昔の事よりも今の事の方がずっと大事だよ」

 何せ厄介事は奇襲でもするかのように唐突に、理不尽にやってくる。そんなものの対処に追われているうちに時間は気付かないうちに経っていて、ふと我に返って後ろを振り返ると高校時代の思い出なんて、ずっと遠くに辛うじて見えている程度だった。
もう手は届かない。それは本当は途轍もない悲しみなのかもしれないけれど、摩耗して劣化したかつての記憶はただの記憶に過ぎず、ほんの少しだけの寂寥感を残すだけに留まる。
それはきっと長い人生の仲で誰もが通る道。

「つまりは、怒られてもあんまり気にすんなよって話ですか?」
「まあ、そういうことかな」
「……さっきも言いましたけど、先輩って意外と不器用ですよね」

 不器用の真意を問いただそうとしたが、見れる顔になった越谷の表情を再び曇らせるのも憚れ、そう、と私は独り言のように呟いた。

「今日、一緒に飯でもどうッスか?会社近くに上手いラーメン屋知ってるんですけど」

 オフィスに戻る道すがら、越谷が言った。日々の食事は自炊派だが、たまには外食も悪くないか。

「ちなみに何ラーメン?」
「味噌です。休みの日にはよく通ってますから、味は保証しますよ」
「いいよ、行こうか。でも言っとくけど、私は味噌については一家言あるから」

 なんですかそれ、と越谷は笑窪を作って笑った。

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