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裏2
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「ふぅー」
今日の二者面談を終え、五十嵐は職員室まで戻っていた。来月の三者面談が本番とはいえ、二者面談で手を抜くわけにはいかない。集中していたせいか、五十嵐は肩コリのような疲れがあった。
「……いやぁ、これは単純に歳かね」
何せ教員生活を続けて長い。昔と比べて腹は出て来たし、頭の髪の毛も寂しくなった。当然、身体だって脆くなってちょっとしたことで節々が痛くなる。
歳を取ったなぁ、と思いつつ自分のデスクに向かっていると視界の端からコップに入れられたお茶が差し出された。
顔を上げると若手の女性教師である君崎がいた。
「お疲れ様です、五十嵐先生」
「君崎センセ、そんなお茶くみなんてせんでいいんですよ。ま、ありがたくもらいますけど」
コップに手を伸ばすとひんやりとした感覚が手に張り付く。まだ空調を利かせるには早い時期だが、職員室の中は人口密集と密閉された空間で熱が籠っている。五十嵐は簡単に礼を述べると一気にコップを煽った。
清涼感が喉を伝って身体に浸透し、気分が大分楽になる。
「いやすいません。助かりますわ、君崎先生」
「五十嵐先生に先生と言われると、なんだか変な感じですね」
苦笑して、教員の君崎は五十嵐の隣、割り当てられた自身の席に腰を下ろした。君崎はまだ二十代中盤で五十嵐とは親子ほど年齢が離れている。ナチュラルメイクに動きやすいチノパン、薄手のカーディガンとごく普通の恰好だが足が長くすらりとした体型のお蔭もあるのか雑誌から抜け出したモデルのようだ。
そりゃ男子共の人気は高いわなぁ、と五十嵐は内心呟いた。既婚者で爺の歳に片足を突っ込んでいる五十嵐は流石にその気は起きないが、若い男は放っておかないだろう。
「まあ、教員同士だから互いに先生呼びが普通でしょう」
「それは承知していますがが、正直な事を言うと生徒から先生って呼ばれるのもまだ慣れないんですよ」
君崎は教員歴は三年目、ぎこちなさは無くなったが、どうにも本人の中では違和感があるらしい。
「気持ちはわかるけどね、三年担当になったんだから生徒にそういう弱いところ見せたらいかんよ」
「肝に命じます。……もう私も頼られる大人ですからね」
君崎は今年になって初めて三年生の担当教師になった。
三年生の担当教員は一、ニ年生の担当とでは仕事量も多くなる。当然、受験や就職が絡むからだ。
更に六月からは早朝と放課後に実施される課外授業が待ち受けている。生徒達にとっても負担だが、教員達にもそれは重くのしかかる。君崎はクラス担任ではないので進路指導には直接かかわらないが、それでも単純な仕事量はやはり増える。
「覚悟して教職に就きましたが、やっぱり大変ですね。実際に働く側になって当時の先生の偉大さが分かります」
「まあ君崎先生はまだ若いからなぁ、これっばかりはしょうがない」
五十代の五十嵐と二十代の君崎。衰えてきた身体の事を考えれば体力的な部分では君崎に劣っているだろうし、それに反して仕事量は五十嵐の方が多い。
けれど急激に増加した仕事量に君崎は辟易としている様子だった。
まだ若く、業務に手間取る事を考えれば想像以上の業務をこなしているように感じるのだろうと五十嵐は思った。
「ですが生徒達もこの時期から大変になりますし、私が弱音吐くわけにはいきません」
気合を入れるように握りこぶしを作る君崎に五十嵐は苦笑した。君崎は真面目だ。そこは好ましいのだが、もうちょっと肩の力を抜いた方がいいのではないか。
仕事に対して真面目であるのは当然であり前提条件だが、常に全力投球である必要はない。
教員も人間だ。力の抜きどころは考えなくてはならない。手を抜くことと力を抜くことはまったく違うことだと、目の前の若い教師に伝えるべきか逡巡した。
「それで、どうですか?クラスの方は」
そうしているうちに、君崎は声の音量を幾らか落とした。別にやましい事ではないから声の音量を落とす必要はないが、君崎なりに気遣いだろう。
事故から一カ月が経過した。動揺が見られたクラスも今では大よそ平穏を取り戻している。
「おう、問題ないといえばない。……まあ、あの二人はまだ参ってる感じやけどな」
五十嵐の最後の言葉は呟くような小声だった。
「というと?」
「アイツと仲が良かった二人、まだ暗い感じでな」
仲が良かった友人が突然亡くなったのだから、当然といえば当然だ。しかしそれだけではないと五十嵐は半ば直感で確信していた。
教師生活三十年、ベテランの五十嵐は残された二人にある何かに感づいていた。
その内容までは把握できないが、どこか―――そう、迷いがあるのだと。
進路に不安があるのか?いやそれだけではない気がする。では一体何に対して迷いがあるのか。教員としてクラス担任として、五十嵐はそれを解決しなければと思っていたが、デリケートな話題であるため、難航しているのが現状だ。
「……まだ五月ですからね」
「おう、もう少し時間かかるな」
だが敢えてそんな事を口に出す必要もない。君崎の方はまったく気づいていないようだ。
しかしそれは仕方がない。何しろ年季が違う。
だが―――
「どうかしましたか?」
「ん?ああ、いやなんでもない」
これまで多くの失敗があった。次こそはないように、と研磨し続けてきた。
その結果、教師として一角の人物になれたという自負がある。教師として、生徒達を導いてきた自信がある。けれど今回の事故を防ぐことはできなかった。
交通事故を未然に防ぐなんて無理難題だが、それでも無力感に苛まれる。
五十嵐ほどの歳になると生徒が死ぬという事態に直面する事も多くなる。何せ最初に受け持った生徒がもう四十代だ。
病死や事故死など、訃報が届くたび五十嵐はやるせない気分になる。これは何度経験したって慣れないものだ。
そういえば、と思い出す。一番最初に五十嵐が経験した生徒の死もこの学校だった。
まだ若い時に受け持った女子生徒で大学を卒業してすぐ、若くして病死したという。
どのケースも自分ではどうしようも出来ない事であるのは五十嵐も重々承知であるが、それでも何も出来なかった自分が歯がゆかった。
「……こらまた藤原を招集するしかないかね」
ごつごつとした体躯のクラス委員の姿を思い出す。五十嵐が便利要員として使っている実直な生徒だ。無論、藤原も受験生であるため負担を掛けるわけにはいかないが、生徒からの目線で分かるものもあるだろう。
歳を経る毎に生徒達と年齢が離れていく。それは当然で、抗うことは出来ない。
きょとんとした顔の君崎を見る。まだ若く、皺も無い肌はエネルギーに溢れている。
その若さを少し羨ましいと思った。若いという事は無茶も失敗も出来るという事でもあるからだ。
今日の二者面談を終え、五十嵐は職員室まで戻っていた。来月の三者面談が本番とはいえ、二者面談で手を抜くわけにはいかない。集中していたせいか、五十嵐は肩コリのような疲れがあった。
「……いやぁ、これは単純に歳かね」
何せ教員生活を続けて長い。昔と比べて腹は出て来たし、頭の髪の毛も寂しくなった。当然、身体だって脆くなってちょっとしたことで節々が痛くなる。
歳を取ったなぁ、と思いつつ自分のデスクに向かっていると視界の端からコップに入れられたお茶が差し出された。
顔を上げると若手の女性教師である君崎がいた。
「お疲れ様です、五十嵐先生」
「君崎センセ、そんなお茶くみなんてせんでいいんですよ。ま、ありがたくもらいますけど」
コップに手を伸ばすとひんやりとした感覚が手に張り付く。まだ空調を利かせるには早い時期だが、職員室の中は人口密集と密閉された空間で熱が籠っている。五十嵐は簡単に礼を述べると一気にコップを煽った。
清涼感が喉を伝って身体に浸透し、気分が大分楽になる。
「いやすいません。助かりますわ、君崎先生」
「五十嵐先生に先生と言われると、なんだか変な感じですね」
苦笑して、教員の君崎は五十嵐の隣、割り当てられた自身の席に腰を下ろした。君崎はまだ二十代中盤で五十嵐とは親子ほど年齢が離れている。ナチュラルメイクに動きやすいチノパン、薄手のカーディガンとごく普通の恰好だが足が長くすらりとした体型のお蔭もあるのか雑誌から抜け出したモデルのようだ。
そりゃ男子共の人気は高いわなぁ、と五十嵐は内心呟いた。既婚者で爺の歳に片足を突っ込んでいる五十嵐は流石にその気は起きないが、若い男は放っておかないだろう。
「まあ、教員同士だから互いに先生呼びが普通でしょう」
「それは承知していますがが、正直な事を言うと生徒から先生って呼ばれるのもまだ慣れないんですよ」
君崎は教員歴は三年目、ぎこちなさは無くなったが、どうにも本人の中では違和感があるらしい。
「気持ちはわかるけどね、三年担当になったんだから生徒にそういう弱いところ見せたらいかんよ」
「肝に命じます。……もう私も頼られる大人ですからね」
君崎は今年になって初めて三年生の担当教師になった。
三年生の担当教員は一、ニ年生の担当とでは仕事量も多くなる。当然、受験や就職が絡むからだ。
更に六月からは早朝と放課後に実施される課外授業が待ち受けている。生徒達にとっても負担だが、教員達にもそれは重くのしかかる。君崎はクラス担任ではないので進路指導には直接かかわらないが、それでも単純な仕事量はやはり増える。
「覚悟して教職に就きましたが、やっぱり大変ですね。実際に働く側になって当時の先生の偉大さが分かります」
「まあ君崎先生はまだ若いからなぁ、これっばかりはしょうがない」
五十代の五十嵐と二十代の君崎。衰えてきた身体の事を考えれば体力的な部分では君崎に劣っているだろうし、それに反して仕事量は五十嵐の方が多い。
けれど急激に増加した仕事量に君崎は辟易としている様子だった。
まだ若く、業務に手間取る事を考えれば想像以上の業務をこなしているように感じるのだろうと五十嵐は思った。
「ですが生徒達もこの時期から大変になりますし、私が弱音吐くわけにはいきません」
気合を入れるように握りこぶしを作る君崎に五十嵐は苦笑した。君崎は真面目だ。そこは好ましいのだが、もうちょっと肩の力を抜いた方がいいのではないか。
仕事に対して真面目であるのは当然であり前提条件だが、常に全力投球である必要はない。
教員も人間だ。力の抜きどころは考えなくてはならない。手を抜くことと力を抜くことはまったく違うことだと、目の前の若い教師に伝えるべきか逡巡した。
「それで、どうですか?クラスの方は」
そうしているうちに、君崎は声の音量を幾らか落とした。別にやましい事ではないから声の音量を落とす必要はないが、君崎なりに気遣いだろう。
事故から一カ月が経過した。動揺が見られたクラスも今では大よそ平穏を取り戻している。
「おう、問題ないといえばない。……まあ、あの二人はまだ参ってる感じやけどな」
五十嵐の最後の言葉は呟くような小声だった。
「というと?」
「アイツと仲が良かった二人、まだ暗い感じでな」
仲が良かった友人が突然亡くなったのだから、当然といえば当然だ。しかしそれだけではないと五十嵐は半ば直感で確信していた。
教師生活三十年、ベテランの五十嵐は残された二人にある何かに感づいていた。
その内容までは把握できないが、どこか―――そう、迷いがあるのだと。
進路に不安があるのか?いやそれだけではない気がする。では一体何に対して迷いがあるのか。教員としてクラス担任として、五十嵐はそれを解決しなければと思っていたが、デリケートな話題であるため、難航しているのが現状だ。
「……まだ五月ですからね」
「おう、もう少し時間かかるな」
だが敢えてそんな事を口に出す必要もない。君崎の方はまったく気づいていないようだ。
しかしそれは仕方がない。何しろ年季が違う。
だが―――
「どうかしましたか?」
「ん?ああ、いやなんでもない」
これまで多くの失敗があった。次こそはないように、と研磨し続けてきた。
その結果、教師として一角の人物になれたという自負がある。教師として、生徒達を導いてきた自信がある。けれど今回の事故を防ぐことはできなかった。
交通事故を未然に防ぐなんて無理難題だが、それでも無力感に苛まれる。
五十嵐ほどの歳になると生徒が死ぬという事態に直面する事も多くなる。何せ最初に受け持った生徒がもう四十代だ。
病死や事故死など、訃報が届くたび五十嵐はやるせない気分になる。これは何度経験したって慣れないものだ。
そういえば、と思い出す。一番最初に五十嵐が経験した生徒の死もこの学校だった。
まだ若い時に受け持った女子生徒で大学を卒業してすぐ、若くして病死したという。
どのケースも自分ではどうしようも出来ない事であるのは五十嵐も重々承知であるが、それでも何も出来なかった自分が歯がゆかった。
「……こらまた藤原を招集するしかないかね」
ごつごつとした体躯のクラス委員の姿を思い出す。五十嵐が便利要員として使っている実直な生徒だ。無論、藤原も受験生であるため負担を掛けるわけにはいかないが、生徒からの目線で分かるものもあるだろう。
歳を経る毎に生徒達と年齢が離れていく。それは当然で、抗うことは出来ない。
きょとんとした顔の君崎を見る。まだ若く、皺も無い肌はエネルギーに溢れている。
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