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第一章
4話
しおりを挟む昨日、学校を早退し家に帰った後、光留はぐっすり眠ることができた。
やはり身体が限界だったようで、夢を見ることもなかった。
あのまま夢を見続けていたら心が壊れる前に、身体が壊れていただろう。
おかげで今朝の目覚めはスッキリしていて、光留は久々に清々しい朝を迎えることが出来た。
そして学校では相変わらず、唯はマドンナ的存在で、光留だけが相変わらず邪険にされる。
周りもきっと光留が唯に対して何かしたんだろう、と思って気に掛けるものはいなかった。
いつもの日常だと思っていると、裕也が声をかけてくる。
「よっ! 今日は顔色いいな光留」
「あぁ、久しぶりにゆっくり眠れたからな」
「そりゃよかったぜ。でさ、元気な光留君にいっこお願いがあるわけよ」
上目づかいで瞳を潤ませる裕也は、光留から見れば気持ち悪い。としか言いようがなかった。
一部の女子の間では「愛嬌があって可愛い」と言われる裕也だが、同じ男である光留からすれば、自分よりも背が高くガタイのいい裕也の猫なで声は正直ゾッとする。
「嫌だ」
裕也のお願いを即答で拒絶する。
「ちょ、まだ何も言ってない!」
「言わなくたってわかる。どうせ雑用を押し付ける気だろ」
「そんな押し付けるだなんて……。いや、まぁそうなんだけど」
「なんだ、自覚あるのか」
冷めた目で裕也を見るが、裕也はそんな光留の視線などものともせずにニコニコ笑う。
「放課後の掃除当番変わってくれ!」
「嫌だって言ったけど」
「そこをなんとか!」
裕也のお願いは今に始まったことではないけれど、何故毎回光留なのか、と思わずにはいられない。
「ていうか、お前のお願いなら聞いてくれるやついっぱいいるだろ」
「うーん、そうだと思うんだけど、なんかさ。光留が一番頼みやすいっていうか、安心感があるっていうか……」
「はぁ?」
意味が分からない。
光留はいたって普通の男子高校生だという自覚がある。
裕也のように将来有望な選手としてではなく、普通に受験合格してこの学校に通っている。
確かに、他の学校に比べれば偏差値は高い方だろうが、学生に埋もれてしまえばさほど大差はない。
なのに頼みやすく、安心感があるとは一体……。
「まぁ、光留が俺の親友だからっていうのもあるけど」
親友、という言葉に絆されたわけではないけれど、裕也が光留にとって友人であることに変わりはない。
光留は仕方ない、とため息を吐く。
「ジュース五本な」
「サンキュ! やっぱ光留に頼んで正解だよ!」
「はいはい」
抱き着こうとする裕也を押しのけて、雑な返事をしていると、ふと視線を感じた。
不思議に思って顔を向ければ、唯と目が合った。しかしすぐに逸らされたので、きっと偶然だろうと思うことにした。
放課後、ジュース五本と引き換えに掃除を終わらせると、辺りはすっかり暗くなり始めていた。
帰宅部である光留は、基本的に学校が終わればすぐに帰る。
将来何になりたいとか、具体的な目標があるわけではないから、寄り道もほとんどしない。
朱鷺子の実家の神社の宮司にならないか、という話もあったが、朱鷺子が渋ったのだ。
光留に霊感がないから、という理由もあるのだろうが、古臭い因習のある所に光留を縛り付けたくない、と思っているようだ。
光留自身は、それもいいかなと、一時は思った。けれど、もしかしたら高校に行けば他にやりたいことも出てくるかもしれない、と保留にしている状態だ。
そんなわけで帰っても特にやることはないとはいえ、部活にも入らず遊びに行くこともあまりせず、家に帰るというある意味健全で真面目な生活ぶりだった。
家に向かう途中の交差点を曲がり、路地に入れば少し薄暗い。
数週間前、唯に助けられたのはこの辺りだったなと、ふと思い出す。
「大っ嫌い……か。やっぱあの夢に出てくる女の子って、鳳凰なのかな……」
それであれば納得する。
最愛の実兄であり恋人が目の前で殺され、傷心しているところに、そっくりの男がいれば、そりゃあ混乱するだろう。
認めたくないと思うのも致し方ない。
けれど、どう考えてもそれだと唯の年齢がおかしな数字になるのだ。
「不老長寿……っていうのがあるけど、それにしちゃ長生きしすぎだろ。むしろ、不老不死、か?」
そんな漫画やゲームみたいなことあるのだろうか。
唯に直接聞いてみたい気もするが、今の調子じゃどう考えたって無理がある。
避けられて終わりだ。
ままならない。いっそ考えなければいいのだろうが、夢の出来事をなかったことにするには、内容が重すぎる。
いっそ彼女でも作れば唯の事を考えなくてもいいかもしれない。
そうだ。女は唯だけじゃない。可愛い女の子はまだ他にもたくさんいる! と思ってみたが、きっと光留は唯を放っておけない。
全部夢のせいだ。
堂々巡りの思考中、光留の向かう先の少し先に、黒い影がゆらゆらと揺れていた。
「あの時もちょうどあの辺りで……、は?」
嫌な予感がした。
夏のくそ暑いこの季節に冬物のコートを着た不審者。見覚えがある。
「いやいや、そんなはずは……」
あの時の化け物は唯が不思議な炎の力で消滅させたはずだ。光留は灰になった瞬間を間違いなく視ているのだから。
だから、これはあの時と違うモノなのだろう。
(逃げないとっ……!)
この間は運よく唯が助けてくれたが、今回も唯が助けてくれるとは限らない。
じりっと、光留は後ずさる。
そっと、音を立てないように。
緊張が漂う中、また一歩下がると、じゃり、と革靴が小石を踏む微かな音が妙に響いた。
不審者と思しきそれが、こちらに気付いてしまった。
(やばッ……!)
ぐにゃりと形が変わり、身体の体積が膨張する。
細い何本もの手だか足だかわからないものが身体中に這えて、ぎょろっとした人間のような大小無数の目がこちらを見据える。
頭の上にある人を丸呑みできるくらい大きな赤い口から、赤い液体が滴り落ちる。
錆びた鉄の匂いに、血の匂いだと気付いた。
(まさか、こいつ、人を喰って!?)
ニタァと嗤うとずり……と光留に一歩近づく。
『オマエ、ウマソウ……』
「っ!」
恐怖で、声が出なかった。
『ニク……ニク……、人間の……』
じりじりとにじり寄って、何本もの手が光留に伸ばされる。
光留も、無意識に足を引く。
のそり、とどこか緩慢な動きは獲物を確実に仕留めようとする獣のようだ。
『ニクゥ……ウマソウ、ナ、ニク……、ニクゥゥゥゥ!!!!』
「うあああああああっ!!」
触手が目前に迫り、触手が光留に触れようとした瞬間――。
『ギャアアアアアアアアアアッ!!!!!』
燃えた。
光留の目の前で。
煌めく炎。燃え盛る異形のモノ。そしてその後ろには、やはりいた。
「鳳凰……、なんで……」
金色に光る瞳は、どこか憂いを含んでいて、切ないけれど美しいと思った。
唯が操っているだろう炎は、こんなに近くにいるのに、光留を傷つけることはない。
瞬く間に灰になり果てたソレも前と一緒だ。以前は気付かなかったが、燃えている化け物からは焦げた匂いがしない。むしろ、炎から清められた清浄な空気を周囲に振りまいている。
唯は完全に化け物の気配がなくなったことを確認して踵を返す。
「っ、お前、何で俺を助けたんだよ。俺のこと、嫌いじゃなかったのかよ?」
唯はピタリと足を止める。
「嫌いよ」
吐き捨てるように言うと、また歩き始める。まるで、逃げるかのように。
「じゃあ、なんで助けたんだよ! 俺のこと嫌いなら死んだって構わないはずだ。放っときゃいい!」
「……いいでしょ。あなたを助けようが殺そうが、私の勝手。私の役目だもの。あなたには関係ないわ」
「っ……!」
身勝手な唯の言い分に、頭の中で何かがぶつりと切れた。
「俺だってなぁ……」
光留は唯の腕を強引に掴み、振り向かせる。
「俺だってお前が嫌いだよ!!」
唯が一瞬傷ついたような顔をしたが、先ほどの出来事もあったせいか、冷静さを欠いていた。
「俺がお前に何で嫌われてるかとかわかんねえけど、俺だってお前が嫌いだ! なんなんだよ毎晩毎晩、兄様兄様って、俺が好きみたいな夢見せられて、しまいにゃ俺が殺されるところであんな、心が痛くなるような夢見せられて。でも現実じゃお前は俺のこと嫌いっていうし、なんなんだよ! おかげで俺は寝不足になったし、お前の事気になるしで、頭がおかしくなりそうだ!!」
言い切ってから、ハッとした。
夢の話なんて、一生唯にすることなんてないと思っていたのに。
急に冷や水を浴びせられたかのように、意識が現実へと引き戻されたような気がした。
でも、これで本当に唯との縁が切れるなら、それもいいかもしれないと頭のどこかで考える。
「……夢?」
ポツリと、唯が呟く。
顔を上げて、唯の顔を見ると、真っ青な顔色で翡翠の瞳からポロポロと涙を零していた。
その涙が、切なくて苦しくて、抱きしめたくなる衝動に駆られた。けれど、自分にそんな資格はないとぐっと我慢する。
「本当に……?」
「あぁ」
唯は、泣きながら震えていた。
それから小さく「ごめんなさい」と呟いた。
何に対しての謝罪なのか、光留にはわからず困惑する。
「ごめん、なさい……。そんなつもり、なかったの……」
「鳳凰?」
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
謝り続ける唯に、かける言葉が見つからない。
「別に、謝ってほしかったわけじゃ……」
そもそも、夢の話をしたところで、唯とどうこうなるとは思っていなかった。
ただ、理由ははっきりさせておきたいとは、ずっと思っていた。相性が悪いだとか、単純に好みの見た目じゃないとか、そんな簡単な理由でもはっきりしていれば、光留は唯に関わろうと思わないし、今後の唯への対応も考えることが出来ると思っただけだった。
これではまるで、光留が唯をいじめて泣かせたみたいだ。
いや、実際そうなのだろう。いくら取り乱していたとはいえ、唯を責める口調になってしまった。
心許ない唯をこれ以上見ていることも出来ず、光留は唯を解放する。
「……」
唯は青い顔をしながらも、光留を不安そうな顔で見上げる。
「はぁ……。助けてもらったのに、泣かせるなんて思ってなかったんだよ。その、取り乱して悪かった……」
律儀に礼と謝罪する光留に、唯は「ごめんなさい」とまた謝る。
きっと、このまま別れてもお互い気まずい。嫌いなら嫌いなままで構わないが、光留は唯との関係をはっきりさせたい。
夢のことも多分、何か知っているのだろう。アレが唯本人かどうかは別としても、夢の正体がわかれば、唯に不用意に近づかなくて済むし、唯も嫌いな人間を助けるなんてしなくて済むだろう、そう思った。
これは、そのための提案だった。
「あのさ、そんなに謝るんだったら理由をちゃんと教えてよ」
「それは……」
「今日すぐにっていうのはさすがに無理なのは俺だってわかってる。こんなところ、学校の誰かに見られたら俺が刺される」
唯に憧れる男子は多いのだ。入学したての頃の光留だってその中のひとりに過ぎなかった。唯のあからさまな態度に気付くまでは。
だから唯を泣かせた場面を見られれば、後ろから刺されても文句は言えない。
「けど、こんな話、学校じゃ無理だろうし、お互いの家でも気まずいだろ」
両親に彼女だなんて誤解されたくない。むしろ嫌われているのだと説明したところで、女の子を部屋に連れ込む時点で誤解するしかない。
「だからさ、明日二人で出かけようぜ」
「え……」
唯があからさまに動揺した。
「俺と二人きりなのが嫌なのはわかるけどさ、他に行くとこもねえし、仕方ないだろ」
そう、仕方ないのだ。
これは断じてデートなんて甘ったるいものではない。
いや、ほんのちょっぴり期待しないでもないが、唯は光留を嫌っているのだから、デートなんて言っていいはずがない。
「でも、別に……私は、家でも……」
「お前が困らなくても、俺が困るんだよ」
そもそも女の子の部屋なんて行ったことないから、緊張で落ち着いて話なんてできるはずがない。
「そういうわけで、明日な。土曜だし、どこも混んでるけど行きたい場所があるなら合わせるけど」
「ない、けど……。いかないとダメ?」
唯は行きたくないのだろう。嫌いな男と二人きりで出かけなければならないのが嫌なのはわかるが、それでも光留は唯の口からちゃんと話を聞きたいと思っている。
「さっきも言ったけど、俺はお前に嫌われる理由がちゃんと知りたい。で、わかればお互いいろいろ気持ちの整理もつくだろ。俺も、嫌われない努力とかできるかもしれないし」
唯は光留の少し強引なところに、諦めたようにため息を吐く。
「……わかった」
「ん、じゃあ明日な」
時間と場所をその場で決めて、唯と別れた。
辺りはすっかり暗くなってしまったが、光留の心は少しだけ軽かった。
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