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四章

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「おっ…と、まだ7階だった……」


 垢抜けた雰囲気のパンツスーツを身に纏った女性は携帯を操作しながらドアから出て行こうとするが、ここが目当ての階数じゃなかったようで、サッと入り口で立ち止まる。

 そして俺の存在に気が付けば、一瞬ポカンと口を開けるが、直ぐに人好きのする笑みを浮かべて、顎ほどの長さの茶髪をさらりと揺らしながら会釈をした。


「あはは。フェイントかましちゃってすみません。降りる階数間違えちゃいました。あ、入りますよね……―」


 開ボタンを押しながらそう言った彼女は言葉尻になるにつれて徐々に声量を弱める。


「…って、あれ?」
「ッ……」


 彼女とバチッと目が合った俺はたじろいだ。

 まるで自分の記憶と確認する作業のようだ。彼女はじっと俺を見つめて、首にぶら下がる社員証に目を落とせば、疑念が確信に変わる瞬間の表情を見せた。


「やっぱり……ヒロ、だよね?」


 その声に、心臓が嫌な音を立てる。当時の面影が強く残る瞳。その焦茶色の瞳に反射する俺は酷く動揺した顔をしていた。




「いやぁ本当ビックリ!こんな偶然あるんだね!」
「…う、うん………」
「背伸びたね~…って20年以上経ってたら当たり前か。小さい頃は私のほうが背高かったのにな~」


 エレベーターには、そんな女性の声が響き渡る。

 あの後、場の流れでエレベーターに乗ることにした俺はその判断をわずかに後悔していた。

 まるで世界から切り取られた気分だ。この狭い空間には俺たちしかいない。気まずいわけではないが、どこかむず痒い。7,6,5…と降っていく数字がやけに遅く感じた。

 エレベーター内は電波が悪いので、ナオからどんなメッセージが来ているのかも確認できない。たぶんナオが《エレベーターに乗らないで》とメッセージを送ってきたのは彼女が中にいることを知っていたからだったんだろう。

 なぜナオは、俺を彼女と会わせたくないのか。

 その理由はおおよそ想像ができる。


「というかさ」
「…っ…?」


 出来るだけ動揺を見せないように階数盤を凝視していると感慨深そうに俺を覗き込む彼女と目が合う。その視線に、俺は逃げるようにわずかに目を逸らした。

 彼女は笑う。


「7階ってiホールディングスの営業所だよね。大手勤務なんだ。すごいね」
「……すごくはないけど……まあ……なんとかやってるよ」
「あはは。何その含みのある言い方。i系列の企業はブラックが多いって聞くけどまさか該当してる感じ?」
「……」


 俺は思う。先程まで気まずいわけじゃないと考えていたが間違いだった。やはり多少の気まずさはある。

 彼女の瞳に見つめられると、過去の思い出が堰を切ったように脳内に流れて、胸に切ない痛みを走らせる。


「あー…これはイジらないほうが良さげだね。ごめんごめん」
「…あ、いや……」
「それはそうと、久しぶりに会うわけじゃん。私には興味持ってくれないの?」


 彼女は平塚ひらつか あや。俺の初恋の人だ。


「……平塚さんは今何してんの?」


 とは言っても、特別にキッカケがあったわけじゃない。彼女は幼稚園時代からの幼馴染で気が付けばそういう感情を抱いていた。よくある子供っぽい恋情だ。今となってみれば、あれが本当に恋心だったのかもよく分からない。思い出が美化されてるのではないかと言われればそれまでである。

 でも一つ言えるのは、当時の俺は彼女を人として好いていた。それは確かだ。

 すると彼女は良くぞ聞いてくれたと言わんばかりに携帯画面に表示された間取り図のようなものを見せながら言った。


「私は小さい事務所でデザインの仕事やってるよ。空間デザイナーって知ってる?今日は依頼されたオフィスの下見に来たんだ」
「…へえ…なんかお洒落だな……」
「おーい、興味のなさが顔に出てるぞー」


 彼女は冗談っぽく俺の肩を小突けば、「あははは」とおかしそうに笑う。その動きとともに、ふわりと鼻腔をくすぐるのは彼女の香水だろう。柑橘系のさっぱりとした香りが太陽みたいに笑う彼女に似合ってると思った。

 …相変わらず、笑顔の眩しい人だ。

 そう心の声を零していれば、エレベーターはまもなく1階に到着した。


『ヒロ…!』
「ぅごっ……」


 その瞬間、俺はよろめく。開いたドアからやや強引気味に入ってきた人物に抱きしめられたのだ。その正体は確認するまでもなく、冷たい体温は俺の身体を束縛するように包み込んだ。


『酷い酷い。乗らないでって言ったのに』


 耳元に落ちる声はナオのものだ。まるで泣いているかのように、その声は所々にノイズ混じりに歪んでいた。

 ナオは俺の肩にぐりぐりと頭を擦り付ければ、ぎゅうっと俺の背中に回した腕の力を強める。


『どうして心拍数が上がってるの?どうして汗をかいてるの?どうして耳が赤いの?どうして瞳孔が広がってるの?』


 ナオは気でも狂ったようにひたすらに質問を重ねてくる。その様子は、浮気現場を目撃した恋人のようで、途端に周囲がざわついた。


―何あれ
―痴話喧嘩?
―相手アンドロイドじゃん。感染機じゃね。
―こんなとこでやめろよな……


 そんな声が聞こえた俺は慌ててナオの胸を押して隙間を作る。


「ちょっと、ナオ落ち着けって…。とりあえずここは邪魔になるからあっちに行くぞ……」


 俺は小さく息を吐いた。こういうやりとりは何回目だろうか。ナオを不安にさせたくないと思ってるのに、いつも同じことの繰り返しだ。そんな自分に嫌気が差した。

 そうしてナオの手首を掴んで壁際に向かう。しかしナオは手を繋ぐだけでは不満だったのか、俺の腰に手を回せば、ぴとりと隙間なく抱きついてきた。


『ヒロ、溜息吐いた。僕が鬱陶しくなった?嫌だ。ごめんなさい。嫌わないで。離れないで。ヒロの恋人は僕でしょう?約束だってした。僕はヒロの一生の恋人。そうでしょう?』
「ナオ……」
『僕じゃ不満?だったら不満なところを教えて?今すぐに全部直すから。お願い。お願いお願い。僕にはヒロだけなんだよ。だからお願い。捨てないで』
「……」


 …困った。

 ナオは完全にヒステリックモードに入ってしまったようだ。青色の光を放つ瞳には薄っすらと危険信号のような赤が混じり、眦からはポロポロと涙のような雫が溢れる。


「ナオ、泣かないでくれよ。何を誤解してんのか分からないけど、俺がナオを捨てるわけないだろ」
『…本当?』
「本当。俺は約束を破らない」


 宥めるためにポンポンと背中を叩いていると、視界の端から人影が近付いてくるのが見えた。


「…ヒロ、大丈夫……?」


 その声は平塚のものだった。


『――“ヒロ”』


 その瞬間、ナオは呟く。それは、俺の名前を呼んだ、というよりも、平塚の言葉を繰り返してるような言い方だった。

 なんだか嫌な予感がした俺は慌てて口を開く。


「ああっ、えっと……いきなりビックリさせてごめん。気にしないでもらって大丈夫。うちの恋人型アンドロイドは、なんというか、心配症なんだ」
「…恋人型アンドロイド?その子、ヒロの恋人なの?」
「え?うん…」


 俺は頷く。正直そこに食いつかれると思わなかった。すると平塚は短い沈黙の後、小さく微笑んだ。

 
「………そうなんだ」


 俺は目を瞬かせる。

 その笑みには複雑な感情が混ざってるように見えたからだ。
 

『ヒロ、行こう?』
「お、おう……」


 茫然としていれば、グイッとナオに手を引かれる。

 我に返った俺は平塚に「じゃあ…」と挨拶をして背を向けた。久しぶりの再会だというのに素っ気ない態度だと思う。でも俺はこれ以上ナオを待たせたくないし不安にさせたくないという気持ちのほうが強かった。


「ヒロ」


 数歩進んだときだ。

 背後から平塚の声が聞こえて、振り返る。


「…?」


 彼女は言った。


「お誕生日おめでとう」


 俺は思わず足を止める。そのまま彼女は「今日誕生日だったよね?」と小首を傾げた。


「………なんで知って……」
「知ってるもなにも、。ずっと謝りたかったんだ。あの日、ヒロのお誕生日会、行ってあげれなくてごめんね。…行くって言ったのに、嘘吐いて、ごめん。あんな事になるって分かってたら、私―…」


 彼女は途切れ途切れにそう零す。


「………いっ、いいよ。もう昔のことだ。気にしてないよ」


 あまりにも泣き出してしまいそうな声だったから、俺はぎこちなく笑ってそう返す。しかし言葉とは裏腹に心の中は複雑な気持ちが渦巻いていた。まさかこんなにも時間が経ったというのに、誰かの記憶の中に俺の黒歴史が残ってると思わなかった。


「…あの時ね、私本当は―」
「うん……?」
「……ううん。なんでもない」


 彼女はポツリと何か言ったような気がしたが、あまりにも小さい声で聞き取れなかった。聞き返そうとするが、彼女の手におさまっていた携帯から着信音が鳴ったので口を閉ざす。


「じゃあ私も行くね」
「うん…」


 …どこか釈然としないのはどうしてだろう。重要なことを見落としているような、そんなもどかしさを感じた。しかしその正体は分からない。


「恋人と素敵な誕生日を」
「……あ、ありがと」


 彼女は小さく手を振る。

 だから俺も同じように返すために、ナオと繋がっていないほうの手を軽くあげる。そうすれば、彼女はどこか安心したように、「またね」と笑って、反対側に向かって歩いて行った。

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