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三章

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『ヒロ』
「ん……?」


 ちゅ、というリップ音と、頬にふれる柔らかい感触にハッとした。


『疲れた?少し休憩する?』


 嵐のようにやって来て嵐のように去って行った薫たちの背中を見送ったあと、俺の手首を掴んでいたナオはそう言って、指をするすると動かした。その仕草は力強く、肌に付いた汚れを擦り落とすような動きにも感じる。


「いや、大丈夫。元気だよ」


 パッと顔を上げれば、『そう?』とナオはジッとこちらを見つめる。俺の手首を奇妙な動きで撫でていたナオはやがて、『消毒』と囁きながら手首を掬い上げて、ちゅ、ちゅ、とそこに唇を落とし始めた。

 
『ねぇヒロ…?僕と離れていた間、僕に早く会いたいって考えてくれた?』
「ああ、うん、考えてたよ。早く迎えに行きたかった」
『!』


 俺は間髪いれずにそう返した。

 ナオが充電スポットに人集りを作るかもしれない。そう薫に言われてから、俺は心配していたことがあった。いくらナオが美しいとはいえ、ナオは俺と同じただの来園客だ。ショーの演者でもない客が園内の一部に人集りを作れば、遊園地に迷惑をかけてしまう。だから俺はなるべく早くナオを迎えに行きたいと思っていた。(実際迎えに行ったとき、既に人が集まり始めていたので遅くならなくて本当に良かったと思う)
 
 なぜそんな事を聞くのか分からないが大きく頷くと、それはナオを喜ばせる返事だったようだ。ナオは『本当…?』と青色の瞳を赤色にバチバチッと変色させて、嬉しそうに顔を綻ばせた。


『僕もヒロが早く迎えに来ないかなって、そのことしか考えてなかった。ヒロ好き好き…好き…大好き…離れていた分いっぱいキスしていい…?』
「……ナオ…ちょっとくすぐったいから…っひょわ…」


 …これは一体なんの儀式だろう

 外出時にナオから好き好きとキスをされるのは通常運転だが、その箇所はだいたい顔面だ。だが今はなぜか執拗に手首を攻められている。
 くすぐったい感覚に身をよじるが、手首はしっかりと掴まれてしまって逃げられない。俺は奇声を上げながら、ナオのキス攻撃に応えていた。


『―…うん。消毒完了。不快な匂いと皮脂は完全に拭き取ってヒロの匂いだけになった』
「?」


 しばらくしてナオは満足したように、俺の手首を解放した。
 俺の顔はさぞげっそりしているだろう。口付けだけかと思ったら、舐めたり吸われたり色々されたのだ。幸い、俺たちは建物と建物の間に隠れているから人に見られることはないが、遠くから楽しげな声が聞こえるたびにいけないことをしているような背徳感に苛まれて気疲れした。

 よく分からない言葉に怪訝に思っていれば、ナオは俺の両手を取って胸に引き寄せる。
 

『ところでヒロ。僕に渡すものがあるんでしょう?』
「……あ…」
『聞いてたよ。あの男に色々と入れ知恵をされたみたいだね』
「…っ…」
『ふふ。こうやって怖がらせちゃうから黙ってたんだけどな…』


 『ヒロの体のこと』と耳朶を突いた甘い声に、俺はビクッと小さく揺れて、背中にたらりと冷や汗が流れたのを感じた。


『僕のために一生懸命悩んでるヒロ、可愛かった』


 ナオはうっそりと微笑む。
 
 対して俺の表情はひどく引き攣ってることだろう。

 …やはり俺の体内にナノマシンは確実にあり、それは薫から聞いた通りの機能を発揮しているようだ。

 俺の五感は位置情報込みで全てナオに共有されてるらしい。あまりに非現実的な機能に半信半疑だったが、いざこうやってその機能を発揮されてしまうと一気に現実的に思えてゾクッと肌が粟立つ。
 例えば盗聴器やGPSで言動を把握されるのとは訳が違う。体内から何もかも掌握されているんだ。知らない間に見えない鎖を体の中に埋め込まれていた。今の俺はそんな感じだ。

 知られてしまったなら隠す必要はない言わんばかりにナオはあっけらかんとした様子で、俺と薫の会話をその場で聞いていたかのように話し始める。


『―…それで思考解析機を僕につけたいんでしょう?いいよ、好きにして?』
「い、いいのか?」


 俺は意外そうに返した。

 特段嫌そうじゃないナオは『うん』と首を縦に振る。


『ヒロがしたいことなら僕は基本的に邪魔しないよ。…浮気以外はね』


 そう言って、ナオは右耳を差し出すように顔を寄せてきた。そちらの耳に付けろ、ということだろう。


『僕としても好都合だよ。それを付けるだけで、ヒロは僕の不安を減らすように努めてくれるんでしょう?』
「え?う、うん…まぁ…できる範囲で…」
『えへへ。だったら断る理由なんてない。ヒロにいっぱい甘えられるチャンスだもの』


 ナオは目線だけこちらに向けて甘く微笑む。

 しかし俺は一つ気がかりな点があった。


「……でも、聞いてたと思うけど、ナオの思考の一部は薫くんにも共有するんだ。それでも大丈夫か?」
『うん。問題ないよ。どうせリタの差し金だ。気にしないでいい』
「…リタ?」
『ううん。ヒロは知らなくていいこと』
「?………おう」


 ナオの言葉を繰り返すと、ナオは煩わしそうに眉を顰めた。俺がその言葉を発することが心底気に食わないといった感じだ。“リタ”という言葉がなにを指すものなのかよく分からないが、ナオにとってそれはあまり良い対象じゃないらしい。

 促されるように俺はポケットからイヤカフを取り出し、たどたどしくナオの耳にそれを付けながら、ふと思った。

 …『ヒロにいっぱい甘えられるチャンス』か。やっぱりナオの思考を読んだところで束縛は弱まらないんじゃないか…。むしろ愛情表現の幅を広げてしまったような気がするのは俺だけだろうか…。

 グッ金具を押し込めば、イヤカフはしっかりと装着される。薫から教えてもらったアプリを起動させれば、イヤカフの側面は淡い青の光を放った。思考解析機と俺の携帯端末に入れてあるアプリの紐付けが成功したということだろう。

 するとアプリの通知数が瞬く間に増えていく。1,2,3,4,5,6,7,…50…70…100…


「う、うわ…なんだっ…?」


 思わず携帯を落としそうになった。携帯画面いっぱいに[ヒロ大好き]という文字の羅列が並び始めたのだ。黒背景に赤字で表示されるからホラゲーの演出のようでめっちゃ怖い。

 するとナオは『ああ』と思い出したように人差し指を頬に寄せた。


『解析感度は変えたほうがいいかも。ヒロの携帯のスペックだとあまり感度が高いと処理落ちすると思うよ』
「感度?ああ…これか…」


 アプリの右上には歯車のマークがあった。そこを押すと設定画面に切り替わる。説明文を読めば、解析感度とは、思考の読み取り頻度のことだそうだ。感度が高ければ、読み取り頻度が上がり、詳細な思考情報を読み取れるという。
 初期設定は高感度になっていたようだ。たった数分でこれだけの量の[好き]が表示されることに慄きながら、低感度に変更する。
 そうすればやっと[好き]に埋もれた他の言葉を見つけることができた。

[ヒロの目ってどうしてこんなにかっこいいんだろう]
[そろそろ首のキスマークを足さないと]
[ここでエッチなことしたら怒るかな]
[今日の夜はいっぱいイチャイチャできそう]

 それでも立て続けに甘々しい言葉が表示される。


「……」


 アプリは、解析機からの信号をユーザーが住む国の言語に翻訳するそうだ。たまに文字化けを起こすようだが、今のところそういったバグは見られない。

 …内容は置いておいて…

 本当に心の中を読んでるみたいだな…

 そう思いながら携帯を見つめていると、ナオは俺の腰に手をまわして、もじもじと体を擦り合わせてきた。


『えへへ。ヒロのこといっぱい好きってバレて恥ずかしいな』


 ナオは恥じらうように目元を赤く染めて長い睫毛を伏せる。その表情に思わずキュンとするが、俺は携帯に表示された文字を見逃さなかった。

[ヒロは僕のこの表情に弱い]
[ほら、脈が速くなった]
[もっと僕に骨抜きにならないかな]
 
「……」


 俺はその文字を複雑な気持ちで見下ろした。

 …なんかこう…手玉にとられてる感がすごい……

 日頃からナオは自身の容姿を俺にどう思われているのかやけに気にしている様子だが、まさかこういう何気ない表情までも俺の反応を予測して作っているとは思わなかった。

 …計算高いといえばそうだが、きっとアンドロイドはこれが普通なんだろう……



 でも考えてしまう。ナオの容姿へのこだわりは少し異様な感じがする。


『?…ヒロ?どうしたの?』
「ああ…いや、ちょっと考えごと…」
『……』


 元々、ナオは今の外見じゃなかったそうだ。

 来多から見せられたタブレットに映っていた少年。あれがナオの前の体らしい。

 その事を俺が知った時、ナオの様子は明らかにおかしくなった。あの体も十分綺麗だというのにブサイクと罵り、まるでトラウマが掘り起こされたかのように何かに怯えていた。


「……」


 …前の体のとき、容姿で苦しんだ経験があるのだろうか…。

 俺はナオの過去を知らない。

 前の持ち主のことも全く知らない。

 唯一知っていることは、ナオが有名な事件の容疑者ということだけだ。
 ナオは取り調べのような動画の中で、人を殺した、と自供していた。でも俺はどうしてもその動画に対して違和感が拭えなかった。ナオは本当は人殺しなんかしてないんじゃないか。俺は心のどこかでそう思っている。そう思いたいだけかもしれないが、実際来多はナオを事件の犯人とは一度も言っていなかった。
 ナオが事件に何らかの関わりがあることは間違いない。だから警察の監視対象になっているんだろう。監視というより、“ご機嫌取り”のようにも見えたが…―

 
『ヒロ、夕方のパレードが始まるよ』
「……おう」


 俺は小さく返事をする。そして頭の中を切り替えるように、ぶんぶんと首を横に振った。

 …止めよう。俺には難しいことは分からない。分からないことをアレコレ考えたところで答えは出ないしどうしようもない。

 ナオに手を引かれて歩き始めたとき、ハープのような音色が園内に響き渡る。直後、「わぁ…!」と来園客の歓声が沸き起こる。夕方のパレードが始まったんだろう。

 そのことを証明するように、上空に花火を模したドローンが打ち上がった。

 するとナオは足を止めて、前を向いたまま鬱陶しそうに『邪魔』と冷たく言い放った。一瞬、俺に向けた言葉かと思いビクリと肩を跳ね上げたが違った。ナオは正面を見ていて、そこに向かって口を開いたようだ。しかしそこには誰もいない。


『ヒロのストーカーは楽しい?臆病者のくせに僕たちを引き裂こうと必死だね』


 ナオは吐き捨てるように言う。


『―…リタ』


 瞬間、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。その現象に見覚えがあった俺はハッと息を飲む。
 その歪みは徐々に激しさを増し、辺りに強い風が巻き起こる。やがて空間を引き裂くようにして現れたのは、水のエリアで見た男だった。
 俺は「あ…」と声を落とす。風のせいで彼の髪は乱れ、目元が露わになっている。やや釣り上がった切れ長な目には、人間のものと思えない発色が浮かんでいた。

 彼の瞳は血のように赤い。

 そんな彼の表情は暗く、ナオを見つめる目には強い憎しみが感じられた。
 しかしナオの背後にいる俺と目が合うと、彼の表情は一変する。まるで見られてはいけない存在のように、慌てた様子で目元を手で隠し、逃げるようにその場を去った。

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