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二章

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『どうして?人前に出れないんじゃないの?』
「そりゃあ…キスマークなんて、見られたら超恥ずかしいけど……。そんなことで仕事休めねぇし……」


 スープを飲みながら途切れ途切れに返す。至極当然のことを言ったつもりだ。“キスマークが恥ずかしい”、そんな理由で有休を取得できるほど、うちの会社は甘くない。

 朝食を平らげ「ごちそうさま」と言って立ち上がれば、Tシャツの裾をきゅっと握られた。


『…今日は、ヒロを独り占めできると思ったのに』


 ふいに、潤んだ瞳を向けられた。庇護欲を掻き立てるような表情だ。心臓がドキリと跳ね、ゴホンッと咳払いをする。


「…っ、か、勘違いさせるようなこと言ってたなら申し訳ないけど、仕事は休まないよ。てか。生活のためなんだ。分かるだろ?」


 そう言って携帯を手に取り【キスマーク 隠し方】と検索してみる。そうすれば、タートルネックを着て隠す方法や、化粧品で隠す方法がずらりと表示される。しかし職業上タートルネックは着れないし、化粧品は持ってない。
 画面をスライドさせれば、絆創膏で隠す方法が目に留まった。違和感はあるだろうが、目立つ痕には有効そうだ。先人の知恵に感謝しながら、救急箱を取り出した。

 絆創膏を探していると、違和感を覚える。

 …あれ、消毒液こんなに減ってたっけ……鎮痛薬も殆どない……

 怪訝に思っていると『僕のキスマーク、隠すんだ』と、暗い声が落ちる。


「隠すよ。てか、これからは見えるとこには止めてな……」


 顔を上げれば、無表情のナオと目が合った。


『…それじゃあ、閉じ込めるしかないか』


 ボソリとナオは呟く。「え?」と聞き返せば、すっと目を細めて、顔を寄せてきた。


『ねえ、ヒロ』
「…ど、どうした?」


 蜜のような甘い声が、耳に絡む。俺はひくりと表情を引き攣らせた。纏わりつくように腕をまわし抱き締めてくるナオに、少し恐怖を感じたのだ。理由は分からない。なんとなく、怖い、と思った。蛇に巻きつかれて捕食される獲物になった気分だった。


『もし生活に困らないほどの大金が手に入れば、ヒロは仕事を辞める?』
「え?」
『家にずっと居る?外に出ない?』


 俺はポカンと口を開けた。

 ナオは『どう?』と、柔らかな笑みを浮かべる。しかし赤い瞳の奥が、どこか冷たく感じるのは何故だろうか。目が合うたびに、ゾクっと悪寒が走る。


「な、なんだよ、いきなりだな……」


 ぎこちない苦笑いを浮かべたまま、呟く。

 そりゃ趣味と生活費のために働いてるわけだから、金に困らない生活ができるのなら、働く必要はなくなる。すぐにでも会社を辞めたい、というのが本音だ。
 でも俺は、自ら退職願を提出できないヘタレ人間だ。たとえ宝くじが当選して、一生分の金が貯まったからといって、即退職はしないだろう。いや、できないだろう。引き継ぎとか、やることがあるし……

 …なんて大真面目に考えながら、首を振る。そんな非現実的なことが起こるはずないだろう。真面目に考えるだけ無駄だ。

 こういう話は好きじゃないので話題を広げるつもりはなかった。「…働く必要がなくなれば辞めるかな……」と適当に答える。そうすれば、ナオの口角がきゅっと上がったような気がした。


『そう』


 それ以上、ナオは何も言わなかった。


「……?」


 そんな反応を怪訝に思いながら、時計を見る。しまった。のんびりと過ごしていたが、そろそろ出発しないと、電車に間に合わない。

 バタバタと身支度を整えて、玄関に向かう。


「それじゃ行ってきます」
『うん。行ってらっしゃい』


 扉に手をかけたとき、『ヒロ』と名前を呼ばれた。


「うん?」


 振り返った瞬間、唇同士が触れ合う。


僕以外を魅了したら駄目だよ』


 ちゅ…、とわざとらしくリップ音を立てながら離れる唇。近距離で注がれる眼差しは熱い。
 額が重なり合った状態で、ナオは囁くように続ける。


『今度は昨日のようなやり方では済まさないから』
「……ぇ…」


 聞こえにくかった。茫然としていれば、ニコリと可愛らしい笑顔が花開く。


『はい、これお弁当。忙しいヒロのためにすぐに食べれて栄養面も問題ない料理を詰めたから、食べて?』
「お、おお……ありがとう…」
『今日もずっと見守ってる』
「……ずっと…」


 “ずっと”の部分にやけに抑揚を感じ、繰り返す。

 …ナオのなかで俺は幼稚園児くらいの幼子なのだろうか。それともここまで心配されるほど、危なっかしい男と思われてるのか。

 弁当箱が入ったランチバッグを受け取り、「そんなに見てなくても大丈夫だぞ…」と呟き、部屋を出る。


 外はどんよりと曇り空が広がっていて、薄暗かった。朝日は雲の向こう側のようだ。灰色の景色には、人々の行き交う足音、話し声、自転車のブレーキ音、車のクラクション、工事現場の機械音が、一日の始まりを嘆くように鳴り響く。

 そんな憂鬱な喧騒を聞きながら駅に向かっていると、背後から声を掛けられた。

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