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一章
10b
しおりを挟む『ヒロ』
聞き慣れた声だった。人間の声を模しているが、どこかノイズがかっていて、人工的な声。一瞬の静寂にそんな声が響いた。ハッとして顔を上げる。
息を飲んだ。
ベッドの傍らにナオが佇んでいたのだ。一体いつの間に……?どうしてここに?マンションに居るはずだろう……?
「…は、だれ」
目を見開いていると、犬飼は呟く。ナオは口元に笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと視線を動かす。赤い瞳が犬飼を捉えた瞬間、ゾッとした。西洋人形のような顔に一切の感情が消える。部屋の温度が一気に下降したように思えた。
『汚物が』
ナオは手を伸ばし、犬飼の髪を掴む。そのまま乱暴に部屋の隅へ投げた。投げたのだ。大人の男を、腕一本で、軽々と投げた。
その衝撃でドンッと部屋全体が揺れ、壁が軋む。埃がぱらぱらと舞い、犬飼は「うっ…」と小さく呻き、床に倒れ込んだ。
「犬飼…―」
驚きのあまり声を上げる。体を起こそうとしたとき、ナオはベッドに片膝をついて、俺の手を取る。そして前髪を梳いて、恭しく指先に口付けをした。
『迎えに来た。助けに来るのが遅れてごめんね。怖かったよね。でも安心して。あの男の神経系を破壊した。あれはもはや理性がない。欲に忠実な動物。ヒロを怖がらせた。泣かせた。だから死ぬ』
「…はっ…?」
『うん。死ぬ。死ぬよ。あと1時間くらいかな。待てないなら今すぐ殺せるけどどうする?』
「ど、どういうことだ…し、しぬって……しぬ…??? 犬飼に何をしたんだ?」
耳を疑った。
…しぬ…?今、死ぬと言ったのか
視界がガタガタと震えた。脳の処理が追いつかない。恐ろしい言葉を紡ぐナオ。まるで目障りな物体を処分するような言い方だ。当惑を隠せずにいると、ナオはそんな俺の上体を起こして、着崩れたバスローブの紐を縛り直す。
そして美しい顔を綻ばせた。
『ヒロの整髪剤に特別な成分を仕込んでおいたんだ』
「……特別な成分?」
『他人の皮脂が混ざると毒化する薬剤。ああ、安心して。ヒロには無害だよ』
「毒―…?」
言葉を失った。
『うん。だからあの男はそれによって死ぬ』
「なん…な、なんで……なんでそんな……」
『ヒロ、どうして悲しそうな顔をする?“生意気な後輩を黙らせて欲しい”って。あれのことでしょう?良かったね。もう喋らないよ。喋れない、と言った方が正しいかな。死ぬからね』
『一緒に弱っていく様子を見る?』と、ちゅ、ちゅ、と額と瞼に口付けをされる。
わなわなと唇を震わせた。
「し、死ぬのは…だ、だめ…だろ」
『……だめ?どうして?』
毒化する整髪剤って何だよ。何でそんな楽しそうなんだよ。こんなの殺人じゃん。人の死を、嬉々として声を弾ませ、待ちわびるナオに、恐怖を感じた。
―どうして、そんな事、笑顔で言えるんだ……?
「た……頼む…犬飼を殺さないでくれ……」
気が付けば、ナオの手を振り払って、犬飼の元まで足をもつれさせ駆け寄っていた。壁に背中を打った衝撃で意識を失っているようだ。ぐったりと目を閉じていた。額に玉のような汗が浮かんでいる。手を当てて驚く。ひどい高熱だ。ひゅっひゅっ、と乱れた呼吸まで聞こえて、ハッと息を飲んだ。
…何かおかしいと思ったが、まさか毒におかされてるなんて……
『“殺さないで”?どいうこと?生殺しにするってこと?』
「ちがっ……ちげぇよっ。犬飼を苦しめないでくれ」
『分からない。ヒロはそれに強姦されたんだよ』
“それ”とは犬飼のことだろう。人間とも思っていないような言い方だ。ナオは、ゴミを見るような目で犬飼を見下ろしていた。
「………犬飼は毒のせいでおかしくなったんだろ……」
『毒は理性を壊しただけだよ。それは元々ヒロに下心を抱いてた。いずれヒロは襲われてた』
「……そうだとしても」
『危ないよ。殺しておいたほうが安全。そう思うでしょ―』
白魚のような手がすがってくる。それを叩くと、ナオは唖然とした表情を浮かべた。
「―そうだとしても、殺す理由にはならねぇよ! 頼む……。犬飼を殺さないでくれ」
犬飼に手を伸ばし、ぐったりと弱った体を引き寄せた。そのまま床に額をつける勢いで、頭を下げる。
『どうして………?』
ピピピピという電子音が、ノイズ混じりに微かに聞こえる。それは狂ったように音を連ねる。
『…………それを庇うの…?』
少し間を置いて、ナオは抑揚のない声を落とす。するとガリッという鈍い音が走った。顔を上げて驚く。ナオは己の親指を咥えて、爪を噛み砕いていたのだ。無表情で、目を大きく見開き、俺たちを見下ろしていた。“俺たち”…否、正確には、犬飼を抱き寄せる“俺の手”を凝視していた。
赤い瞳にはバチバチと稲光を瞬く。
その様子は異常で、ゾッと背筋が凍った。
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