78 / 100
第178話 心の糸
しおりを挟む
太陽が西の山の向こうに沈んでいき、南西の空に一番星が輝き始めた。
谷戸の丘陵地帯に生い茂る常緑樹の間に身を潜ませながら、アーシュラはひとりその様子を見つめている。
見下ろす谷戸の谷間ではダニアの女や小姓らが慌ただしく動き回り、いくつもの火が煌々と焚かれていた。
舞い上がる白い湯気と共に肉や野菜の焼かれる良い匂いが漂ってくる。
宴会の準備は整いつつあった。
すでに両家の会談は初日を終え、クローディアたちはこの宴会場へ向かって来る時刻だ。
スリーク平原の最奥部となるこの谷戸では今宵、ダニア本家と分家による合同の宴会が繰り広げられることになる。
この数年、交流が途絶えていた両家が争いを越えて手打ちをするための宴だった。
アーシュラ自身はこうした宴には興味がない。
もっと言ってしまえば、本家と分家のわだかまりを解消すること自体も興味が無かった。
だが、クローディアが切望することならば、何としてもそれを叶えるべくアーシュラが力を惜しむことはない。
そして本家と分家の戦力が統合され、クローディアとブリジットが本当に手を結べるならば、黒き魔女アメーリアを打ち倒し、故郷である砂漠島をその支配から解き放つことが出来るかもしれない。
それは亡き母の悲願だった。
そのためにアーシュラは重責を負っている。
砂漠島の戦力をまとめ上げ、クローディアの元に集結させなけれならない。
すでに島の有力部族たちはクローディアの強さに感服し、彼女こそ黒き魔女を打ち倒して新たな長になる存在だと崇敬の念を抱きつつあった。
全ては昨年、5日間に及ぶ船旅の果てに、砂漠島への遠征を成功させたクローディアとアーシュラの努力の賜物だった。
(クローディア。ようやくここまで来ましたね。でもまだ道半ばです)
アーシュラは視線を谷の底から丘の上へと引き上げた。
100メートル以上先の尾根に、生い茂る常緑樹に覆い隠されるように建てられた粗末な小屋が見える。
明かりも灯っておらず、夕暮れの闇の中へと沈んでいこうとしているその小屋では今、ボルドが待機していた。
明日の会談でブリジットにその身柄を返すためだ。
彼の傍にはブライズとベリンダが見張り役として共にいる。
だが、クローディアは今夜、皆が寝静まった後に、この丘陵でブリジットと2人だけで会うつもりだ。
2人だけの話をするために。
そこでクローディアはボルドを一日早くブリジットに会わせることにしている。
そのためにクローディアはアーシュラをここに待機させているのだ。
夜が更けて皆が寝静まったら、アーシュラはあの小屋からボルドを連れ出し、ブリジットと2人で話すクローディアの元へと連れて行く。
それがクローディアから命じられた任務だった。
(それにしても……)
完全に日没の時間を迎え、空には星が次々と顔を出し始めた。
アーシュラは静かに目を閉じる。
そして耳を澄ますと自分が完全に闇に溶け込んだかのように全身の神経を静めていく。
呼吸だけでなく心臓の鼓動や血流までもがゆっくりとなっていくような錯覚を覚え、アーシュラは周囲の空気と一体化した。
すると感じる。
前方の小屋からボルドの気配が闇の中に光る糸のように延びて、こちらに伝わってくるのだ。
ボルドがいるのを感じる。
そんな感覚はアメーリア以外には他の誰にも感じたことはない。
母から聞いたことがある。
砂漠島では黒髪の男は特殊な力を持ち、そしてそうした者同士は互いに感覚を通じ合わせることが出来る場合があったと。
離れた場所にいても互いを感じ取ったりすることが出来たのだという。
アーシュラは黒髪でもなければ男でもないが、母から受け継いだ力は確かに彼女の身の内に流れている。
彼女は確信した。
やはりボルドは何かしらの力を持っているのだ、と。
彼自身がそのことに気付いているかどうかは分からないが。
アーシュラはボルドの存在を感じながら、逆に自分の心から糸を放出するイメージで飛ばして、ボルドにこちらの存在を伝える。
(ボールドウィン。ワタシを感じ取りなさい)
そう強く念じる。
彼女の心の糸は闇の中を稲妻のように走った。
******
ボルドは闇の中で1人、粗末なベッドに身を横たえていた。
日が沈み、雨戸で窓を塞がれた小屋の中には星明かりすら入って来ない。
ブリジットにこちらの存在を悟らせないため、部屋の明かりをつけることすら許されず、食事は明るいうちに済ませたので、あとは夜が明けるまで眠るだけだ。
ただ同じ部屋にはブライズとベリンダが彼を見張り続けていて、とても眠れそうにない。
粗末な小屋の中に持ち込まれた、場違いなほどゆったりとしたソファーにブライズとベリンダは腰を深く沈めている。
真っ暗な闇の中で2人は時折、宴会に参加できない愚痴などを言い合っていた。
立場のある2人なので本来ならばこんな場所にいるべきではないのだが、ボルドという最重要人物の護衛を任せられるのはクローディアに次ぐ実力者である2人しかいなかったのだ。
ボルドは出来るだけ彼女たちのことを気にしないよう、目を閉じて眠ろうと心掛けた。
呼吸を整え、自分も闇に溶け込むようなつもりで意識を深く沈めていく。
すると……。
(……ん?)
ふいに誰かに呼びかけられたような気がした。
目を開けるが、ブライズもベリンダも闇の中で静かに目を閉じて体を休めている。
気のせいかと思い、ボルドは再び目を閉じた。
すると今度は誰かに見られているような感覚に襲われる。
ボルドは目を開けずにそのまま違和感の正体を探った。
(小屋の外だ……誰かが見ている)
そしてボルドはなぜだか分からないが気が付いた。
こちらがその何者かを知覚していることを、その相手も気付いたということに。
彼にとってはそんな感覚は初めてだった。
もう少しその感覚を感じてその違和感の正体を掴みたかったが、相手の存在感は波が引くようにゆっくりと静かに遠ざかって行き、やがて消えた。
谷戸の丘陵地帯に生い茂る常緑樹の間に身を潜ませながら、アーシュラはひとりその様子を見つめている。
見下ろす谷戸の谷間ではダニアの女や小姓らが慌ただしく動き回り、いくつもの火が煌々と焚かれていた。
舞い上がる白い湯気と共に肉や野菜の焼かれる良い匂いが漂ってくる。
宴会の準備は整いつつあった。
すでに両家の会談は初日を終え、クローディアたちはこの宴会場へ向かって来る時刻だ。
スリーク平原の最奥部となるこの谷戸では今宵、ダニア本家と分家による合同の宴会が繰り広げられることになる。
この数年、交流が途絶えていた両家が争いを越えて手打ちをするための宴だった。
アーシュラ自身はこうした宴には興味がない。
もっと言ってしまえば、本家と分家のわだかまりを解消すること自体も興味が無かった。
だが、クローディアが切望することならば、何としてもそれを叶えるべくアーシュラが力を惜しむことはない。
そして本家と分家の戦力が統合され、クローディアとブリジットが本当に手を結べるならば、黒き魔女アメーリアを打ち倒し、故郷である砂漠島をその支配から解き放つことが出来るかもしれない。
それは亡き母の悲願だった。
そのためにアーシュラは重責を負っている。
砂漠島の戦力をまとめ上げ、クローディアの元に集結させなけれならない。
すでに島の有力部族たちはクローディアの強さに感服し、彼女こそ黒き魔女を打ち倒して新たな長になる存在だと崇敬の念を抱きつつあった。
全ては昨年、5日間に及ぶ船旅の果てに、砂漠島への遠征を成功させたクローディアとアーシュラの努力の賜物だった。
(クローディア。ようやくここまで来ましたね。でもまだ道半ばです)
アーシュラは視線を谷の底から丘の上へと引き上げた。
100メートル以上先の尾根に、生い茂る常緑樹に覆い隠されるように建てられた粗末な小屋が見える。
明かりも灯っておらず、夕暮れの闇の中へと沈んでいこうとしているその小屋では今、ボルドが待機していた。
明日の会談でブリジットにその身柄を返すためだ。
彼の傍にはブライズとベリンダが見張り役として共にいる。
だが、クローディアは今夜、皆が寝静まった後に、この丘陵でブリジットと2人だけで会うつもりだ。
2人だけの話をするために。
そこでクローディアはボルドを一日早くブリジットに会わせることにしている。
そのためにクローディアはアーシュラをここに待機させているのだ。
夜が更けて皆が寝静まったら、アーシュラはあの小屋からボルドを連れ出し、ブリジットと2人で話すクローディアの元へと連れて行く。
それがクローディアから命じられた任務だった。
(それにしても……)
完全に日没の時間を迎え、空には星が次々と顔を出し始めた。
アーシュラは静かに目を閉じる。
そして耳を澄ますと自分が完全に闇に溶け込んだかのように全身の神経を静めていく。
呼吸だけでなく心臓の鼓動や血流までもがゆっくりとなっていくような錯覚を覚え、アーシュラは周囲の空気と一体化した。
すると感じる。
前方の小屋からボルドの気配が闇の中に光る糸のように延びて、こちらに伝わってくるのだ。
ボルドがいるのを感じる。
そんな感覚はアメーリア以外には他の誰にも感じたことはない。
母から聞いたことがある。
砂漠島では黒髪の男は特殊な力を持ち、そしてそうした者同士は互いに感覚を通じ合わせることが出来る場合があったと。
離れた場所にいても互いを感じ取ったりすることが出来たのだという。
アーシュラは黒髪でもなければ男でもないが、母から受け継いだ力は確かに彼女の身の内に流れている。
彼女は確信した。
やはりボルドは何かしらの力を持っているのだ、と。
彼自身がそのことに気付いているかどうかは分からないが。
アーシュラはボルドの存在を感じながら、逆に自分の心から糸を放出するイメージで飛ばして、ボルドにこちらの存在を伝える。
(ボールドウィン。ワタシを感じ取りなさい)
そう強く念じる。
彼女の心の糸は闇の中を稲妻のように走った。
******
ボルドは闇の中で1人、粗末なベッドに身を横たえていた。
日が沈み、雨戸で窓を塞がれた小屋の中には星明かりすら入って来ない。
ブリジットにこちらの存在を悟らせないため、部屋の明かりをつけることすら許されず、食事は明るいうちに済ませたので、あとは夜が明けるまで眠るだけだ。
ただ同じ部屋にはブライズとベリンダが彼を見張り続けていて、とても眠れそうにない。
粗末な小屋の中に持ち込まれた、場違いなほどゆったりとしたソファーにブライズとベリンダは腰を深く沈めている。
真っ暗な闇の中で2人は時折、宴会に参加できない愚痴などを言い合っていた。
立場のある2人なので本来ならばこんな場所にいるべきではないのだが、ボルドという最重要人物の護衛を任せられるのはクローディアに次ぐ実力者である2人しかいなかったのだ。
ボルドは出来るだけ彼女たちのことを気にしないよう、目を閉じて眠ろうと心掛けた。
呼吸を整え、自分も闇に溶け込むようなつもりで意識を深く沈めていく。
すると……。
(……ん?)
ふいに誰かに呼びかけられたような気がした。
目を開けるが、ブライズもベリンダも闇の中で静かに目を閉じて体を休めている。
気のせいかと思い、ボルドは再び目を閉じた。
すると今度は誰かに見られているような感覚に襲われる。
ボルドは目を開けずにそのまま違和感の正体を探った。
(小屋の外だ……誰かが見ている)
そしてボルドはなぜだか分からないが気が付いた。
こちらがその何者かを知覚していることを、その相手も気付いたということに。
彼にとってはそんな感覚は初めてだった。
もう少しその感覚を感じてその違和感の正体を掴みたかったが、相手の存在感は波が引くようにゆっくりと静かに遠ざかって行き、やがて消えた。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる