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第168話 クローディアの言伝
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「ボールドウィン。起きて下さい」
うつらうつらとした夢の中でボルドはその声を聞いた。
途端に鼻腔に何やらスッとする薄荷の匂いが入り込んできて、その刺激でボルドはハッと目を覚ました。
そこはボルドに用意された寝室のベッドの上だった。
目の前には赤毛の女性がいる。
初めて見る顔だった。
彼女が何やらスッとする匂いの布をボルドの鼻に近付けていたのだ。
背が低く、体もボルドと同じくらい小さいが、その褐色肌から見るに、ダニアの女性だった。
「静かに。大きな声を出さないで下さい」
そう言うとその女性はボルドのいるベッドのすぐ脇に座り込んだ。
「ワタシはアーシュラ。クローディア……レジーナ様の側近です」
アーシュラと名乗るその女性の言葉にボルドはわずかに身を固くした。
部屋は暗く、時刻はまだ夜中のようだ。
客人待遇とはいえ、軟禁状態のボルドは夕食後、小姓たちに見張られながら寝室で横になった。
とはいえ、寝室でも2人の小姓に見張られているため、なかなか寝付けなかったのだ。
しかしいつの間にか寝入ってしまったようだ。
ふとボルドが視線を巡らせると、部屋の隅で椅子に座っている小姓2人は、共に座ったままうつらうつらと船を漕いでいる。
あんなにしっかりと自分を見張っていたはずの2人がともに寝こけていることに驚くボルドに、アーシュラは静かな声で告げた。
「ある方法で眠らせました。少しくらいの物音ならば起きません。ボールドウィン。レジーナ様から言伝を預かっております」
「言伝?」
「ええ。今から話すのはレジーナ様のお言葉だと捉えて下さい」
ボルドは口を閉じると緊張の面持ちで彼女の言葉を聞いた。
「ボールドウィン。ワタシがダニア分家の女王クローディアであることを黙っていてごめんなさい。驚いたでしょう。裏切られたと思ったかもしれないわね。当然です。言い訳はしないわ」
アーシュラの声で語られるそれは不思議とボルドには確かにレジーナの言葉として感じられた。
アーシュラは話を続ける。
「ケガしたあなたを治療しながらワタシが共に過ごしたのは、あなたという人間に単純に興味があったから。もちろん念頭にはブリジットとの交渉であなたが有利な手札になるという考えがあったわ。それは否定しない。でもね、あなたと過ごすうちに思ったの。あなたが本当に望む生き方をさせてあげたいと。実はね。あなたのことは十血会には秘密にしておいたのよ。ワタシの一存でね。でも、それが最近ついにバレてしまって、十血会があなたを捕らえることになってしまった」
そういうことかとボルドは得心した。
新都の岩山で暮らしていた頃は、自分に見張りなんてついていなかった。
ダンカンがよく一緒にいたが、一日の中では自分1人で作業する時間も多く、あそこからコッソリ逃げようと思えば、いつでも逃げることが出来た環境だった。
レジーナが本当に自分を人質として使うつもりならば、あんな場所に送ったりしなかっただろう。
ボルドが望む生き方を。
そのレジーナの言葉に嘘はないとボルドは感じた。
だがアーシュラが口にする話の続きに、ボルドは思わず絶句してしまう。
「3日後、事前に決めておいた場所で、ワタシたち分家とブリジットたち本家が会談することになったわ」
「えっ……?」
「ワタシも初めてブリジットと顔を合わせて話をすることになるわ。ボールドウィン。あなたはその後、ブリジットの元へ引き渡されることになる」
自分がブリジットの元へ戻れる。
ボルドの胸の内に訪れたのは驚愕、そして次に歓喜だった。
胸が潰れるほど恋しくて会いたくてたまらなかった想い人。
ブリジットに再び会えることは彼にとって他に勝る幸せがないほどの喜びだった。
だが……すぐに彼の胸には戸惑いが湧き上がる。
(ブリジットに……会っていいのだろうか)
彼女に迷惑をかけてしまうことになることは間違いない。
それが嫌で自分は彼女の元を離れた。
だが、そんな彼の気持ちはレジーナもお見通しだった。
アーシュラは話を続ける。
「ボールドウィン。あなたの名誉はすでに回復されているわ。あなたが天命の頂から身を投げた後、ワタシは本家に文を書いたのです」
アーシュラの話によればレジーナ……いや、クローディアはボルドの無垢を自らの署名付きで証明した。
そもそもボルドは分家の華隊の女たちと交わった疑いにより姦通罪で裁かれ、死罪判決を受けた。
ブリジットの情夫は彼女以外の女と交わることを許されていない。
その禁を破った不埒者の汚名は、クローディアによってすすがれ、ボルドは死後にその名誉が回復されたことになっている。
ブリジットへの忠義ゆえに、敢えて汚名を被って自らの命を捨てた忠臣として、本家では敬われ、その死を偲ばれているという。
「だから生きてあなたがブリジットの元へ戻ったとしても、ブリジットはもちろん、本家の他の者たちにもきっと喜んで受け入れてもらえると思うわ」
この話をする時のクローディアは少しだけ残念そうだった。
アーシュラは何となく気付いていたのだ。
自分の主がボルドに対して淡い想いを抱いていることを。
だがアーシュラは複雑な胸の内を表に出さず、淡々とクローディアの言伝を伝えた。
「だけど……十血会はあなたの身柄の引き渡しの条件として、本家にも王国への指揮下に入ることを求めるわ。これをブリジットが飲まなければあなたは引き渡されないかもしれない」
喜びも束の間、ボルドは再び落胆する。
それでは結局、自分の存在がブリジットを困らせることに変わりはない。
「そうなればブリジットは力づくであなたを取り戻そうとすると思う。本家と分家の対立は最悪の局面を迎えることになるわ。もちろんワタシはそんなことにならないようにクローディアとして力を尽くすわ。ワタシは……ブリジットとの争いは望んでいない。出来れば彼女と協力したいと思っている。本当よ」
アーシュラはクローディアの言葉をボルドに伝えながら、彼女の苦しい立場に思いを馳せる。
十血会にはさまざまな意見があるものの、ブリジットを排斥して本家を吸収し、クローディアを頂点としたダニア統一を望む強硬派も根強く残っている。
その急先鋒だったバーサが死んだことで強硬派の立場そのものは弱くなっているが。
バーサの妹であるブライズやベリンダが、本来は強硬派の思想を持っていることもアーシュラは知っている。
だがクローディアが彼女たちを粘り強く説得して押さえているのだ。
「私はどうすれば……」
戸惑いに口ごもるボルドに、アーシュラはレジーナの言伝を続ける。
「ボールドウィン。ただ1人の人間として新たな生き方をしたいのなら、今からでもワタシがあなたを逃がしてあげる。あなたの今の気持ちをアーシュラに伝えて」
「えっ……?」
驚くボルドにアーシュラは顔を上げた。
「……以上がクローディアからの言伝です。ボールドウィン。あなたのお気持ちをお聞かせ下さい。もうじき眠り香の効果が切れます。今すぐここから脱出なさる気ならばワタシがお手伝いしましょう」
「そ、それは……」
回答を迫るアーシュラにボルドは思わず戸惑った。
小姓たちはいつ起きるか分からない。
ここから逃げるなら今すぐに決断をしなければならない。
ボルドは迷いの霧を強引にかきわけて道を進むかのように、苦渋の表情で声を絞り出した。
「私は……」
うつらうつらとした夢の中でボルドはその声を聞いた。
途端に鼻腔に何やらスッとする薄荷の匂いが入り込んできて、その刺激でボルドはハッと目を覚ました。
そこはボルドに用意された寝室のベッドの上だった。
目の前には赤毛の女性がいる。
初めて見る顔だった。
彼女が何やらスッとする匂いの布をボルドの鼻に近付けていたのだ。
背が低く、体もボルドと同じくらい小さいが、その褐色肌から見るに、ダニアの女性だった。
「静かに。大きな声を出さないで下さい」
そう言うとその女性はボルドのいるベッドのすぐ脇に座り込んだ。
「ワタシはアーシュラ。クローディア……レジーナ様の側近です」
アーシュラと名乗るその女性の言葉にボルドはわずかに身を固くした。
部屋は暗く、時刻はまだ夜中のようだ。
客人待遇とはいえ、軟禁状態のボルドは夕食後、小姓たちに見張られながら寝室で横になった。
とはいえ、寝室でも2人の小姓に見張られているため、なかなか寝付けなかったのだ。
しかしいつの間にか寝入ってしまったようだ。
ふとボルドが視線を巡らせると、部屋の隅で椅子に座っている小姓2人は、共に座ったままうつらうつらと船を漕いでいる。
あんなにしっかりと自分を見張っていたはずの2人がともに寝こけていることに驚くボルドに、アーシュラは静かな声で告げた。
「ある方法で眠らせました。少しくらいの物音ならば起きません。ボールドウィン。レジーナ様から言伝を預かっております」
「言伝?」
「ええ。今から話すのはレジーナ様のお言葉だと捉えて下さい」
ボルドは口を閉じると緊張の面持ちで彼女の言葉を聞いた。
「ボールドウィン。ワタシがダニア分家の女王クローディアであることを黙っていてごめんなさい。驚いたでしょう。裏切られたと思ったかもしれないわね。当然です。言い訳はしないわ」
アーシュラの声で語られるそれは不思議とボルドには確かにレジーナの言葉として感じられた。
アーシュラは話を続ける。
「ケガしたあなたを治療しながらワタシが共に過ごしたのは、あなたという人間に単純に興味があったから。もちろん念頭にはブリジットとの交渉であなたが有利な手札になるという考えがあったわ。それは否定しない。でもね、あなたと過ごすうちに思ったの。あなたが本当に望む生き方をさせてあげたいと。実はね。あなたのことは十血会には秘密にしておいたのよ。ワタシの一存でね。でも、それが最近ついにバレてしまって、十血会があなたを捕らえることになってしまった」
そういうことかとボルドは得心した。
新都の岩山で暮らしていた頃は、自分に見張りなんてついていなかった。
ダンカンがよく一緒にいたが、一日の中では自分1人で作業する時間も多く、あそこからコッソリ逃げようと思えば、いつでも逃げることが出来た環境だった。
レジーナが本当に自分を人質として使うつもりならば、あんな場所に送ったりしなかっただろう。
ボルドが望む生き方を。
そのレジーナの言葉に嘘はないとボルドは感じた。
だがアーシュラが口にする話の続きに、ボルドは思わず絶句してしまう。
「3日後、事前に決めておいた場所で、ワタシたち分家とブリジットたち本家が会談することになったわ」
「えっ……?」
「ワタシも初めてブリジットと顔を合わせて話をすることになるわ。ボールドウィン。あなたはその後、ブリジットの元へ引き渡されることになる」
自分がブリジットの元へ戻れる。
ボルドの胸の内に訪れたのは驚愕、そして次に歓喜だった。
胸が潰れるほど恋しくて会いたくてたまらなかった想い人。
ブリジットに再び会えることは彼にとって他に勝る幸せがないほどの喜びだった。
だが……すぐに彼の胸には戸惑いが湧き上がる。
(ブリジットに……会っていいのだろうか)
彼女に迷惑をかけてしまうことになることは間違いない。
それが嫌で自分は彼女の元を離れた。
だが、そんな彼の気持ちはレジーナもお見通しだった。
アーシュラは話を続ける。
「ボールドウィン。あなたの名誉はすでに回復されているわ。あなたが天命の頂から身を投げた後、ワタシは本家に文を書いたのです」
アーシュラの話によればレジーナ……いや、クローディアはボルドの無垢を自らの署名付きで証明した。
そもそもボルドは分家の華隊の女たちと交わった疑いにより姦通罪で裁かれ、死罪判決を受けた。
ブリジットの情夫は彼女以外の女と交わることを許されていない。
その禁を破った不埒者の汚名は、クローディアによってすすがれ、ボルドは死後にその名誉が回復されたことになっている。
ブリジットへの忠義ゆえに、敢えて汚名を被って自らの命を捨てた忠臣として、本家では敬われ、その死を偲ばれているという。
「だから生きてあなたがブリジットの元へ戻ったとしても、ブリジットはもちろん、本家の他の者たちにもきっと喜んで受け入れてもらえると思うわ」
この話をする時のクローディアは少しだけ残念そうだった。
アーシュラは何となく気付いていたのだ。
自分の主がボルドに対して淡い想いを抱いていることを。
だがアーシュラは複雑な胸の内を表に出さず、淡々とクローディアの言伝を伝えた。
「だけど……十血会はあなたの身柄の引き渡しの条件として、本家にも王国への指揮下に入ることを求めるわ。これをブリジットが飲まなければあなたは引き渡されないかもしれない」
喜びも束の間、ボルドは再び落胆する。
それでは結局、自分の存在がブリジットを困らせることに変わりはない。
「そうなればブリジットは力づくであなたを取り戻そうとすると思う。本家と分家の対立は最悪の局面を迎えることになるわ。もちろんワタシはそんなことにならないようにクローディアとして力を尽くすわ。ワタシは……ブリジットとの争いは望んでいない。出来れば彼女と協力したいと思っている。本当よ」
アーシュラはクローディアの言葉をボルドに伝えながら、彼女の苦しい立場に思いを馳せる。
十血会にはさまざまな意見があるものの、ブリジットを排斥して本家を吸収し、クローディアを頂点としたダニア統一を望む強硬派も根強く残っている。
その急先鋒だったバーサが死んだことで強硬派の立場そのものは弱くなっているが。
バーサの妹であるブライズやベリンダが、本来は強硬派の思想を持っていることもアーシュラは知っている。
だがクローディアが彼女たちを粘り強く説得して押さえているのだ。
「私はどうすれば……」
戸惑いに口ごもるボルドに、アーシュラはレジーナの言伝を続ける。
「ボールドウィン。ただ1人の人間として新たな生き方をしたいのなら、今からでもワタシがあなたを逃がしてあげる。あなたの今の気持ちをアーシュラに伝えて」
「えっ……?」
驚くボルドにアーシュラは顔を上げた。
「……以上がクローディアからの言伝です。ボールドウィン。あなたのお気持ちをお聞かせ下さい。もうじき眠り香の効果が切れます。今すぐここから脱出なさる気ならばワタシがお手伝いしましょう」
「そ、それは……」
回答を迫るアーシュラにボルドは思わず戸惑った。
小姓たちはいつ起きるか分からない。
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