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第128話 ボルドの変化
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「……また耳鳴りだ」
ボルドはふと農作業の手を止めて頭上を見上げる。
空は雲ひとつない快晴だ。
秋が深まり忙しい日々が続いていた。
来たる冬に向けて備蓄用の食料を蓄える時だからだ。
最近ではダニアの女たちが取ってきた魚を保存用の塩漬けにしたり、獣の肉を干し肉にしたりと、ボルドにとっての初めてのこの場所での冬支度に勤しんでいた。
日々の労働を重ねることでボルドの体には適度に筋肉が付き、体力も増して以前よりも逞しい体つきになっている。
天命の頂から落ちた時のケガはもうまったく問題なく治っていた。
ただ、いくつか治らない症状があった。
そのひとつが耳鳴りだ。
「ダンカンさん。もしかしたら雨が降るかもしれません」
「ボールドウィン。おまえ、たまにそんなことを言うのう。妙な奴じゃ」
そう言いながらもダンカンは作業の手を止め、農具を手早く屋根のある納屋へと運び込んで行く。
老人は知っていた。
若者の天気予報がよく当たることを。
ほどなくして西の空から駆け足でやってきた黒雲が大地に雨を落としていく。
ボルドはその様子を見ながら自分の体の変化を奇妙に感じていた。
レジーナの元で目を覚ましてからというものの、急な雨が降る前には決まって耳鳴りが始まる。
変化はそれだけじゃなかった。
ふいに歯がむずがゆくなるような時があり、そう言う時は決まって翌日の気温が急に冷え込んだりするのだ。
温かな日に、明日は寒くなるかもしれないと言って、翌日にその通りになった時はダンカンも目を丸くしていた。
半信半疑でその話を聞いていたダニアの女たちは、急な気温の変化で南に向かう渡り鳥の群れを弓矢で狩ることに成功したのだ。
あの断崖絶壁から落下する前までは、そんな感覚はまったく感じられなかったというのに。
後遺症のようなものなのだろうかとボルドは不思議に思っていた。
「遥か昔には数日先の天気を言い当てる呪術師のような者がいた、なんていうおとぎ話もあるが、おまえはその呪術師のようじゃな」
そう言って笑うダンカンに笑顔を返しつつ、ボルドは耳鳴りが静かに治まっていくのを感じて立ち上がる。
そろそろ雨が止む。
彼の思った通り、そこから5分もせずに雨は上がった。
それからボルドは収穫した果実のうち、日持ちの悪い物を籠に入れると、石切り場に向かう。
そこはジリアンたちが働く場所だ。
ダニアの女たちはこの仕事場で一番の重労働を担っている。
一日の仕事で疲れた体には果実の糖分が染み渡るはずだ。
そう思ったボルドだが、雨上がりの石切り場から女たちの怒声が響くのを聞いて思わず足を止める。
「てめえ! いい加減にしろ!」
「何だとコラァ! やんのか!」
彼の視線の先ではジリアンとリビーが掴み合いのケンカを始めている。
「またか……」
初めてのことではないのでボルドは再び足を進めた。
気の荒いダニアの女たちは頻繁にモメる。
おそらくさしたる理由があるわけではない。
たまたま虫の居所が悪く、いつもなら何とも思わない相手の所作に噛みついたりしたのだろう。
彼女たちは血気盛んなダニアの女たちだ。
戦場で戦うこともせずに労働に従事する毎日に鬱憤がたまり、定期的にこうしたケンカが起こる。
こういう時、いくら止めようとしても無駄なのはボルドも知っていた。
ブリジットの元にいた頃から、ダニアの女たちはある程度やり合わない限りケンカをやめようとしない。
腹の中から十分に怒気を吐き出すまでは止まらないのだ。
だが、さすがに彼女たちも大ケガをするまで相手をやり込めることはない。
ケンカっ早いとはいえ、そのあたりは弁えているのだ。
気の済むまでやれば、やがて疲れて終わるだろう。
そう思い、果物を入れた籠をそっと大きくて平らな岩の上に置き、その場を離れようとしたボルドは再び足を止めた。
「あれ……?」
異変は突然やってきた。
唐突に一瞬の眩暈を覚えて、ボルドは思わず両足に力を入れる。
地面が揺れているような気がした。
細かい振動がボルドの体中の骨を軋ませているように思えて、彼は両目をしばたかせる。
その振動は徐々に強くなっていき、視界が揺らぐように感じられた。
それは初めての感覚だった。
「な、何が……」
ボルドは顔を上げる。
怒りの形相で掴み合うジリアンとリビーの頭上、5メートルほどの高さまで積み上がった大きな岩の隙間から、わずかに細かい砂がパラパラと零れ落ちるのを見たボルドは、弾かれたように声を上げた。
「ふ……2人とも! すぐにこっちへ!」
ボルドが珍しく大声を上げたのでジリアンとリビーは思わず動きを止めて彼を見る。
ボルドはそんな2人に全力で駆け寄ると、掴み合う2人の腕を力いっぱい引っ張った。
「早くっ!」
その瞬間、地面の下からドンッと突き上げるような大きな揺れが襲ってきた。
それは地面に立っている他のダニアの女たちがよろけるほどの強い揺れであり、積み上げた石の城壁がグラグラと揺れる。
そのうち、上から押さえつける力のない一番上の岩が、ズズッと擦れる音を立てて手前にズレた。
その気配に気付いたジリアンとリビーが頭上を見上げて、驚愕にその目を見開く。
地面の揺れが地鳴りを伴って激しくなっていき、大岩がさらにズレて宙に飛び出した。
「くっ! ボールドウィン」
「うわっ!」
ジリアンはボルドを抱えてリビーとともに思い切り前方に飛んで転がった。
落下してきた2メートルほどの大岩は、ドスンという地響きを上げて地面にぶつかり、見事に真っ二つとなって割れた。
それはつい数秒前までジリアンとリビーが掴み合っていた場所だった。
ボルドはふと農作業の手を止めて頭上を見上げる。
空は雲ひとつない快晴だ。
秋が深まり忙しい日々が続いていた。
来たる冬に向けて備蓄用の食料を蓄える時だからだ。
最近ではダニアの女たちが取ってきた魚を保存用の塩漬けにしたり、獣の肉を干し肉にしたりと、ボルドにとっての初めてのこの場所での冬支度に勤しんでいた。
日々の労働を重ねることでボルドの体には適度に筋肉が付き、体力も増して以前よりも逞しい体つきになっている。
天命の頂から落ちた時のケガはもうまったく問題なく治っていた。
ただ、いくつか治らない症状があった。
そのひとつが耳鳴りだ。
「ダンカンさん。もしかしたら雨が降るかもしれません」
「ボールドウィン。おまえ、たまにそんなことを言うのう。妙な奴じゃ」
そう言いながらもダンカンは作業の手を止め、農具を手早く屋根のある納屋へと運び込んで行く。
老人は知っていた。
若者の天気予報がよく当たることを。
ほどなくして西の空から駆け足でやってきた黒雲が大地に雨を落としていく。
ボルドはその様子を見ながら自分の体の変化を奇妙に感じていた。
レジーナの元で目を覚ましてからというものの、急な雨が降る前には決まって耳鳴りが始まる。
変化はそれだけじゃなかった。
ふいに歯がむずがゆくなるような時があり、そう言う時は決まって翌日の気温が急に冷え込んだりするのだ。
温かな日に、明日は寒くなるかもしれないと言って、翌日にその通りになった時はダンカンも目を丸くしていた。
半信半疑でその話を聞いていたダニアの女たちは、急な気温の変化で南に向かう渡り鳥の群れを弓矢で狩ることに成功したのだ。
あの断崖絶壁から落下する前までは、そんな感覚はまったく感じられなかったというのに。
後遺症のようなものなのだろうかとボルドは不思議に思っていた。
「遥か昔には数日先の天気を言い当てる呪術師のような者がいた、なんていうおとぎ話もあるが、おまえはその呪術師のようじゃな」
そう言って笑うダンカンに笑顔を返しつつ、ボルドは耳鳴りが静かに治まっていくのを感じて立ち上がる。
そろそろ雨が止む。
彼の思った通り、そこから5分もせずに雨は上がった。
それからボルドは収穫した果実のうち、日持ちの悪い物を籠に入れると、石切り場に向かう。
そこはジリアンたちが働く場所だ。
ダニアの女たちはこの仕事場で一番の重労働を担っている。
一日の仕事で疲れた体には果実の糖分が染み渡るはずだ。
そう思ったボルドだが、雨上がりの石切り場から女たちの怒声が響くのを聞いて思わず足を止める。
「てめえ! いい加減にしろ!」
「何だとコラァ! やんのか!」
彼の視線の先ではジリアンとリビーが掴み合いのケンカを始めている。
「またか……」
初めてのことではないのでボルドは再び足を進めた。
気の荒いダニアの女たちは頻繁にモメる。
おそらくさしたる理由があるわけではない。
たまたま虫の居所が悪く、いつもなら何とも思わない相手の所作に噛みついたりしたのだろう。
彼女たちは血気盛んなダニアの女たちだ。
戦場で戦うこともせずに労働に従事する毎日に鬱憤がたまり、定期的にこうしたケンカが起こる。
こういう時、いくら止めようとしても無駄なのはボルドも知っていた。
ブリジットの元にいた頃から、ダニアの女たちはある程度やり合わない限りケンカをやめようとしない。
腹の中から十分に怒気を吐き出すまでは止まらないのだ。
だが、さすがに彼女たちも大ケガをするまで相手をやり込めることはない。
ケンカっ早いとはいえ、そのあたりは弁えているのだ。
気の済むまでやれば、やがて疲れて終わるだろう。
そう思い、果物を入れた籠をそっと大きくて平らな岩の上に置き、その場を離れようとしたボルドは再び足を止めた。
「あれ……?」
異変は突然やってきた。
唐突に一瞬の眩暈を覚えて、ボルドは思わず両足に力を入れる。
地面が揺れているような気がした。
細かい振動がボルドの体中の骨を軋ませているように思えて、彼は両目をしばたかせる。
その振動は徐々に強くなっていき、視界が揺らぐように感じられた。
それは初めての感覚だった。
「な、何が……」
ボルドは顔を上げる。
怒りの形相で掴み合うジリアンとリビーの頭上、5メートルほどの高さまで積み上がった大きな岩の隙間から、わずかに細かい砂がパラパラと零れ落ちるのを見たボルドは、弾かれたように声を上げた。
「ふ……2人とも! すぐにこっちへ!」
ボルドが珍しく大声を上げたのでジリアンとリビーは思わず動きを止めて彼を見る。
ボルドはそんな2人に全力で駆け寄ると、掴み合う2人の腕を力いっぱい引っ張った。
「早くっ!」
その瞬間、地面の下からドンッと突き上げるような大きな揺れが襲ってきた。
それは地面に立っている他のダニアの女たちがよろけるほどの強い揺れであり、積み上げた石の城壁がグラグラと揺れる。
そのうち、上から押さえつける力のない一番上の岩が、ズズッと擦れる音を立てて手前にズレた。
その気配に気付いたジリアンとリビーが頭上を見上げて、驚愕にその目を見開く。
地面の揺れが地鳴りを伴って激しくなっていき、大岩がさらにズレて宙に飛び出した。
「くっ! ボールドウィン」
「うわっ!」
ジリアンはボルドを抱えてリビーとともに思い切り前方に飛んで転がった。
落下してきた2メートルほどの大岩は、ドスンという地響きを上げて地面にぶつかり、見事に真っ二つとなって割れた。
それはつい数秒前までジリアンとリビーが掴み合っていた場所だった。
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