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第一幕 金色の愛

第22話 女王の名付け

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「私室が3階にあるのは……こういう時に厄介やっかいだな」

 ブリジットは徐々に大きくなってきた腹をさすりながら、ゆっくりと階段を上る。
 妊娠が判明してから5ヶ月が過ぎていた。
 屈強なダニアの女児は産まれた時から体が大きいことが多く、必然的に妊婦も早い段階で腹が大きくふくらみ始めることが少なくない。
 そんな彼女の脇でその腰を支えながらボルドも一緒に階段を上っている。

「子が大きく成長している証拠ですね。ブリジットのように背が高くなるでしょう」
「アタシはダニアの中では平均より少し低いくらいなんだがな」

 身長180センチあるブリジットよりもかなり背が低く体も小さいボルドは、ここのところ必死に筋力向上訓練を繰り返して体をきたえていた。
 何かの際にブリジットを支えられるようにだ。
 それでもブリジットが階段を上る際には、安全のために屈強な衛兵が2名、背後にひかえている。
 万が一ブリジットが足を踏み外して後方に落ちようとも、彼女たちならば支えてくれるだろう。
 ただ、そんな介助が必要な現状にブリジットは少々嫌気が差しているようだ。

「妊娠期間はどうして十月十日もあるんだ。一ヶ月くらいで生まれてくれればいいものを」

 そんなブリジットの愚痴ぐちを親身に聞くのもボルドの役目だ。
 彼はブリジット背中をさすりながら、いつもの穏やかな口調で言った。

「実際にお腹に子をはらんでいるわけでもない私に言う資格はありませんが、きっと子はブリジットのお腹の中にもっといたいと思っていると思いますよ。母の胎内たいないで安心しているのでは?」

 そう言われて肩をすくめつつ、ブリジットは階段を上り切ると、私室のいつもの定位置である柔らかなソファーにゆっくりと腰を沈めていく。
 妊婦になると体の重心も変化する。
 以前のように身軽には動けない。

 この先は臨月に向かってもっと腹が大きくなる。
 そのことを考えるとブリジットは少々憂鬱ゆううつになった。 
 以前のように馬を駆って狩りにでも出かけたい気分だが、それはしばらく叶わないだろう。

「ボルド。ゆうべしぼり込んだ名前の候補を書いた紙を持ってきてくれ」

 先日から2人は生まれてくる子供の名前を考えていた。
 代々のブリジットが女児しか産まなかったこともあり、おそらくは今回も女児だろうということを見越して、女児の名前の候補を最終的に5つにしぼり込んだのがゆうべのことだ。
 ボルドが机の上から持ってきた紙には5つの名前が記されている。

【アリシア、ファニー、キティ、ニーナ、プリシラ】

 どれも幼名として申し分なくかわいらしい名前であり、ブリジットとボルドの2人であれこれと案を出し合ってしぼり込んだものだった。

「この子は15歳で成人したら、第8代ブリジットとなる。だが、この幼名は一生残る大事な名前だ。母上がアタシにライラと名付けて下さったように、思いを込めた名前にしたい」

 ブリジットの言葉にボルドは笑顔でうなづいた。
 今もボルドは寝室で2人だけの時などは彼女をライラと幼名で呼ぶ。
 それはブリジットの希望だった。
 彼女はボルドから幼名で呼ばれることに愛や幸せを感じているのだ。

 母に愛されて生まれ、つけてもらった名前はブリジットにとって一生の宝物だ。
 ゆえにブリジットは子の名付けに真剣に悩んでいた。
 ボルドも同様だ。

「さて、どうやって選ぶか。どれも捨てがたい」

 そう言うブリジットにボルドは提案した。

「実際に呼び掛けてみて、しっくりくるかどうかでお決めになっては?」

 ボルドの言葉にブリジットはなるほどとうなづき、ふくららんできた腹に手を当てた。
 そして慈愛じあいに満ちた表情で順番に名前を呼んでいく。

「アリシア」

 その名を呼ぶと、ブリジットの中に芽生めばえ始めていた母の自覚のようなものが、より強くなった。
 子の名を呼ぶという行為に幸福感を感じる。

「いいな。次は……ファニー」

 その名もとても良く、ボルドが言うようにしっくりくる。
 そこからキティ、ニーナと名を呼びかけながらブリジットは腹をさすった。

「どれもいいな。これは迷うぞ。ボルド」

 困ったように、だが嬉しそうにそう言うブリジットにボルドも思わず目尻めじりを下げる。
 2人でこうしているだけでも楽しくてたまらない。
 そしてブリジットは最後に残った名前を呼んだ。

「プリシラ」

 その途端とたんだった。
 ブリジットが弾かれたように表情を変え、大きく両目を見開いたのだ。
 そんな彼女の様子にボルドは不思議ふしぎそうにたずねた。

「どうされましたか? ブリジット」

 そう言うボルドにブリジットは興奮した顔を向ける。

「う……動いた。ピクッと……この腹の中で」

 胎動たいどう
 腹の中で胎児たいじが動くことはもちろんブリジットも知っている。
 だが、実際に体験するのは初めてのことだった。
 その感覚にブリジットは思わず子供のように喜ぶ。

「ボルド。触ってみろ」

 そう言うとブリジットはボルドの手を取り、自分の腹に当ててみた。
 そしてもう一度名前を呼ぶ。

「プリシラ」

 ほんのわずかな沈黙ちんもくの後、ポコッと小さな振動がボルドの手に伝わってきた。
 それが命の息吹いぶきのように感じられ、ボルドは歓喜の表情でブリジットと目を合わせる。
 そんなボルドを見つめ返し、ブリジットは満面の笑みを浮かべた。

「決めたぞ。ボルド。この子の名前は……プリシラだ」

 プリシラ。
 新たに生まれてくる子供の名前を嬉しそうに口にするブリジットに、ボルドもまた喜びの表情でうなづくのだった。
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