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第234話 今だけは
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「クローディア。ご到着されたのですね」
天幕に入ってきたクローディアを見ると、ボルドは立ち上がって姿勢を正し、そう言った。
そんな彼を見るとクローディアは苦笑する。
「他に誰もいないんだから、レジーナでいいわよ。お勉強中?」
そう言うとクローディアことレジーナは、ボルドの隣の椅子に腰を掛けた。
そしてボルドにも座るように促すと、彼が開いていた歴史書のページを覗き込む。
「銀髪の従姉妹は子を産まず……か。そうなのよね。でもベアトリス叔母様はそんなことを気にせず3人も産んだわ。自分の娘たちがそうなるかもしれないって分かっていてもね。子供を産むだけが女の人生じゃないって。子供たちには自由に生きてほしいと言っていたわ。私の妹はどうなるかしらね」
「妹君にお会いされたんですね」
そう言うボルドにレジーナは頷く。
その顔に喜びと少しの戸惑いを浮かべて。
「まだヨチヨチ歩きのかわいい子だったわよ。チェルシーっていう名前なの。ワタシのこと姉様って呼んでくれて……」
その口ぶりでボルドには分かった。
レジーナが妹のチェルシーをここに連れてこなかったと。
「お母様は……先代様はどうなされたのですか?」
そう尋ねるボルドにレジーナはため息をついた。
「母は妹と共に王国に残るそうよ」
その話にボルドは息を飲む。
「それでは……」
「母にそう言われるだろうとワタシも予想していたわ。母には母の道がある。おそらく母は王に厳しく叱責されるでしょうね。最悪、投獄される恐れもあるわ。それでも母は王国に残ることを選んだの。ワタシは……強引にでも母と妹を連れ去るべきだったかしら」
そう言うとレジーナはボルドに目を向けた。
自分の決断が正しかったかどうか不安を感じているのだとレジーナは自分を情けなく思った。
部下たちの前では女王として絶対に見せない顔だ。
だがボルドを前にすると、つい彼の優しさに甘えたくなってしまう。
「……そんなことをすれば王はより厳しく先代様を責めたでしょう。難しいご判断ですが、先代様もご賢察の上だと思います。レジーナさん。どうかお気に病まないで下さい。これからの我々の働き次第で、またきっとお母様や妹君にお会い出来る日も来ると信じましょう。私に出来ることがあれば何でもいたします」
その言葉にレジーナは幸せを感じると同時に自分を恥じた。
彼の優しい言葉を聞きたくて自分は甘えたのだ。
これでは女王でなく、他人の情夫に横恋慕しているただの女ではないか。
「ありがとう。ボールドウィン。暗くなる話はやめましょ。あなたは何か悩みはないの?」
レジーナが気を取り直すようにそう言うと、ボルドは小姓との先ほどの経緯を話して聞かせ、ここで自分に何が出来るだろうか考えていると言った。
「なるほどね。まあ、あなたには立場があるし、以前のようにここで労働に勤しんでもらうことは出来ないわね。でもあなただからこそ出来ることもあるわよ」
「私だからこそ?」
「ええ」
そう言うとレジーナは机の上に広げられている歴史書を手に取った。
「たとえばこの歴史書。ワタシたちがこれを通じて一族の過去を知ることが出来るのは、これを記録してくれた祖先のおかげ。ということは今度はワタシたちが未来の子孫のために今の記録を残していかなければならないわ。ボールドウィン。あなたがその手で字を書いて記録を残してくれれば、未来のワタシたちの子孫はこの時代を知ることが出来る。あなたの書いた文字を読むことによってね」
レジーナの話にボルドは不意に胸の中がざわめくのを感じた。
自分が書いた文字を100年後の誰かが読む。
それによってこの時代を知ることが出来る。
そのことにボルドは思わぬ興奮を覚えたのだ。
そんな彼の表情からその内心を読み取ったのかレジーナは穏やかに微笑んだ。
「ダニアは女ばかりの戦闘民族だけど、彼女たちだけでは成り立たない。身の回りの世話をしてくれる小姓たちや情夫たちがいてくれて一族は成り立っているの。ボールドウィン。あなたって学ぶことが好きよね。一族には知識を持った人材が必要なの」
レジーナはそう言うと大仰に肩をすくめて見せた。
「残念ながらワタシの部下の女たちは勉強が苦手で……だからあなたみたいな人が色々と学んでそれを一族のために活かしてくれるなら助けになる。それって一族にとっては本当に貴重なことなのよ。歴史書を書くのって誰にでも出来ることではないの。過去の歴史をきちんと学んで、様々な分野の知識のある人が書いてこそ、きちんと後世に伝わる書が出来上がるのよ」
そう言うとレジーナはまだ何も書かれていない一冊の本を棚から取り出して、それを机の上に置く。
「ここから新たな歴史を紡いでいくのよ。あなたが」
「ここに……私が」
ボルドはそっと白紙のページに触れようと手を伸ばすが、レジーナがサッと本を取り上げてしまう。
「あっ……」
「ふふふ。まだダメ。これを書くのにふさわしい知識と経験。あなたはこれからそれを習得していく必要があるわね」
「はい……先は長そうですね。差し当たって何から始めれば良いのやら……」
そう眉尻を下げるボルドにレジーナは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうね。まずはもっと字が上手くなってからかしら。綺麗な字のほうが後世の人たちも読みやすいでしょう? あとは昔の歴史書を見て、編纂の方法を学びなさい。字は住民台帳を書いているうちにもっと上達するから。さあワタシのことは気にしなくていいから、勉強を再開すること」
そう言うレジーナに頷いてボルドは再び過去の歴史書を開く。
レジーナはそんな彼の横顔をじっと見つめていた。
かつてボルドの療養中に森の小屋で2人過ごした日々が彼女の胸に甦る。
(こうしているとあの時に戻ったみたい。ボールドウィンってまつ毛長いわよね。真剣な顔をしているときは意外と男らしいんだ)
あれこれとそんなことを思いながら、レジーナは多忙な日々の中でこうして2人過ごせる今の幸せを噛みしめていた。
今は……今だけはこの時間に浸っていたい。
レジーナはそう思いながらひと時の甘い時間にその身を委ねるのだった。
天幕に入ってきたクローディアを見ると、ボルドは立ち上がって姿勢を正し、そう言った。
そんな彼を見るとクローディアは苦笑する。
「他に誰もいないんだから、レジーナでいいわよ。お勉強中?」
そう言うとクローディアことレジーナは、ボルドの隣の椅子に腰を掛けた。
そしてボルドにも座るように促すと、彼が開いていた歴史書のページを覗き込む。
「銀髪の従姉妹は子を産まず……か。そうなのよね。でもベアトリス叔母様はそんなことを気にせず3人も産んだわ。自分の娘たちがそうなるかもしれないって分かっていてもね。子供を産むだけが女の人生じゃないって。子供たちには自由に生きてほしいと言っていたわ。私の妹はどうなるかしらね」
「妹君にお会いされたんですね」
そう言うボルドにレジーナは頷く。
その顔に喜びと少しの戸惑いを浮かべて。
「まだヨチヨチ歩きのかわいい子だったわよ。チェルシーっていう名前なの。ワタシのこと姉様って呼んでくれて……」
その口ぶりでボルドには分かった。
レジーナが妹のチェルシーをここに連れてこなかったと。
「お母様は……先代様はどうなされたのですか?」
そう尋ねるボルドにレジーナはため息をついた。
「母は妹と共に王国に残るそうよ」
その話にボルドは息を飲む。
「それでは……」
「母にそう言われるだろうとワタシも予想していたわ。母には母の道がある。おそらく母は王に厳しく叱責されるでしょうね。最悪、投獄される恐れもあるわ。それでも母は王国に残ることを選んだの。ワタシは……強引にでも母と妹を連れ去るべきだったかしら」
そう言うとレジーナはボルドに目を向けた。
自分の決断が正しかったかどうか不安を感じているのだとレジーナは自分を情けなく思った。
部下たちの前では女王として絶対に見せない顔だ。
だがボルドを前にすると、つい彼の優しさに甘えたくなってしまう。
「……そんなことをすれば王はより厳しく先代様を責めたでしょう。難しいご判断ですが、先代様もご賢察の上だと思います。レジーナさん。どうかお気に病まないで下さい。これからの我々の働き次第で、またきっとお母様や妹君にお会い出来る日も来ると信じましょう。私に出来ることがあれば何でもいたします」
その言葉にレジーナは幸せを感じると同時に自分を恥じた。
彼の優しい言葉を聞きたくて自分は甘えたのだ。
これでは女王でなく、他人の情夫に横恋慕しているただの女ではないか。
「ありがとう。ボールドウィン。暗くなる話はやめましょ。あなたは何か悩みはないの?」
レジーナが気を取り直すようにそう言うと、ボルドは小姓との先ほどの経緯を話して聞かせ、ここで自分に何が出来るだろうか考えていると言った。
「なるほどね。まあ、あなたには立場があるし、以前のようにここで労働に勤しんでもらうことは出来ないわね。でもあなただからこそ出来ることもあるわよ」
「私だからこそ?」
「ええ」
そう言うとレジーナは机の上に広げられている歴史書を手に取った。
「たとえばこの歴史書。ワタシたちがこれを通じて一族の過去を知ることが出来るのは、これを記録してくれた祖先のおかげ。ということは今度はワタシたちが未来の子孫のために今の記録を残していかなければならないわ。ボールドウィン。あなたがその手で字を書いて記録を残してくれれば、未来のワタシたちの子孫はこの時代を知ることが出来る。あなたの書いた文字を読むことによってね」
レジーナの話にボルドは不意に胸の中がざわめくのを感じた。
自分が書いた文字を100年後の誰かが読む。
それによってこの時代を知ることが出来る。
そのことにボルドは思わぬ興奮を覚えたのだ。
そんな彼の表情からその内心を読み取ったのかレジーナは穏やかに微笑んだ。
「ダニアは女ばかりの戦闘民族だけど、彼女たちだけでは成り立たない。身の回りの世話をしてくれる小姓たちや情夫たちがいてくれて一族は成り立っているの。ボールドウィン。あなたって学ぶことが好きよね。一族には知識を持った人材が必要なの」
レジーナはそう言うと大仰に肩をすくめて見せた。
「残念ながらワタシの部下の女たちは勉強が苦手で……だからあなたみたいな人が色々と学んでそれを一族のために活かしてくれるなら助けになる。それって一族にとっては本当に貴重なことなのよ。歴史書を書くのって誰にでも出来ることではないの。過去の歴史をきちんと学んで、様々な分野の知識のある人が書いてこそ、きちんと後世に伝わる書が出来上がるのよ」
そう言うとレジーナはまだ何も書かれていない一冊の本を棚から取り出して、それを机の上に置く。
「ここから新たな歴史を紡いでいくのよ。あなたが」
「ここに……私が」
ボルドはそっと白紙のページに触れようと手を伸ばすが、レジーナがサッと本を取り上げてしまう。
「あっ……」
「ふふふ。まだダメ。これを書くのにふさわしい知識と経験。あなたはこれからそれを習得していく必要があるわね」
「はい……先は長そうですね。差し当たって何から始めれば良いのやら……」
そう眉尻を下げるボルドにレジーナは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうね。まずはもっと字が上手くなってからかしら。綺麗な字のほうが後世の人たちも読みやすいでしょう? あとは昔の歴史書を見て、編纂の方法を学びなさい。字は住民台帳を書いているうちにもっと上達するから。さあワタシのことは気にしなくていいから、勉強を再開すること」
そう言うレジーナに頷いてボルドは再び過去の歴史書を開く。
レジーナはそんな彼の横顔をじっと見つめていた。
かつてボルドの療養中に森の小屋で2人過ごした日々が彼女の胸に甦る。
(こうしているとあの時に戻ったみたい。ボールドウィンってまつ毛長いわよね。真剣な顔をしているときは意外と男らしいんだ)
あれこれとそんなことを思いながら、レジーナは多忙な日々の中でこうして2人過ごせる今の幸せを噛みしめていた。
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