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第92話 姉として
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シジマの後方で無念そうに撤退の準備をするオニユリは、不意に気配を感じて背後を振り返った。
すると数百メートル先の山の尾根を、この谷間に向かってくる数人の人影が見えた。
その中には赤毛の女がいる。
それを見たオニユリは顔をしかめ、すぐさま兄のシジマに声をかけた。
「後方から新手ですわ。兄様。早々に退却いたしましょう」
妹の声にシジマは舌打ちをしてその場を離れていく。
すでに仲間が何人も失われているので、これ以上は作戦続行不可能だというチェルシーの判断は彼にも理解できた。
撤退の判断がやや遅れたことが悔やまれるが、それよりもシジマには副官として頭の痛い問題があった。
プリシラとエミルの捕獲作戦は、ジャイルズ王からの任務にない任務外の行動だ。
成功すれば望外の収穫となるが、完全に裏目に出てしまった。
ここから兵力を失った状態で本来の作戦に入らなければならない。
アリアドに駐留中の王国軍に今から新たな兵力の増強を頼むことも可能だが、そうなればチェルシーが任務外の動きを独断で行って兵を失ったことが露見してしまう。
チェルシーはジャイルズ王からその責任を問われるだろう。
(それも覚悟の上で、作戦遂行のために恥を忍んで兵力の増強を依頼すべき……なんだがな)
シジマは国内でチェルシーがどのような立場にあるのかはよく分かっていた。
国王から任命された将軍と言う立場。
そして腹違いとはいえ国王の妹という立場。
そうした地位にありながら決してチェルシーの立場は盤石ではない。
次兄であるウェズリー副将軍を初めとし、チェルシーの失脚を願う者たちは少なくないのだ。
むしろ王国内では味方と言える味方はいない四面楚歌の状況だった。
チェルシーは戦果を挙げ続けるしかない立場なのだ。
(賭けは負けたか。だがまだ挽回できる。チェルシー様の立場が強くなれば、我らココノエの民ももっと王国内で生きやすくなるはずだ)
シジマは主の躍進に一族の命運を託し、妹を先導して山道を駆けていくのだった。
☆☆☆☆☆☆
(エミル! 今行くからね!)
プリシラは岩橋を走りながら長剣を握り締める。
それはジャスティーナに借り受けたものだ。
ジャスティーナは敵の銃で頭を撃たれて谷底へ落ちてしまった。
それが最悪の結果を示すことだとプリシラとて分かっている。
ジュードには考えるなと言われたが、どうしても考えてしまう。
自分たちを守るために犠牲となったジャスティーナのことを。
この剣をジャスティーナに返すことは出来なくなってしまった。
受けた恩も。
だが……ここで自分たちが死んでしまえば、ジャスティーナが何のために命を張ったかも分からなくなってしまう。
プリシラは歯を食いしばった。
前方ではエミルとチェルシーが戦いを繰り広げている。
あのひ弱な弟がなぜそんなことが出来ているのかは分からない。
だが、それでもプリシラは姉として弟を救わなければならないのだ。
全ての迷いを振り払い、プリシラは弟の名を叫ぶ。
「エミル!」
プリシラは2人の戦いに割って入った。
そしてエミルと共にチェルシーに攻撃を仕掛けていく。
「くっ!」
チェルシーは手強い相手が2人に増えたことでより押されるようになった。
一方のプリシラは不思議な気持ちだった。
もちろん息を合わせることなど出来ないが、弟と共に戦場で戦っているという本来ならばあり得ない状況が自分でも信じられない。
だが、エミルは一切プリシラの方を見なかったが、それでもチェルシーのみを攻撃し、プリシラのことは敵視しなかった。
錯乱したように見えるエミルだが、誰が味方で誰が敵かは見誤っていない。
プリシラは今は弟のことを信じて戦うと決意した。
そしてジャスティーナの剣を鋭く振るう。
「チェルシー! よくもジャスティーナを……許せない!」
長剣のプリシラに対してチェルシーは短剣しか持っていない。
そしてエミルの攻撃も受ける状況なので、さすがに余裕がない。
「くうっ!」
プリシラは一気呵成に攻め立てる。
「あなたが辛い生き方をしてきたことには同情するわ! アタシのことはさぞかし恵まれたお姫様に見えることでしょうね!」
「そうよ! 違う? 生まれた時から今まで両親に愛され、何不自由なく暮らしてきたお姫様でしょ!」
そう叫びながらチェルシーは意地を見せ、短剣一本でも必死に応戦する。
対するプリシラは憤然と声を荒げた。
「そうだとしても……あなたのしていることは八つ当たりよ! チェルシー! 自分が不幸だったからといって、他人を妬んで同じように不幸にしてもいいわけじゃないわ!」
そう言うプリシラの顔は毅然としていた。
女王としての母の姿を見続けてきたプリシラの心には、簡単には折れない太い芯が一本通っている。
それをチェルシーも感じていた。
だが、チェルシーの胸に宿る暗い炎はかき消せないほどに燃え上がっている。
「綺麗事ね! 生きていくために他者を蹴落として、他者から奪わなければならない者もいるのよ! 陽の当たる道を歩いてきたあなたには分からないわ!」
「これ以上……誰も傷つけさせない! あなたをここで止める!」
プリシラはその身を苛む痛みも忘れて全力で剣を振るう。
先ほどまでチェルシーの後方にいた彼女の部下たちはすでにその場から姿を消していた。
谷間の向こう岸にいたオニユリともう1人の白髪の男も早々に撤退している。
今ここに残っているのはチェルシーただ1人だった。
(いける! このまま押し切ってチェルシーを捕らえる。彼女の身柄を押さえられれば王国を牽制できるはず……)
そう思ったその時だった。
並んで戦っているエミルの腕から唐突にパンッと乾いた音が聞こえたのだ。
思わず弟に目を向けたプリシラは息を飲む。
鉈を握っているエミルの右腕がダラリと力なく垂れ下がっていた。
そして痛々しいほど膨張したその腕の皮膚が裂けて血が滲み出していた。
「エ、エミル!」
思わず動揺の声を上げたその瞬間、プリシラが見せた隙をチェルシーは見逃さなかった。
「ハアッ!」
チェルシーの鋭い前蹴りがプリシラの胸を打つ。
プリシラはそれをまともに浴びて、後方へ大きく吹っ飛んだ。
「うぐっ!」
胸を強く蹴られたため肺が圧迫され、プリシラは呼吸に詰まって数秒の間、動けなくなった。
それを見たチェルシーはすぐに踵を返して飛ぶように走り出す。
その場から離脱するために躊躇はしなかった。
だがエミルもそれを追って走り出す。
「カハッ……コホッ……エ、エミル」
プリシラはエミルを呼び止めようとしたが、息が詰まってまともに声が出ない。
そうこうするうちにチェルシーは山道を公国側に向かって駆け下りていく。
それを追って走るエミルも山道を下ろうとした。
だが、その瞬間に今度はエミルの膝から下の力が抜け、その小さな体がグラリとよろめく。
そのままエミルは道を外れ、下り坂の脇にある茂みの中へと飛び込んでいった。
「エ、エミル……」
プリシラはようやく立ち上がるが、エミルは茂みの中から出てこない。
チェルシーはすでに尾根を駆け下りていったようで、その姿はとうに見えなくなっていた。
「エミル!」
プリシラは痛む胸を手で押さえながら必死に足を進め、エミルが転倒した茂みを目指す。
エミルが先ほど転倒した際に、その足が不自然な動きを見せた気がした。
先ほど力なく垂れ下がった腕と同様に、膨張する筋肉と激しい運動量に幼い体が耐えきれなかったのだろう。
(このままじゃエミルの体が壊れちゃう!)
これ以上、エミルを戦わせてはいけない。
そう思ったプリシラは、エミルが飛び込んだ茂みの中に入ろうとして思わず足を止めた。
「そ、そんな……」
茂みの先はすぐに急斜面になっていて、その勾配の急さからエミルが転げ落ちてしまったのだと知り、プリシラは愕然とするのだった。
すると数百メートル先の山の尾根を、この谷間に向かってくる数人の人影が見えた。
その中には赤毛の女がいる。
それを見たオニユリは顔をしかめ、すぐさま兄のシジマに声をかけた。
「後方から新手ですわ。兄様。早々に退却いたしましょう」
妹の声にシジマは舌打ちをしてその場を離れていく。
すでに仲間が何人も失われているので、これ以上は作戦続行不可能だというチェルシーの判断は彼にも理解できた。
撤退の判断がやや遅れたことが悔やまれるが、それよりもシジマには副官として頭の痛い問題があった。
プリシラとエミルの捕獲作戦は、ジャイルズ王からの任務にない任務外の行動だ。
成功すれば望外の収穫となるが、完全に裏目に出てしまった。
ここから兵力を失った状態で本来の作戦に入らなければならない。
アリアドに駐留中の王国軍に今から新たな兵力の増強を頼むことも可能だが、そうなればチェルシーが任務外の動きを独断で行って兵を失ったことが露見してしまう。
チェルシーはジャイルズ王からその責任を問われるだろう。
(それも覚悟の上で、作戦遂行のために恥を忍んで兵力の増強を依頼すべき……なんだがな)
シジマは国内でチェルシーがどのような立場にあるのかはよく分かっていた。
国王から任命された将軍と言う立場。
そして腹違いとはいえ国王の妹という立場。
そうした地位にありながら決してチェルシーの立場は盤石ではない。
次兄であるウェズリー副将軍を初めとし、チェルシーの失脚を願う者たちは少なくないのだ。
むしろ王国内では味方と言える味方はいない四面楚歌の状況だった。
チェルシーは戦果を挙げ続けるしかない立場なのだ。
(賭けは負けたか。だがまだ挽回できる。チェルシー様の立場が強くなれば、我らココノエの民ももっと王国内で生きやすくなるはずだ)
シジマは主の躍進に一族の命運を託し、妹を先導して山道を駆けていくのだった。
☆☆☆☆☆☆
(エミル! 今行くからね!)
プリシラは岩橋を走りながら長剣を握り締める。
それはジャスティーナに借り受けたものだ。
ジャスティーナは敵の銃で頭を撃たれて谷底へ落ちてしまった。
それが最悪の結果を示すことだとプリシラとて分かっている。
ジュードには考えるなと言われたが、どうしても考えてしまう。
自分たちを守るために犠牲となったジャスティーナのことを。
この剣をジャスティーナに返すことは出来なくなってしまった。
受けた恩も。
だが……ここで自分たちが死んでしまえば、ジャスティーナが何のために命を張ったかも分からなくなってしまう。
プリシラは歯を食いしばった。
前方ではエミルとチェルシーが戦いを繰り広げている。
あのひ弱な弟がなぜそんなことが出来ているのかは分からない。
だが、それでもプリシラは姉として弟を救わなければならないのだ。
全ての迷いを振り払い、プリシラは弟の名を叫ぶ。
「エミル!」
プリシラは2人の戦いに割って入った。
そしてエミルと共にチェルシーに攻撃を仕掛けていく。
「くっ!」
チェルシーは手強い相手が2人に増えたことでより押されるようになった。
一方のプリシラは不思議な気持ちだった。
もちろん息を合わせることなど出来ないが、弟と共に戦場で戦っているという本来ならばあり得ない状況が自分でも信じられない。
だが、エミルは一切プリシラの方を見なかったが、それでもチェルシーのみを攻撃し、プリシラのことは敵視しなかった。
錯乱したように見えるエミルだが、誰が味方で誰が敵かは見誤っていない。
プリシラは今は弟のことを信じて戦うと決意した。
そしてジャスティーナの剣を鋭く振るう。
「チェルシー! よくもジャスティーナを……許せない!」
長剣のプリシラに対してチェルシーは短剣しか持っていない。
そしてエミルの攻撃も受ける状況なので、さすがに余裕がない。
「くうっ!」
プリシラは一気呵成に攻め立てる。
「あなたが辛い生き方をしてきたことには同情するわ! アタシのことはさぞかし恵まれたお姫様に見えることでしょうね!」
「そうよ! 違う? 生まれた時から今まで両親に愛され、何不自由なく暮らしてきたお姫様でしょ!」
そう叫びながらチェルシーは意地を見せ、短剣一本でも必死に応戦する。
対するプリシラは憤然と声を荒げた。
「そうだとしても……あなたのしていることは八つ当たりよ! チェルシー! 自分が不幸だったからといって、他人を妬んで同じように不幸にしてもいいわけじゃないわ!」
そう言うプリシラの顔は毅然としていた。
女王としての母の姿を見続けてきたプリシラの心には、簡単には折れない太い芯が一本通っている。
それをチェルシーも感じていた。
だが、チェルシーの胸に宿る暗い炎はかき消せないほどに燃え上がっている。
「綺麗事ね! 生きていくために他者を蹴落として、他者から奪わなければならない者もいるのよ! 陽の当たる道を歩いてきたあなたには分からないわ!」
「これ以上……誰も傷つけさせない! あなたをここで止める!」
プリシラはその身を苛む痛みも忘れて全力で剣を振るう。
先ほどまでチェルシーの後方にいた彼女の部下たちはすでにその場から姿を消していた。
谷間の向こう岸にいたオニユリともう1人の白髪の男も早々に撤退している。
今ここに残っているのはチェルシーただ1人だった。
(いける! このまま押し切ってチェルシーを捕らえる。彼女の身柄を押さえられれば王国を牽制できるはず……)
そう思ったその時だった。
並んで戦っているエミルの腕から唐突にパンッと乾いた音が聞こえたのだ。
思わず弟に目を向けたプリシラは息を飲む。
鉈を握っているエミルの右腕がダラリと力なく垂れ下がっていた。
そして痛々しいほど膨張したその腕の皮膚が裂けて血が滲み出していた。
「エ、エミル!」
思わず動揺の声を上げたその瞬間、プリシラが見せた隙をチェルシーは見逃さなかった。
「ハアッ!」
チェルシーの鋭い前蹴りがプリシラの胸を打つ。
プリシラはそれをまともに浴びて、後方へ大きく吹っ飛んだ。
「うぐっ!」
胸を強く蹴られたため肺が圧迫され、プリシラは呼吸に詰まって数秒の間、動けなくなった。
それを見たチェルシーはすぐに踵を返して飛ぶように走り出す。
その場から離脱するために躊躇はしなかった。
だがエミルもそれを追って走り出す。
「カハッ……コホッ……エ、エミル」
プリシラはエミルを呼び止めようとしたが、息が詰まってまともに声が出ない。
そうこうするうちにチェルシーは山道を公国側に向かって駆け下りていく。
それを追って走るエミルも山道を下ろうとした。
だが、その瞬間に今度はエミルの膝から下の力が抜け、その小さな体がグラリとよろめく。
そのままエミルは道を外れ、下り坂の脇にある茂みの中へと飛び込んでいった。
「エ、エミル……」
プリシラはようやく立ち上がるが、エミルは茂みの中から出てこない。
チェルシーはすでに尾根を駆け下りていったようで、その姿はとうに見えなくなっていた。
「エミル!」
プリシラは痛む胸を手で押さえながら必死に足を進め、エミルが転倒した茂みを目指す。
エミルが先ほど転倒した際に、その足が不自然な動きを見せた気がした。
先ほど力なく垂れ下がった腕と同様に、膨張する筋肉と激しい運動量に幼い体が耐えきれなかったのだろう。
(このままじゃエミルの体が壊れちゃう!)
これ以上、エミルを戦わせてはいけない。
そう思ったプリシラは、エミルが飛び込んだ茂みの中に入ろうとして思わず足を止めた。
「そ、そんな……」
茂みの先はすぐに急斜面になっていて、その勾配の急さからエミルが転げ落ちてしまったのだと知り、プリシラは愕然とするのだった。
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