蛮族女王の娘 第1部【公国編】

枕崎 純之助

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第88話 黒き誘惑

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「エミルッ!」
「ジャ……ジャスティーナ」

 エミルは自分の腕をつかんでくれるジャスティーナの力強さを感じていたが、そんな彼のほほに一滴の赤い血がれ落ちた。
 エミルはそれがジャスティーナの腕から流れ落ちる血だと気付いてハッとする。
 肩や腕からジャスティーナは出血しており、それが腕から手を伝ってエミルのほほへとしたたり落ちたのだ。
 彼女が傷だらけの状態で、それでも自分を助けるために動いてくれたことにエミルは感謝の涙があふれてくるのを感じた。
 そんなエミルの顔を見て、ジャスティーナは苦しげな表情ながらニッと笑う。

「エミル……両手で私の腕をつかめ。血ですべりそうなんだ」

 彼女の言う通り、エミルの腕をつかむ彼女の手はすでにおのれの血で赤くれていた。
 エミルはうなづき、必死に両手でジャスティーナの腕をつかむ。
 するとジャスティーナは力強く彼を引き上げてくれた。

 助けられたエミルは岩橋の上にへたり込む。
 今更いまさらながらに落下の恐怖で全身が震えていた。
 彼は大きく息をつきながらジャスティーナを見る。

「ありがとう。ジャス……」

 エミルのその声は銃声にかき消された。
 その瞬間、エミルの目の前でジャスティーナは体を大きくのけらせた。
 その頭から血が飛び散る。
 そしてジャスティーナは体の力を失ったようにガクッと前のめりになり、岩橋の上から……転落した。

「ジャ……ジャスティーナァァァァァァ!」

 すぐ後ろから悲痛な叫び声が聞こえる。
 それが姉であるプリシラのものかジュードのものかもエミルには分からなかった。
 エミルはあわてて岩橋の下をのぞく。
 力なく宙を落下するジャスティーナの体が、吸い込まれるようにして谷底を流れる川に落ち、大きな水しぶきを上げた。
 その瞬間……エミルは腹の底から得体の知れない恐怖と嫌悪感が込み上げてくるのを覚え、目の前が真っ暗になるのを感じるのだった。

 ☆☆☆☆☆☆

 プリシラは見た。
 岩橋から落下しようとしているエミルをジャスティーナが必死に助け上げ、その命を救ってくれたことを。
 プリシラは見た。
 そんなジャスティーナの体越しに、谷間の向こう岸で倒れていたオニユリがムクリと半身を起こし、怒りの形相ぎょうそうで銃を構えたのを。
 プリシラは見た。
 オニユリが銃を放つと同時にジャスティーナが頭から血を流して岩場から谷底へと転落していくのを。

「ジャスティーナァァァァ!」 

 プリシラは悲痛な叫び声を上げた。
 より足を速めようとしたが、そこで背後から追いかけて来ているチェルシーに追いつかれてしまい、背中を押されて地面に前のめりに倒れてしまった。

「ぐっ!」
「観念しなさい!」

 チェルシーはそのままプリシラの背中に体重をかけ、地面に押し付けるようにしてプリシラを押さえ込んだ。
 必死で抵抗するプリシラだが、チェルシーの力で押さえつけられて起き上がることが出来ない。

「くっ! 放して! ジャスティーナが!」
無駄むだよ。彼女はもう死んだわ。あなたが抵抗を選ばなければ死なずに済んだのにね。彼女の死はあなたの責任よ。あきらめなさい」
「ふざけないで!」

 怒りで力任せに起き上がろうとするプリシラだが、チェルシーは全体重を預けるようにしてのしかかる。
 これではプリシラも成すすべがなかった。
 そんな中、ジャスティーナが排除されたのを見て、橋の向こうから数人の白髪の男が岩橋を渡り始める。
 ジュードとエミルを捕らえるべく、彼らは近付いて来るのだった。

 ☆☆☆☆☆☆

 真っ暗なやみの中にエミルはいた。
 何も無い……深くて暗いやみの中だ。
 しかしエミルは1人ではなかった。
 
 呆然ぼうぜんと座り込むエミルを、背後からやさしく抱き包む女がいる。
 黒く長い髪の美しい女だった。
 女は静かに言う。

『水の中は……暗くて苦しいのよ』

 その言葉にエミルはハッとした。
 谷底へ落ちて、川面かわもしずんでいったジャスティーナの姿がまざまざと脳裏のうりよみがえる。

『僕のせいで……ジャスティーナが』

 そう言うとエミルは恐ろしさと悔しさで体をブルブルと震わせた。

『僕は……皆のために何も出来ない。僕が姉様みたいに戦えれば……』

 そう言うエミルの黒髪を女はやさしくでた。 

『かわいそうな坊や……悔しいのね』

 そう言うと黒い髪の女はエミルの耳元でささやく。

『ねえ……姉様のように戦えるようになりたい?』

 その言葉にエミルは静かにうなづいた。
 自分が姉と同じように戦えれば、この窮地きゅうちも脱することが出来たかもしれない。
 考えても仕方のないことを考えてしまう。
 そんなエミルに女は優しくささやいた。

『それなら少しだけ……力を貸してあげる』
『えっ?』

 おどろくエミルは思わず振り向いた。
 そんな彼に黒髪の女は目を細めて言う。

『目を閉じて……ワタクシに身をゆだねて』

 その言葉が呪文のようにエミルの頭の中に染み込んでいくにつれ、エミルの意識は混濁こんだくとした黒いうずの中に飲み込まれていくのだった。

☆☆☆☆☆☆

「オニユリ。無事か?」
「……ええ。頭に来ますわ。あの赤毛女」

 兄であるシジマに助け起こされたオニユリは、右肩の激痛に顔をしかめながらそう言った。
 赤毛の女戦士ジャスティーナが投げてきたのはまさかのたてだった。
 意表を突かれたオニユリはそれを避け損ね、右肩に直撃を受けたのだ。
 そのせいで右腕が動かせなくなっていた。

「右腕はしばらく動かせませんわね。忌々いまいましい」
「なかなかしぶとい女だった。よく仕留めたな。オニユリ」

 シジマは妹が傷付きながらも見事な射撃を見せ、ジャスティーナを排除したのを見た。
 ジャスティーナは頭を撃たれて、その衝撃で谷底へと落下していったのだ。
 シジマはがけっぷちに立つと、谷底を見下ろす。

「弾丸はあの赤毛女の頭をかすめただけでしたわ。情けないことに右肩の痛みで左手にまで影響が……」
「体の左右の均衡きんこうくずれれば、射撃に若干じゃっかんの狂いが生じるのは当然のことだ。気にするな。それでもここから落ちたら助からん。30メートルはあるからな」

 そう言うとシジマは振り返って再びオニユリに目を向ける。

「さて、邪魔者は消えたし、捕獲対象を捕らえるぞ。おまえは休んでいろオニユリ。後ほど治療せんとな」

 それからシジマは背後にひかえる部下に指示する。

「黒髪の2人を捕らえろ。あわてさせて2人が谷底に落ちぬようくれぐれも注意しろ」

 その言葉に部下たちはうやうやしく頭を下げ、エミルと黒髪の青年を捕らえるべく岩橋へと足を踏み入れていった。
 その後ろ姿を見つめ、オニユリは内心で歯噛はがみする。

(さすがにこの状況では坊やをあきらめるしかない……か。残念だわ。本当に口惜しい。あと少しだったのに)

 エミルがチェルシーの手に落ちれば、もう自分には手出しが出来ない。
 彼を手に入れたかったオニユリは、目を凝らして名残惜しそうにエミルの姿を見つめる。
 その黒髪をこの手でで、その愛らしい顔にほほを寄せたかった。
 そんなおのれの欲求に決別するように、オニユリは最後にその姿を目に焼き付けるべくエミルを凝視した。

(残念だわ。私のかわいい坊や……ん?)

 その時、オニユリは見た気がしたのだ。
 岩橋の上でへたり込んだままうつむいているエミルの口が、ニヤリと笑うのを。
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