37 / 105
第二章 クレイジー・パーティー・イン・ホスピタル
第20話 あふれ出る魔気の嵐
しおりを挟む
「何をしている……?」
氷上恭一は怪訝な表情を浮かべた。
甘太郎が手にした何かを口元に持っていったかと思うと、突如として背中を丸めて小刻みに震えながら悶え苦しみ始めたのだ。
「奴を……あの小僧をすぐに取り押さえろ!」
氷上は敵の妙な動きを警戒してすぐさま脳内から指令を発した。
すると彼の命令を受けた1級感染者である守衛の2人は、他の感染者らを掻き分けて移動を始め、すぐにキャットウォークの上へと足を踏み出した。
大勢の2級感染者らと異なり、思考能力を持つ彼らは氷上の細かい指令通り、器用に狭い足場を渡って恋華と甘太郎の元へ向かう。
その手にはギラリと光る刃物が握られていた。
それは先ほど看護士が持っていたようなメスではなく、刃渡り20センチほどのナイフだった。
甘太郎の体に変化がありありと表れ始めたのは、守衛の男らがキャットウォークを半分ほど渡り終えた頃だった。
「な、何だあれは……?」
甘太郎の奇怪な様子に氷上は目を見張った。
その視線の先では甘太郎の体中から重厚な黒い霧が吹き上がっていく。
それはあっと言う間に階段フロアに充満していき、氷上のような能力者の目には視界がうっすらと暗くなったように感じられた。
「こ、これは……魔気か」
氷上はその黒い霧の正体が魔気であることをすぐに感じ取り、その奇妙奇天烈な様子に彼は初めてたじろいだ。
氷上が驚きを禁じ得なかったのは何もその光景の異様さのせいばかりではない。
むせ返るほど濃厚なその魔気に、その場の空気全体が手足にまとわりつくように重苦しく感じられたためだ。
「あの小僧……何が起こっている?」
そうつぶやく氷上が一瞬の隙を見せたその時だった。
素早く空を切り裂いて飛来した何かが氷上の視界に端に映る。
「うぉっ!」
咄嗟に避けきれずに、それを己の額に浴びた氷上は思わず驚愕の声を上げた。
ひんやりとした感触が額と眉間に広がり、氷上は目をぎゅっとつぶる。
青色の液体が彼の額を染めた。
だが、それは一瞬で蒸発して消える。
そしてほとばしる電気信号のようなわずかな刺激と違和感が頭の中に入って来ようとしているのを感じながら、氷上はわずかに意識のスイッチを変換させた。
そして氷上は静かに目を開けた。
その目は確信に満ちた悪しき光を宿して輝いていた。
彼の視線の先では恋華が一本の折りたたみ傘を手に、その先端を氷上の方へ向けていた。
先ほど自分の額を打った奇妙な液体がそこから射出されたことを知り、氷上はニヤリとする。
「これがあの女の力か。だが……無駄なことだ!」
恋華の修正プログラムは彼の中に浸透することなく、ある防御プログラムによって逆流することとなった。
その結果が、激しい頭の痛みに苛まれて苦しむ恋華の姿だった。
氷上は己の策が功を奏したことに満足げな笑みを浮かべる。
彼は彼のボスからあらかじめ聞いていた恋華の能力に対する対抗策を己の身に講じていた。
恋華がブレイン・クラッキングを修正するために打ちこんでくるプログラムに、ノイズを含ませて跳ね返すアンチプログラムをあらかじめ自分の脳に施していたのだ。
これによって跳ね返されたノイズ入りのプログラムが、恋華の脳に強いダメージを与えている。
彼女を苛む激しい頭痛はそのせいだった。
「愚かな。何の用意も無くこの場に来るような無策を私が冒すと思うか? いかにカントルムのエージェントとは言え、しょせんはまだ経験の浅い小娘だな」
そうした氷上の嘲りも、恋華の耳には届かない。
彼女は頭を抱えたまま、痛みに耐えることしか出来ずにいた。
そして恋華を守るはずの甘太郎は、彼女の隣で体から黒い霧を噴出し続けながら、まるで立ったまま死んでいるかのようにピクリとも動かない。
虚空を見つめるその目からは何も映っていないかのように光が失われていた。
「妙な小僧だが、能力に欠陥があるようだな」
そう言うと氷上は視線を巡らせる。
守衛の男らはいよいよキャットウォークを渡り終え、甘太郎らが立つ狭い足場に到達していた。
もう数歩進めば恋華と甘太郎に手が届く距離だった。
「よし。女を捕まえてここまで連れて来い。小僧は心臓をひと刺しにしてやれ!」
氷上は嗜虐に満ちた表情を浮かべて、傀儡となった守衛の2人に命じる。
主の求めに応じて、守衛の1人が手にしたナイフを甘太郎の胸目がけて突き上げた。
その様子を見つめる氷上の目に、邪魔者を排除する爽快感を伴った嗜虐的な光が浮かぶ。
だが、それはたちまちのうちにかき消えた。
「な……何だと?」
甘太郎を刺殺する寸前で守衛の男の姿が一瞬のうちに消えてしまったのだ。
まるで蒸発でもしてしまったかのように。
唐突なその消失の様子に、息を飲んで言葉を失う氷上の目の前で、さらなる驚愕の事態が展開された。
消えた守衛のすぐ後ろを進んでいたもう1人の守衛がやはり同じように姿を消したのだ。
「ど、どういうことだ……」
信じ難い光景に氷上は幾度も目をしばたかせた。
1級感染者を制御するのは氷上にとっても骨の折れる作業で、たった2体とは言え、その一挙手一投足を操るのに彼は最大限の労力を要していた。
だが、その2体がまるで煙のように消えてしまった。
氷上は内心の動揺を押し殺し、唇を噛んで視線先の甘太郎の姿を見つめた。
「まさか……奴の仕業か」
甘太郎は先ほどのまま、彫像のように身じろぎひとつしない。
そしてその体からは相変わらず濛々と黒煙が噴出し続けている。
「これも奴の能力だというのか」
氷上が吐き捨てるようにそう言うと、その悪態に呼応するかのように状況はさらなる変化を遂げる。
階段フロアの床の一部が真っ黒な湖面のようにその姿を変貌させ、その場にいた感染者ら数名がまるで沼に飲み込まれるかのように床の中へ沈み込んでいく。
それだけに留まらず、床の上の黒い水面は徐々にその範囲を広げていき、次々と感染者を吸い込んでは消していく。
その様子を目の当たりにして、氷上は戦慄を覚えた。
「あの小僧……何ということだ」
氷上は懐に忍ばせたナイフを握りしめると、キャットウォークへと駆け出した。
避難のためではない。
自らナイフで甘太郎の息の根を止め、事態の収拾を図るためだった。
だが、先ほど甘太郎に近づいた守衛の二人が即座に消された光景が脳裏をよぎり、氷上の足が止まる。
(……近づけば私もあのようになるのか?)
逡巡しながら眉根を寄せて氷上が立ち尽くしている間にも、黒い湖面は勢力を拡大し、感染者らは成す術も無く、闇の底へと沈み落ちていく。
「……どうやら私の誤算だったようだな」
氷上は苦虫を噛み潰したような顔で、呻くようにそう呟いた。
万全を期して自分が用意した策が予想外の現象によって覆されてしまった。
氷上はそのことに苛立ちを隠ずに怒りの形相を見せる。
密閉された空間で極限まで魔気濃度を下げれば甘太郎は能力を失うはずであり、実際にそうなった。
だが今、この場の魔気濃度は通常では考えられないほど上昇している。
それが甘太郎の体から排出される黒煙によるものであろうことは氷上にも察しがついた。
「まさか自分の体からあれほどの量の魔気を生み出すとは……」
不足した魔気によって能力を封じられたはずの甘太郎は、自らの力で魔気を補充してみせたのだ。
だが氷上の誤算はそれだけではない。
氷上は恋華と甘太郎がこの病院に潜入してからの一連の行動を監視してきた。
彼らは感染者らを要救助者と見なし、極力傷つけないように配慮を行っていた。
これは氷上にとって有利なことであり、いざとなれば感染者らの命を盾に、恋華の身柄を拘束することも可能だった。
だが、そのための前提はもろくも崩れ去った。
甘太郎が発生させたと思われる黒い水面は、容赦なく感染者らを飲み込んでいく。
そこには感染者らへの気遣いなど微塵もない。
氷上はキャットウォークへ向かう足を反対方向へと向け直して呟いた。
「どうやら計画の練り直しが必要なようだな」
氷上はポケットに入れた防火扉の鍵を握りしめると、踵を返して上階へと足を向ける。
その時だった。
『 逃 が さ ん 』
地獄の底から聞こえてくるかのようなその声に氷上は思わず立ち止まった。
「……何だ?」
彼は自分の足元を即座に見下ろすが、そこには従来通りの床があるだけである。
階段フロアに広がり続ける闇の水面はまだ自分の足元までは到達していない。
安堵の息をつこうとしたその時、何者かが自分の左手を掴むのを感じ、氷上は全身の毛がゾワッと逆立つのを覚えた。
そして恐る恐る視線を左手に落とし、仰天して声にならない悲鳴を必死に飲み込んだ。
「こ、これはっ……」
氷上は信じられないといった顔をした。
それもそのはずで、彼のすぐ真横の壁に真っ黒な穴が開いていて、そこから漆黒の人影が姿を現したのだ。
その姿形は甘太郎そのものだったが、それはまるで影のように肌も衣服も漆黒の色に包まれている。
そしてその人影は上半身を壁から突き出し、腰から下は壁の中といった格好で氷上の左手首をしっかりと掴んでいる。
氷上はあまりの驚きに声すら出せず、慌てて背後を振り返り、甘太郎がいるはずの場所を目で確認した。
だが、甘太郎が立っていた足場には頭痛に悶え苦しむ恋華の姿があるだけだった。
先ほどまでいたはずの甘太郎はどこにもいない。
(ま、まさかこの黒いバケモノがあの小僧だというのか!)
そうした内心の叫びが胸の内に渦巻き、氷上は言い知れぬ恐怖に精神を支配されて思わず声を荒げた。
「は、放せっ!」
必死に振りほどこうとするも、自分の手を掴むその人影の力は抗いようが無いほど強い。
逆に人影は氷上の手を引っ張り、壁に開いた闇穴の中に引きずり込もうとする。
氷上は必死に抵抗を試みるも、手首から肘、肘から肩と、次第に彼の体は闇の中へ引っ張り込まれていく。
「や、やめろ! バケモノめ! 放せ! う、うわああああ!」
あっと言う間に氷上の全身が壁の中に埋もれていき、彼の視界は何も見えない漆黒の闇に包まれていった。
氷上恭一は怪訝な表情を浮かべた。
甘太郎が手にした何かを口元に持っていったかと思うと、突如として背中を丸めて小刻みに震えながら悶え苦しみ始めたのだ。
「奴を……あの小僧をすぐに取り押さえろ!」
氷上は敵の妙な動きを警戒してすぐさま脳内から指令を発した。
すると彼の命令を受けた1級感染者である守衛の2人は、他の感染者らを掻き分けて移動を始め、すぐにキャットウォークの上へと足を踏み出した。
大勢の2級感染者らと異なり、思考能力を持つ彼らは氷上の細かい指令通り、器用に狭い足場を渡って恋華と甘太郎の元へ向かう。
その手にはギラリと光る刃物が握られていた。
それは先ほど看護士が持っていたようなメスではなく、刃渡り20センチほどのナイフだった。
甘太郎の体に変化がありありと表れ始めたのは、守衛の男らがキャットウォークを半分ほど渡り終えた頃だった。
「な、何だあれは……?」
甘太郎の奇怪な様子に氷上は目を見張った。
その視線の先では甘太郎の体中から重厚な黒い霧が吹き上がっていく。
それはあっと言う間に階段フロアに充満していき、氷上のような能力者の目には視界がうっすらと暗くなったように感じられた。
「こ、これは……魔気か」
氷上はその黒い霧の正体が魔気であることをすぐに感じ取り、その奇妙奇天烈な様子に彼は初めてたじろいだ。
氷上が驚きを禁じ得なかったのは何もその光景の異様さのせいばかりではない。
むせ返るほど濃厚なその魔気に、その場の空気全体が手足にまとわりつくように重苦しく感じられたためだ。
「あの小僧……何が起こっている?」
そうつぶやく氷上が一瞬の隙を見せたその時だった。
素早く空を切り裂いて飛来した何かが氷上の視界に端に映る。
「うぉっ!」
咄嗟に避けきれずに、それを己の額に浴びた氷上は思わず驚愕の声を上げた。
ひんやりとした感触が額と眉間に広がり、氷上は目をぎゅっとつぶる。
青色の液体が彼の額を染めた。
だが、それは一瞬で蒸発して消える。
そしてほとばしる電気信号のようなわずかな刺激と違和感が頭の中に入って来ようとしているのを感じながら、氷上はわずかに意識のスイッチを変換させた。
そして氷上は静かに目を開けた。
その目は確信に満ちた悪しき光を宿して輝いていた。
彼の視線の先では恋華が一本の折りたたみ傘を手に、その先端を氷上の方へ向けていた。
先ほど自分の額を打った奇妙な液体がそこから射出されたことを知り、氷上はニヤリとする。
「これがあの女の力か。だが……無駄なことだ!」
恋華の修正プログラムは彼の中に浸透することなく、ある防御プログラムによって逆流することとなった。
その結果が、激しい頭の痛みに苛まれて苦しむ恋華の姿だった。
氷上は己の策が功を奏したことに満足げな笑みを浮かべる。
彼は彼のボスからあらかじめ聞いていた恋華の能力に対する対抗策を己の身に講じていた。
恋華がブレイン・クラッキングを修正するために打ちこんでくるプログラムに、ノイズを含ませて跳ね返すアンチプログラムをあらかじめ自分の脳に施していたのだ。
これによって跳ね返されたノイズ入りのプログラムが、恋華の脳に強いダメージを与えている。
彼女を苛む激しい頭痛はそのせいだった。
「愚かな。何の用意も無くこの場に来るような無策を私が冒すと思うか? いかにカントルムのエージェントとは言え、しょせんはまだ経験の浅い小娘だな」
そうした氷上の嘲りも、恋華の耳には届かない。
彼女は頭を抱えたまま、痛みに耐えることしか出来ずにいた。
そして恋華を守るはずの甘太郎は、彼女の隣で体から黒い霧を噴出し続けながら、まるで立ったまま死んでいるかのようにピクリとも動かない。
虚空を見つめるその目からは何も映っていないかのように光が失われていた。
「妙な小僧だが、能力に欠陥があるようだな」
そう言うと氷上は視線を巡らせる。
守衛の男らはいよいよキャットウォークを渡り終え、甘太郎らが立つ狭い足場に到達していた。
もう数歩進めば恋華と甘太郎に手が届く距離だった。
「よし。女を捕まえてここまで連れて来い。小僧は心臓をひと刺しにしてやれ!」
氷上は嗜虐に満ちた表情を浮かべて、傀儡となった守衛の2人に命じる。
主の求めに応じて、守衛の1人が手にしたナイフを甘太郎の胸目がけて突き上げた。
その様子を見つめる氷上の目に、邪魔者を排除する爽快感を伴った嗜虐的な光が浮かぶ。
だが、それはたちまちのうちにかき消えた。
「な……何だと?」
甘太郎を刺殺する寸前で守衛の男の姿が一瞬のうちに消えてしまったのだ。
まるで蒸発でもしてしまったかのように。
唐突なその消失の様子に、息を飲んで言葉を失う氷上の目の前で、さらなる驚愕の事態が展開された。
消えた守衛のすぐ後ろを進んでいたもう1人の守衛がやはり同じように姿を消したのだ。
「ど、どういうことだ……」
信じ難い光景に氷上は幾度も目をしばたかせた。
1級感染者を制御するのは氷上にとっても骨の折れる作業で、たった2体とは言え、その一挙手一投足を操るのに彼は最大限の労力を要していた。
だが、その2体がまるで煙のように消えてしまった。
氷上は内心の動揺を押し殺し、唇を噛んで視線先の甘太郎の姿を見つめた。
「まさか……奴の仕業か」
甘太郎は先ほどのまま、彫像のように身じろぎひとつしない。
そしてその体からは相変わらず濛々と黒煙が噴出し続けている。
「これも奴の能力だというのか」
氷上が吐き捨てるようにそう言うと、その悪態に呼応するかのように状況はさらなる変化を遂げる。
階段フロアの床の一部が真っ黒な湖面のようにその姿を変貌させ、その場にいた感染者ら数名がまるで沼に飲み込まれるかのように床の中へ沈み込んでいく。
それだけに留まらず、床の上の黒い水面は徐々にその範囲を広げていき、次々と感染者を吸い込んでは消していく。
その様子を目の当たりにして、氷上は戦慄を覚えた。
「あの小僧……何ということだ」
氷上は懐に忍ばせたナイフを握りしめると、キャットウォークへと駆け出した。
避難のためではない。
自らナイフで甘太郎の息の根を止め、事態の収拾を図るためだった。
だが、先ほど甘太郎に近づいた守衛の二人が即座に消された光景が脳裏をよぎり、氷上の足が止まる。
(……近づけば私もあのようになるのか?)
逡巡しながら眉根を寄せて氷上が立ち尽くしている間にも、黒い湖面は勢力を拡大し、感染者らは成す術も無く、闇の底へと沈み落ちていく。
「……どうやら私の誤算だったようだな」
氷上は苦虫を噛み潰したような顔で、呻くようにそう呟いた。
万全を期して自分が用意した策が予想外の現象によって覆されてしまった。
氷上はそのことに苛立ちを隠ずに怒りの形相を見せる。
密閉された空間で極限まで魔気濃度を下げれば甘太郎は能力を失うはずであり、実際にそうなった。
だが今、この場の魔気濃度は通常では考えられないほど上昇している。
それが甘太郎の体から排出される黒煙によるものであろうことは氷上にも察しがついた。
「まさか自分の体からあれほどの量の魔気を生み出すとは……」
不足した魔気によって能力を封じられたはずの甘太郎は、自らの力で魔気を補充してみせたのだ。
だが氷上の誤算はそれだけではない。
氷上は恋華と甘太郎がこの病院に潜入してからの一連の行動を監視してきた。
彼らは感染者らを要救助者と見なし、極力傷つけないように配慮を行っていた。
これは氷上にとって有利なことであり、いざとなれば感染者らの命を盾に、恋華の身柄を拘束することも可能だった。
だが、そのための前提はもろくも崩れ去った。
甘太郎が発生させたと思われる黒い水面は、容赦なく感染者らを飲み込んでいく。
そこには感染者らへの気遣いなど微塵もない。
氷上はキャットウォークへ向かう足を反対方向へと向け直して呟いた。
「どうやら計画の練り直しが必要なようだな」
氷上はポケットに入れた防火扉の鍵を握りしめると、踵を返して上階へと足を向ける。
その時だった。
『 逃 が さ ん 』
地獄の底から聞こえてくるかのようなその声に氷上は思わず立ち止まった。
「……何だ?」
彼は自分の足元を即座に見下ろすが、そこには従来通りの床があるだけである。
階段フロアに広がり続ける闇の水面はまだ自分の足元までは到達していない。
安堵の息をつこうとしたその時、何者かが自分の左手を掴むのを感じ、氷上は全身の毛がゾワッと逆立つのを覚えた。
そして恐る恐る視線を左手に落とし、仰天して声にならない悲鳴を必死に飲み込んだ。
「こ、これはっ……」
氷上は信じられないといった顔をした。
それもそのはずで、彼のすぐ真横の壁に真っ黒な穴が開いていて、そこから漆黒の人影が姿を現したのだ。
その姿形は甘太郎そのものだったが、それはまるで影のように肌も衣服も漆黒の色に包まれている。
そしてその人影は上半身を壁から突き出し、腰から下は壁の中といった格好で氷上の左手首をしっかりと掴んでいる。
氷上はあまりの驚きに声すら出せず、慌てて背後を振り返り、甘太郎がいるはずの場所を目で確認した。
だが、甘太郎が立っていた足場には頭痛に悶え苦しむ恋華の姿があるだけだった。
先ほどまでいたはずの甘太郎はどこにもいない。
(ま、まさかこの黒いバケモノがあの小僧だというのか!)
そうした内心の叫びが胸の内に渦巻き、氷上は言い知れぬ恐怖に精神を支配されて思わず声を荒げた。
「は、放せっ!」
必死に振りほどこうとするも、自分の手を掴むその人影の力は抗いようが無いほど強い。
逆に人影は氷上の手を引っ張り、壁に開いた闇穴の中に引きずり込もうとする。
氷上は必死に抵抗を試みるも、手首から肘、肘から肩と、次第に彼の体は闇の中へ引っ張り込まれていく。
「や、やめろ! バケモノめ! 放せ! う、うわああああ!」
あっと言う間に氷上の全身が壁の中に埋もれていき、彼の視界は何も見えない漆黒の闇に包まれていった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
悪女と名高い聖女には従者の生首が良く似合う
千秋梓
ファンタジー
これは歴史上で一番血の似合う聖女が不死身の従者と共にいくつもの国を巡る話。
社交界の悪女と呼ばれる公爵家次女、クリスティーナ・レディング。
悪い噂が付き纏うということ以外は至って普通の令嬢であった彼女の日常は、ある日を境に一変。
『普通』であった彼女は『規格外』となる。
負傷した騎士へ近づいたクリスティーナは相手の傷を瞬時に癒してしまったのだ。
この世界で回復魔法を使えるのは『聖女』と呼ばれるただ一人の存在のみ。
聖女の力に目覚めたクリスティーナの日常はこの日を境に失われた。
――ところで、どうして私は従者の生首を抱えて走っているのかしら。
レベルってなんですか?
Nombre
ファンタジー
大学の入学式にバイクで向かう途中、主人公は事故によって命を落とす。
目が覚めるとそこは異世界だった!?
そして指には謎の指輪が……
この世界で一人だけレベルがない主人公は指輪の力を使ってなんとか生き抜いていく!
しかし、主人公に降りかかる数々の理不尽な現実。
その裏に隠された大きな陰謀。
謎の指輪の正体とは!そして主人公は旅の果てに何を求めるのか!
完全一人称で送る、超リアル志向の異世界ファンタジーをどうぞお楽しみください。
㊟この小説は三人称ではなく、一人称視点で想像しながら是非お楽しみください。
毎週日曜投稿予定
「小説家になろう」「ノベルアップ+」「カクヨム」でも投稿中!
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
勇者召喚に巻き込まれ、異世界転移・貰えたスキルも鑑定だけ・・・・だけど、何かあるはず!
よっしぃ
ファンタジー
9月11日、12日、ファンタジー部門2位達成中です!
僕はもうすぐ25歳になる常山 順平 24歳。
つねやま じゅんぺいと読む。
何処にでもいる普通のサラリーマン。
仕事帰りの電車で、吊革に捕まりうつらうつらしていると・・・・
突然気分が悪くなり、倒れそうになる。
周りを見ると、周りの人々もどんどん倒れている。明らかな異常事態。
何が起こったか分からないまま、気を失う。
気が付けば電車ではなく、どこかの建物。
周りにも人が倒れている。
僕と同じようなリーマンから、数人の女子高生や男子学生、仕事帰りの若い女性や、定年近いおっさんとか。
気が付けば誰かがしゃべってる。
どうやらよくある勇者召喚とやらが行われ、たまたま僕は異世界転移に巻き込まれたようだ。
そして・・・・帰るには、魔王を倒してもらう必要がある・・・・と。
想定外の人数がやって来たらしく、渡すギフト・・・・スキルらしいけど、それも数が限られていて、勇者として召喚した人以外、つまり巻き込まれて転移したその他大勢は、1人1つのギフト?スキルを。あとは支度金と装備一式を渡されるらしい。
どうしても無理な人は、戻ってきたら面倒を見ると。
一方的だが、日本に戻るには、勇者が魔王を倒すしかなく、それを待つのもよし、自ら勇者に協力するもよし・・・・
ですが、ここで問題が。
スキルやギフトにはそれぞれランク、格、強さがバラバラで・・・・
より良いスキルは早い者勝ち。
我も我もと群がる人々。
そんな中突き飛ばされて倒れる1人の女性が。
僕はその女性を助け・・・同じように突き飛ばされ、またもや気を失う。
気が付けば2人だけになっていて・・・・
スキルも2つしか残っていない。
一つは鑑定。
もう一つは家事全般。
両方とも微妙だ・・・・
彼女の名は才村 友郁
さいむら ゆか。 23歳。
今年社会人になりたて。
取り残された2人が、すったもんだで生き残り、最終的には成り上がるお話。
辺境伯家ののんびり発明家 ~異世界でマイペースに魔道具開発を楽しむ日々~
雪月 夜狐
ファンタジー
壮年まで生きた前世の記憶を持ちながら、気がつくと辺境伯家の三男坊として5歳の姿で異世界に転生していたエルヴィン。彼はもともと物作りが大好きな性格で、前世の知識とこの世界の魔道具技術を組み合わせて、次々とユニークな発明を生み出していく。
辺境の地で、家族や使用人たちに役立つ便利な道具や、妹のための可愛いおもちゃ、さらには人々の生活を豊かにする新しい魔道具を作り上げていくエルヴィン。やがてその才能は周囲の人々にも認められ、彼は王都や商会での取引を通じて新しい人々と出会い、仲間とともに成長していく。
しかし、彼の心にはただの「発明家」以上の夢があった。この世界で、誰も見たことがないような道具を作り、貴族としての責任を果たしながら、人々に笑顔と便利さを届けたい——そんな野望が、彼を新たな冒険へと誘う。
他作品の詳細はこちら:
『転生特典:錬金術師スキルを習得しました!』
【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/906915890】
『テイマーのんびり生活!スライムと始めるVRMMOスローライフ』 【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/515916186】
『ゆるり冒険VR日和 ~のんびり異世界と現実のあいだで~』
【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/166917524】
はじまりは初恋の終わりから~
秋吉美寿
ファンタジー
主人公イリューリアは、十二歳の誕生日に大好きだった初恋の人に「わたしに近づくな!おまえなんか、大嫌いだ!」と心無い事を言われ、すっかり自分に自信を無くしてしまう。
心に深い傷を負ったイリューリアはそれ以来、王子の顔もまともに見れなくなってしまった。
生まれながらに王家と公爵家のあいだ、内々に交わされていた婚約もその後のイリューリアの王子に怯える様子に心を痛めた王や公爵は、正式な婚約発表がなされる前に婚約をなかった事とした。
三年後、イリューリアは、見違えるほどに美しく成長し、本人の目立ちたくないという意思とは裏腹に、たちまち社交界の花として名を馳せてしまう。
そして、自分を振ったはずの王子や王弟の将軍がイリューリアを取りあい、イリューリアは戸惑いを隠せない。
「王子殿下は私の事が嫌いな筈なのに…」
「王弟殿下も、私のような冴えない娘にどうして?」
三年もの間、あらゆる努力で自分を磨いてきたにも関わらず自信を持てないイリューリアは自分の想いにすら自信をもてなくて…。
元聖女だった少女は我が道を往く
春の小径
ファンタジー
突然入ってきた王子や取り巻きたちに聖室を荒らされた。
彼らは先代聖女様の棺を蹴り倒し、聖石まで蹴り倒した。
「聖女は必要がない」と言われた新たな聖女になるはずだったわたし。
その言葉は取り返しのつかない事態を招く。
でも、もうわたしには関係ない。
だって神に見捨てられたこの世界に聖女は二度と現れない。
わたしが聖女となることもない。
─── それは誓約だったから
☆これは聖女物ではありません
☆他社でも公開はじめました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる