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第二幕 神凪 響詩郎
神凪 響詩郎の事情(後編・下の巻)
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「がっ!」
狼男の爪が響詩郎の首に振り下ろされた。
だが、響き渡ったのは響詩郎の声ではなく、彼を今まさに殺そうとしていた狼男の声だった。
すると響詩郎を掴んでいた狼男の手の力が抜け、幼い彼の体は床にドサリと崩れ落ちた。
「うっ……」
響詩郎は硬い床に両膝と両肘を打ちつけて苦痛の声を漏らしながら顔を上げた。
すると響詩郎にとどめを刺そうとしていた狼男の右腕が、黄金色に輝く毛の束に絡み付かれて動けなくなっているのが見えた。
「あ、あれは……」
響詩郎がその毛を見紛うはずはなかった。
物心ついたときからずっと身近に見てきた美しい金色の毛を。
「桃先生!」
響詩郎は叫び声を上げて頭上を見上げる。
狼男の腕に巻き付いた毛は頭上から垂れ下がっていた。
その場にいた数十人の妖魔ら全員が驚愕して天井を見上げる。
するとそこには金色に輝く髪と三又に分かれた長い尾を持つ美しい女が、重力をまるで無視して天井に足を着けて立っていた。
「ちょ、趙香桃!」
妖魔の一人が驚きの声を上げた。
そう。
彼女こそが東京一帯を仕切る妖魔の頭目にして響詩郎の身請け人たる黄金の妖狐・趙香桃だった。
「うちの坊主をかわいがってくれたのかい? 薄汚いゴミどもが」
そう言う香桃の顔には薄笑みが浮かんでいるものの、その視線には鋭い殺気が込められていた。
狼男の腕に巻き付いている毛は香桃の三又の尾の内の一本であり、彼女が力を入れた途端、その毛が巻き上がった。
すると狼男の腕が急激に上方に引っ張られ、そのショックでバキリと音をたててへし折れた。
「うっぎゃああああ!」
狼男は悲鳴を上げて必死に腕から毛を引きはがそうとしたが、ついには香桃の尾は狼男を体ごと吊り上げてしまう。
すると香桃は尾で勢いをつけて狼男の体を振り回し、そのままの勢いで壁に叩きつけた。
「ぐげっ!」
狼男は全身を石壁に強打し、口から血反吐を吐きながら床に崩れ落ちて動かなくなった。
一瞬にしてその場がシーンと静まり返る。
妖魔たちは仲間があっさりとやられたのを見て、呆気にとられていた。
その隙を見た香桃は天井を蹴って落下し、響詩郎のすく傍に着地した。
響詩郎はどんな顔で彼女を見ればいいのか分からずに、呆然と彼女を見上げる。
「あ……も、桃先生。ぼ、僕……」
香桃は何も言わずに響詩郎の腕の傷口に一枚の白い札を貼りつけた。
途端にその白い札は彼の腕に巻きついて包帯となり、止血の役割を果たした。
そして香桃は響詩郎が何かを言う間もなく、彼の体をヒョイと抱きかかえる。
香桃の温かな体に触れて、嗅ぎなれた彼女の香りに包まれると幼い響詩郎は心からの安堵を覚えて涙を流した。
「う、うぐっ……桃先生」
「ここに入ってな」
そう言うと香桃は響詩郎を縦長タイプのロッカーに押し込める。
響詩郎はふいに一人にされてしまう不安から彼女に追いすがろうとした。
「桃先生!」
「私が合図するまで絶対に出てきちゃダメだ。今度は私の言いつけを守れるね」
香桃はそう言うと黄金色の瞳をじっと響詩郎に向けた。
自分から家を飛び出してきたというのに、今は一時でも彼女から離れたくないと思ってしまう響詩郎だったが、彼女の言いつけを破って勝手に家を出てきてしまった自戒の念から、黙って頷くほかなかった。
そんな彼を見て目を細めると、香桃はパタリとロッカーの扉を閉じた。
途端に暗闇が訪れ、ほんの小さな扉の隙間からわずかに光が漏れ出るばかりの静寂の世界で、響詩郎は一人膝を抱えた。
それはまるで親鳥の帰りを巣の中でじっと待つ雛鳥のようであった。
(桃先生……)
だが、静寂はすぐに打ち破られた。
ロッカーの外の世界に喧騒と怒号、そして悲鳴が渦巻いた。
それは果たして10分間のことだったのか、それとも1時間のことだったのか響詩郎には定かではなかった。
自分ではどうすることも出来ない出来事が、扉一枚隔てた向こう側で繰り広げられている。
そのことがただ怖くてたまらなかったのだ。
恐ろしくて震えながらその場にうずくまっていると、やがて外から香桃の声がかけられた。
「響詩郎。もう出てきていいよ」
その声を聞いて恐る恐る扉を開けた響詩郎の視界にいつもの薄笑みを浮かべた香桃の姿が飛び込んできた。
彼女の満面の笑みというのを見たことはなかったが、うっすらと目を細めるその笑い方が響詩郎は好きだった。
彼女はロッカーの前に座り込んでいる。
だが、その肩越しに見える光景に響詩郎は息を飲んだ。
そこには地獄絵図と呼んでも大げさではないほどの、惨憺たる光景が広がっていた。
倒れて動かなくなった多くの妖魔の死体が転がり、床や壁や天井まで鮮血がこびりついている。
「ひっ!」
悲鳴を上げそうになる響詩郎の口をそっと押さえ、香桃は彼に顔を近づけた。
「そっちは見なくていい。私のことだけ見てな」
響詩郎は口をつぐんで頷き、言われた通りに香桃の顔だけを見つめる。
そんな彼に彼女は穏やかな口調で語りかけた。
「さて。響詩郎。私の言いつけを破って外に出たね。何か言うことがあるだろう?」
そう言われると響詩郎はビクッと首をすくめた。
「……ご、ごめんなさい。ぼ、僕……」
「言わなくていいよ。理由は分かってる。しかし馬鹿だね。おまえの両親がいるのは魔界だよ。どんなにほっつき歩いても簡単には行けない場所なんだ」
「はい……」
「それより分かってるね? 言いつけを破った子には罰が与えられるんだよ」
そう言うと香桃は響詩郎の頬を平手でピシャリと打った。
「あうっ!」
彼が悪さをすると香桃はこれまでもこうして容赦なく平手打ちを浴びせてきた。
だが、頬を伝わる痛みがあまりにもいつも通りで、響詩郎はその安堵感から再び涙を流した。
そんな彼の小さな肩を香桃はそっと抱きしめた。
「寂しい思いをさせたね。すまなかった」
「も、桃先生……?」
戸惑う響詩郎をじっと見つめ、香桃は決意の表情で話を続けた。
「私は間違っていたようだ。もう遠慮するのはやめるよ」
「え?」
「今日からあんたが15歳になるまでの間、私はあんたの母親になるよ」
香桃の言葉に響詩郎は驚いて大きく両目を見開いた。
そんな彼の頭を香桃はそっと撫でてやった。
「だからあんたも私に遠慮なんかしなくていい。あんたは私の息子だよ」
そう言うと香桃は再び彼の体をギュッと抱きしめた。
柔らかな温もりに包まれて響詩郎は心からの安心感を覚えた。
だが、同時に彼は気付いてしまった。
「も、桃先生? 桃先生! ケガしてるの?」
香桃は深手を負っていた。
三又の尾のうちの一本がちぎれていたのだ。
出血を止めるための護符がすでに巻かれていたが、響詩郎はひどいショックを受けた。
自分を守るために妖魔たちとの戦いで香桃は取り返しのつかない負傷をしてしまったのだ。
「そ、そんな。桃先生のしっぽが……僕のせいで」
愕然とする響詩郎に香桃は肩をすくめて首を横に振る。
そして彼女は今まで響詩郎に隠していたことを告げようと決意して口を開いた。
「そりゃ違うよ。元々あいつらは私の抗争相手だった」
「こうそう……あいて?」
「そうだな。分かりやすく言うと元々私とは敵なんだ。響詩郎は知らなかったろうが、あんたが家で留守番している間、私はああいう奴らとケンカばっかりしてた。だから遅かれ早かれいつか大ケガをしたかもしれない。それが今日だったってだけさ。でも今日はツイてた」
「ツイてた? 何で? ケガしちゃったのに!」
涙声でそう言う響詩郎だったが、香桃はニッと微笑む。
負傷していることを欠片も感じさせない悠然たる態度を漂わせて。
「ああ。確かにしっぽ一本失った。だが、もし仮にあんたを人質にとられていたら、しっぽ一本じゃ済まなかったろうさ。そうなる前に間に合って良かったんだ」
「で、でも……」
「命があるだけマシさ。この結果はラッキーだった。あんたが気に病むことじゃない」
そう言うと香桃は響詩郎をギュッと抱きすくめた。
それ以上、彼に言葉を重ねさせないように、自分の胸に彼の小さな頭を包み込むようにして。
響詩郎は彼女の胸の中で、震えながら嗚咽を漏らした。
「うぅ……うぅぅ。桃先生。ごめんなさい」
「もういいさ。反省は十分にしたろう」
香桃は彼の背中をそっとさすろうとして手をあてがう。
だが、そこで彼女はふいに手を止めた。
(……何だ?)
瞬きをする間に突如として響詩郎の背中から奇妙なものが出現したのだ。
香桃は即座にそれが憑物と呼ばれる霊体であることを理解した。
それは黒衣を羽織り、珍妙な灰色の仮面を被った異形の化け物だった。
何か危害を加えられるかと思い、香桃は体を緊張させて息を止める。
だが、その異形の化け物が響詩郎と自分との間に溶け込むようにして佇むと、予想しなかった現象が香桃の身に起きた。
香桃の痛む尾の傷口がじんわりと温かくなり、痛みが消えていく。
それだけではなく傷口が塞がっていくような感覚すら覚えていた。
そして戦いによって消耗していた香桃の体力が徐々に回復していき、疲労が癒されていく。
さすがに欠損した尾が元に戻ることはなかったが、それでも重傷だった彼女の体はみるみるうちに治癒されていった。
(これは……響詩郎の霊力だ。それが私の体に流れ込んでくる)
香桃は響詩郎を預かってから数年のうちに気が付いていた。
彼の体には何かが宿っていて、そのために幼いながらも膨大な量の霊力を身の内に秘めているということを。
(命の危機的な状況に置かれて、響詩郎の力が芽吹き出したってことか)
香桃はそうした自分の予想が恐らく正しいということを直感していた。
彼女の体が緊張に硬くなっていたのを感じて、響詩郎は顔を上げる。
「桃先生。どうしたの?」
そんな彼の顔を静かに見据え、香桃は今はまだこの幼い子供に己自身の力を理解させることは難しいと感じた。
そしてしばらくの間はこのことを本人には黙っておくことを心に決めたのだった。
「……いや、何でもないよ。それよりさっきの話を忘れないように。今日から私もあんたの母親だよ。あんたには母親が二人いることになるね」
そう言う香桃の言葉に響詩郎は思わず嬉しそうな顔を見せたが、すぐに照れて伏し目がちに言った。
「ぼ、僕。桃先生のことお母さんって呼ぶの?」
「それだと魔界の母親と同じで紛らわしいだろう? 今まで通りじゃダメかい?」
香桃はニッと歯を見せて笑う。
その笑顔に響詩郎もホッと安堵の笑顔を浮かべた。
「うん。僕も桃先生のほうがいい」
「そうかい」
そう言うと香桃は響詩郎の手をそっと握り、彼もその手を握り返す。
二人は手を繋ぐと惨劇の地となった地下街を後にするのだった。
「うちに帰ろう」
そう言う香桃の顔を響詩郎はその後もずっと忘れなかった。
そこには彼がずっと求めていた母の顔があったからだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
響詩郎はバスハウスの中でふと目を覚ました。
そして少々うんざりとした顔で頭を振る。
これまで幾度も繰り返し見た夢をまた見たのだ。
「古い夢だな。俺はいつまでこの夢を見るんだ」
そう言うと響詩郎はベッドから起き上がった。
今日はこれから趙香桃の元を訪れる約束だった。
あの時、響詩郎を守るための戦いで香桃は三又の尾である【剛尾、妖尾、知尾】のうちの剛尾を失ってしまった。
これによって彼女は第一線で妖魔と戦う力を失ってしまい、以来前線には立たなくなったのだ。
だが彼女はそこから発想の転換をし、自分が前線に立たなくても済むように妖力や知略謀略を使って自分の勢力を拡大していった。
結果としてそっちのほうが自分の性に合っていたと香桃は嘯くのだった。
自分が罪悪感を感じなくていいようにとの彼女の配慮であることも響詩郎にはもちろん分かっている。
だが、皮肉なことにそれから香桃と響詩郎は共に過ごす時間が増え、もう寂しさから彼が家出するようなことはなくなった。
それでも香桃の二又に減ってしまった尾を見るたびに、響詩郎はあの日のことを思い返すのだった。
「さて。仕事するか。俺にはそれしかねえからな」
身支度を整えてそう言うと、彼は家を出た。
響詩郎にとっての運命の出会いがこの後すぐに待ち受けいていることを今の彼はまだ知らなかった。
狼男の爪が響詩郎の首に振り下ろされた。
だが、響き渡ったのは響詩郎の声ではなく、彼を今まさに殺そうとしていた狼男の声だった。
すると響詩郎を掴んでいた狼男の手の力が抜け、幼い彼の体は床にドサリと崩れ落ちた。
「うっ……」
響詩郎は硬い床に両膝と両肘を打ちつけて苦痛の声を漏らしながら顔を上げた。
すると響詩郎にとどめを刺そうとしていた狼男の右腕が、黄金色に輝く毛の束に絡み付かれて動けなくなっているのが見えた。
「あ、あれは……」
響詩郎がその毛を見紛うはずはなかった。
物心ついたときからずっと身近に見てきた美しい金色の毛を。
「桃先生!」
響詩郎は叫び声を上げて頭上を見上げる。
狼男の腕に巻き付いた毛は頭上から垂れ下がっていた。
その場にいた数十人の妖魔ら全員が驚愕して天井を見上げる。
するとそこには金色に輝く髪と三又に分かれた長い尾を持つ美しい女が、重力をまるで無視して天井に足を着けて立っていた。
「ちょ、趙香桃!」
妖魔の一人が驚きの声を上げた。
そう。
彼女こそが東京一帯を仕切る妖魔の頭目にして響詩郎の身請け人たる黄金の妖狐・趙香桃だった。
「うちの坊主をかわいがってくれたのかい? 薄汚いゴミどもが」
そう言う香桃の顔には薄笑みが浮かんでいるものの、その視線には鋭い殺気が込められていた。
狼男の腕に巻き付いている毛は香桃の三又の尾の内の一本であり、彼女が力を入れた途端、その毛が巻き上がった。
すると狼男の腕が急激に上方に引っ張られ、そのショックでバキリと音をたててへし折れた。
「うっぎゃああああ!」
狼男は悲鳴を上げて必死に腕から毛を引きはがそうとしたが、ついには香桃の尾は狼男を体ごと吊り上げてしまう。
すると香桃は尾で勢いをつけて狼男の体を振り回し、そのままの勢いで壁に叩きつけた。
「ぐげっ!」
狼男は全身を石壁に強打し、口から血反吐を吐きながら床に崩れ落ちて動かなくなった。
一瞬にしてその場がシーンと静まり返る。
妖魔たちは仲間があっさりとやられたのを見て、呆気にとられていた。
その隙を見た香桃は天井を蹴って落下し、響詩郎のすく傍に着地した。
響詩郎はどんな顔で彼女を見ればいいのか分からずに、呆然と彼女を見上げる。
「あ……も、桃先生。ぼ、僕……」
香桃は何も言わずに響詩郎の腕の傷口に一枚の白い札を貼りつけた。
途端にその白い札は彼の腕に巻きついて包帯となり、止血の役割を果たした。
そして香桃は響詩郎が何かを言う間もなく、彼の体をヒョイと抱きかかえる。
香桃の温かな体に触れて、嗅ぎなれた彼女の香りに包まれると幼い響詩郎は心からの安堵を覚えて涙を流した。
「う、うぐっ……桃先生」
「ここに入ってな」
そう言うと香桃は響詩郎を縦長タイプのロッカーに押し込める。
響詩郎はふいに一人にされてしまう不安から彼女に追いすがろうとした。
「桃先生!」
「私が合図するまで絶対に出てきちゃダメだ。今度は私の言いつけを守れるね」
香桃はそう言うと黄金色の瞳をじっと響詩郎に向けた。
自分から家を飛び出してきたというのに、今は一時でも彼女から離れたくないと思ってしまう響詩郎だったが、彼女の言いつけを破って勝手に家を出てきてしまった自戒の念から、黙って頷くほかなかった。
そんな彼を見て目を細めると、香桃はパタリとロッカーの扉を閉じた。
途端に暗闇が訪れ、ほんの小さな扉の隙間からわずかに光が漏れ出るばかりの静寂の世界で、響詩郎は一人膝を抱えた。
それはまるで親鳥の帰りを巣の中でじっと待つ雛鳥のようであった。
(桃先生……)
だが、静寂はすぐに打ち破られた。
ロッカーの外の世界に喧騒と怒号、そして悲鳴が渦巻いた。
それは果たして10分間のことだったのか、それとも1時間のことだったのか響詩郎には定かではなかった。
自分ではどうすることも出来ない出来事が、扉一枚隔てた向こう側で繰り広げられている。
そのことがただ怖くてたまらなかったのだ。
恐ろしくて震えながらその場にうずくまっていると、やがて外から香桃の声がかけられた。
「響詩郎。もう出てきていいよ」
その声を聞いて恐る恐る扉を開けた響詩郎の視界にいつもの薄笑みを浮かべた香桃の姿が飛び込んできた。
彼女の満面の笑みというのを見たことはなかったが、うっすらと目を細めるその笑い方が響詩郎は好きだった。
彼女はロッカーの前に座り込んでいる。
だが、その肩越しに見える光景に響詩郎は息を飲んだ。
そこには地獄絵図と呼んでも大げさではないほどの、惨憺たる光景が広がっていた。
倒れて動かなくなった多くの妖魔の死体が転がり、床や壁や天井まで鮮血がこびりついている。
「ひっ!」
悲鳴を上げそうになる響詩郎の口をそっと押さえ、香桃は彼に顔を近づけた。
「そっちは見なくていい。私のことだけ見てな」
響詩郎は口をつぐんで頷き、言われた通りに香桃の顔だけを見つめる。
そんな彼に彼女は穏やかな口調で語りかけた。
「さて。響詩郎。私の言いつけを破って外に出たね。何か言うことがあるだろう?」
そう言われると響詩郎はビクッと首をすくめた。
「……ご、ごめんなさい。ぼ、僕……」
「言わなくていいよ。理由は分かってる。しかし馬鹿だね。おまえの両親がいるのは魔界だよ。どんなにほっつき歩いても簡単には行けない場所なんだ」
「はい……」
「それより分かってるね? 言いつけを破った子には罰が与えられるんだよ」
そう言うと香桃は響詩郎の頬を平手でピシャリと打った。
「あうっ!」
彼が悪さをすると香桃はこれまでもこうして容赦なく平手打ちを浴びせてきた。
だが、頬を伝わる痛みがあまりにもいつも通りで、響詩郎はその安堵感から再び涙を流した。
そんな彼の小さな肩を香桃はそっと抱きしめた。
「寂しい思いをさせたね。すまなかった」
「も、桃先生……?」
戸惑う響詩郎をじっと見つめ、香桃は決意の表情で話を続けた。
「私は間違っていたようだ。もう遠慮するのはやめるよ」
「え?」
「今日からあんたが15歳になるまでの間、私はあんたの母親になるよ」
香桃の言葉に響詩郎は驚いて大きく両目を見開いた。
そんな彼の頭を香桃はそっと撫でてやった。
「だからあんたも私に遠慮なんかしなくていい。あんたは私の息子だよ」
そう言うと香桃は再び彼の体をギュッと抱きしめた。
柔らかな温もりに包まれて響詩郎は心からの安心感を覚えた。
だが、同時に彼は気付いてしまった。
「も、桃先生? 桃先生! ケガしてるの?」
香桃は深手を負っていた。
三又の尾のうちの一本がちぎれていたのだ。
出血を止めるための護符がすでに巻かれていたが、響詩郎はひどいショックを受けた。
自分を守るために妖魔たちとの戦いで香桃は取り返しのつかない負傷をしてしまったのだ。
「そ、そんな。桃先生のしっぽが……僕のせいで」
愕然とする響詩郎に香桃は肩をすくめて首を横に振る。
そして彼女は今まで響詩郎に隠していたことを告げようと決意して口を開いた。
「そりゃ違うよ。元々あいつらは私の抗争相手だった」
「こうそう……あいて?」
「そうだな。分かりやすく言うと元々私とは敵なんだ。響詩郎は知らなかったろうが、あんたが家で留守番している間、私はああいう奴らとケンカばっかりしてた。だから遅かれ早かれいつか大ケガをしたかもしれない。それが今日だったってだけさ。でも今日はツイてた」
「ツイてた? 何で? ケガしちゃったのに!」
涙声でそう言う響詩郎だったが、香桃はニッと微笑む。
負傷していることを欠片も感じさせない悠然たる態度を漂わせて。
「ああ。確かにしっぽ一本失った。だが、もし仮にあんたを人質にとられていたら、しっぽ一本じゃ済まなかったろうさ。そうなる前に間に合って良かったんだ」
「で、でも……」
「命があるだけマシさ。この結果はラッキーだった。あんたが気に病むことじゃない」
そう言うと香桃は響詩郎をギュッと抱きすくめた。
それ以上、彼に言葉を重ねさせないように、自分の胸に彼の小さな頭を包み込むようにして。
響詩郎は彼女の胸の中で、震えながら嗚咽を漏らした。
「うぅ……うぅぅ。桃先生。ごめんなさい」
「もういいさ。反省は十分にしたろう」
香桃は彼の背中をそっとさすろうとして手をあてがう。
だが、そこで彼女はふいに手を止めた。
(……何だ?)
瞬きをする間に突如として響詩郎の背中から奇妙なものが出現したのだ。
香桃は即座にそれが憑物と呼ばれる霊体であることを理解した。
それは黒衣を羽織り、珍妙な灰色の仮面を被った異形の化け物だった。
何か危害を加えられるかと思い、香桃は体を緊張させて息を止める。
だが、その異形の化け物が響詩郎と自分との間に溶け込むようにして佇むと、予想しなかった現象が香桃の身に起きた。
香桃の痛む尾の傷口がじんわりと温かくなり、痛みが消えていく。
それだけではなく傷口が塞がっていくような感覚すら覚えていた。
そして戦いによって消耗していた香桃の体力が徐々に回復していき、疲労が癒されていく。
さすがに欠損した尾が元に戻ることはなかったが、それでも重傷だった彼女の体はみるみるうちに治癒されていった。
(これは……響詩郎の霊力だ。それが私の体に流れ込んでくる)
香桃は響詩郎を預かってから数年のうちに気が付いていた。
彼の体には何かが宿っていて、そのために幼いながらも膨大な量の霊力を身の内に秘めているということを。
(命の危機的な状況に置かれて、響詩郎の力が芽吹き出したってことか)
香桃はそうした自分の予想が恐らく正しいということを直感していた。
彼女の体が緊張に硬くなっていたのを感じて、響詩郎は顔を上げる。
「桃先生。どうしたの?」
そんな彼の顔を静かに見据え、香桃は今はまだこの幼い子供に己自身の力を理解させることは難しいと感じた。
そしてしばらくの間はこのことを本人には黙っておくことを心に決めたのだった。
「……いや、何でもないよ。それよりさっきの話を忘れないように。今日から私もあんたの母親だよ。あんたには母親が二人いることになるね」
そう言う香桃の言葉に響詩郎は思わず嬉しそうな顔を見せたが、すぐに照れて伏し目がちに言った。
「ぼ、僕。桃先生のことお母さんって呼ぶの?」
「それだと魔界の母親と同じで紛らわしいだろう? 今まで通りじゃダメかい?」
香桃はニッと歯を見せて笑う。
その笑顔に響詩郎もホッと安堵の笑顔を浮かべた。
「うん。僕も桃先生のほうがいい」
「そうかい」
そう言うと香桃は響詩郎の手をそっと握り、彼もその手を握り返す。
二人は手を繋ぐと惨劇の地となった地下街を後にするのだった。
「うちに帰ろう」
そう言う香桃の顔を響詩郎はその後もずっと忘れなかった。
そこには彼がずっと求めていた母の顔があったからだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
響詩郎はバスハウスの中でふと目を覚ました。
そして少々うんざりとした顔で頭を振る。
これまで幾度も繰り返し見た夢をまた見たのだ。
「古い夢だな。俺はいつまでこの夢を見るんだ」
そう言うと響詩郎はベッドから起き上がった。
今日はこれから趙香桃の元を訪れる約束だった。
あの時、響詩郎を守るための戦いで香桃は三又の尾である【剛尾、妖尾、知尾】のうちの剛尾を失ってしまった。
これによって彼女は第一線で妖魔と戦う力を失ってしまい、以来前線には立たなくなったのだ。
だが彼女はそこから発想の転換をし、自分が前線に立たなくても済むように妖力や知略謀略を使って自分の勢力を拡大していった。
結果としてそっちのほうが自分の性に合っていたと香桃は嘯くのだった。
自分が罪悪感を感じなくていいようにとの彼女の配慮であることも響詩郎にはもちろん分かっている。
だが、皮肉なことにそれから香桃と響詩郎は共に過ごす時間が増え、もう寂しさから彼が家出するようなことはなくなった。
それでも香桃の二又に減ってしまった尾を見るたびに、響詩郎はあの日のことを思い返すのだった。
「さて。仕事するか。俺にはそれしかねえからな」
身支度を整えてそう言うと、彼は家を出た。
響詩郎にとっての運命の出会いがこの後すぐに待ち受けいていることを今の彼はまだ知らなかった。
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此れは武将・神渕眞栗の妖刀『渦潮丸』を手にした名家の少女が京都の英雄になるまでの成長譚であり、悪しき妖怪から京都を守る英雄譚である。
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