蛮族女王の娘 第2部【共和国編】

枕崎 純之助

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第113話 ネル

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 夜の山道にヒュウッと風切り音が鳴り響く。
 暗闇くらやみの中を飛んだ矢は木々の間に消えていき、次いで短いけものの悲鳴がこだました。
 矢を放ったネルはそれを聞いてニヤリとすると木陰こかげに走った。
 そして矢の刺さった小型のけものを誇らしげに手でつかみ上げて戻って来る。
 首を貫かれて即死しているのは、夜行性のトビウサギだった。

「今夜の晩飯に一品追加だ」

 そう言うネルにアーシュラは冷たい目を向ける。

「勝手な行動はつつしみなさい。作戦中ですよ」
「たまたまコイツが見えたんで。ついでっすよ。ついで」

 ネルは悪びれることなく矢を引き抜いて、トビウサギの足を手早くなわで縛って逆さりにする。
 トビウサギの首から赤い血がポタポタと落ちて地面を赤く染めた。
 周囲は暗闇くらやみに包まれており、一行のうち数人が持つ松明たいまつの明かりが届かぬ場所には深いやみが横たわっていた。

 つい今しがた、山道を歩いていたネルが突然、弓に矢をつがえて鋭く放ったのだ。
 その矢は一撃で獲物を仕留めた。
 その様子に他の仲間たちはおどろいて目を見開いている。
 それを見てネルは気持ちよさげに鼻を鳴らした。

「フンッ。毎日こんな仕事ばかりやらされているんでね。つい体が動いちまうんだよ。職業病ってやつだなこりゃ」

 ネルは夜のやみの中でも寸分たがわずに標的に矢を命中させることが出来る。
 そんなことが出来るのは彼女が的を目だけでとらえているわけではないからだ。
 彼女の目は的とその周囲の空間を立体的にとらえていた。

 視力に頼るのではなく、その感覚に頼るため、的までの命中軌道きどうを頭の中で容易に描くことが出来るのだ。
 弓兵部隊の隊長である双子姉妹のナタリーとナタリアもネルを天才だと評していた。
 だが、若くして天才的な弓の腕を持つ彼女は傲慢ごうもんで、他者との融和ゆうわを一切はかろうとしない厄介やっかい者だった。

「こいつはアタシの分だぞ。食いたきゃ自分で獲ってきな」

 そう言うとネルは、プリシラたちがあきれた表情を浮かべているのも構わずにサッサと先へ進んでいく。
 ネルにとって仲間の存在はどうでもよかった。
 とにかくこの弓で敵を射抜ければそれでいいのだ。

(早く王国軍の連中をくし刺しにしてやりたいぜ。チェルシーだってアタシの矢で射抜いてやる)

 ネルは実戦にえていた。
 15歳で成人してすぐに実戦部隊への配属を願い出た。
 最初の任務は共和国内を荒らす盗賊とうぞく団の退治だった。

 この任務でネルは敵の頭領を含めて10人もの相手を射殺した。
 本来ならば勲章くんしょうものの活躍だが、彼女はその作戦中に数人の味方を負傷させたのだ。
 ネルが矢を放とうとした時に射線上に入って来た仲間を蹴り飛ばしたり、ひどい時には故意に仲間に矢を射かけて射線上からどかせようとした。

 その際は味方がネルの矢を避け損ねて、腕に刺さってしまうという事故につながったのだ。
 そうした問題行動をとがめられ、ネルはそれ以降の実戦参加は許されなかった。
 ネルとは共に戦えないと、仲間たちからの強い抗議があったからだ。
 そしてネルは野山でけものを狩る食糧調達部隊に転属することになった。

 閑職かんしょくに追いやられたネルはふてくされ、その部隊でも幾度いくどとなく仲間たちと喧嘩けんか騒ぎを起こしていた。
 そしてとうとうたった1人で狩りの仕事をさせられるようになったのだ。

(どいつもこいつも口やかましく言いやがって。アタシに戦場でやりやすいようにやらせてみろってんだ。そうすりゃ結果も残せるし、上の口うるさい連中もだまるしかねえだろ)

 ずっと抱えている怒りがある。
 それは腹の奥底で昼夜問わずに燃え続けるのだ。
 鉄をも溶かす溶鉱炉ようこうろのように。
 だが、そんな燃え盛る怒りに冷や水を浴びせる者がいた。
 
「その弓矢の腕でどんな戦場でも乗り越えていけるつもりですか? 笑えますね」

 そう言ったのはアーシュラだ。
 その顔にはあざけるような冷笑が浮かんでいる。
 思わぬ上官の言葉と態度にネルは表情を強張こわばらせる。

「……は?」
「その程度の腕でまるでこの世の頂点を取れるかのような勘違い。若気の至りにしても恥ずかし過ぎますよ。お嬢ちゃん」

 アーシュラの言葉にその場の空気が凍り付く。
 プリシラや他の者たちは皆、唖然あぜんとして目を見張った。
 しかし直接言葉を向けられたネルは明らかにその顔に怒りを充満させている。
 腹の怒りの溶鉱炉ようこうろに浴びせられたのは冷や水ではなく、油だった。

「隊長ぉ~。部下をあおってやる気を起こさせる手法ですか? そいつはあんまりうまくねえなぁ。アタシ……キレてどうでもよくなることもあるんすよ。キレやすいお嬢ちゃんを怒らせねえほうがいいぜ。オバサン」

 明らかに怒りで理性を失いつつあるネルのその態度に、後方で声を上げるのはエステルだ。

「ふ、不敬ですよ! 上官に向かってそのような……」
「うるせえぞ! だまってろガリ勉女!」
「なっ……」

 後方から抗議の声を上げるエステルを無視してネルはアーシュラをにらみつける。

「さあ、撤回してもらいましょうか。隊長殿」
「図星を突かれて怒り心頭ですか? 言っておきますが、そんな程度の腕では本当の戦場では何の役にも立ちませんよ。証拠を見せましょうか。そこから今、ワタシに向けて矢を放ってみなさい。軽く避けて見せますから」

 アーシュラのその言葉にネルを含めたその場にいる全員が唖然あぜんとする。
 ネルとアーシュラの間にはたった10メートルしか距離がない。
 この距離で矢を避けるのは至難のわざだ。
 エステルが青ざめて金切り声を上げた。

「た、隊長? な、何かお考えがあってのことでしょうけれど、無茶は……」
「ハァァァァァッハッハッハッハ! 隊長。笑っちまうのはこっちですよ。あんた。本気で言ってんのか? だったら頭イカレてるぜ。死んじまうでしょうが。そんなことしたら。アタシに上官殺しの汚名を着せるつもりですか? ハッハッハ!」

 エステルの声をさえぎってネルが高笑いを響かせた。
 だがアーシュラはその顔に冷笑を浮かべたまま言う。

「殺せませんよ。だって当たりませんから? あなた程度の腕前でワタシに当てるのは絶対に不可能です」
「……おもしれぇ。後悔しますよ」

 そう言うとネルは殺気立った目を血走らせて、弓に矢をつがえる。
 そしてつるを引くとやじりをたった10メートル先のアーシュラに向けた。 

「や、やめなさい! ネル! プ、プリシラ様」

 あわててプリシラに目を向けるエステルに、プリシラもすぐに動こうとする。
 だが、アーシュラがプリシラにじっと視線を向けた。
 その視線がその場に留まるように告げていて、プリシラは思わず動けなくなる。
 そして怒りに我を忘れたネルが弓弦ゆんづるを放した。
 途端とたんに矢が猛烈な勢いで宙を舞い、アーシュラへと襲い掛かかるのだった。
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