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第四章 竜神ノア

第9話 母

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「君をあんな目にあわせた張本人を見つけ出して、やり返してやるんだ」

 僕はノアの目をじっと見つめてそう言った。
 だけどノアは疑念に満ちた目で僕を静かに見据えている。

「そのようなこと。本気で出来ると思うておるのか? 口でのたまうだけならば子供でも出来るぞ」
「出来るとは思わないから何もしない。そんなことを言っていたら力のない僕なんか、この世の中の苦境に対して手も足も出ないままうずくまっていることしか出来なくなるよ。僕はそれでいいとは思わない」

 ミランダやジェネットたちと過ごし始めてから僕は変わった。
 今こうしてノアに対して自分の言葉を投げかけることが出来るのはそのおかげだ。

「本気で取り組んで他人を巻き込んででも、出来ないかもしれないことをやるんだ。こんなしがない下級兵士ですらそう思っているのに、君くらい力のあるキャラクターなら僕よりもっとたくさんのことが出来るはずだよ」

 僕の言葉を聞いてノアはつかの間、視線を宙の一点に定めたまま黙っていた。
 やがて口を開くとノアは力のない声で言う。

「……妙な奴よの。そなたは。だが、そなたは一つ見落としておる」
「え?」
「そなたの周りには多くの支援者、そして友人・知人がおる。そうした者たちとのつながりを持てるのがそなたの強みだ。ノアにはそうした強みはない。そなたは自分の方が弱いと思い込んでおるようだが、そうした観点から見ればノアのほうがはるかに弱い。ノアに出来ないことがそなたには出来るのだ」

 ノアの話に僕はしばし言葉を失った。
 確かにその通りかもしれない。
 だけど……。

「僕だって最初から周りにたくさんの人がいたわけじゃないよ。色々あって必死にもがきながら歩いてきた結果、支えてくれる人が近くにいてくれるようになったんだ。僕に出来たことがノアに出来ないなんて思えない」

 僕の言葉にノアは黙り込んだ。
 そんな重苦しい沈黙の空気を破りたくて、僕は立ち上がる。

「本当にここから出られないのかな」

 僕は休憩室のとびらに歩み寄り、それを開けようとした。
 だけどとびらの取っ手は回らない。
 ローザは言っていた。
 サーバーダウンの影響でとびらは開かないと。

「だめか……」

 力を込めても取っ手はまったく動いてくれない。
 ローザの言う通りだった。
 まるでそれは初めから回る仕組みには作られておらず、目の前にあるのはとびらの形をしたオブジェか何かであるかのような錯覚すら覚える。

「どうしたらいいんだ……」

 僕は不安に駆られて1人そうつぶやくと、背後を振り返る。
 そこにはすっかり意気消沈して床に座り込むノアの姿があった。

「ノア……もう少し待てばこの障害も復旧するんじゃないかな。きっとここから脱出できるから心配しないで」
「……どうでも良い。ここから脱出してもまた意思を持たぬ哀れな暴れ竜にされるだけだ。むしろこの隔絶された部屋の中にずっといたほうが良いくらいだ」
「そんな……」 
「共にいるのがそなたというのが気に入らんが。いや……腹が空いたら食えばいいか」

 やめて!
 ぼ、僕は災害時の非常食じゃないぞ。

 とまあ、そんなことを言っているノアだけと、その顔は死んだように沈んでいる。
 彼女はすっかり打ちのめされていた。
 恐らくノアは竜人である自分に並々ならぬ誇りを持っていたんだろう。
 これまでの彼女の言動からもそれがうかがい知れる。
 そんな誇りを打ち砕かれて茫然自失の状態なんだ。
 僕はそんな彼女の隣に座った。

「ノア。こっちに転移してから一体何があったの?」

 彼女が望まぬ巨大竜になってしまったのは、どういう経緯があったんだろう。
 僕の問いかけにノアはしばらく黙っていたけれど、やがて力のない声で事情を話し始めた。

「あのキャメロンという商人に見送られて転移装置に入ったノアは地獄の谷ヘル・バレーに降り立った。だが装置から出たその途端に背後から腰の辺りに強い衝撃を受けたのだ。ノア振り返ることが出来なかった。なぜなら途端にこの体はノアの意思を無視して勝手に動き出したからだ」

 ノアはそう言うと鬱屈うっくつとした気分を投げ出すように床の上にごろりと横たわった。
 それから彼女がポツリポツリと語り出した話に僕は聞き入った。
 さっき言っていた通り、ノアは体が勝手に動くけれど、自分の意識はある状態だったという。
 そんな彼女を見知らぬ一団が迎えに来て、どこかへと連れていかれたらしい。

「それはどんな悪魔だったか覚えてる?」

 そうたずねる僕にノアは力なく答えた。

「悪魔……なのかよく分からぬ奴らだった。頭角や尾はあったが、左右の翼は白と黒で対を成しておったし頭の上には輪が浮かんでおった。奇妙な連中だ」

 だ、堕天使だてんしだ。
 そうか。
 ノアは初めから奴らに狙われていたのかもしれない。
 僕はさっきのローザの話が気になってノアにたずねてみた。

「ノア。その後、こっちでキャメロンに会わなかった?」
「キャメロン? こっちに来てからは一度もあやつを見ておらぬが」
「そっかぁ」

 決定的な証言が得られるかと思ったけれど、ノアをこんな風にしたのがキャメロンだという確たる証拠は今のところない。
 それからノアは地獄の谷ヘル・バレーで奇妙な実験室のような場所に連れていかれ、堕天使だてんしたちに体をあらためられた。

「くそっ。あやつらノアの体に薄汚い手で触れおって……」

 ノアはそこで初めて気色ばんで悔しさをあらわにした。
 自分の体を好き勝手にいじくられた屈辱を彼女はその目で見続けたんだ。
 それがどんなに悔しいことだったか想像に難くない。

「実験室では得体の知れない薬液を体に注入された。そしてその日のうちにだだっ広い荒野に連れて行かれ、あの屈辱的な実験が始まったのだ」

 ノアは怒りに打ち震えながらそう言った。
 そこでノアは幾度も巨大竜に変身する実験をさせられたという。
 
「荒野に奇妙な口笛が響き渡ると、それが合図であるかのようにノアの体は醜い灰色の巨大な竜へと変わるのだ。全身の血流から細胞に至るまで何者かに制御されているようなあのおぞましい感覚は決して忘れぬ」

 ノアはくちびるをワナワナと震わせながらそう言った。
 奇妙な口笛……裏天界で聞いたあれだ。
 あの口笛が聞こえてきた途端、確かにノアは巨大竜と化した。
 あの口笛がノアに仕込まれた巨大竜化のスイッチをオンにしてしまうのかもしれない。

 それからその荒野でノアの能力を試す実験が行われたという。
 荒野には十数人の悪魔や天使が捕虜として捕らえられていて、木の杭に縄で縛りつけられたその捕虜たちをノアは熱波で焼き殺した。
 堕天使だてんしたちはその様子を記録し、巨大竜の戦闘能力を確かめたんだ。

「ひどい……」

 僕は思わずうめくようにそう声を漏らした。

「後はそなたも知る通りだ。奴らの手先として落ちぶれた姿をさらし、今に至る」

 そう言うとノアはふて寝するようにごろりと僕に背中を向けた。
 その小さな背中に何て声をかければいいか分からず、僕は黙り込むほかなかった。

 それからしばらくするとノアが小さな寝息を立て始めた。
 寝ちゃったのか。
 疲れ切っている感じだったからな。
 あのヴィクトリアすらかなわなかった実力者のノアだけど、こうして寝ていると幼い子供そのものだ。

 その小さな姿を見ていると、やはり彼女を元の世界に戻してあげなくてはならないと僕はあらためてそう思う。
 どうすれば彼女の体の不調を修復できるのか僕にはさっぱり分からないけど、きっとアビーやブレイディが何とかしてくれるはずだ。
 それにしても……。

「なかなか復旧しないなぁ」

 僕は座り込んだまま開かないとびらを見つめた。
 その時、ノアがわずかに身じろぎして、その口から小さなつぶやきが漏れた。

「母さま……」

 母さま?
 ノアにはお母さんがいるのかな。
 当然のように僕らはNPCだから、キャラクターの設定として親子や兄弟姉妹がいる場合を除き、家族がいないのがデフォルトだ。
 後付けの追加設定で姉やら妹やらが出てくることは珍しくないけどね。

 今のところ僕には家族はいない。
 でもノアは幼女キャラだから竜人の母親がいるのかもしれない。
 僕はノアが変幻玉によって大人の女性に変身した姿を思い浮かべた。
 あんな美人な母親なのかもしれないな。
 まあ、それはさておき、幼いノアが母を求めているのかもしれないと思うと僕は何だか切ない気持ちになった。

 それから少しして目を覚ましたノアは起き上がるとボンヤリとした目で周囲を見回している。
 自分の身に起きている状況が変わってないのを確認しているみたいだ。

「ノア。お母さんがいるの?」

 僕がそんな彼女に思い切ってそう聞くと、ノアはこれ以上ないくらいに大きく両目を見開いて僕を見たけれど、驚きのあまり言葉が出てこないようだった。

「いや、寝言で母さまって言ってたから」

 それを聞いたノアの目に見る見るうちに涙がたまっていく。
 え?
 え?
 な、泣かせちゃった?
 僕は子供を泣かせてしまった大人のようにオロオロとして言葉をつのらせる。

「ご、ごめん。聞いちゃいけないことだったかな。な、泣かないで」
「泣いてなどおらぬ。泣いてなど……おらぬ」

 涙声でそう言いながらノアはグシグシと手の甲で目をぬぐったんだ。
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