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第7章 洪州奪還戦

月下の威峰山

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 閻軍・威峰山いほうざん

 瀬崎宵は、軽く食事を摂りながら、夜更けまで貴船桜史きふねおうしから朧軍の機密情報の一切を聞き受けた。
 そして、宵からはこの世界から元の世界へと帰る鍵である可能性の高い祖父、瀬崎潤一郎の竹簡の話を伝えた。実際にその竹簡を桜史に見せ、これまで起こった文字が浮かび上がるという不思議な現象を説明すると、桜史は興味深そうに竹簡を眺めていた。

 降伏した朧兵の収容や軍の取りまとめは全て田燦でんさん鄧平とうへいに一任した。その為、途中鄧平が何度か状況を報告に来たが、朧兵は素直にこちらの指示に従っているようで、特に問題は無さそうだった。
 ただ、桜史と延々と会話している宵の様子が気に入らない鄧平は終始不服そうな顔をしていた。あまり鄧平を無下にするのはきっと宜しくないだろう。一度正式に桜史をこちら側の軍師として迎え入れる事を伝えねばなるまい。
 しかしながら、その事に関して桜史には少しばかり迷いがあるようだ。光世と同じく、これまで世話になった朧軍とは極力戦いたくない。それが桜史の胸の内だった。
 その気持ちは宵にも分かる。自分が逆の立場だったら、きっと李聞りぶん姜美きょうめいと戦いたくはない。
 だから今後も、戦場に実際に立つのは宵だけになりそうだった。

「ごめんね。瀬崎さん。朧軍が戦に踏み切ったのは間違いだと思うけど、朧軍の人達がただ侵略を目的に戦をしているとはどうしても思えなかった」

 宵が渡した竹簡を眺めながら、桜史は言った。

「うん。いいんだよ、別に。私も朧軍が完全な悪だとは思ってない。本当に閻の人を救おうとしてくれたんだと思う。ただ、やり方を間違えてしまっただけ」

「瀬崎さんはさ、この竹簡が元の世界への帰還の鍵だと確定して、すぐにでも元の世界へ帰れるとしても戦うつもり?」

「そうだね。ここまで関わっておいて、このまま途中で放り出せないもん。私も凄く迷ったけど、やっぱり最後まで戦いたい」

「このまま戦場にい続ければ、例え軍師として後方にいたとしても、殺される可能性はあるんだよ?」

「うん。分かってる。貴船君だって、危険な戦場で戦い続けて来たじゃない。それは何故?  死ぬかもしれないのに」

 宵が首を傾げて問うと、桜史は恥ずかしそうに宵から視線を逸らした。

「瀬崎さんを……救い出す為だよ」

 宵はその返答を聞いてたじろぐ。確かに光世もこの世界に来たのは宵を助ける為だと言っていた。一緒に来た桜史も動機は同じで当たり前だ。だが、整った顔立ちの男前な桜史にその言葉を面と向かって言われると照れずにはいられなかった。桜史も恥ずかしそうにするものだから、何だか妙な空気になっている。

「あ、ありがとう。光世も同じ事言ってた。私を助ける為に来たって……。私も、閻の人々を守りたいから戦ってる……けど、私がここで戦い続ける事は、2人の想いを裏切る事になるのかな……」

「ならないよ」

 桜史は即答した。

「え?」

「状況が分かったから。俺や厳島さんがこの世界に来て朧軍の人達に情が移ったたように、瀬崎さんが閻で出会った人達に情が移るのは自然な事。何も分からない異世界で、1人きりで不安なところを、閻の人達が助けてくれたんでしょ?  その人達が今敵国の侵攻を受けていて、瀬崎さんにはその侵攻を止めるだけの力がある。なら、彼らの力になりたいと思うのは何も不思議な事ではないし、俺は瀬崎さんの力になりたいと思った。だから、朧軍の情報を教えた」

「貴船君……」

「ただ、何を持って閻軍の勝利とし、瀬崎さんが軍師を辞めて軍から抜けられるのはどの段階か。それだけはハッキリさせて欲しい」

 桜史の的確な指摘に、やはりこの男は頭がいいと感心した。確かに、具体的にゴールが見えなければ、いたずらにこの世界の滞在時間は伸びてしまうだろう。もしかしたら宵が生きている間には終戦を迎えられないなんて事があるかもしれない。

「貴船君。朧軍の目的は何?」

「それは、董炎とうえんを倒し、閻の民を悪政から解放する事……え、いや、まさかとは思うけど」

「そのまさかだよ。私は董炎を失脚させる。そして、朧軍が閻を攻める大義名分をなくす。そうすれば、朧軍は撤退するでしょ?」

 桜史は手に持った竹簡を丸めて閉じ、天井を仰いだ。

「確かに、それなら朧軍は軍を引かざるを得ない……けど、それは多分、朧軍を戦闘で破るより難しい。具体的に策はあるの?」

「私には……ない。董炎失脚の策は光世に任せてる」

「厳島さんに?」

「そう。私が洪州こうしゅうで朧軍と戦っている間に光世が董炎のいる秦安しんあんに潜り込ませた間諜達と連携して情報を集め、董炎失脚の策を練ってもらってるの」

「……そうか。朧軍と戦いたくない厳島さんは、間接的に朧軍の最終目的である董炎を倒す為に動いてくれていたのか。それなら、朧軍の妨げにはならないどころか、むしろ朧軍として動いていると言えなくもない。それに、厳島さんは、どちらかというと、軍略より政略の方が向いてるからね」

「でしょ?  貴船君も、朧軍と戦いたくないんだから、光世と一緒に董炎失脚の策を考えて欲しいな」

「……そう……だね。いや、ただ、俺はどちらかというと瀬崎さんと同じ軍略専門で……」

「でも、朧軍とは直接戦いたくないでしょ?」

「そうなんだけど……」

 ここに来て初めて戸惑いを見せる桜史の姿に、宵はくすりと笑った。

「今日はもう寝よう?  色々考え過ぎちゃって頭回らないでしょ?」

「そうだね」

 宵は立ち上がり桜史の服の袖を掴みクイクイと引っ張る。

「奥のベッド、使っていいよ」

 桜史は立ち上がり、宵に竹簡を返しながら、件の寝台に視線をやる。

「ありがとう。でも、瀬崎さんはどこで寝るの?  ベッドは1つしかないよ?  俺は全然椅子でも床でもどこでも大丈夫だから、ベッドは瀬崎さんが使いなよ」

「お客様である貴船君が使って?  私の事はいいから」

 宵は桜史の背中をグイグイと押すと無理やり寝台に押し込んだ。

「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて、おやすみ」

「うん、おやすみ。私はちょっと田燦殿達に状況確認してから眠るから」

「あ、そうなんだ。分かった。瀬崎さんも無理しないで早く寝なよ」

「ありがとう。警備は万全にしとくから安心して眠って。それじゃあ、灯り消すね」

 宵は部屋の燭台の灯りを息を吹きかけて消す。
 一瞬で真っ暗になった部屋。幕舎の隙間から微かに月明かりだけが差し込んでいる。
 宵は桜史が布団を被り壁際を向いたのを見ると、外の兵士に見張りを頼み、そっと幕舎の外へと出て行った。

 ♢

「田燦殿。宵です」

 宵は田燦の幕舎を見付けると外から声をかけた。

「軍師殿ですか。どうぞお入りください」

 許可をもらい、宵は幕舎の中へと入る。田燦は直立し、拱手して宵を出迎えてくれた。

「その後変わりはありませんか?」

「ええ。投降した朧兵達は大人しくしています。反抗の兆しはありません。今は鄧平が彼らを見ているので私もそろそろ休もうかと思っていたところです」

「そうですか。兵糧は足りそうですか?」

「補給無しだとあと10日程しか持ちませんが、葛州かっしゅうから補給する事は可能ですので問題はありません」

「10日ですか。では、それまでに必ず補給しておいてください。これからはしばらくこの威峰山を拠点にする事になりますので」

「御意」

 田燦が拱手し頭を下げたのを見ると、宵は少しオドオドしながら口を開く。

「……ところで、閻の兵達や鄧平殿は、私が桜史殿を重用している事を何か言っていますか?」

 田燦は渋い顔をして腕を組んだ。

「ああ……良からぬ噂はありますね。ですが、私が噂を流す者は処罰しますのでお気になさらず。鄧平は嫉妬して機嫌が悪そうですが、そちらもお気になさる必要はありません」

「そうですか……あの、どのような噂ですか?」

 敢えて田燦は噂の内容を濁してくれたのだろうが、宵はどうしても気になってしまった。

「どうかお気を悪くなされないように」

「はい」

「兵達は、軍師殿と桜史殿は同郷ではないかと考えているようです。御2人の髪型は近隣国家のものではありませんから。それに加え、桜史殿の整った顔立ち。……軍師殿は同郷の顔の良い桜史殿が気に入ったから命を助け、ずっと一緒にいるのだと……そう噂しております」

「なるほど……」

 兵士達の考えはあながち間違ってはいない。桜史の顔が気に入ったから助けたという部分は違うが、概ね合っている。

「田燦殿もそう思いますか?」

「同郷、というのは私も思いました。が、それ以外の話は兵達の妄想だと思っております。桜史殿を助けたのは有能かつこちらに害がなかったから。朧兵達を殺さず捕らえた理由と変わりません」

 田燦はそう答えたが、宵にその答えの是非を問うては来なかった。

「お察しの通り、私と桜史殿は同郷の出身です。遠く東の彼方のニホンという国の出です」

「やはり、そうでしたか」

「ただ、それは偶然で、桜史殿を丁重に扱っているのはこちらに利があるから。決して桜史殿の容姿が気に入ったからとかやましい理由ではありません。田燦殿からも兵達に説明しておいてもらえませんか?」

「言われなくとも、そのつもりです。私は端から貴女に不信感は抱いておりません。姜美きょうめい将軍がお認めになった軍師であり、ご友人ですから」

「ありがとうございます。……田燦殿は、姜美将軍の事好き、ですよね?」

「上官として尊敬しております」

 余計な質問をしてしまったが、田燦はサラッと大人な回答で躱す。だが、田燦の目が泳いだのを宵は見逃さなかった。

「田燦殿。貴方がここにいてくれて良かったです。不安が1つ解消できました。私はもう休みます。田燦殿もお休みになってくださいね」

「はい。ありがとうございます。おやすみなさい、軍師殿」

 互いに挨拶を交わすと、宵は星空の下、また自分の幕舎へと戻った。

 その途中で宵は立ち止まり、ふと夜空を見上げた。
 雨は止み、一月ひとつきぶりくらいに綺麗な月が宵を照らしていた。心地よい夜風が宵の黒髪を揺らす。
 威峰山の山頂付近故に、地上で見る月よりもさらに近く、大きく見える。
 その美しい月を見て、宵は劉飛麗りゅうひれいの事を思い出していた。
 宵の閻帝国での義姉、劉飛麗はかつて、月明かりに照らされ美しく儚げな顔を見せていた。
 ほんの数ヶ月前の事なのに、あの頃が何年も前の事のように思えてとても懐かしい気持ちになる。

飛麗ひれいさん……無事だよね?  また逢いたいよ……」

 1人呟きながら、宵はポロポロと涙を零した。
 そのまましばらくの間、宵は夜風に吹かれ、月を見つめて劉飛麗を想っていたが、哨戒の兵士が心配そうに話し掛けて来たので、月を見ていただけだと伝えると、今度こそ幕舎へと戻った。

 ♢

 明け方。

 宵と桜史は兵士の報告で起こされた。
 結局宵は、地べたに座り、桜史が寝ているベッドの端に顔を埋めるように寝てしまっていた。もちろん、桜史が寝ている宵に手を出す事はなかったし、宵もイケメンにイタズラしたりはしなかった。何も起こらない、健全な夜だった。

「田燦殿より、威峰山の麓に楊良ようりょうと名乗る人物が来ているのですぐに来るようにとの事!」

「え!?  楊良がここに!?」

 宵は驚いて桜史の方を見たが、桜史も何も知らないと首を横に振った。

「目的は分かりませんが、とにかく、会ってみましょう」

 宵はすぐに桜史と共に兵士の後に続き、他の兵士から借りた馬を駆けさせた。


 威峰山の麓には田燦と数名の閻兵、そして1人の老人の姿があった。

「田燦殿、そちらの方が楊良殿ですか?」

 馬で駆けて来た宵が訊ねる。馬の扱いもすっかり慣れたものだ。桜史も馬をそつなく乗りこなしている。

「ええ、どうやら1人で来たようで、とにかく軍師殿に会わせて欲しいと」

 楊良は小さな岩に腰かけて俯いていた。立派な高山冠という縦長の冠を被り、高級そうな閻服だか朧服だかを身に纏ったいかにも高官といった様相の男だ。

 だが、楊良は顔を上げると冠を脱ぎ、整っていた髪をボサボサに掻き乱した。
 その姿に宵は驚愕した。

「そんな……まさか……楊良って……」

「お久しぶりですな、宵殿」

 楊良はニッカリと笑い宵の名を親しげに呼んだ。

謝響しゃきょう……先生……!?」
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