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第7章 洪州奪還戦

桜史、威峰山を占領する

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 椻夏えんかの東の威峰山いほうざん姜美きょうめいの軍が敗走したという報告は、麒麟砦きりんさいの宵のもとにすぐに届いた。
 宵の策が破られたのはこれで二度目。一度目は声東撃西せいとうげきせいの計で、朧軍が立て籠っていたこの麒麟砦を攻めた時だ。早くも朧軍の援軍が到着してしまい、後一歩のところで砦を落とす事は出来なかった。
 あの時、やはり現場に自分がいないと駄目だと思ったのに、今回も同じ過ちを繰り返してしまった。自分は安全な場所で指示を出すだけ。それが軍師の仕事ではあるが、自分の指示で動いた人間が傷付いたり命を落としたりするのは耐え難い悲しみだった。
 姜美と鄧平とうへいの生存は報告があったが、田燦でんさんと新たに校尉に昇進した8名の生死は不明。
 宵は今、この世界に来て初めての戦で感じたトラウマがまた甦ってきていた。

 脱力したまま自席に座りしょんぼりと俯く宵。
 その姿を見て、光世は掛ける言葉が見付からず、宵の隣に寄り添いぎゅっと抱き締めた。

「ありがとう、光世。次の手を……考えなきゃだよね。私しか、出来ないんだから」

「無理しないで。今は私もいるんだから」

「じゃあ、光世。1つお願いしていい?」

「もちろん。何でも言ってよ」

「しばらく、1人にして欲しい。ごめんね」

 宵の願いに、光世は呆気にとられたような顔をしていたが、宵の真剣な眼差しを見ると納得したようにコクりと頷いた。

「分かった。でも、辛かったらいつでも相談してね。私も考えておくから。次どうするべきか」

「ありがとう。けど、光世は朝廷の事と清華ちゃんの事を考えておいて。私は大丈夫。ちょっと1人で頭の中整理したらいい考えが浮かびそうだから」

「そっか。了解」

 光世は微笑むと素直に宵の部屋から出て行った。


 屋根を叩く雨音を聴きながら、宵は部屋の壁に掛けてある大きな閻帝国の地図を眺めた。
 地図には地形の高低差まで精密に記載されている。
 かつて間諜の歩瞱ほよう甘晋かんしんが調べてくれた邵山しょうざん琳山りんざんの間道も反映された閻で最も詳細な地図だ。
 宵は白い羽扇の羽根先で麒麟砦から椻夏、そしてその東の威山の山道をなぞる。さらにその羽根先は洪州の大河『蒼河そうが』をなぞった。

 蒼河をなぞり終えると、スっと羽扇を引っ込めた宵は腕を組み、1歩引いて地図全体を改めて見渡した。
 十面埋伏を見破ったのは貴船桜史きふねおうし閻仙楊良えんせんようりょうか。

軍争ぐんそうかたきは、もっちょくし、かんもって利とす……」

 宵は静かにそう呟いた。
 いずれにせよ、宵の考えの裏を読んだ事には違いない。ならばこちらは裏の裏を読めばいい。


 椻夏にも黄旺こうおうの軍が迫っていた。
 椻夏には太守の王礼おうれいと共に李聞りぶんがいる。李聞には久しく会っていない。宵の事を娘のように扱ってくれた恩人の李聞。今頃、黄旺の軍に備える為大忙しであろう。李聞には籠城するように指示を出していたが、威山の姜美の軍が抜かれてしまったのならその指示も変更する必要があるかもしれない。
 そして李聞の軍には鍾桂しょうけいがいる。すっかり勇ましい男になっていた鍾桂。彼の事を考えると、胸が熱くなり、股の辺りが疼くような切ない感覚を覚えるようになっていた。仕事中に鍾桂を思い出す事はないが、1人になると思い出してしまう。
 彼と出会った時、自分は捕虜で彼に縄で引きずり回され四六時中監視された。脚を触られたり、抱きつかれたり、あの時は嫌だったが、今はそうは思わない。鍾桂の愛は、元の世界の男達にはない純粋な愛に感じられたのだ。
 そんな愛しい李聞や鍾桂を死なせたくない。
 だから落ち込んでいる暇はない。宵はもう挫けないと決めていた。今はそばに親友の光世もいるのだ。

 宵は寝台に腰を下ろすと、腰帯に吊るした巾着袋から祖父の形見の竹簡を取り出した。
 この竹簡を取り出すのは久しぶりな気がする。
 一見変わり映えのしない『宵』と書かれた竹簡。

「おじいちゃん、力を貸して。私、皆を守りたい」

 1人、そう呟くと宵は竹簡を結んでいる紐を解き中をあらためた。

「ん?  ……あれ?」

 中の文章もパッと見変化はなかったように見えたが、最後の達成目標のところに薄らと黒い字のような跡が見えた。
 この祖父の形見の竹簡は、宵が何かを達成する度に文字が浮かび上がっていった。これまで達成したものは『挑戦』『感謝』『覚悟』『自立』の4つ。5つ目の条件が浮かび上がっているという事は、宵はまた気付かぬうちに何かを達成しようとしていたのだ。だが、それが何なのかは分からない。浮かび上がった文字が薄すぎるし、まだ文字の形にすらなっていない。それは達成条件に触れただけに過ぎないという事だろう。

「今までにして来た事の中に、最後の目標達成の鍵があったんだ」

 それだけ分かれば十分だ。これまでの行動を思い出し、その鍵となる事をしっかりと成し遂げれば最後の文字は浮かび上がり、元の世界へ帰る事が出来るはずなのだ。
 宵のこれまでの行動は間違っていなかった。

「これはおじいちゃんが甘ったれの私に与えた試練なんでしょ?  ありがとう。なら、私、おじいちゃんの思惑通り、ちゃんと成長出来てるよ。必ず、閻帝国と朧国を平和にして、元の世界に帰るから」

 独り言。けれどその言葉はきっと祖父、潤一郎じゅんいちろうが聞いている。宵はそう信じていた。


 ***

 降りしきる雨の中、朧軍軍師の貴船桜史きふねおうし葛州かっしゅう南部の要衝・椻夏えんかの東の威峰山いほうざんの山頂で、兵達と同じように笠を被り、幕舎の設営が終わるまで大木の下で雨をしのいでいた。

 将軍・逢隆ほうりゅうの1万の軍を3つに分け、2部隊を山道の両脇の森の中へ投入し閻の伏兵を強襲する策を立てたのは桜史だった。
 地形からして閻がこの場所に伏兵を置くのは分かりきっていた。囮として道の真ん中に姜美の軍2千を置いておくという分かりやすい罠である。

 だが、桜史が威山を攻めると提案した際に、逢隆ほうりゅうや他の武将達は勲功のみを考え意気揚々と先鋒を志願するだけで、伏兵の危険を指摘した武将達はいなかった。桜史が伏兵の存在を指摘しても、「兵力で押し通る」などと言ってさほど気に止める武将たちはおらず、皆楽観的だった。
 軍議の場には大都督の周殷しゅういんも同席していたが、今回は桜史の弁論を見ようとしていたのか、助け舟を出す事はなかった。

 そんな中、桜史の意見に加勢してくれたのが新参の楊良ようりょうという老人だった。閻から投降して来た楊良は閻の地形に詳しかった。威峰山の山道がどのような地形で、自分ならどこに伏兵を隠すか、伏兵に襲われた場合のこちらの被害など詳細に説明し、武将達を説き伏せた。
 お陰で愚鈍な逢隆も納得し、伏兵を警戒した桜史の部隊を3つに分ける戦法を取らせる事ができたのだ。
 桜史だけでは上手く説得出来なかっただろう。

 楊良はその後、周殷と共に椻夏攻めに連れて行かれてしまったので、桜史は短慮な逢隆に従わなければならなくなった。


 2人の兵士が、捕縛した1人の閻兵えんへいを桜史のもとへ連れて来た。恐怖のせいか、寒さのせいか分からないが、捕縛された閻兵の歯はカチカチと震えて音を立てていた。

「ここに伏兵を置くと言い出したのは誰ですか?」

「知りません」

 桜史の質問に閻兵はかぶりを振って俯いた。
 桜史は閻兵を押さえている朧兵の1人に目配せすると、その朧兵は刀を抜き閻兵の首元に突き付けた。

「し、知りません!  本当に知らないのです!」

「質問を変えましょうか。貴方の軍に女軍師がいますよね?  その者の名は?」

「あ……いや、それも知りません」

「自軍の軍師の名を知らないのですか?」

「本当です、俺はつい最近まで椻夏の李聞りぶん将軍・・のもとにいた兵卒です。兵が足りぬと言うので姜美将軍のもとに配属されましたが、軍師とは接点がなく見た事もありません。女軍師がいるというのは噂では聞いた事がありますが、詳細は何も知らないのです」

 女軍師の名前を知らないというのは嘘ではないのだろう。確かに最近配属されたただの兵卒ならば知らない可能性は十分にある。女軍師の事を知るには姜美直属の部隊を捕まえねばならないようだ。

「そうですか。伏兵に回された兵は皆貴方と同じ李聞の兵だった者だけしかいないのですか?」

「はい。伏兵部隊は指揮官を除いて皆李聞将軍の兵士でした」

 桜史はなるほどと頷くと、閻兵を押さえている朧兵に訊く。

「伏兵部隊の指揮官は捕まえましたか?」

「いえ、捕らえたのは兵のみで、指揮官らしき者は5名の遺体が確認されたのみです」

 兵士の報告に桜史は頭を抱えた。閻兵を捕らえれば、閻の女軍師の情報が得られると思ったが、そう上手くはいかないようだ。

「まあ、いいでしょう。姜美の軍は兵力不足である事と椻夏には李聞が加勢に動いている事、そして、李聞と女軍師は一緒にはいない事が分かりました。あと1つ、重要な事を聞きます。光世みつよという朧軍から投降した女とその下女の清春華せいしゅんかという者の消息を知っていますか?」

「朧から投降した女……あ、一度李聞将軍のもとにいたという女なら、確か客人として迎え入れられたと聞きました」

「客人として?  では、捕虜のような仕打ちは受けていないと?  今も李聞のもとにいるのですか?  下女も一緒ですか?」

「今はいないと思います。確か姜美将軍のもとに行ったような……。下女に関しては俺も分かりません」

「そうですか」

 閻軍には間諜を何人も潜り込ませてはいるが、女軍師や光世、清春華の情報は何一つ入って来ていない。どうやら閻軍は間諜に対する警戒が相当厳しいようだ。
 桜史は2人の朧兵に合図すると、刀を突き付けていた朧兵はその刀をしまった。

「捕虜はどうしますか?」

「洪州へ移送しておいてください」

「御意!」

 2人の朧兵は捕虜の閻兵を連れて行くのを見送ると、今度は逢隆ほうりゅうが不機嫌そうな顔で近づいて来た。

「桜史先生。勝手に捕虜の処遇を決められては困ります。この軍の指揮は私が執っているのですよ?」

「申し訳ございません。しかし、捕虜は殺さない事と周大都督の厳命がありますので、私が指示を出してもほう将軍が指示を出しても同じ事では?」

「指揮官は私です。貴方は軍への指示は出さないで良いです」

「分かりました」

 普段温厚な桜史だが、さすがにこの逢隆という将軍には腹が立った。見たところ30代前半くらいで桜史よりは年上だが、明らかに小物感が漂っている。鎧兜は一般の将軍達と同じものを身に付けているが、その挙動はどこか傲慢に見えた。
 こんな将軍に先鋒を任せるなど人選ミスなのではないか。驕るつもりはないが、自分がいなければこの男はここで死んでいたかもしれない。

「まあ、そんな怖い顔をしなさるな桜史先生。それより、先生が気になさっている光世という女子おなごは麗しいのですか?」

「どうでしょう」

「意地が悪いですね。麗しいから気になっているのではないですか?」

「いえ、友人だから気になっているのです」

「笑止!  男と女の友情など成立しません。そのような事も、勉強だけしか取り柄のない先生には分からないのですね。勉強のし過ぎも考えものだ」

 話にならない。そう思った桜史はケラケラと嘲笑せせらわらう逢隆を無視して設営が完了している幕舎へと向かった。

「光世という女子おなごが、先生にとってただの友人ならば、私が嫁に貰っても文句はないですよね?」

 桜史はまたも逢隆の言葉を無視した。
 朧軍には人格者しかいないと思っていたが、やはりどこの組織にも、そうでない者はいるものだ。

「瀬崎さん、厳島さん、春華しゅんかさん……皆無事でいてくれよ……」

 桜史は幕舎の中へ入るとそう小さく呟いた。
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