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第5章 葛州攻防戦
光世の火攻め対策
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闇夜の中の邵山と琳山からは無数の灯りが雨のように朧軍陣営へと降り注いでいた。
だが、厳島光世は冷静だった。
相手が瀬崎宵だと分かっているなら、宵がどんな手段で景庸関を落とそうとするのか大体想像がつく。
景庸関東側の朧軍陣営を南北で挟む天然の要害邵山と琳山。この山を兵法に精通した宵が見過ごす筈がない。必ず山から奇襲を仕掛けてくる。
そして奇襲には火攻めを採用するだろう。
瀬崎宵は兵法書の中でも『孫子』に特に詳しい。
その孫子に記載がある『火攻め』を取り入れる可能性は十分にあった。だから光世は火攻めへの対策をしておいたのだ。そして火攻めを使ったとしても、宵の性格なら人には火を掛けず、兵糧庫や武器庫、輜重を焼いてこちらを混乱させてくるだろう。
大学4年間の付き合いが、今敵として戦っている親友の戦術を破る事になるとは、まさに皮肉である。
「火矢は降り注いでいるのに、建物に火が点いていない」
陸秀は角楼の窓枠に手を付き、戦場の異様な点に気付いた。
「その通りです。敵が火攻めをして来るだろうと予想して、あらかじめ建物には湿った泥を塗らせておきました。これで我が陣営が火の海になる事はありません」
光世が言うと、陸秀は「よし!」と言ってすぐに兵士を呼び付けた。
「邵山と琳山の閻軍へ攻撃をする!」
「お待ちください。陸将軍。反撃はせずに様子を見ましょう」
「何故だ!? 攻められているのだぞ?」
「敵は我々より高所に布陣しています。高所への敵には低所から攻撃するのは兵法では禁忌。高所からの攻撃は低所への攻撃の脅威となりますが、低所から高所への攻撃はこちらに圧倒的に不利なのです。『高陵には向かうことなかれ』です」
「ならば、櫓から矢で応戦する! 櫓の高さならさほど高低差も関係あるまい!」
「いえ、その場合でも、こちらの不利に代わりはありません」
「何故だ?」
「邵山も琳山も険しい山。木々や岩が閻の兵士達を守る天然の盾となりこちらの矢は届きません。矢の無駄です」
「ならば、こちらも火矢を用い山ごと焼いてしまえば」
「風向きが変われば我が陣営が火に呑まれます」
陸秀は思い付く限りの策を言ったが光世にことごとく却下されぐうのねも出ず拳を握り締める。
「陸将軍、とにかくすぐに徐将軍に反撃しないように伝えてください。敵が痺れを切らしこちらへ攻め入るまでは万が一建物が燃焼した際の消火作業に徹するようにと」
「分かった」
陸秀は頷くと部屋を出て混乱する兵達に命を出す。
その様子を見て光世は頷いた。
「光世様」
ずっとそばに控えてい清春華は、陸秀が出て行ったのを確認すると小声で言った。
「火攻めを見抜かれていたんですね。一体いつから……」
「閻の軍師ちゃんが“伏羲先天八卦の陣”を使った頃からかな。ここまで有能な軍師が、正面突破だけを考えてる筈ないと思ったの。必ず奇襲を仕掛けてくる。そして、奇襲には南北の邵山と琳山を利用する筈。で、より確実に私達の退路を塞ぐ為に火攻めくらい使ってくるかな~って。軍師ならそれくらい考えるよ~」
光世は微笑みながら答える。
しかし、清春華は眉間に皺を寄せて光世を見る。
「大丈夫だよ春華ちゃん。私は友達探しを諦めたわけじゃないんだから。必ず……会うよ」
「……はい」
清春華は小さな声で返事をするとまた俯いてしまった。
友達に会う。それは嘘ではない。だが、光世の策を閻の間諜である清春華に話す事は出来ない。例えお互いの素性を知っていたとしても、朧国の軍師である以上、国を裏切る様な真似は出来ない。
清春華の不安な気持ちを今の光世には拭い去ってやる事が出来ないのがとても歯がゆい。
光世は黙って俯く清春華の頭を撫でてやった。
***
閻軍~琳山・姜美軍~
火が点かない。
それは姜美にとっては予想外の事態だった。
軍師・宵の策の通りに風は吹き始めた。
だから火矢を敵陣に放った。
しかし、火が点かない。
武器庫や兵糧庫の屋根や壁には確かに火矢が突き刺さった。その場では火は点いているのにまるで燃え広がらないのだ。
予想外の事態に焦った校尉の田燦が言う。
「姜美様。いくら火矢を射ても火が点きません。幕舎にも火矢を射掛けますか?」
「駄目です。それは軍師殿が禁じた行為。人がいる可能性の高い建物には火を点けるなと言われているでしょう?」
「しかし、このままではせっかくの奇襲が無駄に終わります。どの道、朧兵は殺すのです。敵に情けをかけて我々がやられては元も子もありません。我々は何の為にこの険しい琳山を行軍して来たのですか?」
「敵と言えども朧兵も我々と同じ人間。同じ命です。殺さずに済むのなら極力殺さない。それが軍師殿のご意志。私はそれを尊重します」
「軍師殿は閻の人間ではありません。我々が勝とうが負けようがどうでも良いのです。だから朧兵を殺すななどと甘い事を」
「それ以上軍師殿を否定する発言は許しませんよ。良いですか? 現場では私の命令が絶対です。従わぬなら軍法により斬ります」
「しかし……」
「見なさい。向かいの邵山を」
姜美は朧軍陣営の奥にに聳える邵山を指さした。無数の灯りがパラパラと朧軍陣営へ降り注いでいる。
「成虎殿の軍も火矢を放っていますがこちらと同じく火が点かない。ですが、幕舎や兵士に火矢を放つ様子はありません。それもその筈、我々の任務は朧軍の退路を断つ事。朧兵を殺す事ではないからです。彼らも軍師殿の命に忠実に従っているのに、何故我らが命を破れましょうか」
「なれば如何致します? このまま無駄に火矢を射続けるのですか?」
「もう少し様子を見ましょう。軍師殿は我々がここに到着出来ない場合も想定して策を立てています。待てば必ず次の策が成ります」
「本当ですか? もし、その策も成らなければ?」
田燦が鋭い眼差しで問う。この男は新参の軍師・宵を信用していない。姜美は田燦の鋭い眼差しに負けじと凛とした顔を向けた。
しばしの静寂。
風が姜美の兜の赤い房と黒いマントを大きく揺らす。
「その時は、私が下に降りて朧軍陣営に油を撒いてきます。貴方達は私の撒いた油へ火矢を放ちなさい」
姜美の命令に田燦はギョッとして目を見開く。
「そ、そんな事をすれば朧の陣営に火は点いたとしても、姜美様は無事には戻れませんぞ?」
「状況を打開するには犠牲もやむなしです」
「ならば私が代わりに参ります。姜美様にはこの軍を無事に連れ帰るお役目があります故」
「田燦。其方よりも私の方が小さく身軽です。下に降りても敵に気付かれず生き残れる可能性が高い。軍の事は其方に任せます」
姜美は田燦の肩をポンと叩いた。
「なりません! 姜美様にもしもの事があれば、費叡将軍も公孫艾様も心を痛めます。どうか私に行かせてください」
費叡と公孫艾。2人の名を出され姜美は俯いた。
2人とも田舎から出て来た名も無き自分を軍へ受け入れてくれた恩人だ。費叡は息子のように、公孫艾は弟のように姜美を可愛がってくれた。
2人の顔を思い出すと、一度固めた決意が僅かに揺らいだ。
──と、その時だった。
姜美の兵達が急に慌ただしく騒ぎ始めた。
「姜美様! ご覧ください! 朧軍の陣営に火の手が!」
田燦に言われその指さす方向を見ると、確かに朧軍の兵糧庫や武器庫から次々に火の手が上がり始めた。
「これは……」
「どうやら火は建物の内側から出ているようです。あ! ほら、あの兵士が松明を!」
田燦の言う通り、松明を持った1人の朧兵が火の点いた兵糧庫から飛び出して来た。
兵の姿を確認した姜美は立ち上がり、腰の剣を抜いた。
「今こそ好機! 全軍で朧軍陣営に降り、敵を景庸関へ押し込みます!」
姜美が剣を振り翳すと、兵達は鬨の声を上げた。
だが、厳島光世は冷静だった。
相手が瀬崎宵だと分かっているなら、宵がどんな手段で景庸関を落とそうとするのか大体想像がつく。
景庸関東側の朧軍陣営を南北で挟む天然の要害邵山と琳山。この山を兵法に精通した宵が見過ごす筈がない。必ず山から奇襲を仕掛けてくる。
そして奇襲には火攻めを採用するだろう。
瀬崎宵は兵法書の中でも『孫子』に特に詳しい。
その孫子に記載がある『火攻め』を取り入れる可能性は十分にあった。だから光世は火攻めへの対策をしておいたのだ。そして火攻めを使ったとしても、宵の性格なら人には火を掛けず、兵糧庫や武器庫、輜重を焼いてこちらを混乱させてくるだろう。
大学4年間の付き合いが、今敵として戦っている親友の戦術を破る事になるとは、まさに皮肉である。
「火矢は降り注いでいるのに、建物に火が点いていない」
陸秀は角楼の窓枠に手を付き、戦場の異様な点に気付いた。
「その通りです。敵が火攻めをして来るだろうと予想して、あらかじめ建物には湿った泥を塗らせておきました。これで我が陣営が火の海になる事はありません」
光世が言うと、陸秀は「よし!」と言ってすぐに兵士を呼び付けた。
「邵山と琳山の閻軍へ攻撃をする!」
「お待ちください。陸将軍。反撃はせずに様子を見ましょう」
「何故だ!? 攻められているのだぞ?」
「敵は我々より高所に布陣しています。高所への敵には低所から攻撃するのは兵法では禁忌。高所からの攻撃は低所への攻撃の脅威となりますが、低所から高所への攻撃はこちらに圧倒的に不利なのです。『高陵には向かうことなかれ』です」
「ならば、櫓から矢で応戦する! 櫓の高さならさほど高低差も関係あるまい!」
「いえ、その場合でも、こちらの不利に代わりはありません」
「何故だ?」
「邵山も琳山も険しい山。木々や岩が閻の兵士達を守る天然の盾となりこちらの矢は届きません。矢の無駄です」
「ならば、こちらも火矢を用い山ごと焼いてしまえば」
「風向きが変われば我が陣営が火に呑まれます」
陸秀は思い付く限りの策を言ったが光世にことごとく却下されぐうのねも出ず拳を握り締める。
「陸将軍、とにかくすぐに徐将軍に反撃しないように伝えてください。敵が痺れを切らしこちらへ攻め入るまでは万が一建物が燃焼した際の消火作業に徹するようにと」
「分かった」
陸秀は頷くと部屋を出て混乱する兵達に命を出す。
その様子を見て光世は頷いた。
「光世様」
ずっとそばに控えてい清春華は、陸秀が出て行ったのを確認すると小声で言った。
「火攻めを見抜かれていたんですね。一体いつから……」
「閻の軍師ちゃんが“伏羲先天八卦の陣”を使った頃からかな。ここまで有能な軍師が、正面突破だけを考えてる筈ないと思ったの。必ず奇襲を仕掛けてくる。そして、奇襲には南北の邵山と琳山を利用する筈。で、より確実に私達の退路を塞ぐ為に火攻めくらい使ってくるかな~って。軍師ならそれくらい考えるよ~」
光世は微笑みながら答える。
しかし、清春華は眉間に皺を寄せて光世を見る。
「大丈夫だよ春華ちゃん。私は友達探しを諦めたわけじゃないんだから。必ず……会うよ」
「……はい」
清春華は小さな声で返事をするとまた俯いてしまった。
友達に会う。それは嘘ではない。だが、光世の策を閻の間諜である清春華に話す事は出来ない。例えお互いの素性を知っていたとしても、朧国の軍師である以上、国を裏切る様な真似は出来ない。
清春華の不安な気持ちを今の光世には拭い去ってやる事が出来ないのがとても歯がゆい。
光世は黙って俯く清春華の頭を撫でてやった。
***
閻軍~琳山・姜美軍~
火が点かない。
それは姜美にとっては予想外の事態だった。
軍師・宵の策の通りに風は吹き始めた。
だから火矢を敵陣に放った。
しかし、火が点かない。
武器庫や兵糧庫の屋根や壁には確かに火矢が突き刺さった。その場では火は点いているのにまるで燃え広がらないのだ。
予想外の事態に焦った校尉の田燦が言う。
「姜美様。いくら火矢を射ても火が点きません。幕舎にも火矢を射掛けますか?」
「駄目です。それは軍師殿が禁じた行為。人がいる可能性の高い建物には火を点けるなと言われているでしょう?」
「しかし、このままではせっかくの奇襲が無駄に終わります。どの道、朧兵は殺すのです。敵に情けをかけて我々がやられては元も子もありません。我々は何の為にこの険しい琳山を行軍して来たのですか?」
「敵と言えども朧兵も我々と同じ人間。同じ命です。殺さずに済むのなら極力殺さない。それが軍師殿のご意志。私はそれを尊重します」
「軍師殿は閻の人間ではありません。我々が勝とうが負けようがどうでも良いのです。だから朧兵を殺すななどと甘い事を」
「それ以上軍師殿を否定する発言は許しませんよ。良いですか? 現場では私の命令が絶対です。従わぬなら軍法により斬ります」
「しかし……」
「見なさい。向かいの邵山を」
姜美は朧軍陣営の奥にに聳える邵山を指さした。無数の灯りがパラパラと朧軍陣営へ降り注いでいる。
「成虎殿の軍も火矢を放っていますがこちらと同じく火が点かない。ですが、幕舎や兵士に火矢を放つ様子はありません。それもその筈、我々の任務は朧軍の退路を断つ事。朧兵を殺す事ではないからです。彼らも軍師殿の命に忠実に従っているのに、何故我らが命を破れましょうか」
「なれば如何致します? このまま無駄に火矢を射続けるのですか?」
「もう少し様子を見ましょう。軍師殿は我々がここに到着出来ない場合も想定して策を立てています。待てば必ず次の策が成ります」
「本当ですか? もし、その策も成らなければ?」
田燦が鋭い眼差しで問う。この男は新参の軍師・宵を信用していない。姜美は田燦の鋭い眼差しに負けじと凛とした顔を向けた。
しばしの静寂。
風が姜美の兜の赤い房と黒いマントを大きく揺らす。
「その時は、私が下に降りて朧軍陣営に油を撒いてきます。貴方達は私の撒いた油へ火矢を放ちなさい」
姜美の命令に田燦はギョッとして目を見開く。
「そ、そんな事をすれば朧の陣営に火は点いたとしても、姜美様は無事には戻れませんぞ?」
「状況を打開するには犠牲もやむなしです」
「ならば私が代わりに参ります。姜美様にはこの軍を無事に連れ帰るお役目があります故」
「田燦。其方よりも私の方が小さく身軽です。下に降りても敵に気付かれず生き残れる可能性が高い。軍の事は其方に任せます」
姜美は田燦の肩をポンと叩いた。
「なりません! 姜美様にもしもの事があれば、費叡将軍も公孫艾様も心を痛めます。どうか私に行かせてください」
費叡と公孫艾。2人の名を出され姜美は俯いた。
2人とも田舎から出て来た名も無き自分を軍へ受け入れてくれた恩人だ。費叡は息子のように、公孫艾は弟のように姜美を可愛がってくれた。
2人の顔を思い出すと、一度固めた決意が僅かに揺らいだ。
──と、その時だった。
姜美の兵達が急に慌ただしく騒ぎ始めた。
「姜美様! ご覧ください! 朧軍の陣営に火の手が!」
田燦に言われその指さす方向を見ると、確かに朧軍の兵糧庫や武器庫から次々に火の手が上がり始めた。
「これは……」
「どうやら火は建物の内側から出ているようです。あ! ほら、あの兵士が松明を!」
田燦の言う通り、松明を持った1人の朧兵が火の点いた兵糧庫から飛び出して来た。
兵の姿を確認した姜美は立ち上がり、腰の剣を抜いた。
「今こそ好機! 全軍で朧軍陣営に降り、敵を景庸関へ押し込みます!」
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