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第3章 陰の軍師

その言葉は言わないで

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 ひつじの刻。
 瀬崎宵せざきよいの部屋には劉飛麗りゅうひれい清華せいかの他に、楽衛がくえいの斥候、歩曄ほよう甘晋かんしんがいた。

「間諜……私達が?」

「ええ。是非お願いしたいと思っております。貴方達2人の的確な情報収集能力。これは間諜に必要な能力です。ただ、これは敵国に潜り込み敵国の情報を持ち帰る任務故、非常に危険です。生きて帰れる保証はありません。なので、私からは命令ではなく、お願いをさせて頂いております」

 心苦しい頼み事。軍師の仕事というわけではないが、宵が提案した手前、自分で間諜の選抜からお願いまでしなければならない。他の校尉達に頼む事は、嫌な仕事を丸投げしている気がして嫌だった。やはり自分でやるしかないのだ。
 並び正座する歩曄と甘晋は難しい顔をして俯く。
 宵の背後に佇む劉飛麗と清華も重苦しい空気の中、2人の兵士を静観している。
 宵の額には汗が滲む。断られたらまた間諜候補を探す事になる。そうなれば果たして情報戦で朧国ろうこくに勝てるだろうか。
 しかし、そんな宵の不安は歩曄の返事で吹き飛んだ。

「承知致しました。間諜の任、謹んでお受け致します」

 歩曄は覚悟を決めたような面持ちで答えた。

「本当ですか?  あ、でも、今すぐ答えを出さずとも、一度ゆっくり考えて明日までに答えを頂ければ……何せ、国家の大事とご自身の命に関わる重要な──」

「私も、お引き受け致します。元より我々は軍に入った時に国に命を捧げる覚悟は出来ています。熟考など不要です」

 宵の言葉を遮り、甘晋も拱手して力強い言葉で答えた。

「本当に、それでいいんですね?」

 弱気に聞き返す宵。自分が逆の立場なら間違いなく断っている。それなのに、2人は少し考えただけで承諾してしまった。それが宵にはどうも解せない。

「軍師様、本人がいいと言ってるんですからいいんですよ。2人が考え直して断ってしまったらどうするのですか?  軍師様は優しすぎます。即決即断が宜しいかと」

 オドオドしている宵を見兼ねて清華が言った。やはりこの娘は肝が据わっている。清華の隣の劉飛麗は黙って清華の助言に首肯した。

「それでは、歩曄、甘晋に命じます。間諜として朧国に潜入し、朧国の軍事情報を持ち帰りなさい。詳細は、明日までに竹簡に認め渡します。お2人はその内容を覚えた後、竹簡を焼き朧国へ向かいなさい」

「御意!!」

 力強い拱手と返事が返ってきた。
 この命令が、宵の軍師としての初めての軍令となった。

 歩曄と甘晋が部屋を出ると、宵は劉飛麗を隣に呼び寄せた。

「飛麗さん。すみませんが、1日あの2人の行動を観察して頂けますか?  四六時中ピッタリくっつく必要はありません。普段どのような人間なのかを知りたいのです。私の前では忠義の兵士でしたが、それ以外で本性を見せるかもしれません。間諜に相応しくない人間なら先程の命令は取り消し新たな間諜を探します」

「かしこまりました」

 劉飛麗は淑やかに頭を下げるとすぐに部屋を出ていった。

「抜かりない……」

 ぼそっと清華が言った。宵が背後の清華を見ると、うら若き娘は宵の隣に腰を下ろした。

「どの道あの2人をお試しになる為に1日考える時間を与えようとしていたのですね?  その間に劉さんに2人を見張らせ、使える者ならば、明日詳細を伝える。使えぬ者ならば任を解く。そこまでお考えになられていたとは知らず、先程は出しゃばった事を申しました。お許しください」

「ああ、いいよ、謝らなくて。私は確かに優し過ぎちゃうとこがあるから、清華ちゃんみたいにキッパリ決められないんだ。だから、何か思ったら気にせず言って欲しい」

「……軍師様」

 清華の表情は花が咲くように明るくなった。

「さ、とりあえず、兵法書を成虎せいこ殿に渡しに行こう。出陣までに渡さないとだから」

「軍師様は偉いんだから、校尉くらい呼び付ければいいのに……」

「私はまだ新人なの。偉くないの。行くよ。はい、清華ちゃんはこれを持って」

「はーい」

 宵は清華に兵法書の竹簡を渡すと、自分は祖父の竹簡を持ち部屋を出た。
 清華は宵の将校に対する低姿勢に少し不満な様子だが、宵と話すのは楽しいのか、すぐに笑顔が戻った。


 ♢

 成虎の兵舎の外では兵達が出陣の準備に忙しなく駆け回っていた。斥候の報告では、巴谷道はこくどうの伏兵はおよそ千名程。成虎と龐勝の兵は、それよりも少ない8百名とした。
 兵舎の中に入ると成虎と龐勝がいた。2人は宵の姿を見ると席を立ち拱手した。

「軍師殿」

「成虎殿、龐勝殿。お約束していました兵法書です。1巻しか書き上げられませんでしたが、複製するなりお好きなようにご活用ください。くれぐれも、敵に渡らないように」

 念を押して、宵は清華に持たせていた兵法書を成虎に渡した。

「有難く頂戴致します。1巻あれば十分。これは私が持ち、決して敵には渡しません」

「どうかお気を付けてください。巴谷道はこくどうを突破するのは序章に過ぎません。本番は景庸関けいようかんの奪還なのですから。決して功を焦らず、慎重に」

「肝に銘じます。軍師殿の作戦に忠実に従い戦います」

 若い将校は強い光を宿した目を輝かせて応えた。その闘志は家族を殺された事への恨みからなのか、純粋に国を守りたいという忠誠心からなのか、経験の浅い宵には読み取れなかった。


 ♢


 囮の成虎と龐勝の部隊の出撃を見送った宵と清華は、李聞りぶん鍾桂しょうけいを見送る為、その足で隣の兵舎へと向かった。
 こちらも既に出撃準備は整っており、騎兵が整然と列を作って並んでいる。歩兵はまだバラバラと動き回り出撃前の最終点検をしているようだ。
 その中に馬に乗った李聞の姿があった。

「李聞殿!」

「おお、軍師。鍾桂には会わなかったか?  お前を探しに行ったのだぞ」

「え?  私を?」

 眉間に皺を寄せ首を傾げる宵。隣の清華も首を傾げる。

 ──その時だった。

「宵!」

 自分の名を呼ぶ声に宵は振り向いた。

「鍾桂君」

 鎧兜を纏った見慣れた格好の鍾桂が嬉しそうな顔をして駆け寄って来た。

「宵、今丁度君を探しに行こうとしてたところなんだよ。もしかして俺に会いに──」

 上機嫌に宵に歩み寄って来る鍾桂の前に清華がスっと立ちはだかった。

「無礼ですよ!  軍師様に向かって!」

 まるで近衛兵のように宵を庇う清華の勢いに、鍾桂は面を食らって固まった。
 この激しさは劉飛麗にはない。いきなり怒られた鍾桂が少し不憫に思えた。

「清華ちゃん。この人は私の友人です。無礼ではありません」

「なっ!  そ、そうでしたか。またわたくし、出しゃばった真似を……」

「いいえ。構いません。鍾桂君。皆がいる場ではそのように呼ぶのはやめてもらえますか?  私と貴方は上司と部下ですよ」

 宵は清華を咎めず、そして鍾桂を諭す。

「申し訳ありません。軍師殿」

 鍾桂は拱手して謝罪したが、一気に元気がなくなってしまった。

「李聞殿。少し鍾桂君をお借りしても?」

「構わん。ただ、あと四半刻後には出発する」

「ありがとうございます。清華ちゃんは少し待ってて」

 不満そうにする清華を待たせ、宵は鍾桂の手を引いて兵舎の陰に来た。

「鍾桂君、ごめんね。あそこではああ言うしか」

「いいんだよ、いつもの調子で話し掛けた俺が悪い。……ただ、少し寂しくなって」

「私も寂しいよ。でも、私達は立場上、ずっと一緒にはいられないから」

「物理的な距離だけじゃない。君が軍師になった事で、兵士である俺とは身分的にも離れてしまったなって……」

 柄にもなくしょんぼりとして、鍾桂は俯いた。確かに今の役職では以前のように簡単に会う事も出来ない。宵自身はその事をそれ程気にした事はなかったが、鍾桂はかなり気にしているようだ。

「元気出して。私が軍師になっても、君との思い出は忘れない。私と君はずっと友達だよ」

 宵の慰めの言葉を聞いた鍾桂は突然襟を正し、真剣な眼差しを向けてきた。

「この際だから言わせてもらう」

「え?  な、何?」

 宵の心臓は、鍾桂の圧力に反応し鼓動を早めていく。
 その鍾桂の真剣な眼差し。何を言おうとしているのか。
 宵には分かっていた。ずっと前から分かっていた。
 言わないで。その言葉だけは言わないで。心の中でそう願った。
 しかし──

「俺は君が好きだ。友達じゃなく……君と一緒になりたい」

 鍾桂の言葉を聞き、宵は唇を噛み締め目を瞑る。

「この戦が終わったら、俺と結婚してくれないか?」

 宵は返事を返せなかった。
 鍾桂が宵に世話を焼いてくれる理由。それは宵の境遇を知っての事だけではないと、薄々気付いていた。気付いていたが、鍾桂の想いは宵の想像を上回り、それを止める事は出来なかった。

「君がこの世界の人じゃないってのは忘れてないよ。君が元の世界に戻れるように協力したい気持ちもある。でも、それ以上に俺は君が欲しくなってしまったんだ……。だから……」

「もし、元の世界に戻る方法が見付かったら……お別れになるんだよ?」

 宵は目を開き、真剣な眼差しを送ってくる鍾桂に問い掛ける。

「俺も君の世界について行く」

「それは……無理だよ」

「無理かどうかは分からないじゃないか。俺、宵と一緒になれるなら何だってする!」

 宵はまた目を瞑った。鍾桂が諦める様子はない。
 この世界に長居し過ぎたのかもしれない。思えば劉飛麗や李聞にもかなり情が移ってしまっている。家族も同然の者達と別れるのは辛い。
 そもそも、元の世界に戻る方法など無かったとしたら……
 そこまで考えたが、その先は考えるのをやめた。今それを考えてもどうしようもない。今は鍾桂の気持ちに答えてあげるのが先だ。答えを貰えないまま戦場に行くのも、フラれて戦場に行くのも、どちらも鍾桂の心理状態にマイナスの影響を及ぼしてしまう。
 宵の答えは1つしかなかった。

「鍾桂君。君がちゃんと戻って来てくれたら……その時は考えてあげる」

「ホント!?」

「うん。それまで私は誰のもとへも嫁がないし、誰にも抱かれない。だから、絶対生きて戻って来てね」

 断られるのではないか、と、不安そうだった鍾桂の表情は一気に喜色満面になり、いきなり宵の身体を抱き締めた。

「もう、またそうやって……」

 鍾桂のセクハラにはもう慣れたものだ。それくらいは許してやろう。これから戦場へ赴く男に、宵が出来るのはそれくらいしかないのだから。


 ♢


 李聞のもとへ戻ると、歩兵も整列を完了しており、その隊列の中に鍾桂が急いで入っていった。
 李聞の隣には廖班りょうはん張雄ちょうゆうの姿もある。

「軍師よ」

「何でしょう?  李聞殿」

 呼ばれた宵が李聞のもとへ行くと、李聞は馬から下りて宵の耳元で囁いた。

「鍾桂に何を言われたか知らんが、もし、この戦の途中でお前が元の世界に戻る方法が分かれば、戦の事など気にせず元の世界に帰りなさい。誰もお前を恨んだりはしない」

 李聞の気遣いの言葉に宵はハッとした。戦の途中で帰るなど考えもしなかった。確かに、戻る方法が分かったとして、それが時間制限があったりした場合、突然この世界に別れを告げなければならない。それが戦の途中、つまり鍾桂が戦から戻る前である事も十分考えられる。

 しかし、宵はすぐにかぶりを振った。

「いいえ、李聞殿。私は中途半端に仕事を投げ出しません。皆命を懸けて戦っているのです。一度始まった戦。閻帝国えんていこくに勝利を齎すまでは私は軍師としての務めを果たします」

 宵の覚悟を聞いた李聞は拱手した。

「立派だ。ならば我々は出来るだけ早く朧国ろうこくを退け、この戦を終わらせ軍師の任を解いてやらねばな」

「どうかご無事で。私は私の出来る事を全力で致します」

「行くぞ!!!  出陣!!!」

 廖班の号令がかかった。

 およそ2万近くもの大軍は、廖班、李聞、張雄の指揮のもと、ゆっくりと動き出した。

「軍師様。あの兵士の人や李聞様と何を話されていたんですか?」

「ん?  大人の話だよ」

「私も大人ですー」

 宵は頬を膨らませる清華と、土煙を巻き上げて去りゆく兵達を見えなくなるまで見送った。
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