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第2章 宵の異世界就職活動

朧国侵攻・景庸関に至る

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 程燐械ていりんかいが帰ると、劉飛麗りゅうひれいに風呂に入るように言われた瀬崎宵せざきよいは、手早く入浴を済ませ、さっぱりした身体で部屋に戻って来た。

「あ!  飛麗さん、何してるんですか!?」

 宵の視界に飛び込んで来た光景に思わず声を上げた。椅子に座った上裸の鍾桂しょうけいの身体を、劉飛麗が桶に汲んだお湯を布で濡らし、丁寧に拭いてやってるのだ。

「ち、違うんだよ、宵!  俺は自分で出来るって言ったんだけど、劉さんが……」

 慌てて言い訳をする鍾桂を他所に、劉飛麗は構わずその鍛え抜かれた男らしい身体を拭い続ける。

「怪我の手当のついででございます。5日間も身体を洗っていなかったようで、さすがに臭いがキツかったので」

 ハッキリと辛辣な事を言いながら、拭った布をまた桶のお湯に浸しそして絞った。桶のお湯はだいぶ濁っている。
 申し訳なさそうに宵と劉飛麗を交互に見る鍾桂の額には包帯が巻かれており、すでに治療は完了しているようだ。

「さて、上は終わりました。宜しければ下も、わたくしが綺麗にして差し上げますが」

「そ、そこまでしなくていいです!」

 その提案にギョッとした宵はすかさず止めに入る。

「お、俺もう寝ますので……ありがとうございました」

 断った鍾桂だったが、心做しか残念そうな顔をしているように見えた。きっと宵がいなければ劉飛麗の提案に乗っていたに違いない。

「左様でございますか。それでは鍾桂様。わたくしの寝台をお使いください」

「え?」

 宵と鍾桂は同時に首を傾げる。

「飛麗さんは何処で眠るんですか?」

「わたくしは床で寝ます」

「そんな!  駄目ですよ」

 当然のように言う劉飛麗に宵は反論する。もう劉飛麗は宵にとって姉も同然。土足で踏み歩く床の上でなど寝かせられない。

「あの、ご心配なく。俺が床で寝ます。兵士ですからそういうのには慣れてますので」

 空気を読んだ鍾桂が苦笑しながら言った。まあ確かにこの状況ならそうしてもらうしかない。客人用の寝台も布団も残念ながらこの家にはないのだから。
 しかし、劉飛麗は首を横に振る。
 
「いえ、宵様のご友人の方を床で寝かせるなど出来ません。ならば、鍾桂様。狭いですが、わたくしと一緒に──」

「絶対駄目です」

 劉飛麗はたまに冗談を言ったりするので、今の発言も冗談だと思うが、宵はキッパリとその提案を否定した。他所の男が劉飛麗のような美女と同じ布団で寝るなど有り得ない。

「しかし、宵様と鍾桂様を同じ布団で寝かせるわけには参りません。困りました」

「あ、あの、俺は宵と同じでも」

「私と飛麗さんが一緒に寝れば解決ですよ」

 宵は劉飛麗の腕に抱きつき頭を擦り寄せて笑顔を見せる。鍾桂の話は聞こえなかった事にした。

「鍾桂君、私の寝台使っていいよ」

 何とも言えない表情の鍾桂にも宵は微笑みを送った。

「宵様の仰せのままに」

 劉飛麗は軽く頭を下げて了承した。

「鍾桂君。今日はゆっくり寝なよ」

「うん。ありがとう。宵」

 鍾桂は頷くとそのまま宵の寝台に横たわった。壁際を向いてしまったので、もうその顔は見えなかった。


 明かりが消された。

 静かな夜だ。
 思えば劉飛麗の布団で共に寝るのは初めてだった。
 石鹸の良い香りが長い黒髪から香る。
 宵は目を瞑らず天井を見つめていた。

「飛麗さん。あの、勝手に軍に戻る事にしちゃって……ごめんなさい」

 小さな声で宵は隣に寝ている劉飛麗に言った。

「謝る事などありません。わたくしは宵様が決断された事に付き従うまで。わたくしは貴女の下女なので」

 劉飛麗はいつも通りの答えを返す。その気持ちは嬉しいが、それは少し寂しい返事でもあった。

「ありがとうございます……でも私、軍に戻るんですよ?  危険だからやめなさいとか、言わないんですか?」

 宵の質問に劉飛麗は少し考えて、それから口を開いた。

「言いません。私に貴女の行動を否定する権利はありません」

「やめて」

 そう言って劉飛麗の方を向くと、劉飛麗も宵の方を見た。薄暗い部屋でも分かる大きく綺麗な瞳。困惑した表情を宵に向ける。

「もう貴女は下女じゃない。家族みたいなものじゃないですか。私、飛麗さんの本当の気持ちを知りたい」

「宵様……」

「“様”もいらない」

 宵の真剣な眼差しを躱すように、劉飛麗は一つ息を吐くとまた天井を見た。

「そういう訳には参りません。私は家族ではないのです。廖班りょうはん将軍に雇われた下女。貴女の面倒を見ろと命令されています。その主従関係を崩す訳には参りません。それが宵様の命令であっても」

「それじゃあ、廖班将軍に私の下女の仕事を辞めるように言われたら、私と貴女は他人になるって事ですか??」

「そういう事になりますね」

 天井を見たまま、劉飛麗は淡白に言ってのけた。それは宵にとってあまりにもショックな反応だった。

「嫌です!  そんなの!」

 子供のように宵は劉飛麗に抱きついた。

「それなら下女でいい。だから……何処にもいかないで……飛麗さん」

「行きません。わたくしが貴女の下女である限りは」

 そう言った劉飛麗は宵をそっと抱き返してくれた。柔らかく温かい大きな胸に顔を埋め、劉飛麗の温もりを味わった。こんなに優しくて温かい。この異世界で一人ぼっちの宵の唯一の家族。例え劉飛麗がそう思っていなくても、紛れもなく劉飛麗はこの世界での宵の“姉”だった。

 やがて宵は劉飛麗の柔らかな胸の中で眠りに落ちた。


 ***

 廖班が鍾桂に宵を連れて来るよう命令してから5日後。
 閻帝国えんていこく朧国ろうこくの国境である景庸関けいようかんの3里 
 (約1.2km)先に、5万もの朧国軍が集結していた。
 地を埋め尽くすような夥しい数の黒い具足を身に付けた兵隊。
 歩兵や騎兵、遠く後方には攻城兵器も見受けられる。
 対する景庸関の兵は、張雄ちょうゆう安恢あんかい率いる2万と蔡彪さいひょう率いる5千の計2万5千。とてもまともに戦っても勝機はない。

「侵略者共め」

 景庸関の防壁の上で朧軍を睨み付け蔡彪は白い立派な顎髭を撫でながら呟いた。
 蔡彪は齢60を超える老将だ。かつて閻でも戦があった頃は先鋒で戦場に突撃し無数の敵を討ち取った歴戦の猛将でもある。故に現在は“牙門将軍がもんしょうぐん”の廖班よりも位の高い“討虜将軍とうりょしょうぐん”の称号を持っている。実力でのし上がった将軍というわけだ。

「ここまで本格的に軍を動かすとは。蛮族の考える事は分かりませんな、蔡彪将軍」

 隣で朧軍を見ていた張雄が言った。

「張雄と言ったか?  何故廖班がここへ来んのだ?  奴は将軍であろう。貴様らのような校尉を寄越して来るところを見ると、怖気付いたのか?」

「いえ、廖班将軍には高柴こうしの守備という任がありますので……」

「そうか。今守るべきはこの景庸関だという事は誰の目にも明らかだと言うに、まったく若造は気楽で良いな。ま、2万の兵を寄越してくれた事だけは礼を言おう」

 蔡彪の態度に張雄ムッとした様子で突っかかる。

「お言葉ですが蔡彪将軍。廖班将軍は元々麁州そしゅうの軍。それを葛州かっしゅうに赴任して早々に軍を動かしました。しかし、肝心の葛州の軍はどうです?  要所である景庸関にたったの5千しか兵を配せず援軍もない。それに、先の賊軍戦では朧国からの賊軍の侵入を許しただけでなく、高柴の危機に駆け付けもしなかったではありませんか。廖班将軍が動かなければ、そこにいる成虎せいこ龐勝ほうしょうも討死していたでしょう」

 張雄の隣にいた成虎と龐勝はバツの悪そうな顔で俯く。

「校尉風情が生意気な口を。良いか、葛州の軍は動いていないわけではない。東に朧国、北に鳴国めいこくと2ヶ国との国境に接している葛州は防衛する拠点が多い。元より兵の少ない葛州兵を数多の拠点に割かねばならず、どうしても各拠点の兵力は少なくなる。先の賊軍共は景庸関ではなく複数ある邵山しょうざんの山道を通ってやって来た。今回もそちらの防衛もせねばならず、さらに兵力は少なくなった。まあ、敵が景庸関に標的を絞ったと分かった以上、各拠点から直に援軍も来る」

 そこまで言われると張雄は何も言い返せず俯いた。それを見て蔡彪が鼻で笑った。

「ん?  蔡彪将軍!  朧軍から1騎駆けて来ます!」

 防壁から身を乗り出して朧軍を観察していた安恢が報告した。
 景庸関の門の前にある堀に架かった橋の前まで来るとそれは止まった。馬上から防壁の上の蔡彪達を見て男が叫んだ。

「朧国軍、安西将軍あんせいしょうぐん陸秀りくしゅうと申す!  貴国の民が何人も我が朧国へ亡命して来ているのはご存知か?  聞けば貴国は悪政を敷いて民を苦しめる悪辣な国家らしいではないか!」

「儂は蔡彪と申す!  将軍殿。そのような流言飛語に惑わされるとは、少しの知性もお持ちでないのか?  見ての通り、国境の守備は万全。兵馬も武具も兵糧も潤沢に準備がある。何も困ることの無いこの国が民に悪政を敷く悪辣な国家だなどとは片腹痛い!  そんな事を言う為にわざわざ大層な軍隊を連れて来たのか?」

 蔡彪の反論に陸秀は小馬鹿にしたように大きな声で笑った。

「軍が整っている事と民が満足している事は関係がない!  私は其方と問答をしに来たわけではない。閻の民を救いに来たのだ!  腐ったまつりごとを続ける悪の国家に代わり、我々朧国が閻を統治してやろう!  さあ!  武器を捨て、門を開けよ!  降伏すれば命は奪わん!」

 それは降伏勧告。突然軍を連れて来て因縁を付けてきた聖者気取りの国に戦わずして降伏する国があるのだろうか。

「朧の国の名に泥を塗りたくなければ大人しく帰れ!  賊軍が!」

 陸秀の降伏勧告を蔡彪は一蹴した。
 これで戦争は始まる。
 陸秀はそれ以上何も言わず、馬でもと来た道を引き返し自軍へと戻って行った。

「若造共!  戦だ!  弓と矢を用意しろ!  この景庸関で奴らを止める!  絶対抜かせるな!」

 蔡彪の威厳のある命令が飛ぶ。

「御意!」

 張雄達援軍に来た将校達が一斉に動き始めた。

 斯くして閻帝国と朧国との戦は幕を開けた。
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