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第1章 転移、流されるままに

戦。それは人が死ぬという事

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 空が白み始めた頃、戴進たいしんの部隊が荒陽こうようから矢を2万本運んで来た。
 それを李聞りぶんら将校が各隊の隊長に配り、それを弓兵に行き渡らせた。これで敵軍の兵の数より矢の本数は上回ったはずだ。
 瀬崎宵せざきよいはすっかり乾いた服を着て、騎兵隊の後ろまで鍾桂と共に下がった。例の如く宵は鍾桂しょうけいの馬の前の席に乗せられた。もちろん、麻縄は手首に縛り直されているが、緩めに縛ってくれたので初めの頃よりだいぶ拘束感はない。そうは言っても、麻縄から伸びる縄は背後の鍾桂がしっかりと握っているので逃げ出す事は出来ない。
 後衛の騎馬隊の中には廖班りょうはんと李聞が堂々と構えている。騎馬隊の後ろには太鼓が2つ設置されており、その前にそれぞればちを持った兵が直立している。

 朝日が昇り始めると遠くから大勢の人間の声が聞こえてきた。それはゆっくりだが、徐々にこちらに近付いて来ている。
 声が近付いて来るにつれ、宵の身体は震え始めた。武者震いなんかではない。単純な恐怖からだ。

「大丈夫。俺が守る」

 宵の恐怖を感じ取った鍾桂は宵の両肩に手を置き優しく言った。
 宵はこくりと頷く。

 それから1分程で敵の姿が視界に入った。
 その数は李聞の言っていた通り、こちらの兵力の倍以上だ。騎兵や歩兵が入り交じり無秩序にこちらに向かって来る。確かに大軍勢だが、その動きは軍隊ではなく素人の集まりのようだ。
 敵軍を見たこちらの兵達に緊張が走る。連敗続きの兵達は臆病風に吹かれている。
 前衛の弓兵は皆勝手に構え始めた。

「李聞殿!  まだです!  弓兵に早まらないように言ってください!  攻撃開始は私が指示します!」

 宵が叫ぶと騎馬隊の中の李聞は頷いた。

「弓兵!  弓を下ろせ!  敵を十分に引き付けろ!」

 李聞が指示を出すと、張雄ちょうゆう安恢あんかい楽衛がくえい戴進たいしんも同じ指示を自分の隊に言い付け全軍に宵の指示が行き渡り弓兵は弓を下ろした。
 凄い。自分の指示がこんな大勢の人達に届いた。宵は初めての経験に心が昂った。
 敵は確実に近付いて来る。喊声、地響きが徐々に大きくなり宵を物理的に震わせ始めた。その空気を震わす程の気迫は馬にも届き、大人しかった馬も身体を震わせたり地面を蹴ったりして興奮し始める。

 敵は手前の荒水こうすいまで押し寄せている。
 止まる気配はない。
 行ける。
 宵の読み通り、賊軍はまるで躊躇いもせず荒水に飛び込み、水飛沫を上げながら真っ直ぐに押し寄せる。

「まだです!  まだ!」

 宵が叫ぶ。今、宵のやるべき事は策を成功させる事。それだけを考えた。勝つ事。勝たなければ死ぬのだから──

 敵の前衛は荒水を渡切ると、2本の川の間の平地も走り抜け墨水ぼくすいに飛び込んだ。まるで止まる様子はない。勢いだけで突撃してきている。まさに猪突猛進。もう少しでこちらに届きそうだ。
 宵は唾を飲む。

「太鼓!  士気を高めてください!」

 宵の指示で李聞が太鼓を鳴らさせた。
 ドンドンと太鼓の前の兵が太鼓を打ち鳴らす。その音は兵達に気合いを入れていく。宵もいつの間にか拳を握り締めていた。
 敵の前衛は墨水の真ん中に差し掛かる。こちらの布陣と同じくらい横長に広がり波のように押し寄せる。

「弓兵構え!」

 宵は敵に目をやったまま自然に指示を出していた。そしてその指示も今や李聞を通して自然に全軍に届く。自分の指揮で全軍が動く。堪らない、この快感。そうだ。自分はこれを求めていたのだ。宵は未だかつてない程に心踊り興奮していた。

 敵の前衛が墨水を渡り終えようとしたその時──

「放て!!!」

 宵の攻撃命令はすぐに実行に移され、一度に何千本もの矢が川を渡る敵を射殺した。
 川の中の敵は次々と倒れていくが、数に任せて怯む事なく突き進んで来る。太鼓の音は心臓の鼓動と同じくらい早くなっていた。
 川の中で敵が血を流して倒れていく。太鼓の音に掻き消されず、悲鳴はしっかりと聞こえてくる。
 こちらの前衛の弓兵は矢を1本射るとすぐに後ろの弓兵と代わり、敵に休む暇を与えず続々と矢を射続ける。未だ墨水を渡り切った敵はいない。
 次々と矢で射殺される同胞を目の当たりにした敵は半分程が渡河を諦め川の中で引き返そうと背を向けるが、川の中では思うように退く事も出来ず、逃げようとした敵の背中に矢が容赦なく突き刺さる。

 川に浮かぶ敵は増え続ける。
 2本の川の間の敵は右往左往しながら何も出来ずに絶えず飛んで来る大量の矢の餌食になり倒れていく。

 阿鼻叫喚。それはまさに地獄絵図だった。

 宵はその光景に言葉を失い、ただ血を流し叫び苦しみながら死んでいく敵を見ている事しか出来なくなっていた。

「宵?  大丈夫!?」

 様子のおかしい宵に気付いた鍾桂が宵の身体を揺する。
 宵はただ何度か頷いただけでもう声が出なかった。

 もう何分経っただろうか。延々と繰り返す凄惨な光景。一方的に行われる殺戮。敵はヤケになっているのかかなりの損害を出しているのに指揮官らしき男は突っ込めと指示を出し続ける。


 それから更に時間は流れた。
 ようやく敵は渡河をやめた。だが、その頃にはもう数百人程しか残っておらず、蜘蛛の子を散らすように潰走しているところだった。

 墨水も荒水も死体に埋め尽くされ水は真っ赤に染まっていた。

 周りからは勝鬨かちどきが上がった。
 廖班が嬉しそうに剣を高らかと掲げ何か言っている。

 勝った。勝利した。喜ばしい勝利。
 それなのに、宵の身体はまだ震えていた。
 目を見開いたまま、青白い顔をして、顔からは滝のように汗を吹き出していた。

 宵の心の中で勝利は喜びと結び付かなかった。

 この日、宵は自分の策で大勢の人間を殺したのだ。
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