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己を知らぬ大魔法使い
カルドネの円周率のような言い訳を聞こう contrast Cardone.
しおりを挟むとんでもないっとんでもないっとんでもないぞっあの男はっ。
めまいで視界がくらむ中、目を瞑ってでも歩ける慣れ親しんだ廊下を小走りで駆け抜ける。その足音は子供がえりをしたように不機嫌を撒き散らし、すれ違う使用人を怯えさせた。大きく揺れる自身の影が、赤く染まった頬を冷やかすように何処までも着いて回った。
リマインダー公爵家副執事、カルドネ。
自他共に認める鉄仮面、の筈だった名字を持たぬ一階の使用人は、余りある欲に容易く乱されてしまった。
深紅の絨毯が、まま自身の肌色に思える程、全身の火照りが治らない。
冷静さを取り戻そうと、立ち止まり一つ深呼吸をしたカルドネは、窓ガラスに写る自身の横顔に思わず唖然とし、ただただ驚愕した。思わず二度見してしまった先、顔を真っ赤に染め、口の周りを仕切りに舐める自身と目が合う。口を舐める仕草は、理性を失いかけたカルドネがよくしてしまう癖だ。故に屋敷でこの癖をする事は滅多にない、筈だった。
「{なっこんなのっ}」
私ではないっ!断じてっ!
逃げるように使用人室へ駆け込む。認めたくない幸福感。いや、幸福とは言い難い欲の塊のような衝動。拒絶心がカルドネの身体に呼吸を忘れさせた。
今ならこの肺を覆う苦しさも、甘酸っぱいそれだと勘違いしてしまいそうだ、抗うように止めていた息をぶはぁーーっと吐き出し、戸を背に膝から崩れ落ちた。
部屋の隅にぽつりとうずくまる大きくて小さな塊。止まらなくなってしまった溜息に段々と質量が生まれる。影を被った床へと、今日一番に重い溜息を肺の底から吐き出すと、立てた膝で上半身の全体重を支えた。
『{ペテンの姿は、貴方の小さい時大好きだった英雄伝の大魔法使い様そのなのだものね}』
『{カルデ、カル、ありっ、きらい}』
ドスンッ
尻餅が屋敷中を派手に揺らす。誰もその激震が、煩いからきた衝撃だとは夢にも思わないだろう。子供の時から憧れていた大魔法使いの姿をした青年。別人だと分かっているのに止まらなくなってしまった欲。治らない火照り。10畳程の空間は、時を刻む秒針の規則的な音と動悸混じりの心音が交差する。
「{きらい}」
くっ、言葉では言い表せない感情の渦が全身の機能を鈍らせた。
「{嫌い}」
放たれた『{きらい}』の一言が頭から離れない。
「{しろよ····ッ···}」
私は知っている。人を狂わせるこの感情の正体を。そして、その邪悪とも言える感情の結晶こそが私だという事も。
ドンドンドンッ
頬を赤く染めたカルドネは後頭部を何度も何度も戸へと打ち付けた。
顔も思い出したくない母、文面でしか知らない父。
唯一脳が拒絶しないのは、私と同じ鋭い爪を持ったあたたかい手と、英雄伝を読み聞かせてくれた優しい声音だけだ。
項垂れたカルドネの顔が醜く歪む。その表情は『憎悪』と『激怒』に塗り潰された。
母はワイトホープ王国、西部の田舎街に小さな領地を構える貧乏な男爵家の小間使いとも呼べない、しがない見習い女中だった。その日は西部では滅多にお目にかかれない、晴れているのに雷が鳴り響く、見事なまでの日向雨が降り滴った奇妙な嵐の日だった。
急いで洗濯物を取り込んでいた母を家政婦長が呼びつけた。
後に知るその知らせは、幾重もの偶然が折り重なって生じた出来事だった。
貧相な屋敷前に鎮座する場違いに煌びやかな馬車。有無を言わさず運び込まれる高級品。無機質な使用人。
屋敷中の人間が思わず自身の首を撫でてしまうのも当然だった。
死にたくない、関わりたくない、男爵家に関わる全ての人間の意見が一致した。
『{早急に柱を立てなければ}』
一足先に屋敷へとやって来た伯爵家の使用人達は無言の圧の中、早々に格の違いを見せつけ、男爵家を打ちのめした。
北部の名のある伯爵家、小伯爵率いる一行が馬車の修理を理由に屋敷への滞在を申し込んだのだのは、まだ日も沈まない表、緑みの青の刻だった。
慌ただしく駆け回る使用人。もてなしとは縁のない貧乏男爵家。しかし、名ばかりの男爵家に断る権利など当然なく、男爵はその申し出を渋々受け入れ、屋敷内は途端に騒がしくなった。
当時の母は、やっと一人での窓掃除を任された塵と同価値、最下級の小間使いだった。真面目で臆病な何処にでもいるまだ恋も知らない冴えない少女。しかし屋敷で一番若く、獣人という事もあり身体が丈夫だった。
元は男爵に拾われた流れ者だった母は、拾われるだけあり西部の田舎では浮く程の整った顔をしていた。獣人だが獣臭さを感じさせない可憐な様相は度々、男爵の手付きを噂されたが、この日の家政婦長からの呼び出しにより、その疑いは完全に払拭された。
『{私達ではお目にかかれない程、高貴なお客様です。貴方の小さな失敗で当主様含む屋敷中の人間の首が飛ぶと思いなさい}』
『{ですがっ家政婦長様、私には荷がお···}』
『{お黙りなさい。貴方には選択をする思考すらあってはならないのです}』
それは色を呼ぶ金を惜しんだ男爵の下衆な配慮だった。そして、その配慮の意味を理解していないのは、屋敷内で母一人だけだった。
滞在中の間、小伯爵の世話係に任命された母は、家政婦長の言葉をそのまま受け取り、今まで以上に人一倍働いた。
神経を研ぎ澄まし、寝る間も惜しんで最上級のもてなしを志た母は、側から見れば甲斐甲斐しくさぞ意地らしい存在に見えただろう。
その努力は実を結び、数日で小伯爵に話しかけられるまでの信用構築が成された。
しかし綻びは不意に訪れる。
書斎での出来事。本を手渡し不意に触れ合う肌と肌。蓄積され続けた疲労と緊張がドクドクと鼓動を速める。二人きりの書斎は、たちまち二人きりの世界になった。
屋敷で慌ただしく働く使用人達への背徳が、母の鼓動を大きく揺らした。首が飛ぶかもしれない緊張感を小伯爵への恋慕だと錯覚した愚かな母は、その想いを募らせ小伯爵はそれを容易く受け入れた。
整えた書案が途端に更地になる。舞い散る書類。倒れるインク瓶。床に散らばる書籍。アイロンしたばかりの制服が乱れ、上からは荒い息が降り注ぐ。その演出は、まっさらな母を酔わせるには十分な要素だった。
揺れる天井を見上げる男爵の口角が、醜く釣り上がった事など知らずに。
高貴で見目麗しい伯爵と、卑しい下級小間使いのアバンチュール。まるでロマンス小説のヒロインになった気分だった。
何度も何度の母から聞かされた歪んだ物語が、カルドネの顔をさらに歪ませる。
『{私は人生の主役なのよ}』
小伯爵の世話で出来た赤切れさえをも愛おしく感じたと話す母。幼いカルドネが見たそのあたたかい手は、浅黒く皺だらけで爪も歪に割れていた。しかし、母に見える自身の手は、当時のまま若々しく赤切れまみれの美しい少女の手だった。
当時の小伯爵に誤算があったとすれば、母が獣人だったという事だろう。
獣人は己の運命の番を決めたら、一生を添い遂げる。親離れと共に一人で生きていかねばならない最古の獣人族、ルーガルーの母は天命のようにそれを信じていた。しかし小伯爵は人間だ。心が揺らがない訳が無い。そもそも小伯爵にとっては、揺らいではじまったひと時の火遊びなのだから。
その後、天命のように捨てられた母の人生は悲惨だった。永遠の愛の代わりに永遠の渇きを得たからだ。ルーガルーのヒートは己で決めた番でしか癒せない。当然、獣人族の抑制剤は当時から存在したが、番を決めてしまった個体には効力が無いに等しかった。また、現代ほど明確に医学が公表されていなかった事もルーガルーと相性が悪かったと、今では理解できる。自然の摂理を重んじる獣人族の中でも最古の種族とされるルーガルーにとって、抑制や中絶は種族の営みに反する禁忌とされていたからだ。
小伯爵の手付きとなり、ロマンス小説から抜け出せなくなってしまった母は、歪んだ癖を持つ男爵の文字通りの吐口となった。母の美しさに利用価値を見出し、味を占めた男爵は、腹に膨れた子の養育を条件にまんまと母を囲い込み、人並みの暮らしを保証する一方、裕福な貴族の夜の相手をさせ、自身のコネクションづくりに利用した。渇きを癒したい母と上へと昇り詰めたい男爵。一種の利害関係が成立したのだ。
朝は女中として働き、夜は慰み物として働いた母は簡単に壊れた。
故にカルドネは壊れた母しか知らない。
男爵は爵位を餌に、持たざる自身の弟と母を結婚させ、大胆にも自身の領地を取り仕切っていた侯爵へ、それ専用の愛妾として母を差し出した。
男爵の念願叶い、元は貧乏な男爵は侯爵領内に新たな領地を賜り、晴れて子爵にまでなったのだ。
その後、若さと美貌を失った母は侯爵家を追い出され、利用価値がなくなった途端、名ばかりの夫からも捨てられた。
愚かな女だ、嗚咽混じりに呟いた言葉がカルドネの胸を締め付ける。
男爵が私を生かした理由はただ一つ。私に北部と繋がる利用価値があったから。母が私を見捨てなかった理由はただ一つ。私に小伯爵の面影があったから。
母は息を引き取る直前まで小伯爵の迎えを待っていた。既に新たな小伯爵が誕生しているとも知らずに。
「{私が欲しいのは愛だ}」
平穏で安らかな愛が欲しいっ、叫びにも似たバリトンが突板の床を這う。
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