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記憶を持たぬ大魔法使い
5、土がどうしようもなく甘かった話をしよう
しおりを挟む扉を開け恐る恐る視線を上げると、予想と反する光景が広がっていた。
「········此処でキミに逢えるとは」
緊張で強ばっていた身体の力がみるみるうちに抜ける。拍子抜けとは正にこの事だ。全身の緩みと比例したように抱き抱えていたアゴヨワがズルズルと地面に落ちていく。俺に無理矢理抱えられ、半身がずり落ちたアゴヨワは全てを諦めたかのように、ただただ天を仰いでいた。
視界いっぱいに広がるのは、何処までも続く湖。空の青と湖の青とが水平線で永遠にぶつかる。途端に薄暗かった部屋の中に優しい光が差し込んだ。申し訳なさを感じつつもアゴヨワをドアストッパーにすると、日の光が小屋全体に入り込み、俺達と孤島のようになった小屋をやさしく照らす。
無意識に一歩足を踏み出せば、青々と茂る芝生が俺の足裏をくすぐるように撫で上げた。孤島と言えど、スキップで十歩も歩けばそのまま湖に落ちてしまいそうだ。まさに小島。鼻歌なんてとても歌えやしない。
水面しか見えない空間に僅かな陸地。ぐるりと辺りを一周しようとするも、アゴヨワは既に俺を置いて、芝の上で気持ち良さそうに日光浴をしている。俺の熱い視線は感じているはずなのに。
仕方なしに気合いを入れようと、身体に巻いていたシーツをキュッと締め直し、芝を足指の間で噛み締めながら恐る恐る覚悟を決める。背中からはへっぴり腰を嘲笑う視線をひしひしと感じるが、今はなんともそれが心強い。深く冷えた空気を吸い込み、一歩踏み出した。しかし強ばった俺の決意とは裏腹に、数歩進み小屋に沿って歩こうとすれば、そこにはある筈の小屋など、はなから存在しなかった。
「え?」
そこにあるのは廃墟のように廃れた玄関口のみ。わざと立て掛けられたように、その一面のみが存在する。小屋らしき建物は一切無く、広々とした小屋がある筈の空間には、歪な形の畑が作られている。
「何これすごくない??」
小指の第一関節にも満たない厚さの壁。鼻の頭に壁の側面を付けると、右脳は小屋があると思い込み、左脳は畑があると思い込む。興奮冷めやらぬまま、小走りで小屋の玄関に入り、同じことを繰り返す。右脳は小屋があると安心し、左脳は小屋があるかと不安がる。
「なんか、頭悪くなりそう」
詐術でも見ているようだ。しかし数日で怪奇な現象に出会いすぎてしまったからか心臓が波立つ事はなかった。それどころか、どこか冷めている。自分の順応性の高さに思わず苦い笑みが溢れた。わざとらしく項垂れた先に見えた畑。下手したら小屋より広いのではないだろうか。植えられている植物は、どれも外食が苦手で普段自炊しかしない俺でも見た事がないものばかりだ。
「変な形に変な色」
思わず呆けた言葉が口から漏れる。
『グルルルル~』
「変な声」
アゴヨワのあくびか腹の音かが微かに聞こえる。怠そうな獣の顔を思い出し、つられた欠伸を噛み殺した。外に出てどのくらい経っただろう。滲む涙で視界がぼやける。あれは未だにドアストッパーをやっているのだろうか。時計などにはまだ出会っていない。ろくに時間を感じない筈なのに、やはりまだ何かに縛られている気がしてならなかった。必要の無い焦りが俺の足首を掴んで離さない。そんな感覚。会社に寝坊した朝のような嫌な焦りだ。辺りを漂うゆったりした空気でさえ、タチの悪い詐術のように感じた。
足元になった植物はどれも瑞々しく輝いている。土そのものがそうなのか、湖から染み込んでいるのかは分からないが、養分が豊富なのだと伺えた。しかしここは湖の上だ。こんな狭いスペースに果たして根などはれるのだろうか。しゃがみ込んだ先、大きな影を被った様々な植物がこちらを見つめている。その中には、小屋の天井で見掛けた漢方のような草や、食べられそうな実がちらほら見える。ついさっき口にしたバナナ擬きも遠慮がちに生っていた。しかしあの実は最終奥義に取っておきたい。安易に再び食べれば、忽ち喉の水分を持っていかれ自分の意思に反して湖の水を飲み干してしまいそうだ。
なんとか飢えはしのげそうでひとまず安心する。当面の食料の見通しがついた時、気が緩んだからか突如ハッと気が付いた。
「あぁ、なるほど」
ようやく俺は、この小屋が孤島と畑を中心に建てられているのだと察した。
「アゴヨワー!あのちんまい植物はどれなんだー!」
この身体と仲が良かったのならアゴヨワの為に育てているのではないかとふんだ俺は、久しぶりに腹の底から大声を上げた。
水面に反響してアルトソプラノが辺りに響く。聞き慣れない、俺より少し高く淀みのない声。自分の声を噛みしめるように同じ言葉を数度繰り返す。やはり違和感が拭えなかった。
しかし待てど暮らせどまるで反応がない。少しの寂しさがモヤのように視界を掠めた頃、ようやく背後から物音が聞こえた。
「おーい!好物なんだろー!」
すると、数刻遅れでのそのそとアゴヨワがやってきた。指図め、今は要らないが覚えておけよという事だろう。率先して自分で仕事を増やしてしまった。少しの後悔が足元の小さな葉を揺らす。
視線の先には黄緑色の小さな二又の植物。デカい図体の割りにちんまりとしたものが好みのようだ。歯の間に挟まって終わりそうなその芽を俺が指さすと、その表情がなんだか少し満足気なものに変わった気がする。
「これ」
『ガルッ』
「これな」
試しにと思い、ひとつ摘んで口に放り込んだ。根に付いたままだった土がシャリシャリと口の中で踊る。芽を噛むと菜の花のような苦味がほんのりと広がった。下手したら土の方が甘いかもしれない。ジトーとした視線を横目に舌の上で芽を転がす。
「なんか、凄いな····」
なんだか感慨深い。思えば、純粋に食べ物の味を感じたのは初めてかもしれない。微かに鼻を抜ける青臭さに、鮮度故の水気。あと引く苦味さえも俺の涙腺を刺激し、鼻の奥をツンとさせる。
「凄いな、本当に」
物心ついた時から、初めて口にするものでも俺の中で大体の味が決められていた。それは、どんなに高級な素材でつくられた料理を出されても、どんなに盛り付けや皿に凝られていてもだ。極端に言えばスーパーの半額惣菜でも変わらなかった。しかし、それを他人に言った事はない。結末など分かっていたから。
「まずい」
耳に届いた言葉に思わず目を見開く。一瞬、自分が何を言ったのか分からなかった。あと引く口の苦味が、胸の奥底にしまっていた思い出を呼び覚ます。今まで俺にとって食事は生命維持の手段でしかなかった。母には泣かれたが、苦痛を伴うその行為に、まかるならば点滴で良いと思っていた時期さえあった。生きてきて俺自身に美味い、不味いを決める権利が与えられた事など一度もない。それが地平線のように死ぬまで永遠と続いていく俺の道だと思っていた。ある日の母が父と喧嘩をしている時に出されたビーフシチューは、怒りでとても食えた味じゃなかったし、ケーキ屋のそれは熱量が凄すぎて食べる前から胸焼けをしていた。
「不味いな、これ」
『ガルルルルッ』
不味い。
そう感じ、そのままを口にする。
気付けばボロボロと涙が零れ、鼻さえ垂れる。途端にぬるい塩気が口内に広がった。本当に子供に戻ってしまったようだ。何もかもを止められない。それがどうしようもなく嬉しい。
「ほり"ゃみ"り"ょっ」
少し興奮気味に口の中を見せびらかすも、今度は冷めた視線をおくられる。数少ない特技である、口の中で作るリボン結び。褒められた事は一度もない。と言うか他人に見せた事などない。いや、まず俺が見せられる側だったら、他人の口の中を見せられるのは気持ちが悪い。
向けられるアゴヨワの嫌そうな顔。
「なんだこれ、幸せかよ」
そうだよなー嫌だよなー俺もだよー。
完全に自身の箍が外れているように感じる。一枚一枚何かが剥がれ、自分の心に近付いているような。思えば美しさで溢れたこの世界で確実に俺は自由というものを感じていた。口からは自然と冗談が漏れ、思考のない言葉を話す。色々な感情が溢れてくる。人とはこんなに楽しいものかと確かに俺は感じていた。
「アゴヨわぁ俺、誰かとちゃんと話せたの初めてなんだよぉ」
『······』
「話した覚えはねぇってんだろぉでもさぁぁ」
『···ガルッ··』
「アゴヨわぁぁ俺、嬉しいよぉぉ」
アゴヨワの瞳に写る男が、鼻を垂らしながら楽しそうに笑っている。つられて俺も楽しくなった。
「あ、ごよ、わぁぁぁぁ」
こんな事ならあのドーナツも変な実ももっと味わって食べればよかった。今更ながら気付く、元の世界との圧倒的な違い。感情を伴わないモノが存在する世界。それは俺にとってあまりにも圧倒的だった。湯水のように湧く疑問は呆気なく蹴散らされ、俺の根源を覆すような感動が悠々と鎮座する。
「ありがどぉぉお」
晴れた空に思わず、感謝が溢れた。しかし、この言葉を受け取ってくれるモノは存在しない。
『グルルッ』
やはり、他人が食べている所を見ると腹が減るのはどの生物も共通らしい。唸り声に我にかえると、送られる視線に若干の鋭さを感じた。どうやら先程の変な音は腹の音だったようだ。
やれやれとまだ若そうな芽をひとつ摘んで、見える距離にある水辺に向かう。ストレッチを兼ねて前屈をしながら、湖の水で根に付いた土を落とし、股の間からアゴヨワに向かって思い切り放り投げた。
「ほらよーーっ」
さながら犬とフリスビーでもしている気分だ。しかし流石の虎。たちまち太陽を覆うように、助走もなしで遥か高くまで飛び上がると小さな小さな芽を咥え、軽快な音と共に、恐らく屋根があるであろう高さまで悠々登ってしまった。やはり、実際は小屋が建っているのだ。何も無い場所で寝そべっている姿はまるで浮いているように見える。真下から見上げたアゴヨワは、お腹の毛が四方に潰れ、肉球も圧せられ色がほんのり変わっている。どこか展示物を見ているような既視感を感じた。
「まんま動物園だな」
どうやら構いすぎたらしい。
「ナイスキャッチ、兄さん」
行き場をなくした合いの手が虚しく消えていく。置いていかれた俺。無音の空間。突如訪れた孤独。風景の美しさがそれを助長させる。
仕方なしに玄関前まで戻ると不思議とただいまと言いたくなってしまった。既に恐怖は綺麗さっぱり消え去っていた。嘘みたいに心が穏やかだ。狭い陸地で無意味に行ったり来たりを繰り返す。
何もかもを持て余している。何も無い状態での時間の潰し方など覚えていない。ふと湖を見渡すと、見知った男と目が合った。見ないふりをしていたが、水面に写る男の美しさたるや。それは、先程アゴヨワの瞳に写っていた男と同一人物だった。
「なんて美しい景色なんだ····」
いつまでも終わらない暇に深くあくびをかくも、注意してくれる者は誰もいない。そのまま足湯のように半身だけ湖に浸かり芝生に寝転ぶ。ひんやりと脚から全身へ体温が下がっていくのが分かる。
「生きてはいるんだよなー」
小屋を出てからというもの、何故か泣き止んでは泣きを繰り返していた。まるで制御が効かない。この身体の主がそうさせているのだろうか。ボロボロと大粒の涙が目からこぼれ、朝露のように芝を輝かせる。悲しいからではない。恐怖も感じていない。しかし俺は今、孤独を感じている。
この孤独は俺の感情だ。
俺だけの色を持った俺だけの孤独だ。
その事実がたまらなく嬉しかった。
バシャバシャと水面を蹴ると、飛沫が宙で輝く。唐突に言いようのない懐かしさでいっぱいになった。そして、いつか過ごした遠い日の感情が流れ込む。
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