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記憶を持たぬ大魔法使い
1、無に還った直後の話をしよう
しおりを挟む俺、副島日晴は困惑していた。
目が醒めると、抜けた床に嵌っている。もがけども、もがけども木の刺が服に引っ掛かっているのか中々抜け出せない。ここはどこだ?いつからここに?四方は暗闇に覆われ、自然と視線は導かれるように天を仰ぐ。喉元からはゴクリと息を飲む音が聞こえた。
「···青い」
思わず目を見張る。異様とも言える鮮やかな青紫の天井。無数の葉が垂れ下がり、漢方のような異国の香りが微かに鼻を霞める。
今の状態で得られる情報はこれくらいだろうか。落ち着きを取り戻そうと一つ短い溜息をついた。
数度瞬きをするも、ファンタジー風の景色が変わることは無い。夢現に訳の分からない現状を受け入ながら、再び腹筋に力を入れ思い切り起き上がろうと試みる。しかし吃驚するくらい、びくともしない。ただただ顔に熱が籠り全身が小刻みに震えるだけだった。
「フッ軟弱な筋肉だぜ」
思わず好きだったアニメの台詞を吐く。焦らなければならない筈が、ジャストフィットな嵌り具合に、妙な安心感を感じてしまう。天井にぶら下がる得体の知れない葉の脈を視線で追うと次第に瞬きが重くなり、全身の強張りが徐々に解けていくのが分かった。しかしこれ以上沈み落ちる事はない。そうだ·····そうだ俺は··········。
「俺は········死のうとしたんだ」
病気になった訳でも怪我をした訳でもない。五体満足で大学まで通わせてもらえた。厳しくも温かい両親に生意気な妹。小学生の時、河川敷で拾い今ではヨボヨボのおじいちゃんになった黒猫のテムオ。新卒で無事に第一希望の商社にも入社できたし、忙しいが充実した毎日を送っていた。
初ボーナスでペット可の温泉旅行を両親に贈った時は大げさに喜んでくれた。今でもその表情が鮮明に思い出せるくらいだ。初めて家族で酒を交わし、テムオはマタタビで一家団欒に浸ったりもした。なんか上手いこと乗せられて妹のお年玉という名の集りも去年から始まってしまったが。凄く平和で、安泰な生活を送っていたと自分では思う。強いて文句を言えば日晴なんてふわふわした名前を付けられた事ぐらいだろうか。お陰で新学期には毎年いじられキャラを受け持っていた。
仕事での多少のハラスメントはあったが気を病む程ではない。そう、気を病む程ではなかったんだ。デスクトップに向かい企画書整理をしている時、ただふわっと。ふわっと引っ張られてしまった。
目線を下げる。視界に入る手にはヤモリの干物、もう片方にはドーナツらしき焼き菓子が握られていた。何をしたかったんだろうか。唯一分かった事は、これは明らかに俺の手ではないという事だ。
透き通るような白い肌に根が桃色の欠けひとつ無い美しいカーブを描く爪。ドーナツの油でさえそれを艶やか輝かせ、置いてきぼりの俺を困惑させる。
「ッフ、ヤモリ 持って様になる手って何なんだ」
あまりに鮮明な夢だ。見慣れぬ手が俺の意思で動いている。俺は···俺ではないのだろうか。しかし今まで生きてきて、誰かに成り代わった夢など見た事がない。姿も分からぬ自身に確かな不気味さを感じつつ、頭の中は夢と現実を行ったり来たりしていた。
やっぱり俺は死んだのだろうか。
「ここはあの世か?」
持っているヤモリ に聞いてみるも当然返答はない。
取り敢えず、もぐもぐとドーナツらしき食べ物を頬張りながら頬を思い切り抓る。
「いひゃい」
食えるな。いや普通に美味い。
この得体の知れない空間で、住んでる場所と同じようなものが食べられた事にやはり夢だと確信する。しかしそれと同時に、小麦に砂糖と卵で揚げるだけのそれに大した違いなんぞ出ないかとすぐに思い直した。
そして、もぐもぐしながら考える。とても単純な事だ。服が引っ掛かって出られないのならば脱いでしまえば良い。もぐもぐ。この短時間で、すっかり同志になったヤモリ に決意の視線を送り、もぞもぞと服を動かし脱出を試みる。民族服のようなそれは思いの外、反発を伴う伸縮性を持ち、織りには様々な色が使われ、見る角度でほんのり色が変わる。
まるで玉蟲のような美しさを感じるそれに引っ張られてはならない。嫌な勘が魅入る俺の頬をそっと叩いた。
これは夢だ。正気を保たなければ。布の隙間から覗く床底の闇が魅惑的な蟻地獄のように見える。
そんな生地が贅沢に使われているのだ。きっと、スタイルの良い人間が着ればドレープが綺麗に表現され、それはそれは優美なのだろう。確信的に高価なものだと息を飲む。幸い纏った生地に過度な装飾は無く、木の刺意外に気を付けなければならない所は無さそうだ。婦人服のバイヤーをしている身としては、たとえ夢であってもこれ以上服を傷付けたくはなかった。
「んんっ···もうちょい·····ファ、ファイトー」
『イッパーツッ』
可愛い声のヤモリが声援を送ってくれる。まぁ当然俺なのだが。乾いた笑いを漏らしながらも、さながら脱皮でもしているような妙な気分に陥った。
やっとの思いで頭がひょこっと床から飛び出す。そこに広がるのは目を見張るような煌びやかな世界!!·····では当然なく、予想を裏切らない古びた小屋のような空間だった。
床穴で散々暴れ回ったからか、砂より細かい埃がふわりと舞い上がり、壁板から漏れる光にキラキラと照らされ多彩を放つ。まるで虹の中に取り残されてしまったようだ。鈍い痛みを首に感じながらも辺りを見渡すと、沢山の分厚い本が無造作に並べられ、本棚と呼ぶには烏滸がましい無数の木箱が天井高くまで積み上げられている。その中には、ボロボロの筒紙やボトルシップ、見た事のない生物の標本や剥製が飾られていた。そのどれもが厚く埃を被り、己本来の姿を眩ませようとしている。
家主が去って相当の時が経ったようにも感じたが俺にはどうしても、そのどれもがただ朽ちるのを待っていただけだとは思えなかった。まるでつい先程まで大切に扱われていたような仄かな温もりを感じる。
「眩しい」
唯一ある小さな窓からは見慣れた青が顔を出し、張り詰めていた緊張の糸を解す。注がれる僅かな日光を無造作に吊るされた無数のサンキャッチャーが、増幅させている。しかし不快な眩しさではない。
ついつい時間を忘れ見入ってしまった。純粋に美しい空間だと思った。
「·····っい」
光へ引き寄せられるように勢い良く手を天へ伸ばすと、突如チクリとした刺激が半身に走る。微かに震える白い肌にじわりと深紅が染み出し、ヒリついた痛みが少し遅れてやってきた。しかし視界に入るそのどれもが幻想的で、自分が本当に痛みを感じているのか、よく分からなかった。
この傷は地味に後引くやつだ。重い瞼を持ち上げ、ぼんやり思いながら床に被った埃を指の腹で拭った。星砂のようなそれは、撫でるとチクチクと肌に引っかかり、俺の指から逃げ惑う。
「生き物?」
えっ動いている。どっどっどうすればいいのだろうか。呼吸を忘れさせる困惑が、咄嗟に指の腹に収まったそれを、口笛混じりの息で吹き飛ばした。
「ふぅー見えなきゃ無いも同義だぜ」
冷や汗を無視しつつ、やはり深い夢の中にいるのだと確信した。しかし、そんな中でも思考はここではない現実も確実に見ている。
明日締めの百貨店向け用の企画書を仕上げねばっ!!
頭を掠めた悪夢が不機嫌そうな部長の表情と共に突然フラッシュバックする。すると、どこかから鈍い音が聞こえ、突発的に身体が動いた。
どうせ動いてしまったのだ。ついでとばかりに勢い殺さず、もう片方の腕も出してみる。その瞬間、バキッと聞きたくなかった音が小さな部屋に響いてしまった。
「相棒おおおおおおぉぉぉぉっ!!」
掲げた手に視線を向けると、尻尾が欠けた相棒が光に翳され黒いシルエットになって浮かび上がり、ボロボロと顔の上に残骸となって降ってきた。
なんという事だ。横目を覗くと、琥珀色のつぶらな瞳がとても悲しそうな顔で俺を見つめる。
「あぁ、すまない相棒」
この訳も分からぬ空間で早々に悲しみを味わってしまった。笑いを伴う喪失感が容赦なく俺の胸を擽る。
もうこんな悲しい思いは二度としたくないし、相棒にもさせるものか。弱い決意と共に零れぬ涙をそっと拭う。
「あいたっ」
数秒、喪にふくし立ち上がろうとした瞬間、長すぎる髪を思い切り踏んずけた。
「え?」
それは痛みを感じなければ髪だと分からないくらい美しかった。しなやかで白く透き通り、光に翳すと先が見えそうな程に全く色素を持っていない。正に俺とは正反対とも言える髪色。初めて見る色だ。
やはりこの夢では誰かを成り代わっているらしい。
「それにしても長すぎるだろ」
俺では完全に持て余している。全く制御が効かない髪を四方に散らばせながら、もたつきつつも、テーブルの上に相棒をそっと寝かせ、フキンに包み丁寧に弔った。フキンには何や食べカスやら、塵なんかが付いていたりもしたが、取り敢えず微笑んでおく事にする。
当然、大人と言えど目の前に広がる好奇心には抗えない。俺は生まれたままの姿で部屋を探索する事に決めた。
腰をゆうに越す白銀の長い髪を揺らしながら、傷んだ床を滑るように進む。裸足に吸い付く足音のみがペタペタと底から響き、聞こえる度に精神が子供に戻っていくのを感じる。
しかしそれも、10歩も歩かず終わりを迎え、部屋を一周出来てしまった。本当に小さな部屋だ。十畳程のスペースが本や資料で四畳半くらいに収縮されている。
「あぁなんて、嘆かわしい」
僅かに触れた過分な容姿のせいで気持ちが大きくなる。自然と大袈裟な身振りで舞台でしか聞いた事のないセリフを吐いていた。自分でも完全に変なスイッチが入ってしまったとは思う。今まで入った事なんてなかったけど。
思わず原曲も分からぬ鼻歌が漏れ、誰も見ていない事を良いことに、ぐるりとその場で踊り回る。
「やばい、楽しいどうしよ」
ワクワクが身体の穴という穴からダダ漏れる。ただでさえ狭いスペースには大きなテーブルが置かれ、見た事のないトゲトゲとした果実が籠の中に収まっている。回りすぎて節々を様々な角にぶつける。しかし目が回っているせいか、痛みはさほど感じず、ただ楽しさが増幅するだけだった。ぐにゃりと歪んだ視界入る壁に沿った長椅子は、ベッドの役割も果たしているようだ。ひっそりと佇む流しにはコンロのようなものがひとつ。しかし一切の家電製品がない。その先の2つの扉にはそれぞれ簡素な風呂とトイレがあるだけだった。
いい加減に自分の姿が見たいのだが、鏡の類は一切ない。下を見る限り男だという事は間違いなさそうだが····。大きさは俺と同じくらいだろうか。しかし照れるくらいの鮮やかな桃色に堪らず埃を被ったベッドシーツを長椅子から引き抜き、光の速さで腰に巻く。
「なんかドキドキしてきた」
髪色から同郷ではないとは分かっていたが、外国人はみんなこんなものなのだろうか。これだとトイレの度に顔まで桃色になってしまいそうだ。
ここで、またひとつ疑問が湧く。俺はこいつを生きる気なのか??
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