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魂を震わせる愛
俺は源愛でありアガペーであり攻略対象
しおりを挟むいつの間にか、気を失っていたらしい。
目を開けると、視界に広がる天井に既視感を覚える。ぼやけた微睡の中、何故か夢が夢だと気付いた時のような気怠さを感じた。乾いた目玉をギョロギョロと動かし、無理矢理に自分を叩き起こすと何処かからハーブの心地よい香りが漂ってきた。
「夕飯はポトフか·····」
腹を摩ると何も入っていないからか、若干の凹みを捉える。しかし五感が薄れた寝ぼけた身体は、空腹さえも何処かへ置いてきてしまったようだ。
点滴の金属が青白い蛍光灯に照らされ、夕闇の窓を鏡へと変える。
「あぁ」
無意識のうちに失望落胆が口から溢れた。
最終的に視線が向かう先は変わらない。窓に写る己の顔も変わらなかった。俺の顔でもある源愛の顔。それは気を失っている間に日が沈んだせいか、嫌でもはっきりとその姿を写し出し、俺に現実を叩きつける。僕の顔でもある源愛である俺の顔。僕であって俺だ。夢ではない。とても信じられないが信じる以外の道が最早、見つからなかった。
どのくらい見つめていたか、窓の外で煌々と飛行機が小さく通り過ぎる。それはまるで他人事のように俺の視界をゆっくりと通過した。
人はこれを不運と呼ぶのだろう、漠然と思った。
「···何でだっ·······」
何でよりにもよって。どうしたら良い、どうしたら。視線が合い続ける源愛の顔から逃れるように、ベッドの僅かなスペースを這う。しかし腕に刺さった無数の管に引き止められ、俺の半身は抵抗虚しくベッドから転げ落ちた。
痛い。とても痛い。あぁ夢じゃないんだ。
なすがまま振り子のように揺れる腕を見つめ、俺は来るかも分からない助けを待ちながら干渉に浸った。
胸から下が無痛の身体では幾ら腹筋に力を込めようともがいたところで、起き上がれやしない。
『助けて~~』
パクパクと口を動かし、カーテンに写り込む大きな影へと助けを乞う。当然誰にも届かない。しかしそれで良いと思う俺が居た。このまま、無痛のまま深い眠りに堕ちれたならば、俺は元の世界に帰れるのだろうか。
床を滑る影が段々とその動きを鈍くする。無造作に散らばったミルクブラウンの髪が床の埃を無邪気に掬った。それはカーラーを巻いてもいないのに内に巻き上がり、まるで美容院帰りのような艶をみせる。とても男児には見えない髪の長さは、僕がドネーションを望んでの事だった。
「って回想で笑ってたな·····僕」
段々と頭に血がのぼり、逆さになってしまった世界。それは今の俺がただ呼吸をする事しか叶わない非力な子供なのだという現実を叩きつけた。
「いとしっ!!」
「ちょっと走らないでっ」
「ふさえちゃんっ愛が!」
途端、所々裏返った頓狂声が病室中に響き渡り、反転した姿を捉えた瞬間、父という存在なのだと分かった。数歩遅れてペコペコと同室の患者に頭を下げる母。僕が母と呼ぶ女性、ふさえは頬を赤く染め、伏し目がちに睫毛を瞬かせる。
到着したばかりであろう文義が息を切らながら駆け寄る。逆さの視界の中、競歩を思わせる姿は何処か滑稽で、強張っていた筋が微かに緩むのを感じた。
初めましての父と二度目ましての母。よく見れば、源愛はどちらかと言うと母親似なのだろう。二重のつぶらな瞳は母そっくりだ。距離が近づくほど見切れるその様相は、端麗という言葉意外見つからない。日本人離れしたミルクブラウンの髪色は、まま父親の遺伝子だ。僕越しで見た記憶の中の父と母、俺が画面越しで見た静止画の源文義と源ふさえ。やはり俺だけがこの世界の異物だ。
「文義!ハムスター!!」
俺を大ぶりで抱き上げようとした文義に向かってふさえが鋭い声音を放つ。
「ふさえちゃん大丈夫だよ、僕だって沢山練習したんだからっ」
ふさえの怒号にも似た言葉に、僅かに目尻を下げた文義は困ったような表情を滲ませながら、ゆっくりと俺を起こし、ぎこちない笑顔をつくった。
「愛、ただいま」
「···············お」
言葉を続けられなかった。込み上げる感情が俺の涙腺を刺激する。
家族であって家族でない。俺はあなたがたが愛している源愛じゃないんです。
喉まで出かかった言葉を奥歯で噛み締める。浸るように声を掛けた文義の言葉は、切なく胸の奥で溶けてゆく。まるで抱き締められているようだ。ふさえとは異なり、俺の頭を撫でるその手つきは何処か辿々しく、しかし途方もなくあたたかい。頭をすっぽりと包み込む大きく骨ばった手は微かに震え、耳元で何故か仕切りにハムスターと唱える文義は、我が子と同じミルクブラウンの髪をゆっくりと耳に掛けた。その様を数歩先で見守っていたふさえは胸を撫で下ろし、文義の肩にそっと自身の手を添える。
「愛君、お熱測りましょうねー」
控えめに開かれたカーテンの先、数刻遅れてやってきた医師と看護婦が慣れた手付きで、俺の心拍や脈を測る。察するに、先刻の嘔吐の原因は分かっていないようだ。その原因かもしれないキッカケに心当たるがある俺は、心の中でそっと謝った。
「どうぞよろしくお願いします」
「愛はこの世の誰よりもハムスターなんですっ」
ちょっとやめてよ恥ずかしいっ、ふさえの平手が文義の腰に見事に入った。到底、布擦れとは思えない轟音に不意打ちを喰らった文義と看護婦が瞳を見開く。
余波が俺の頬を撫でる。その衝撃はまるで剣と魔法の世界のそれだった。源愛も変なゲームも一方的に譲渡された人間関係も全てを削ぎ落とし、一瞬真っ新になった俺は、ただ茫然と全くへこたれた様子を見せない文義を見つめ、無意識に装飾のない言葉を漏らした。
「大丈夫??」
「し、ん、ぱ、っ」
何かが抜け落ち、ぽかんと豪快に口腔を見せつけた文義が途端、叫びにも似た浮かれ声を上げた。段々と言葉に熱を込める文義は、言い切り前に再び鋭い小突きを喰らい、堪らず床底で悶えた。
「心配してくれぬぁ!?」
わやわやと母国語を手放しつつある文義に、俺は前世でお祈りをいただいた受付嬢の機械じみた笑みを真似てみせた。
そして、よくよく観察し俺は全てを理解した。
源家の頂点は母のふさえなのだと。
仲睦まじいという整った言葉よりも、気心知れた親愛と呼んだ方が幾分しっくりくる文義とふさえ。看護婦の咳払いをものともしない、そのじゃれ合いはまるで小学生のチャンバラのようだ。
「心配してくれたのだよねっ!?」
上空を何度も滑っていた言葉が途端、引力をおび直下した。飛び散った感情の破片が、止める間もなく素粒子へと返還される。俺は上下前後左右を失い、ただ寝転ぶだけの存在となる。
やるせなくなった。どうしようもなくやるせなくなってしまったのだ。
僕の想いは誰にも届いてはいなかった。
期待に応えたかったバスケットボール。懸命にしがみついた勉学。幾度も飲み込んだ言葉。苦手を克服し続けた日々。
叶うかぎり家族と過ごした時間も家族の平穏を祈った朝晩も、起きている限る伺い続けた顔色だって。
「伝えないと伝わらないんだぞ」
呟いたところで、僕は既に居ないのに。
鼻腔を刺激しているのは僕なのか俺なのか。眼球を震わせてるのは俺なのか僕なのか。
「なぁどっちなんだよ」
俺は虚像の僕へと語り掛けた。
『あぁなんか可哀想だな俺達』
何処までも潜ったその先に、小さく蹲り嗚咽を漏らす僕が居た。淡褐色が捉えた光景は、妄想か空想か幻覚か。
『まぁなんでも良いか』
腹底に広がる花畑は俺と僕との境で枯れ、踏み込む程に花弁を萎らせた。スキップをしても地団駄を踏んでも等しく枯れる花々を僕はただじっと見つめる。既の距離には意地悪く笑い、止めてくれと願いながら彩色を踏み荒らす俺。すると心か身体か、段々と互いのパーソナルスペースが曖昧になった。
漸く辿り着いた先、おろおろと震え固まる僕へずしりと大袈裟に凭れ掛かかった俺は、暫く暇を楽しんだ。
『お前は大丈夫だよ。辛かったら辛いって言えば良いだけなんだ。何を言ったってお前の家族はお前を絶対に嫌ったりしないから。少しの間俺が源愛を変わってやる。戻りたくなったら戻ってくれば良い。その時にはきっと、お前の想いは大切な人に全部届いてるぞ』
背骨をしならせながら目一杯抱き寄せた僕は餅の様に柔らかく、背後には瞳を閉じてしまいたくなる程のやさしい匂いが広がった。半身を預けると、背中に伝わる熱が段々と湿り気を帯びてゆく。肩甲骨がピキピキと軽快な音をたて開かれてた。
途端、俺の背中と花だったものの間で壊れた警報器の様な金切り声が響いた。俺の渾身の慰めを掻き消し、己の身体を裂かんとするその乱暴な泣き声は、僕が沸々と溜め込んでいた鬱憤を吐き出し続ける。
『それに可哀想は可愛いんだぜ』
げびた視線を送り放った俺の言葉にしゃくり声が揺れた。それは次第にしゃっくりへと変わり、僕の上に寝そべっていた俺の半身を不規則に揺らす。
俺より遥かに言葉を知らない僕はやきもきと周囲を見渡し、再び涙ぐむ。ぽろぽろと溢れる涙は、妄想の中に漂う光源を集め、キラキラと輝いた。
『ほら可愛い』
ニヤリと笑う俺を訝しげに見つめる僕。
『最近気付いたんだ。不幸と幸福は両立できないけど、可哀想と可愛いは友達っていうか。ほぼ同じ意味なんだぜ』
世紀の大発見だっ、待ち望んでいたセリフは当然なく、いつまでも止まらないしゃっくりが俺を少し切なくさせる。
『お前は凄く可哀想で物凄く可愛いだろ?俺はちょっと可哀想で全然可愛くないだろ?なんかほら、マイナスとマイナスがプラスになるみたいにさ?俺らもなんか起こりそうじゃね?っつても何でマイナスとマイナスがプラスになるのか未だに理解出来てないんだけど。お前知ってる?』
『······』
『まだ習ってないよな』
『家庭教師に教わった···』
『んまぁじかよっ!!』
突如背後から聞こえた不貞腐れたような僕の声に驚くも、よくよく考えたら俺の声でしかないそれは、幼さ特有のグラグラとした危な気を滲ませる。
『最近の小学生本当すげーな。でも何で俺にも共有してくれないんだよ。実は意地悪なのかよ』
『自分で思い出せよっ!!』
源愛からは想像もできない、文頭からぶっ放した声が背後の熱を上げる。
『おっ良いぞ、実は口もわりーのか。猫被りめ』
『僕はコーギーしか被らない!!』
わなわなと震える負け犬の遠吠えを俺は弾き返す様に笑った。
『はいはい花丸様さまな。ってかお前、友誠と話し方そっくりじゃねぇか。本当は友達って言いたいんだろ~なぁ~好きな子の真似しちゃうもんな~無意識でな~なぁ~』
『好きじゃないっ!!クソジジイ!!』
『すっごい言葉使ったな、分かったぞっ大好きなんだな?』
ガハハハハ、今まで出たことのない、臓器を揺らす野良声が潤滑油のように笑い転げた俺へとハッパをかける。
『くそじじぃぃぃ~~』
僕の恨めしげな唸り声が終わりのない地を這った。
『っな?二人だったらなんか大丈夫な気ぃするだろ?』
『おまえの言葉はいつも支離滅裂だ···』
嫌々と俺の下で逃げ惑う僕を捕まえ、気づけば手探りでミルクブラウンの髪を弄り撫でていた。途端、寂れた腕の関節が鈍い悲鳴を上げる。まごう事なき四十肩だ。
『お前は源愛だけど、源愛にならなくても良いんだ』
『でも僕は源愛だっ』
『そうだお前も俺も源愛だ。でも俺は源愛にならないっ』
『おまえの話は荒唐無稽だ』
『お前、本当に頭が良いな』
思わず感心を漏らす俺を、ぽかぽかと全身でタコ殴りする僕。渾身であろうその殆どが空を切る中、俺が枯らしてしまった無数の花弁が視界一杯に舞い散り、辺りを渋色に染める。威力は蚊ほどもないが、ささくれ程の鬱陶しさが纏わりつく。ゆるい風を巻き起こす細腕が、モスキート音の様に俺の神経を逆立たせた。
『いたーい、やめてー痛いよ愛君、やめてやめて痛ーい』
意地の悪い棒読みが、何処までも続く暗い空へと吸い込まれた。
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