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魂を震わせる愛
何かを背負わされた俺
しおりを挟む「いとしっ愛っ」
愛。俺の名前が聞こえる。誰かが、俺を呼んでる。のか。何度も何度も呼ばれるのに、返事が出来ない。ちょっと待って、今起きるから。切羽詰まったような声が、俺の名前を何度も呼んだ。
知っている、俺はそう確信した。
これは、これは大切な人の声。この声は···大切な母さんの声。叱られた時でさえ、こんなに苦しそうな声を聞いた事はなかった。母さんに何かあったのだろうか。助けたい、俺が守らないと。
冷たい光を感じながら、悪夢から逃げるように瞳を開いた。額に溜まった汗がまつ毛をかわし静かに眼球を撫でる。こんなに瞼を開けるの事に苦労したのは生まれて初めてだ。俺のものではない服が肌に纏わりつき、ぐっちょりと湿っている。戸惑いながらも声の方に視線を向けた。案の定、不安で擦り切れそうな母の姿がそこにはあった。
「泣か、な····で····」
苦しい。悲しい。泣き顔は嫌いだ。それが例え、アニメでも漫画でも胸が張り裂けそうになる。渇いた喉から声を振り絞り、あやすように母を呼んだ。
朝のいってきますぶりに母と視線を交わす。その安心感を与える姿は、数刻しか経っていない筈なのに酷く懐かしく感じた。俺の枯れた声が聞こえたのか、目を大きく見開き驚いた様子でピクリと肩を上下させた母は、握り締めていた桃色のハンカチをかなぐり捨て、マットへと震える腕を沈ませながら俺に覆い被さると、ナースコールのボタンを力強く連打した。
「いとしっ愛っ全く心配かけてっ本当にこの子は」
母の声に安堵が混ざり、俺はほっと息を漏らす。すると無意識にピョコりと鼻が動いた。俺はつられたように目の前の母も同じ仕草をしていた事に気が付き、自然と頬が綻ぶ。あったかい。嬉しい。段々と意識がはっきりとしていくように思えた。
目を覚ましたのは、見知らぬベッドの上だった。正確には、ドラマなどでは見た事がある。真っ白い病室。この数時間で憧れていた事を体験しすぎたせいか、起きたばかりだというのに身体は酷く疲れたままだ。充分なほど寝た筈の意識がまた酷い眠気に襲われる。俺の身体は寝る事に全エネルギーを使ってしまったのかもしれない。再び瞳の中心がどんどんぼやけ、重くなった。
「········み」
「ちょっ、ちょっと待ってなさいねっ」
阿吽の呼吸とは正にこの事だ。水と言い終わる前に目の前にいた母は既に姿を消していた。パタパタと忙しなく駆けて行く母の残像を横目に、スプリングが全く利いていないマットの上で、身体が深く沈み込む。少しでも起き上がろうと身体に何度意思を示しても全く動く事が出来ない。
「····っ···」
薬品のような独特な匂いが鼻を掠め、訳も分からず悲しくなった。小さい頃から、この例えようのない病院の匂いが苦手で仕方がなかった。小さい頃と言っても、至って健康体の俺が病院に行ったのなんて、水疱瘡の時くらいだが。馬鹿は何とやらって言葉もあるくらいだ。俺は今までろくに風邪も引いた事がなかった。
しかし、鼻を掠め続ける沢山の人間の悲しみと痛み、負のエネルギーをごった煮にしたような臭いに、思わず顔が歪んでしまう。まるで見えない誰かのそれを背負ってしまったかのようにドロドロと気分が沈んだ。
カーテンで仕切られているが、恐らく此処は大部屋なのだろう。耳を澄ますと微かな呼吸音や布の擦れる音が聞こえる。無数と生と死がせめぎ合っている。そう思った。
唯一の救いは、一面が空に覆われてる事だろうか。空の青以外全てが白い病室で、救いの様な雲ひとつない青空が広がる。よく見るとそこはベランダへと続き、花の彩色と茂る緑を携えていた。
窓側のベッドで本当にラッキーだった。青々としげる木々の揺れ。控えめに佇むビル。中庭で談笑する人々。どれもいつか見た事のあるものばかりだ。
きっと今日の出来事は記憶に留まらないのだろう、俺は思った。
しかし、なんとか平穏を取り戻した精神に突如翳りが見える。キラりと反射した窓には、頭に大袈裟なほどの包帯が巻かれ、腕には無数の管、右脚にはアイアンメイデンの様な仰々しい器具がはめられている己が薄く写り込んだ。何より驚いたのは、パンパンに腫れ上がった足首に穴を空けられていた事だ。突然のグロテスクな様相に、ヒュッと心臓が縮こまった。
「ど、うなっちゃ、って、んの」
暫しの思考停止は俺自身を酷く幼くしてしまった。
身体が酷く重い。しかし痛みを感じない。俺は突き抜けた衝撃を感じた。
わぁお、不意に出てきた自分の声に思わず笑ってしまう。だが臓器の揺れを感じないその衝動は果たして笑っていると言って良いのだろうか。少し眠っただけのつもりが、一体どのくらい熟睡してしまったのだろう。
「穴開けられてんのに起きない俺って何なの」
「文義さんもすぐ来るからね」
呆れ混じりの独り言を呟くと、いつの間にか母がそっと布団をかけ直してくれていた。静寂の中に何とも言えない居た堪れなさが滲む。普段とは違い、疲れた表情を一切隠さない母は俺の顔を覗き込み、プラスチックカップに入った水を静かに手渡した。
「···あり、がとう」
大した量も入っていないカップでさえ酷く重く感じる。渋々見上げると案の定、心配が怒りに化け、苦虫を噛み潰したような表情を滲ませる鋭い瞳に捕まった。やがて舵を失い、泳ぎ始めてしまった視線は、自ずと手元の楽しげな戦隊モノが描かれたカップに留まった。コクリと一口、それを流し込む。途端、胃がひんやりと冷たくなった。
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