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第一章・「なんて日だ!!」が突然やってきた

思い出のグロリア

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   その日は結局、昼から陽斗の買い物に付き合ってやった。

   バスケで使ってるシューズが古くなったから、買い直したいってさ。

   まあ、中学の頃から使ってたしな。足のサイズも、多分に違ってきてるはずだ。

   ついでに外で夕飯も済ませた。昼は陽斗の特性チャーハンだったから、そのお礼の意味も込めて、贅沢に焼肉だ。

   育ち盛りの陽斗の食いっぷりは、見てて清々しいね。

   ……財布の中も、清々しくなりかけたけど。

「明日、俺、朝から部活あるから。朝食作っておくから、ちゃんと起きて食べて行ってくれよ、学校」

「はは……心配ありがと」

   まるで親が子に言い聞かせるみたいな言葉を弟に言われる俺。
   まあ、我が家ではこれが、当たり前だから仕方ない。

「じゃ、おやすみ、兄ちゃん」

「ああ、おやすみ、陽斗」

   明日早いからって、陽斗はもう眠るらしい。まだ午後9時なんだけどな。

   ああ、こうやって早く、しかもしっかり9時間近く眠るから、陽斗は背が高くなったのか?
   いや、なんの根拠もないけど。

「さて。じゃあ、俺は久しぶりに、と」

   陽斗のいなくなったリビングで、俺は部屋の壁際においてあるオーディオ機器に向かった。
   
   うちの両親、結構音楽好きでさ。2人が知り合ったのも、2人共が習ってたピアノがあったからなんだって。生きてた頃に話してくれたことがある。

   だからってんじゃないけど、昔は俺もちょこっとピアノを習ってた時期があったんだ。中学入る前にはやめたけどな。

   才能がないって、自分でもよくわかったから。

   あれは、小学5年の時だった。
   毎年行われている音楽教室が主催していた発表会があってさ。たかが一音楽教室が開く発表会だから、そんなにたいしたことはない。

   それでも、先生が結構有名な人だったのと、他の音楽教室からゲストなんかも呼んでたから、人は集まってたな。めちゃくちゃ緊張してたの覚えてる。

『その子』も、そんなゲストの一人だった。

   発表会では、ピアノやヴァイオリン、フルートなんかも習ってる人が集まってさ。

   それから、声楽な。

『その子』は声楽で参加してて。連れ添い、というか、その子の先生なんだろうな。
   髭を蓄えた、いかにも音楽家って感じの男の先生がピアノを弾いて、その子はなんとミサ曲を歌い出したんだ。

   ボーイソプラノの、それはそれは美しい声だった。
   彼が歌い始めた途端、空気が変わったんだ。

   もともと、音楽の発表会だから、聴いてる人は静かに聴いてたけど。
   そうじゃない。そういうんじゃない。

   みんなが一斉に魅入られるっての?
   そんな感じ。

   俺も、その中の1人だった。

   彼の声に惹き込まれて、俺は気づくと涙を溢れさせていた。

   凄い。本当に凄いって思った。
   音楽で他人に涙を溢れさせるって、凄いことだって。
   彼の持ってる『力』みたいなものに、驚いた。

   それだけじゃない。

   俺はその時、彼が歌っていたミサ曲にも惹かれた。
  ミサ曲なんてものを初めて聴いたからかもしれない。
   だけど、それだけじゃないって気がした。
   どこか懐かしいような、どこかで聴いたことがあるような。

   まあ、テレビや映画とかで聴いたことがあったのかもしれないから、深くは考えなかったけど。
   
   俺はとにかく、この目の前で繰り広げられている事を知りたくて、慌てて演奏プログラムを確認する。
   だけど、おかしくてさ。その子らしき名前と曲名がないんだ。

   俺は慌てて先生に尋ねた。今、演奏されてた曲はなんですかって。
   さっきの子は、なんて言う名前なんですかって。

   すると先生は、

『さっきの曲はね、随分と大昔のミサ曲なの。確かタイトルは……そうそう。「グロリア」。「パレストリーナ」の「教皇マルチェルスのミサ曲」の1つよ』

   そう教えてくれた。

   だけど、残念ながらその子の名前は分からなかった。

   違う教室の子だってのはわかる。俺、見かけたことなかったからさ。

   だから、主催してた先生なら知ってると思ってたのに。

   聞けば、なんでもその日、出演する予定だった子が直前に怪我をしてしまい、急遽、その子がバトンタッチで演奏したらしいんだ。

   だからプログラムにも記載されてなかったわけ。

   あとからもう一度先生に彼の名前を聞いたら、わかったかもしんない。

   だけど。

   俺はその時すでに、自分の才能の無さに打ちひしがれていたわけ。

   いや、打ちひしがれてるってのはおかしいな。
   俺はもともとあんまりピアノが好きじゃなかったしな。
   その頃から興味があったのは、古代文明や、戦国時代だったわけで。

   そんな俺でも、この子には到底勝てないってことは、よくわかった。

   声楽とピアノは違うだろって?
   まあ、確かにそうなんだけど、音楽に対する情熱っていうか、姿勢みたいなもんが、雲泥の差だって感じたんだ。

   とか言うよりも、ほんと、早い話が『こいつには勝てない』って本能が察したんだと思う。

   だから、俺は親に言って、ピアノをやめたんだ。
   両親もプロの音楽家ってわけじゃなかったから、仕方ないってわかってくれた。

   理解ある両親で、良かった良かった。

   で、理解あるついでに、俺はその時、近くなっていた自分の誕生日に、とあるものを1つおねだりをして買ってもらった。

   それは、あとで話すとして。

   話は『今』に戻る。

   目の前の、少々古い感じは否めないが、それでも音にうるさい両親が大切にしていたオーディオ機器は、素晴らしいものがあった。

   それらを置いてある台の扉を開くと、中には『LP盤』がずらりと並んでいる。
   両親のコレクションだ。

   クラシックから歌謡曲まで。
   2人が残した宝物だな。

   その中に、2人が集めたものではないLP盤が1枚ある。

   タイトルは、

『パレストリーナ・教皇マルチェルスのミサ曲』

   そう。あの子が歌っていたミサ曲が収められたLP盤なんだ。

   俺はこれを、あの年の誕生日に買ってもらったってわけ。

   俺の大切な宝物だ。

   俺はそれを棚から取り出すと、丁寧に扱いながら盤を取り出した。

   そして、それをレコードプレーヤーに設置しすると、ゆっくりと慎重にハリを置く。

   しばらくすると、部屋の壁や床に置かれたスピーカーから、パリパリと独特な音が聴こえ……流れてくるのは、「キリエ」。この後、あの子が歌っていた「グロリア」へと続く。

「はあ……やっぱ、いいな」

   俺はカウンター式になっているキッチンに向かうと、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

   なかなかのグラスなんかに入れて飲むとオシャレなんだろうが、俺にはそんなオシャレ感覚なんぞない。

   そのまま、プシッとプルタブを開け、ソファに腰掛けた。

   あ、ちなみに、部屋は防音になっている。両親が手間加えたんだよ。
   音楽好きらしいだろ?

   ソファに深く腰掛けると、俺は缶ビール片手に目を閉じた。

   歌っているのは、どこぞの外国の、とある大きな教会の方々らしい。

   悪い。そういうところの知識はあんま興味ないんだ。俺が好きだと思ったのは、あの子の声とこの曲だから。
   あのこの声じゃなかったら、誰が歌っても同じってことだ。

   今はただ純粋に、懐かしいような感覚になるこのミサ曲に、浸っていたいだけなのさ。

「……グロリア」

   やがて、『キリエ』から『グロリア』へ。

   あの子が美しい声音で歌っていた曲だ。

「…………ああ。やっぱり……」

   どうしてなんだろ。どうしてこんなにも懐かしく感じるんだろう。

   目をつむって聴いていると尚更だ。

   妙に胸がざわついて、悲しいような、嬉しいような。
   相反する気持ちが沸き起こって、また涙が溢れてくるんだ。

   そう。あの、発表会の時は、あの子の凄さに、あの子の力で涙が出てきたのかと思っていたんだが、親にレコードを買ってもらって、わかったんだ。

   あの子の力もあるんだろうけど、俺はこの、曲、に強く反応しているんだって。

   ああ、うまく言えねー。

   とにかく、どうやらこの曲は、俺にとって何かこう、大切なものって感じなわけだ。

「前世の俺が聴いていたとか、歌ってたとかなのかな」

   言ってから、閉じていた目をパチっと開く。

   そして、体を少し起こしてビールを飲んだ。

「くそう。あの野郎。あいつのせいで、前世とか言っちまったじゃないか」

   そんなの信じちゃいないのに。バカバカしい話なのに。

「ああああ、明日、学校行きたくないーー!!」

   なんかあいつ、明日にどうとか言ってたよな?
   い、嫌すぎる。会いたくない。会いたくないぞ!

「忘れろ、忘れろ、俺!! せっかくの『パレちゃんタイム』を汚されるな!!」

   ちなみに『パレちゃんタイム』とは、『パレストリーナのミサ曲を楽しむ時間』のことだ。

   俺の1番の癒しの時間だ。

   俺は改めてレコードの音に魅入られるべく、目を閉じた……。
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