上 下
26 / 28

第26話

しおりを挟む
「樹さん……!」

 プツリと糸が切れた人形のように前にかしいだ樹の身体を、真正面に居た椿子が咄嗟に支えようとするが、成人男性の体重を支えられるはずもなく、椿子は樹の身体を抱きとめて尻もちをついた。

「きゃあっ、椿子さん!」

 くっつき虫のように梗一郎の腕にくっついていた令嬢――西園寺撫子さいおんじなでしこが、大袈裟な叫び声を上げる。

 しかし梗一郎にとってはどうでもいいことで、撫子をかえりみることなく、樹の側へ駆け寄った。

「樹!」

 椿子の胸の中から抱き起こした樹の顔面は蒼白で、手袋を外して頬に手を当てると氷のように冷たかった。だというのに、だらだらと冷や汗をかいており、紫色の唇からはヒューヒューとかすかな喘鳴音がする。

「樹は心臓が悪い……椿子、早く医者を!」

「はい、お兄さまっ」

 すぐさま身を翻して大広間に入っていった椿子を背中で見送り、梗一郎はいまにも死んでしまいそうな樹の身体を横抱きに抱きかかえた。そうして急いでその場を後にしようと振り返った先に、撫子が立ちふさがった。

「梗一郎さま。その御方はどなたですの?」

「……申し訳ないが、悠長に説明している暇はない」

 梗一郎は眉根を寄せて、冷たく言い放つ。

 しかし撫子にはこたえていないようで、空気も読まずに喚き立てる。このままでは埒が明かないと考えた梗一郎は、撫子や招待客の視線を気にすること無く、樹の部屋へと急いだ。

 途中、梗一郎を引き止める花ヶ前家当主――父上の声が聞こえた気がしたが、梗一郎はそれすらも無視して階段を駆け上がった。

「お坊ちゃま……? さっ、早乙女さん!?」

 階段の踊り場で女中の花と出会い、梗一郎は動揺する花に、水と手ぬぐいを持ってくるように言いつけた。そうしてようやくたどり着いた樹の部屋の扉を開け、綺麗に整えられたベッドの上に樹の身体を横たえた。

「ぅ、うぅ……」

「樹……!」

 意識が戻ったかのように思えたが、樹は苦しそうに身を捩ると、再び意識を失ったようだった。

(心臓が悪い者は、何度か大きな発作を起こすと死に至ると聞く。まさか、樹はこのまま……)

 梗一郎は悪い考えを振り切るように、ブンブンと頭を左右に振った。

「スペイン風邪から生還したんだ。今度もまた大丈夫――」

 そこまで考えて、梗一郎はハッとした。

(そうだ。樹は……早乙女樹は、)

 ――スペイン風邪で死んでいる。

 現実を思い出した瞬間、梗一郎の顔からサァッと血の気が引いていく。それからよろよろと後退し、西洋箪笥チェストにぶつかった。梗一郎の肘が当たり、ギヤマン陶の花瓶が絨毯の上に落下する。

 パリーン!

 と陶器が割れる音が廊下にまで響き渡り、手桶を抱えた花が顔色を変えて室内に飛び込んできた。

「大丈夫ですか!?」

 花は、絨毯の上に散らばった花瓶だったものの残骸に目を丸くしたのち、西洋箪笥に寄りかかって額を押さえる梗一郎に駆け寄った。

「お坊ちゃま! いかがされました!?」

 手桶を脇に置きながら心配そうに訊ねてきた花に、「私は大丈夫だ」と伝える。それから梗一郎は気を失ったままの樹に視線を移し、

「……樹を夜着に着替えさせてやってくれ」

 と言った。それに頷いた花の後ろ姿に、「医者はまだか?」と訊ねると、

「家令が下男に命じて、車でお迎えに行かせました。お医者さまの診療所はお邸から近いですから、もうすぐ到着されると思います」

 と、答えが帰ってきた。

「そうか……」

 と漏れ出る呼気と一緒に呟いた梗一郎は、その場にずるずると崩れ落ちた。それからぼんやりと霧がかった頭で、ひたすら樹の無事を願った。

(こんなことになるなら、あんな子供じみた態度を取るのではなかった……)

 今更後悔しても遅いと分かっていても、後悔せずにはいられない。

 ……梗一郎は分かっていた。

 樹は優しい男だ。

 椿子の婚約の裏を語れば、罪悪感に襲われて、椿子の犠牲をいとうことは容易に想像できた。だというのに――

(樹の口から、私の存在を切り捨てるような言葉が出てきて、怒りと悲しみに我を忘れてしまった。そして、今夜のことで樹を傷つけ、発作を起こすまで追い詰めてしまった……)

「このまま樹が死んでしまったら、私は……」

「そのようなことを考えてどうするのです! しっかりなさってください、お兄さま!」

 いつの間にか目の前にしゃがみ込んでいた椿子に身体を揺さぶられ、梗一郎は思考の泥濘から抜け出した。

「……椿子」

「お医者さまがいらしてくださいましたわ。ほら、ご覧になって、お兄さま」

 椿子に促されるまま、のろのろと頭を上げると、花ヶ前家の主治医と看護婦が樹の診察を行っていた。

「いつきは……樹は、助かるのか……?」

 誰にとも無く呟いた言葉に反応したのは医者だった。

「かなり大きな発作でしたが、即効性のある注射を打って落ち着きました」

「よかった……」

「ですが、予断を許さない状態です。これから点滴を導入しますが、いつ目覚めるかはご本人の体力次第でしょう」

 難しい顔をしてそう言った医者の言葉に、「そんな……!」と花と椿子が悲痛な声を上げた。一様に顔を曇らせた面々を見回して、医師はコホンと空咳をする。

「あのスペイン風邪から回復された御方です。今回もきっと無事に目を覚まされるでしょう」

「そ、そうですわよね」

「はいっ。早乙女さんなら、きっと目を覚まされます!」

 そう言って、互いに励まし合う椿子と花の姿を、梗一郎は複雑な気持ちで眺めた。

 ……仏の差配で転生した樹。

(樹は、椿子に肖像画を渡したことで、務めを果たした気がすると言っていた。だとしたら、役割を終えた樹は……)

 そこまで考えて、梗一郎はぐっと目蓋を閉じた。

「……そうだね。大丈夫だ。樹は必ず目を覚ます。大丈夫、大丈夫だ……」

 自分に言い聞かせるように何度も同じ言葉を呟く。

「お兄さま……」

 椿子が痛みを堪えるような表情を浮かべて、梗一郎の肩に手を置いた。

 逞しく包容力を感じさせる広い肩は、もう一度愛するものを失うのではないかと、恐怖に震えていた――。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

淫獄桃太郎

煮卵
BL
鬼を退治しにきた桃太郎が鬼に捕らえられて性奴隷にされてしまう話。 何も考えないエロい話です。

短編エロ

黒弧 追兎
BL
ハードでもうらめぇ、ってなってる受けが大好きです。基本愛ゆえの鬼畜です。痛いのはしません。 前立腺責め、乳首責め、玩具責め、放置、耐久、触手、スライム、研究 治験、溺愛、機械姦、などなど気分に合わせて色々書いてます。リバは無いです。 挿入ありは.が付きます よろしければどうぞ。 リクエスト募集中!

自分のことを疎んでいる年下の婚約者にやっとの思いで別れを告げたが、なんだか様子がおかしい。

槿 資紀
BL
年下×年上 横書きでのご鑑賞をおすすめします。 イニテウム王国ルーベルンゲン辺境伯、ユリウスは、幼馴染で5歳年下の婚約者である、イニテウム王国の王位継承権第一位のテオドール王子に長年想いを寄せていたが、テオドールからは冷遇されていた。 自身の故郷の危機に立ち向かうため、やむを得ず2年の別離を経たのち、すっかりテオドールとの未来を諦めるに至ったユリウスは、遂に自身の想いを断ち切り、最愛の婚約者に別れを告げる。 しかし、待っていたのは、全く想像だにしない展開で――――――。 展開に無理やり要素が含まれます。苦手な方はご注意ください。 内容のうち8割はやや過激なR-18の話です。

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

転生したら同性の婚約者に毛嫌いされていた俺の話

鳴海
BL
前世を思い出した俺には、驚くことに同性の婚約者がいた。 この世界では同性同士での恋愛や結婚は普通に認められていて、なんと出産だってできるという。 俺は婚約者に毛嫌いされているけれど、それは前世を思い出す前の俺の性格が最悪だったからだ。 我儘で傲慢な俺は、学園でも嫌われ者。 そんな主人公が前世を思い出したことで自分の行動を反省し、行動を改め、友達を作り、婚約者とも仲直りして愛されて幸せになるまでの話。

首輪 〜性奴隷 律の調教〜

M
BL
※エロ、グロ、スカトロ、ショタ、モロ語、暴力的なセックス、たまに嘔吐など、かなりフェティッシュな内容です。 R18です。 ほとんどの話に男性同士の過激な性表現・暴力表現が含まれますのでご注意下さい。 孤児だった律は飯塚という資産家に拾われた。 幼い子供にしか興味を示さない飯塚は、律が美しい青年に成長するにつれて愛情を失い、性奴隷として調教し客に奉仕させて金儲けの道具として使い続ける。 それでも飯塚への一途な想いを捨てられずにいた律だったが、とうとう新しい飼い主に売り渡す日を告げられてしまう。 新しい飼い主として律の前に現れたのは、桐山という男だった。

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

処理中です...