24 / 28
第24話
しおりを挟む
画塾から邸に戻ると、花ヶ前邸はまだ日も暮れぬうちから、全身を飾り立てた老若男女たちで賑わっていた。
(梗一郎さまもあの中にいらっしゃるのかな……)
自分とは異なる世界の住人たちと、親しげに話す梗一郎の姿が容易に想像できてしまい、樹は疎外感を感じずにはいられなかった。
樹はふぅとため息を吐くと、招待客たちを尻目に、まっすぐアトリエへと向かった。そうしてアトリエに到着した樹は、洋風平屋の建物の扉を開けて板張りの床に土足で上がり、大きな窓に掛かった重たいカーテンを開ける。すると、薄暗かった室内がパッと明るくなり、
「まぶしっ」
樹は蒼穹に似た碧眼を反射的に眇めた。
チカチカと明滅する視界を元に戻そうと、何度も瞬きをして目元を擦る。そうやって一つのことに意識を集中させていたせいで、樹はアトリエに入ってきた人の気配に気づくことができなかった。そして――
「久し振りだな、樹」
深みのある渋い声がアトリエに響き、樹は焦って後ろを振り返った。逆光ではっきりとした表情を読み取ることはできなかったが、男性の洋装と纏う雰囲気で、誰なのかを察する。
樹は、実際には初めて会う男性に、
「叔父さん……?」
と声をかけた。すると男性は、中折れ帽を脱ぎながら、壮齢さの中に愛嬌を感じる――早乙女が年を取るとこうなるのだろうと想像できる――容貌をふわりと和らげた。
「おやおや。最後に会ってから、まだ一年も経っていないのに、師匠の顔を忘れてしまったのかな?」
と言って、はははと朗らかに笑った。樹はその笑い顔に、不思議と懐かしさを覚えながら、記憶の棚をいそいで漁る。
「お、叔父さんってば、からかわないでくださいよ……! そんなことより、いつ仏蘭西からお戻りになられたのですか?」
「ひと月ほど前だよ。……樹、すまなかったね。お前が大変なときに側に居てやれなくて」
「叔父さん……」
「花ヶ前伯爵から、お前がスペイン風邪に罹ったと文が届いた時は、今生での別れを覚悟したんだよ。私は美術学校へ通っていたし、すぐに帰国することができなくてね。……しかし、伯爵からお前の無事を聞いた時には本当に驚いたよ。よく、頑張って耐えてくれたね、樹」
そう言って涙ぐむ叔父の姿に、樹は居心地の悪さを感じながら、このときばかりは必死に早乙女を演じたのだった。
*
叔父の留学話に花を咲かせていると、本邸の方から楽団の演奏が聴こえてきた。
「おお、これはいけない。もう舞踏会が始まってしまったようだ」
慌てて中折れ帽を被り直した叔父は、急いでアトリエを後にしようとして、ふと樹を振り返った。
「樹は参加しないのかい? 今日はなにやら、重大な発表があると聞いていたのだが。お前は……」
「僕は参加しません。ご当主さまによろしくお伝え下さい。……久し振りに叔父さんと話ができて楽しかったです」
「そうか……。いや、なに、私も楽しかったよ。それでは行ってくる」
「行ってらっしゃい」
樹は叔父を笑顔で見送ると、ふぅと小さく息を吐いて本邸の方角を見つめた。
(重大発表、か。きっと、椿子さまのご婚約の件だな)
ふと、脳裏に今朝のやりとりが蘇り、樹は肩を落として椅子に座り込む。
「梗一郎さま。顔を見に来てくれなかったな……」
松脂の匂いが漂う空間に、樹のもの悲しい囁きが広がり、遠くに聴こえる楽団の演奏にかき消された。
「……気晴らしになんか描くか」
そうひとりごちて筆を手に取った時、かすかに玉石を蹴る音が聞こえた気がして、樹は扉の方を振り向いた。すると――
「早乙女さんっ!」
勢いよく扉が開き、お下げ髪の少女――椿子の専属女中である花が現れた。
「花さん? そんなに慌ててどうしたんですか? 椿子さまと一緒に大広間にいたんじゃ――」
「そんなことはどうでもいいんですっ」
いつも静かで気弱な花らしくない、切羽詰まった叫び声に驚いた樹の肩がビクッと跳ねる。
(な、なんなんだ……?)
樹が目を白黒させていると、大広間からアトリエに急いで駆け込んできたのだろうか。肩で息をしていた花が、呼吸を整えながらふらふらとアトリエに足を踏み入れ、樹の目の前で蹴躓いた。
驚いた樹は花に駆け寄り、大丈夫かと手を伸ばす。すると花は、樹の手を一瞥しただけで、大きな黒ぐろとした瞳に涙を浮かべた。
「さ、早乙女さんっ! 大変なんですっ!」
「! 椿子さまの身になにかあったんですかっ!?」
咄嗟に花の両方を掴むと、花はブンブンと首を左右に振り、樹の手首を掴んだ。
「お坊ちゃま……お坊ちゃまが……!」
まさかの梗一郎の名が出てきて、樹の顔に焦りが滲む。
「梗一郎さまになにかあったんですか!?」
ポロポロと泣き崩れる花の肩を揺さぶると、花は力なくこくこくと頷いた。
「お坊ちゃまが……」
「梗一郎さまが!?」
「……ご婚約、されてしまいました……っ」
「――え?」
一瞬にして、周囲の音が消え去り、樹は暗い穴底へ突き落とされたような感覚に陥る。
(こ……いちろうさま、が……婚約……?)
樹は支えを無くした苗木のように、ふらりと板張りの床にへたり込んだ。
「そ、そんな……嘘だ……」
(だって、梗一郎さまはひと言だってそんなこと――)
樹の思考を読んだように、花が樹の肩を掴んで揺さぶる。
「早乙女さん、しっかりなすって! どうやらご当主さまは、このことを黙っておられたようなんです……! わたしとお嬢さまも、さっきご婚約者さまの存在を知りました……!」
そう言って、花は樹の両肩から手を離し、ポロポロと溢れる涙を拭った。
「わ、わたしはお嬢さまに言われて、急いでここへ来たんですっ。早乙女さん! 早く大広間へ行ってください!」
「あ、ああ、うん……!」
樹は戸惑い上手く状況を飲み込めずにいながらも、花の剣幕に背中を押されて、急いで大広間へと向かった。
(梗一郎さまもあの中にいらっしゃるのかな……)
自分とは異なる世界の住人たちと、親しげに話す梗一郎の姿が容易に想像できてしまい、樹は疎外感を感じずにはいられなかった。
樹はふぅとため息を吐くと、招待客たちを尻目に、まっすぐアトリエへと向かった。そうしてアトリエに到着した樹は、洋風平屋の建物の扉を開けて板張りの床に土足で上がり、大きな窓に掛かった重たいカーテンを開ける。すると、薄暗かった室内がパッと明るくなり、
「まぶしっ」
樹は蒼穹に似た碧眼を反射的に眇めた。
チカチカと明滅する視界を元に戻そうと、何度も瞬きをして目元を擦る。そうやって一つのことに意識を集中させていたせいで、樹はアトリエに入ってきた人の気配に気づくことができなかった。そして――
「久し振りだな、樹」
深みのある渋い声がアトリエに響き、樹は焦って後ろを振り返った。逆光ではっきりとした表情を読み取ることはできなかったが、男性の洋装と纏う雰囲気で、誰なのかを察する。
樹は、実際には初めて会う男性に、
「叔父さん……?」
と声をかけた。すると男性は、中折れ帽を脱ぎながら、壮齢さの中に愛嬌を感じる――早乙女が年を取るとこうなるのだろうと想像できる――容貌をふわりと和らげた。
「おやおや。最後に会ってから、まだ一年も経っていないのに、師匠の顔を忘れてしまったのかな?」
と言って、はははと朗らかに笑った。樹はその笑い顔に、不思議と懐かしさを覚えながら、記憶の棚をいそいで漁る。
「お、叔父さんってば、からかわないでくださいよ……! そんなことより、いつ仏蘭西からお戻りになられたのですか?」
「ひと月ほど前だよ。……樹、すまなかったね。お前が大変なときに側に居てやれなくて」
「叔父さん……」
「花ヶ前伯爵から、お前がスペイン風邪に罹ったと文が届いた時は、今生での別れを覚悟したんだよ。私は美術学校へ通っていたし、すぐに帰国することができなくてね。……しかし、伯爵からお前の無事を聞いた時には本当に驚いたよ。よく、頑張って耐えてくれたね、樹」
そう言って涙ぐむ叔父の姿に、樹は居心地の悪さを感じながら、このときばかりは必死に早乙女を演じたのだった。
*
叔父の留学話に花を咲かせていると、本邸の方から楽団の演奏が聴こえてきた。
「おお、これはいけない。もう舞踏会が始まってしまったようだ」
慌てて中折れ帽を被り直した叔父は、急いでアトリエを後にしようとして、ふと樹を振り返った。
「樹は参加しないのかい? 今日はなにやら、重大な発表があると聞いていたのだが。お前は……」
「僕は参加しません。ご当主さまによろしくお伝え下さい。……久し振りに叔父さんと話ができて楽しかったです」
「そうか……。いや、なに、私も楽しかったよ。それでは行ってくる」
「行ってらっしゃい」
樹は叔父を笑顔で見送ると、ふぅと小さく息を吐いて本邸の方角を見つめた。
(重大発表、か。きっと、椿子さまのご婚約の件だな)
ふと、脳裏に今朝のやりとりが蘇り、樹は肩を落として椅子に座り込む。
「梗一郎さま。顔を見に来てくれなかったな……」
松脂の匂いが漂う空間に、樹のもの悲しい囁きが広がり、遠くに聴こえる楽団の演奏にかき消された。
「……気晴らしになんか描くか」
そうひとりごちて筆を手に取った時、かすかに玉石を蹴る音が聞こえた気がして、樹は扉の方を振り向いた。すると――
「早乙女さんっ!」
勢いよく扉が開き、お下げ髪の少女――椿子の専属女中である花が現れた。
「花さん? そんなに慌ててどうしたんですか? 椿子さまと一緒に大広間にいたんじゃ――」
「そんなことはどうでもいいんですっ」
いつも静かで気弱な花らしくない、切羽詰まった叫び声に驚いた樹の肩がビクッと跳ねる。
(な、なんなんだ……?)
樹が目を白黒させていると、大広間からアトリエに急いで駆け込んできたのだろうか。肩で息をしていた花が、呼吸を整えながらふらふらとアトリエに足を踏み入れ、樹の目の前で蹴躓いた。
驚いた樹は花に駆け寄り、大丈夫かと手を伸ばす。すると花は、樹の手を一瞥しただけで、大きな黒ぐろとした瞳に涙を浮かべた。
「さ、早乙女さんっ! 大変なんですっ!」
「! 椿子さまの身になにかあったんですかっ!?」
咄嗟に花の両方を掴むと、花はブンブンと首を左右に振り、樹の手首を掴んだ。
「お坊ちゃま……お坊ちゃまが……!」
まさかの梗一郎の名が出てきて、樹の顔に焦りが滲む。
「梗一郎さまになにかあったんですか!?」
ポロポロと泣き崩れる花の肩を揺さぶると、花は力なくこくこくと頷いた。
「お坊ちゃまが……」
「梗一郎さまが!?」
「……ご婚約、されてしまいました……っ」
「――え?」
一瞬にして、周囲の音が消え去り、樹は暗い穴底へ突き落とされたような感覚に陥る。
(こ……いちろうさま、が……婚約……?)
樹は支えを無くした苗木のように、ふらりと板張りの床にへたり込んだ。
「そ、そんな……嘘だ……」
(だって、梗一郎さまはひと言だってそんなこと――)
樹の思考を読んだように、花が樹の肩を掴んで揺さぶる。
「早乙女さん、しっかりなすって! どうやらご当主さまは、このことを黙っておられたようなんです……! わたしとお嬢さまも、さっきご婚約者さまの存在を知りました……!」
そう言って、花は樹の両肩から手を離し、ポロポロと溢れる涙を拭った。
「わ、わたしはお嬢さまに言われて、急いでここへ来たんですっ。早乙女さん! 早く大広間へ行ってください!」
「あ、ああ、うん……!」
樹は戸惑い上手く状況を飲み込めずにいながらも、花の剣幕に背中を押されて、急いで大広間へと向かった。
8
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説
【完結】【R18BL】早漏な俺を遅漏のルームメイトが特訓してくれることになりました。
ちゃっぷす
BL
ありえないくらい早漏の主人公、爽(そう)。
そのせいで、彼女にフラれたことと、浮気されたこと数知れず。
ある日また彼女に浮気されて凹んでいると、ルームシェアをしている幼馴染、大地(だいち)が早漏を克服するための特訓をしようと持ち掛けてきた!?
金持ちイケメンなのにちんちん激ヨワ主人公と、ワンコなのに押しが強いちんちん激ツヨ幼馴染のお話。
※アホしかいません※
※色気のないセックス描写※
※色っぽい文章ではありません※
※倫理観バグッてます※
※♂×♀描写あり※
※攻めがだいぶ頭おかしい※サイコパス入ってます※
※途中からただのアホエロではなくなります※
※メンヘラ、ヤンデレ、サイコパス、NTR、BL作品内の♂×♀に免疫がある方のみ、お読みください※
短編エロ
黒弧 追兎
BL
ハードでもうらめぇ、ってなってる受けが大好きです。基本愛ゆえの鬼畜です。痛いのはしません。
前立腺責め、乳首責め、玩具責め、放置、耐久、触手、スライム、研究 治験、溺愛、機械姦、などなど気分に合わせて色々書いてます。リバは無いです。
挿入ありは.が付きます
よろしければどうぞ。
リクエスト募集中!
英雄の息子が俺のこと孕ませようとしてくる!
戸沖たま
BL
王国騎士になるべく王都の士官学校に通うようなってから早5年のシュリは最近、同期のアスラルととんでもない約束をしてしまった。
それというのも、
「俺の中、出していいからっ!!でも、今すぐは無理だから!!ちゃんと調べてからやろうっ??!!!」
「本当にいいんだな」
「…は、はい……」
………お尻にアスラルのものを入れていいという約束だった。
いつも無口で滅多なことでは動かない表情筋、そしてコミュニケーション能力が皆無なのに実力だけが周囲から飛び抜けているせいで周りからはカラクリ人間だとか鉄の男だとか呼ばれて遠巻きにされ、友達ももはや同室の自分しかいないアスラルに哀れみの感情から世話を焼いていたシュリだったが、ある日アスラルの悩みに少し手を貸すつもりで手助けしたら、あらぬ方向へ勘違いされてしまいアナル拡張の地獄のような日々が始まって……!!?
愛重めの執着攻め×お人好し丸め込まれ受け
※題名がアレなんですが男性妊娠表現はありません。予告なくタグを増やす場合があります。地雷な方はよくよくご確認下さい。
転生したら同性の婚約者に毛嫌いされていた俺の話
鳴海
BL
前世を思い出した俺には、驚くことに同性の婚約者がいた。
この世界では同性同士での恋愛や結婚は普通に認められていて、なんと出産だってできるという。
俺は婚約者に毛嫌いされているけれど、それは前世を思い出す前の俺の性格が最悪だったからだ。
我儘で傲慢な俺は、学園でも嫌われ者。
そんな主人公が前世を思い出したことで自分の行動を反省し、行動を改め、友達を作り、婚約者とも仲直りして愛されて幸せになるまでの話。
首輪 〜性奴隷 律の調教〜
M
BL
※エロ、グロ、スカトロ、ショタ、モロ語、暴力的なセックス、たまに嘔吐など、かなりフェティッシュな内容です。
R18です。
ほとんどの話に男性同士の過激な性表現・暴力表現が含まれますのでご注意下さい。
孤児だった律は飯塚という資産家に拾われた。
幼い子供にしか興味を示さない飯塚は、律が美しい青年に成長するにつれて愛情を失い、性奴隷として調教し客に奉仕させて金儲けの道具として使い続ける。
それでも飯塚への一途な想いを捨てられずにいた律だったが、とうとう新しい飼い主に売り渡す日を告げられてしまう。
新しい飼い主として律の前に現れたのは、桐山という男だった。
自分のことを疎んでいる年下の婚約者にやっとの思いで別れを告げたが、なんだか様子がおかしい。
槿 資紀
BL
年下×年上
横書きでのご鑑賞をおすすめします。
イニテウム王国ルーベルンゲン辺境伯、ユリウスは、幼馴染で5歳年下の婚約者である、イニテウム王国の王位継承権第一位のテオドール王子に長年想いを寄せていたが、テオドールからは冷遇されていた。
自身の故郷の危機に立ち向かうため、やむを得ず2年の別離を経たのち、すっかりテオドールとの未来を諦めるに至ったユリウスは、遂に自身の想いを断ち切り、最愛の婚約者に別れを告げる。
しかし、待っていたのは、全く想像だにしない展開で――――――。
展開に無理やり要素が含まれます。苦手な方はご注意ください。
内容のうち8割はやや過激なR-18の話です。
新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる