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第16話

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 梗一郎こういちろうは、はぁはぁと喘ぐように呼吸する樹の姿をじっと眺めた。樹はとろんとした瞳でちゅうを見つめ、梗一郎の視線に気づかない。乱れた寝間着ゆかたを中途半端にまとい、男にしては華奢な白い肢体したいを、隠すことなく明かりの下にさらしている。

 ――樹を……この男を、ぐちゃぐちゃになるまで抱き潰したい。

 オスとしての支配欲か、それとも元々梗一郎に備わっていた感情なのかは分からない。

 しかし梗一郎は、いま目の前にいる樹を、愛し尽くしたくてたまらない思いだった。

 梗一郎は、本能が求めるままに樹に触れようと伸ばした手を、寸でのところで止めた。何故ならば、今朝の出来事が脳裏をよぎったからだ。

『……お坊ちゃまは、僕のことを見てくださっていますか? 僕は以前の早乙女樹となんら変わりのない存在ですか? 一度でも、以前の早乙女樹ではなく、今ここにいる僕を見てくださったことはありますか?』

 涙を浮かべながら必死に訴えかける樹の姿に、梗一郎は、横っ面を張られたような衝撃を受けた。

 しかし、己のどっちつかずな言動や態度が樹を傷つけることになると分かっていても、わずかな希望を捨てきれなかったのだ。

 樹が――本物の早乙女樹が戻ってくるのではないか、という甘くそして残酷な願いを。

 ……疑念は最初からあった。

 スペイン風邪から奇跡の生還を果たした樹に会いに行った時、膝から崩折れた梗一郎に『大丈夫か』と手を差し伸べた樹の姿に、どこか違和感を覚えた。

 ……早乙女樹という男は、受動的な人間だった。

 興味を示すものは絵画のみで、あとは風が吹くままにふわふわと漂う……まるで、夢の中に生きているような男だった。

 そんな樹に興味を抱いた梗一郎は、たわむれに、庭掃除中の樹に声をかけた。そしてほんの少しの好奇心から、ぬばたまの髪を指先でさらい、あの蒼穹そうきゅうの瞳に恋をしたのだ。

 それからの梗一郎の行動は早かった。何かと理由をつけては、樹のもとへ足繁く通った。

 最初は萎縮され、樹の内気な性格も相まって、なかなか距離を縮められずにいた。

 ……転機となったのは、梗一郎が妹――椿子ちこの肖像画を、樹に依頼したことだった。

 樹は、キャンバスの前に座ると、別人のような雰囲気を纏った。美しくも、どこか影が差す碧眼が、生き生きと輝く瞬間でもあった。

 梗一郎は、そんな樹の姿を、暇さえあれば眺めに行った。そうしていつしか、梗一郎と樹は互いの気持ちを伝え合い、晴れて恋人同士となったのだ。

 梗一郎は、樹の歩調に合わせて、ゆっくりと愛を育んでいった。戯れに軽い口付けを交わしてからは、お互いを強く求め合うような口付けに変化していった。

 ――なにもかもが順調に進んでいた。

 梗一郎は毎日が幸せだった。いつか樹の心からの笑顔を見たいと、命が続く限り大切にしたいと、そう思っていた。しかし――

 樹はスペイン風邪に罹患りかんしてしまった。

 わざわざ医者に説明されなくとも、梗一郎には分かっていた。生来、身体が弱く、心の臓が悪い樹の命は助からないだろうということを。

 しかし、奇跡は起きた。無事に峠を越えた樹が、目を覚まして起き上がったというのだ。

 梗一郎は、周囲の反対を押し切り、樹に会いに行った。久し振りに抱きしめた樹の身体はまだ熱を帯びていて、記憶の混乱も起こっているようだった。それからしばらくして、樹は頭を抱えて絶叫すると意識を失った。

 そして再び目覚めた樹は、以前とは正反対の、快活かいかつでよく笑う男に変わっていた。

 周囲の人間は気づいていないようだったが、梗一郎には、樹の中身が入れ替わってしまったように見えていた。

 ――仏の慈悲か。それとも戯れか。

 樹が別人になってしまったなどという妄言を口に出すことは出来なかった。

 しかし樹は性格が明るくなっただけで、樹という人間を形成する根幹こんかんは、以前の樹のまま、なんら変わりなかった。

 そして今の樹こそが、梗一郎が求めていた姿であると言っても、過言ではなかった。そうして梗一郎は、もう一度、今の樹に恋をしたのだった。

 ……以前愛した樹は、もう存在しない。

 その事実に酷く打ちのめされ、ひとり苦しみ、枕を涙で汚した日もあった。

 しかしそのたびに、花が咲くように朗らかに笑う、樹の無邪気さに救われてきた。

 そしてある時、梗一郎は、ようやく気がついた。樹が、『早乙女樹』を真似ようと必死に努力しているという事実に。

 ……樹の拠り所になってやりたい。

 梗一郎は樹がひとりで抱え込んでいる全てのことを、いつの日か打ち明けてくれるその時まで、知らないフリをして寄り添っていようと心に決めた。だというのに――

 何かに取り憑かれたように一心不乱に筆を動かし、まるで恋をしたような視線をキャンバスに向ける樹に、激しい怒りと嫉妬心を覚えた。そうして梗一郎は初めて、樹の身体を暴いたのだった。

 その次の日から、樹に避けられる日々が始まった。己の自制心のなさが招いた結果とはいえ、さすがの梗一郎も『お坊ちゃま』呼びには内心かなりこたえた。

 けれど梗一郎には確信があったのだ。

 樹も己のことを好いてくれているという確信が。しかし――

 梗一郎が想像していた以上に、樹は、梗一郎との関係性を思い悩んでいたらしい。そのことにようやく気がついた時には、すでに樹を傷つけてしまっていた。

 梗一郎は、いま忘我ぼうがの境にいる樹の心臓を、ついっと指先で撫でた。

「ン、」

 その僅かな刺激にも敏感に反応する樹を、梗一郎はとても愛しく想い、自然と口元が緩んだ。

 汗で肌にへばりついた前髪をけてやった梗一郎は、ベッドに片膝を乗せて、美味しそうにとろけた蒼穹の碧眼を覗き込んだ。

「樹。さっき言いそびれたのだけれど、私はそなたと以前の樹を比べていたわけではない。……これは推測に過ぎないが、早乙女樹は死んでしまったのだろう?」

 梗一郎の言葉に、樹の肩がピクリと跳ねた。

「私が愛した樹は、もうこの世にいない。けれど私は、明るく快活で愛らしいそなたに恋をしてしまった。だから――」

(私の側から離れることは許さない)

「そなたが不安に思わなくなるくらい、全身全霊で愛してあげよう。……私の愛しい樹。その美しい肢体で、私がどれだけそなたを愛しているか、身を持って知るといい」

 そう言って、うっそりと微笑んだ梗一郎の瞳には、狂気に似た喜悦きえつが浮かんでいた。
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