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第10話

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 樹は何事もなかったふうを装い、足元に倒れたままの竹箒を拾い上げた。そして庭掃除を再開し、竹箒を動かしながら梗一郎を振り返る。

「そういえば、梗一郎さま。今朝は随分早起きですね。まだ日が昇ったばかりなのに、もう身支度を終えていらっしゃいます」

「ああ。今日は早めに出発しなくてはならなくてね。だがその前に、樹をアトリエに案内しておこうかと思って」

「! アトリエに!?」

 樹は竹箒を胸の前で握りしめて、喜びのあまり前のめりになった。その姿を見た梗一郎は、クスッと笑うと、樹の頭を優しく撫でた。

「家令から報告を受けてね。まだ静養が必要なはずの書生殿が、庭掃除に励んでいると聞いて、私がどう思ったか知りたいかい?」

 そう言って、梗一郎は含蓄がんちくのある表情を浮かべた。その艶然えんぜんたる微笑みを直視出来なかった樹は、うろうろと視線をさまよわせたあと、あははと空笑いする。

「む、無理はしてませんよ! それに霧の中で咲くバラを見たかったものですから。掃除はそのついでのようなものです」

 なんとかそれらしいことを言うと、梗一郎はあっさりと納得してくれた。早乙女は相当バラ好きだったようだ。実を言うと樹もバラが好きなので、画家といいバラといい、早乙女との共通点が多くて驚いている。

(ここは俺が描いた絵の中の世界だし、それも関係してんのかな?)

 真相は不明だが、樹は梗一郎と一緒に、離れにあるというアトリエに向かった。





 庭園からそう離れていない場所に、洋風平屋の建物が建っていた。

「わぁ……! ここが僕のアトリエですか?」

「ああ、そうだよ。板張りの床は土足で入れるようになっているから、遠慮せずそのまま入るといい」

 樹は梗一郎に促されるまま、早乙女のアトリエに、そろそろと足を踏み入れた。入室してすぐに鼻腔を刺激した油絵の松脂テレピンの匂いにうっとりとする。それから室内を見回すと、出入り口から見て右側と正面の壁に、大きな窓が取り付けてあった。そして、左の壁際に設置されたイーゼルにはキャンバスがのっていて、埃よけの布がかかっている。

 樹は後ろを振り返り、扉に寄りかかる梗一郎に、

「この布を取ってみてもいいですか?」

 と訊ねた。すると梗一郎は、

「私に訊ねる必要はないよ。このアトリエは樹のものなのだから」

 と微笑みながら言った。その言葉に頷いた樹は、キャンバスにかかる布を一気に取り去って――

「え?」

 驚愕した。樹の眼前に現れたのは、元の世界で樹が描いたものと同じ、『大正乙女』――花ヶ前椿子はながさきちこ肖像画じんぶつがだったのだ。

「……き、樹?」

 梗一郎に呼ばれて、樹はハッとする。

「こ、梗一郎さま。この絵って……」

「うん? ああ、これはね。私が樹に依頼したんだよ。もう完成しているのかな?」

「……いいえ。未完成です」

 樹が首を左右に振ると、梗一郎は「そうか」とだけ呟いた。その後すぐに、家令が梗一郎を呼びにきて、梗一郎はアトリエを後にした。

 アトリエにひとり残った樹は、のろのろとした足取りでキャンバスに近づいた。

 ――ある時から樹は、何かに取り憑かれたように人物画を描くようになった。

 樹は絵を完成させた後に死んだが、早乙女は完成させる前に亡くなっている。

(……これって、早乙女さんが椿子さんの肖像画を描いてたこととリンクしてんのか? たとえば俺に、椿子さんの絵を完成させて欲しかったとか……)

 そんな謎めいたことを考えながら、樹はキャンバスの前に椅子を持ってきて座った。そして、机の上に置いてあった油絵用のパレットと絵筆を持つと、樹は時が過ぎるのも忘れて着彩ちゃくさいに没頭したのだった。





「樹、ずっとここに居たのかい?」

 帰宅した梗一郎に声をかけられるまで作業に没入していた樹は、ハッと我に返って扉の方を見た。

「梗一郎さま……おかえりなさい」

 まるで夢を見ていたかのようにぼんやりとしている樹に、梗一郎は苦笑いを浮かべた。

「……私は、キャンバスに向かう樹の姿を見るのが好きだが、それと同時に複雑な気持ちになるよ」

「複雑な気持ち、ですか?」

 樹が道具を片していると、梗一郎はアトリエに足を踏み入れ、樹を背後から抱きしめた。それに驚いた樹が身じろぎするが、抱きしめる力が強くなるだけだったので、抵抗を諦めてされるがままでいることにする。

「椿子の肖像画を描いてほしいと頼んだのは私なのに、寝食を忘れて妹を描く樹を見ていると、まるで樹が椿子に恋しているように見えて嫌だった」

「梗一郎さま……」

「わかっているよ。画家とはそういうものだと。だけど、年甲斐もなく嫉妬してしまう、私の狭量さを許しておくれ」

「梗一郎さ――あ、ふ……っ」

 樹が口を開いた瞬間に、梗一郎は樹の顎をとらえて、小さな口の中に薄い舌をねじ込んだ。梗一郎の薄い唇が樹の柔い唇を食み、生温い舌が口腔内を蹂躙していく。

 樹は梗一郎の舌の動きに翻弄されながら、梗一郎のがっしりとした腕に抱きかかえられ、手近な机の上に乗せられた。

「んっ、はぁ……ちゅっ、んぅ」

 むせかえるような油絵の匂いと、梗一郎の汗の匂いが混ざり合い、まるで媚薬のように樹の身体を熱くさせる。

「はぁ……っん、いつき……いつき……」

 息継ぎの度に渇望するように名を呼ばれ、樹は抵抗するのも忘れて、陶然とうぜんとしながら梗一郎の首に腕を回した。
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