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捌
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「ぅ……ん、」
普段嗅ぐことのない、婀娜っぽい白粉の匂いに包まれて、蘭花は重たい目蓋を開けた。
「蘭花、気がついたか?」
ぼんやりとする視界の中に、安堵と疲労の滲む慶虎の顔が映り込む。
「おにいさま……?」
寝起きのせいだろうか。蘭花は、何故か掠れている声に首を傾げる。んんっ、と咳払いをした蘭花の頭を、慶虎は優しくなでた。
「起き上がれそうか?」と聞かれて、蘭花は頷く。慶虎に支えてもらいながら上体を起こし、積み上げられた枕にもたれかかった。
慶虎は寝台横の卓に手を伸ばすと、茶托に置いてある蓋碗を手に取った。
「目が覚めてよかった。――蘭花。覚えているか? お前は突然意識を失ったんだ」
蘭花は蓋碗を受け取り、湯冷ましをこくりと飲んでから、ふるふると首を左右に振った。
「……ごめんなさい、お兄様。私……全く覚えていないわ……」
申し訳なく思った蘭花は、蓋碗を慶虎に手渡すと、俯いて布団の端を握った。その表情を見た慶虎は、微笑を浮かべる。
「いや、いいんだよ。お前が無事ならそれで。……それじゃあ、ここがどこだかわかるか?」
蘭花はキョトンとしたあと、くるりと周りを見回して、再びふるふると首を左右に振った。その様子を見た慶虎は、
「……まさか、お前。軒虎と会ったことも忘れてしまったのか?」
と言った。
「シェンフー……? ……どなたのことかしら。お兄様のお友達?」
蘭花がこてんと首を傾けると、慶虎は何かを考え込むように額を押さえた。しばらくして、ふぅと小さく息を吐いた慶虎が後ろを振り返る。その動きを目で追った蘭花は、そこで初めて第三者の存在に気づいた。
「大夫。これは一体どういうことだ?」
慶虎が疲労の滲む声で訊ねる。すると小太りの男――医生は、手ぬぐいで額の汗を拭きながら口を開いた。
「お嬢様は、寝不足と胃の不調が見受けられます。おそらく、旦那様のおっしゃる心の病が原因でしょう。記憶の件に関しましては、心に大きな衝撃を受けたことによる一時的な健忘でございます」
「どこかを損傷したわけではないんだな?」
「はい。人は、心の傷が極度に高い状態になると、その原因となった記憶から自己を遠ざけることで、心の安定を図ることがあるのです」
「……記憶は戻るのか」
「個人差がございますが、数日から数ヶ月後には戻るでしょう。ただし、記憶を失った原因から遠ざけて、信頼できる者と一緒に心穏やかに過ごすことが必要にございます」
慶虎は「そうか」と答えると、医生に薬を処方するように指示をして下がらせた。
蘭花は医生の後ろ姿を目で追ったあと、不安を隠せず、慶虎に詰め寄った。
普段嗅ぐことのない、婀娜っぽい白粉の匂いに包まれて、蘭花は重たい目蓋を開けた。
「蘭花、気がついたか?」
ぼんやりとする視界の中に、安堵と疲労の滲む慶虎の顔が映り込む。
「おにいさま……?」
寝起きのせいだろうか。蘭花は、何故か掠れている声に首を傾げる。んんっ、と咳払いをした蘭花の頭を、慶虎は優しくなでた。
「起き上がれそうか?」と聞かれて、蘭花は頷く。慶虎に支えてもらいながら上体を起こし、積み上げられた枕にもたれかかった。
慶虎は寝台横の卓に手を伸ばすと、茶托に置いてある蓋碗を手に取った。
「目が覚めてよかった。――蘭花。覚えているか? お前は突然意識を失ったんだ」
蘭花は蓋碗を受け取り、湯冷ましをこくりと飲んでから、ふるふると首を左右に振った。
「……ごめんなさい、お兄様。私……全く覚えていないわ……」
申し訳なく思った蘭花は、蓋碗を慶虎に手渡すと、俯いて布団の端を握った。その表情を見た慶虎は、微笑を浮かべる。
「いや、いいんだよ。お前が無事ならそれで。……それじゃあ、ここがどこだかわかるか?」
蘭花はキョトンとしたあと、くるりと周りを見回して、再びふるふると首を左右に振った。その様子を見た慶虎は、
「……まさか、お前。軒虎と会ったことも忘れてしまったのか?」
と言った。
「シェンフー……? ……どなたのことかしら。お兄様のお友達?」
蘭花がこてんと首を傾けると、慶虎は何かを考え込むように額を押さえた。しばらくして、ふぅと小さく息を吐いた慶虎が後ろを振り返る。その動きを目で追った蘭花は、そこで初めて第三者の存在に気づいた。
「大夫。これは一体どういうことだ?」
慶虎が疲労の滲む声で訊ねる。すると小太りの男――医生は、手ぬぐいで額の汗を拭きながら口を開いた。
「お嬢様は、寝不足と胃の不調が見受けられます。おそらく、旦那様のおっしゃる心の病が原因でしょう。記憶の件に関しましては、心に大きな衝撃を受けたことによる一時的な健忘でございます」
「どこかを損傷したわけではないんだな?」
「はい。人は、心の傷が極度に高い状態になると、その原因となった記憶から自己を遠ざけることで、心の安定を図ることがあるのです」
「……記憶は戻るのか」
「個人差がございますが、数日から数ヶ月後には戻るでしょう。ただし、記憶を失った原因から遠ざけて、信頼できる者と一緒に心穏やかに過ごすことが必要にございます」
慶虎は「そうか」と答えると、医生に薬を処方するように指示をして下がらせた。
蘭花は医生の後ろ姿を目で追ったあと、不安を隠せず、慶虎に詰め寄った。
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