復讐の蘭花

アナマチア

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「ぅ……ん、」

 普段嗅ぐことのない、婀娜あだっぽい白粉おしろいの匂いに包まれて、蘭花は重たい目蓋を開けた。

「蘭花、気がついたか?」

 ぼんやりとする視界の中に、安堵と疲労のにじむ慶虎の顔が映り込む。

「おにいさま……?」

 寝起きのせいだろうか。蘭花は、何故か掠れている声に首を傾げる。んんっ、と咳払いをした蘭花の頭を、慶虎は優しくなでた。

 「起き上がれそうか?」と聞かれて、蘭花は頷く。慶虎に支えてもらいながら上体を起こし、積み上げられた枕にもたれかかった。

 慶虎は寝台横の卓に手を伸ばすと、茶托ちゃたくに置いてある蓋碗がいわんを手に取った。

「目が覚めてよかった。――蘭花。覚えているか? お前は突然意識を失ったんだ」

 蘭花は蓋碗を受け取り、湯冷ましをこくりと飲んでから、ふるふると首を左右に振った。

「……ごめんなさい、お兄様。私……全く覚えていないわ……」

 申し訳なく思った蘭花は、蓋碗を慶虎に手渡すと、俯いて布団の端を握った。その表情かおを見た慶虎は、微笑を浮かべる。

「いや、いいんだよ。お前が無事ならそれで。……それじゃあ、ここがどこだかわかるか?」

 蘭花はキョトンとしたあと、くるりと周りを見回して、再びふるふると首を左右に振った。その様子を見た慶虎は、

「……まさか、お前。軒虎と会ったことも忘れてしまったのか?」

 と言った。

「シェンフー……? ……どなたのことかしら。お兄様のお友達?」

 蘭花がこてんと首をかたむけると、慶虎は何かを考え込むように額を押さえた。しばらくして、ふぅと小さく息を吐いた慶虎が後ろを振り返る。その動きを目で追った蘭花は、そこで初めて第三者の存在に気づいた。

大夫せんせい。これは一体どういうことだ?」

 慶虎が疲労の滲む声で訊ねる。すると小太りの男――医生いしゃは、手ぬぐいで額の汗を拭きながら口を開いた。

「お嬢様は、寝不足と胃の不調が見受けられます。おそらく、旦那様のおっしゃる心の病が原因でしょう。記憶の件に関しましては、心に大きな衝撃を受けたことによる一時的な健忘けんぼうでございます」

「どこかを損傷したわけではないんだな?」

「はい。人は、心の傷が極度に高い状態になると、その原因となった記憶から自己を遠ざけることで、心の安定を図ることがあるのです」

「……記憶は戻るのか」

「個人差がございますが、数日から数ヶ月後には戻るでしょう。ただし、記憶を失った原因から遠ざけて、信頼できる者と一緒に心穏やかに過ごすことが必要にございます」

 慶虎は「そうか」と答えると、医生に薬を処方するように指示をして下がらせた。

 蘭花は医生の後ろ姿を目で追ったあと、不安を隠せず、慶虎に詰め寄った。
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