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第二話 帰ってきた日常 壱
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身支度を整えた蘭花は、寝台を整えている小梅に声をかけた。
「小梅」
小梅は作業の手を止めて、笑顔でこちらに振り向いた。
「はい、蘭花様」
「朝餉が済んだら明杰に会おうと思うの。今日、出仕するかどうか調べてみてくれる?」
そうお願いすると、小梅は人差し指を顎に添えて考え込んだあと、ぽんっと手を打った。
「確か、明杰様でしたら、本日も春宮へお見えかと」
「そう」
蘭花はこくりと頷くと、きょろきょろと室内を見回した。弟分である見習い太監の姿を探すが見当たらない。
蘭花はくるりと後ろを振り返る。
「ねぇ、小菊。阿明はどこにいるかしら」
宮女と共に朝餉の準備をしていた小菊は首を傾けた。
「阿明でしたら、厨にいると思います。呼んでまいりましょうか?」
「うん。お願い」
「かしこまりました」
と言って軽く膝を曲げた小菊は、あとの支度を宮女に任せ、蘭花に向かってお辞儀をしてから部屋を出ていった。その後ろ姿を見送った蘭花が卓につくと、間を置かずに小梅が近寄り、椀に粥をよそいはじめる。
「そういえば。小梅。お母様はお部屋にいらっしゃる?」
小梅は、よそい終えた粥入りの椀を卓上に置くと、ふるふると首を左右に振った。
「昨晩は陛下に召されましたので、まだお戻りになっておりません。おそらく、陛下と朝餉をご一緒なされてからお戻りになるかと」
蘭花は口の中の粥を咀嚼し飲み込んでから微笑んだ。
「わかったわ。ありがとう」
そう言って、二口目を食べようと匙を動かすが、なかなか口元に運べない。
(どうしよう。食欲がないわ……)
蘭花は迷ったすえ、小さく息を吐いて、椀を卓上に置いた。すると、半分も減っていない椀の中身を確認した小梅が、
「もうお召し上がりにならないので?」
と心配そうに訊ねてきた。
蘭花は、心配をかけてしまったことに申し訳無さを覚えながら眉尻を下げる。
「今日は食欲がないみたい。具合が悪いわけではないから、あまり心配しないで」
「でも……いつもはおかわりなさいますのに。……やっぱり侍医を呼んだほうが」
「大丈夫だって言ってるでしょ。小梅は心配しすぎよ」
苦笑しながら椅子から降りたところに、小菊が阿明を連れて戻ってきた。阿明の姿を見た蘭花は、ぱあっと明るい笑顔を浮かべて駆け出すと、勢いよく阿明に抱きついた。それに驚いた阿明は、行き場のない両手をばたつかせた。
「ら、蘭花お姉様っ。急にどうなさったのですか?」
まだ十にも満たない阿明が、大人びた口調で訊ねてくる。
蘭花は再会の喜びで目尻に滲んだ涙を拭いながら、ゆっくりと阿明から離れた。
「驚かせちゃったわね。なんでもないのよ。気にしないで」
「そ、そうですか……?」
くりっとした大きな黒目をぱちぱちと瞬かせた阿明から視線を外し、蘭花は赤くなった目元を隠すように身を翻した。
「……阿明。明杰に会いたいの。使いを頼める?」
「御意。すぐに行ってまいります!」
阿明は元気に返事をして部屋を出ていった。それを見届けた蘭花は、
「……そろそろお母様がお戻りになったかもしれないわね」
そう言って、小菊を伴い部屋から出て中庭を通り、母――沈氏の部屋に向かった。すると、いつの間に戻ってきていたのか、沈氏は窓際の座席に座ってお茶を飲んでいるところだった。
「お母様っ」
蘭花が笑顔で駆け寄ると、沈氏は蓋碗を机の上に置いて、おっとりと微笑んだ。
「あら、小蘭。今日は早起きなのね。偉いわ」
もう十二歳になった――中身は十五歳だが――娘を幼名で呼ぶ沈氏は、争いを好まない穏やかな気性で品が良い。陛下の寵妃になるくらいなので、詩書に明るく舞踏に秀で、容姿もひときわ美しい。……ただひとつだけ欠点を挙げるとすれば、家門が落ちぶれていることだろう。
家門が落ちぶれている――朝廷での地位を失い、権力を持たないというのは、ここ後宮では差別の対象となる。
同じ妃嬪たちからの差別行為ならまだしも、正六品以下の宮女に侮られるのは、非常に惨めで恥ずかしいことだった。
(幸い今は、陛下のご寵愛を賜っているから、誰もお母様に手を出せないけど……)
逆を言えば、王の寵愛がなければ、虐げられるということだ。
王の寵愛さえあれば、穏やかに暮らしていけると思っていた。
……逆行する前までは。
(陛下の寵愛に頼りきった生き方は良くないわ。陛下の愛を信じてはいけない。……だってあのとき、なにがあったのか分からないけど、太監が持っていたのは本物の聖旨に間違いなかった。ということは、陛下が許可したせいであの惨劇が起こったということだもの)
これから三年後に起こる惨劇から母を守るためには、陛下の寵愛を当てにしているだけでは駄目だ。
蘭花はそんなことを考えながら、無邪気な笑みを浮かべた。
「もう。お母様ったら。私はもう子どもじゃないのよ? お嫁にだって行ける歳なんだから!」
「おほほ。なにを言うの。わたくしにとっては、永遠にかわいい小蘭のままよ。でもそうねぇ……遊び回る時間を減らして、もう少しお勉強に専念してくれたら、赤ちゃんから卒業させてあげるわ」
「もう。お母様のいじわるっ」
朧月堂に明るい笑い声が響く。
――そう。この光景が、蘭花にとって当たり前の日常だったのだ。
(……あんな悲しい結末なんて迎えさせない)
知らぬうちに両手を強く握りしめていたのだろう。蘭花の冷えた拳に、温かい指先が触れた。驚いて振り返ると、側に掌事宮女の玉容が立っていた。
「小梅」
小梅は作業の手を止めて、笑顔でこちらに振り向いた。
「はい、蘭花様」
「朝餉が済んだら明杰に会おうと思うの。今日、出仕するかどうか調べてみてくれる?」
そうお願いすると、小梅は人差し指を顎に添えて考え込んだあと、ぽんっと手を打った。
「確か、明杰様でしたら、本日も春宮へお見えかと」
「そう」
蘭花はこくりと頷くと、きょろきょろと室内を見回した。弟分である見習い太監の姿を探すが見当たらない。
蘭花はくるりと後ろを振り返る。
「ねぇ、小菊。阿明はどこにいるかしら」
宮女と共に朝餉の準備をしていた小菊は首を傾けた。
「阿明でしたら、厨にいると思います。呼んでまいりましょうか?」
「うん。お願い」
「かしこまりました」
と言って軽く膝を曲げた小菊は、あとの支度を宮女に任せ、蘭花に向かってお辞儀をしてから部屋を出ていった。その後ろ姿を見送った蘭花が卓につくと、間を置かずに小梅が近寄り、椀に粥をよそいはじめる。
「そういえば。小梅。お母様はお部屋にいらっしゃる?」
小梅は、よそい終えた粥入りの椀を卓上に置くと、ふるふると首を左右に振った。
「昨晩は陛下に召されましたので、まだお戻りになっておりません。おそらく、陛下と朝餉をご一緒なされてからお戻りになるかと」
蘭花は口の中の粥を咀嚼し飲み込んでから微笑んだ。
「わかったわ。ありがとう」
そう言って、二口目を食べようと匙を動かすが、なかなか口元に運べない。
(どうしよう。食欲がないわ……)
蘭花は迷ったすえ、小さく息を吐いて、椀を卓上に置いた。すると、半分も減っていない椀の中身を確認した小梅が、
「もうお召し上がりにならないので?」
と心配そうに訊ねてきた。
蘭花は、心配をかけてしまったことに申し訳無さを覚えながら眉尻を下げる。
「今日は食欲がないみたい。具合が悪いわけではないから、あまり心配しないで」
「でも……いつもはおかわりなさいますのに。……やっぱり侍医を呼んだほうが」
「大丈夫だって言ってるでしょ。小梅は心配しすぎよ」
苦笑しながら椅子から降りたところに、小菊が阿明を連れて戻ってきた。阿明の姿を見た蘭花は、ぱあっと明るい笑顔を浮かべて駆け出すと、勢いよく阿明に抱きついた。それに驚いた阿明は、行き場のない両手をばたつかせた。
「ら、蘭花お姉様っ。急にどうなさったのですか?」
まだ十にも満たない阿明が、大人びた口調で訊ねてくる。
蘭花は再会の喜びで目尻に滲んだ涙を拭いながら、ゆっくりと阿明から離れた。
「驚かせちゃったわね。なんでもないのよ。気にしないで」
「そ、そうですか……?」
くりっとした大きな黒目をぱちぱちと瞬かせた阿明から視線を外し、蘭花は赤くなった目元を隠すように身を翻した。
「……阿明。明杰に会いたいの。使いを頼める?」
「御意。すぐに行ってまいります!」
阿明は元気に返事をして部屋を出ていった。それを見届けた蘭花は、
「……そろそろお母様がお戻りになったかもしれないわね」
そう言って、小菊を伴い部屋から出て中庭を通り、母――沈氏の部屋に向かった。すると、いつの間に戻ってきていたのか、沈氏は窓際の座席に座ってお茶を飲んでいるところだった。
「お母様っ」
蘭花が笑顔で駆け寄ると、沈氏は蓋碗を机の上に置いて、おっとりと微笑んだ。
「あら、小蘭。今日は早起きなのね。偉いわ」
もう十二歳になった――中身は十五歳だが――娘を幼名で呼ぶ沈氏は、争いを好まない穏やかな気性で品が良い。陛下の寵妃になるくらいなので、詩書に明るく舞踏に秀で、容姿もひときわ美しい。……ただひとつだけ欠点を挙げるとすれば、家門が落ちぶれていることだろう。
家門が落ちぶれている――朝廷での地位を失い、権力を持たないというのは、ここ後宮では差別の対象となる。
同じ妃嬪たちからの差別行為ならまだしも、正六品以下の宮女に侮られるのは、非常に惨めで恥ずかしいことだった。
(幸い今は、陛下のご寵愛を賜っているから、誰もお母様に手を出せないけど……)
逆を言えば、王の寵愛がなければ、虐げられるということだ。
王の寵愛さえあれば、穏やかに暮らしていけると思っていた。
……逆行する前までは。
(陛下の寵愛に頼りきった生き方は良くないわ。陛下の愛を信じてはいけない。……だってあのとき、なにがあったのか分からないけど、太監が持っていたのは本物の聖旨に間違いなかった。ということは、陛下が許可したせいであの惨劇が起こったということだもの)
これから三年後に起こる惨劇から母を守るためには、陛下の寵愛を当てにしているだけでは駄目だ。
蘭花はそんなことを考えながら、無邪気な笑みを浮かべた。
「もう。お母様ったら。私はもう子どもじゃないのよ? お嫁にだって行ける歳なんだから!」
「おほほ。なにを言うの。わたくしにとっては、永遠にかわいい小蘭のままよ。でもそうねぇ……遊び回る時間を減らして、もう少しお勉強に専念してくれたら、赤ちゃんから卒業させてあげるわ」
「もう。お母様のいじわるっ」
朧月堂に明るい笑い声が響く。
――そう。この光景が、蘭花にとって当たり前の日常だったのだ。
(……あんな悲しい結末なんて迎えさせない)
知らぬうちに両手を強く握りしめていたのだろう。蘭花の冷えた拳に、温かい指先が触れた。驚いて振り返ると、側に掌事宮女の玉容が立っていた。
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