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第1話 現代

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 ――どさっ。

「……なに?」

 脚立に乗って本棚に手を掛けていた泉美澪いずみみれいは、音がした方向を振り向いた。

(あたし以外の生徒は全員退出したはず、よね?)

 図書委員の美澪は、放課後の図書室で脚立に乗り、返却された本を本棚に戻す作業をしている途中だった。

 美澪は慎重に脚立から下りると、手に持っていた本をブックトラックに置いて、薄闇の向こうをじっと見つめる。

 一斉下校の時間が迫っていて、もうすぐ退出しようと思っていた美澪は、蛍光灯を貸出カウンターの上と作業場所にしか点灯させていなかった。そのせいで、美澪が見つめている本棚と本棚の間の通路は薄暗い。

 窓も扉も締め切られた室内には、ホコリっぽい空気と古い紙の匂いが満ちている。普段は好ましく感じる空間なのに、美澪はなんとなく不気味さを覚えた。

(……でも、確認しに行かなくちゃ)

 美澪は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、生唾をゴクリと飲み込んだ。

 ふとしたらすくんでしまいそうになる足を、一歩一歩踏み出して、立ち並ぶ本棚の間を進んでいく。そうして目的の場所にたどり着いた美澪は、詰めていた息をはぁと吐き出し、足元を見下ろした。

 黒のタイルカーペットの上に一冊の本が落ちている。

(ボロボロの本……。こんな本、見たことがないわ)

 美澪は本から視線を外して、両側の本棚を交互に見上げた。――どう考えても、本棚から抜け落ちたようには見えない。

(この本、どこから現れたの……?)

 疑問を感じ、恐怖心を抱きつつも、まるで引き寄せられるように本に手を伸ばす。そうしてゆっくりとしゃがんだ美澪は、真っ黒い本の表紙を、恐るおそるつついてみた。

「……なにか起こるわけない、よね?」

 あはは、と自分に呆れて笑うと、少しでも雑に扱えば壊れてしまいそうな本を、細心の注意を払って持ち上げた。それからどうしようかと悩んだすえ、美澪は本を抱えて、貸出カウンターに向かうことにした。

「――ふぅ、到着」

 灯りの下に戻ってきたことで、ほんの少しだけ肩の力が抜けた気がする。

 美澪は抱えていた本をカウンターの上にそっと置き、オフィスチェアに腰を下ろすと、目の前の本を魅入ったように見つめた。

「……ちょっと中身を見るくらい、大丈夫だよね?」

 怖いもの見たさと本好きの好奇心を刺激された美澪は、こわごわと手を伸ばし、慎重に表紙を開いて変色したページをめくった。

 そして1ページ目を開いてすぐに、本の内容が明らかに異質なものだと気づく。

「なに、これ……」

 美澪は、原因の分からない焦燥感のようなものに駆り立てられながら、パラパラとページを繰っていく。そして、震える指先で文字の羅列をなぞり、わななく唇を動かした。

「――世界は、創世神により、創られた……?」

 美澪は本の状態も忘れて、表紙をバタンと閉じた。心臓が全力疾走したあとのように激しく拍動して、いまにも胸を突き破り、飛び出しそうだった。

「……あたし、知らない……。知らないよこんな文字……!」

 見たことのない記号のような文字は、どういうわけか、脳内で日本語に翻訳されて口をついて出た。

(ありえない……っ)

 美澪は本から手を離そうとしたが、なぜか自分の意思に反して、左手は表紙を開いた。いますぐ本を閉じてしまいたい。けれど左手はページをめくり続ける。

 なぜ、どうして、と繰り返す口元を右手で覆い、荒くなっていく呼吸を押さえながらページをめくり、とあるページで左手の動きが止まった。そして――

「――水の国ヒュドゥーテル火の国エクリオ……ゼスフォティーウ、さま……」

 そう口にした瞬間、

「みぃーつけた」

 透明感のある明るい声が耳朶じだに触れ、状況把握をする暇も与えられず、足元に出現した穴の中に吸い込まれた。

「きゃあーーっ!」

 光の輪の中を、抵抗するすべもなく落ちていく。一瞬にも、数秒にも感じる不思議な感覚を経て、美澪は水の中に落ち込んだ。

「ごぼ……っ!」

 背中から落ちた衝撃で、酸素を全て吐き出してしまう。

(やばい……っ、溺れちゃう……!)

 とっさに鼻と口を覆ったが、不思議なことに、水が肺を満たすことはなく、地上と同じように呼吸することが出来た。

(一体、どうなってるの……)

 美澪は驚きに目を見張ったまま、眼前に広がる光景をただ呆然ぼうぜんと眺めるしかなかった。

 恐ろしいほど透き通った水は、どこからか射し込んでくる光を受けて、コバルトブルーに輝いていた。きっとこんな状況でなければ、美しい光景に感嘆の声を上げたはずだ。

(なにが起こったの……?)

 あのボロボロの本を見つけるまでは、いつもと変わらない平凡な日常だったのだ。それなのに、どうしてこんなことになっている?

 理解しがたい出来事に、思考回路がついていかない。

 だが今の状況で、なにより一番理解出来ないことは、水中での呼吸が可能だということだった。

(……ゆめ。……これは夢よ、夢! あたしは夢を見てるのよ。きっとそう。全部、夢の中の出来事だって考えれば、説明がつくじゃない!)

 美澪は、瞳を強く閉じて、

「これは夢よ! 早く起きて!」

 そう声高に叫んだ。すると、

「――夢じゃないよ」

 そう背後から声をかけられ、美澪は肩をビクッと揺らし、おそるおそる目蓋を上げて驚愕した。

「えっ?」

(あたし、さっきまで水中にいたよね!?)

 いつの間にか美澪は、薄く水の張った地面の上に立っていた。そして、濡れていなければならないはずの水色のセーラー服は、濡れた形跡もなくカラリと乾いている。

「あの……っ!」

 振り返った先に人の姿はなく、その代わり、視界に飛び込んできた景色に瞠目どうもくする。しばしほうけたあと、ゆっくりとした動作で、周囲をぐるりと見回した。そうしてガラス玉のような瑠璃色の瞳に映ったのは、水が薄く張った平らな水面に、真っ青な空と白い雲が鏡合わせのように映り込んだ幻想的な光景だった。

「……どうなってるの……」

 もしや、白昼夢でもみているのではないかと思い、右頬をぎゅうっとつねってみた。

「痛い……」

(夢じゃないってこと?)

 ヒリヒリする右頬をなで擦っていると、含み笑う声が聞こえ、美澪は後ろを振り返った。そうしてそこに立っていたのは、物語に登場する神や精霊のように、優美で神秘的な容姿をした少年だった。

「やっと会えたね。美澪」
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