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第50恐怖「誘い誘われて」
しおりを挟む「とにかく、安いアパートに住もうと思ってたんです……」
神妙な面持ちでそう語ったのは、都内で暮らすYさんという男性だ。
彼は神奈川県から都内へと居住をうつす際、低家賃であることを大前提とした。勤務地は渋谷区だったが、二十三区外も含めて、一ヶ月ほどネットで部屋を探し続けた。
そんなあるとき、先に都内で暮らしていた友人から連絡があった。
「うちの隣の部屋、めちゃくちゃ安いぞ」
そのメールの文面を見た時、あることが頭に浮かんだ。
事故物件──。
それまで考えになかった。事故物件ならば、都心でも安いところがあるかもしれない。
友人の住むアパートを調べてみると、世田谷区の商業地・S駅の徒歩圏内にもかかわらず、なんと家賃四万台だった。さらに、友人の隣の空き部屋はそれより一万円も安い。部屋の様子は写真を見るかぎり綺麗だ。ワンルームとはいえそれなりの広さもあるようだし、この値段というのは特別なワケを感じずにいられない。
それにしたって、なんてお得なんだろう……。
多少不気味には思った。が、すぐ隣の部屋では友人が暮らしているわけだし、その友人の後押しもあって、何はともあれ、Yさんは内見の予約を入れたのだった。
*
「正直に言いますけど、おすすめはできません」
内見の直前、不動産屋の担当者は苦笑いでそう言った。
「訳ありってやつですか?」
Yさんが聞くと、担当者は重々しくうなずいた。
「前の住居者が、この部屋で亡くなってるんです。詳細はわかりかねますが、あんまり良くないと思いますよ……」
何が良くないのだろうか。担当者の曖昧な言葉に、恐ろしさと好奇心とで胸中がざわつく。
建物の外観や雰囲気はそれほど悪くなかった。築四十年以上ということだったが、改装したのだろう。それほどの歴史は感じられない。
担当者が玄関扉に鍵を挿し、ドアノブに手をかけた。と、担当者は中途半端に振り返り、何か一瞬思案してから、ゆっくりと扉を開けた。
清潔な部屋だった。
汚れの見当たらない真っ白な壁紙が、ワンルームをいくぶんか広く美しく見せている。
「いいですねぇ」
おもわず笑みがこぼれた。不気味な感じはちっともしない。
Yさんは用意されたスリッパに履き替え、部屋の奥へと進んだ。まず目につくのはベランダから見える景色だが、こちらもそれほど悪くなかった。見える範囲内ではそれほど近接した建物もなく、差し込む太陽光は申し分ない。
Yさんはキッチンやユニットバス、クローゼットなどを順次見てまわった。どれも最低限綺麗で、気に入るとまではいかないものの、想像よりもはるかに良かった。
もうここでいいのではないか。そう思ったとき、あることに気づいた。
担当者が、玄関に立ったままこちらに入ってこない。あからさま、何かを警戒している様子だ。
事故物件ということよりも、その担当者が空気を重くしているようにYさんは感じた。
「前の住居者の方って、いつ頃までここに住んでたんですか?」
ふと気になったことを聞いてみた。つい最近だとしたらさすがに気味が悪い。担当者の態度もうなずける。
担当者は少し考えてから、数年前のはずだと答えた。
「結構、空いたままだったんですねぇ」
何気なく呟いたのだが、Yさんはその自分自身の言葉が胸に引っかかるのを感じた。
「ちょっと、検討しますね。またメールします」
Yさんがそう言うと、内見は早々と切り上げられた。
内見を終えてしばらく時間を潰し、その後、Yさんは再びアパートを訪れた。友人の部屋に泊まる手筈になっており、仕事から帰ったと連絡があったのだ。
友人にむかえられて部屋にあがると、なんだか楽しい感じがした。もし隣に住んだら、このようにしていつでも遊びにこられるのだ。別段怖くもないし、やはり隣に決めてしまおうか。
酒を飲み交わしながら、Yさんは友人と色々な話をした。東京での暮らしや仕事関係、恋愛や健康についてなど。友人は東京に来てから頭痛に悩まされているらしく、ストレス対策が重要だとアドバイスをくれた。もちろん物件についての話もした。
その流れで、何か心霊現象を体験していないかと聞いたが、そんなことは全くない、お前はそういうのを信じるタイプなのか、と笑われた。
零時をまわって、そろそろ寝ようということになった。Yさんは毛布を借り、座椅子の背もたれを倒して横になった。友人はもちろんベッドを使う。
少しすると、ベッドから寝息が聞こえてきた。Yさんはアルコールのせいで鼓動がやかましく、慣れぬ環境もあってなかなか寝付けなかった。
やっと寝入ってから、どのくらい経っただろうか。
ふと、Yさんは目を覚ました。何か重たい音を耳にしていた気がする。そう、さきほどまで見ていた夢の中では、怪獣か何かがドシンドシンと歩いていたのだが、それが妙に現実味のある音だったような……
と、暗闇のなかに、ゆらりと影が動くのが見えた。
友人だろうか。
目をこらすと、反対の壁際に立つ人影が見えた。一瞬どきりとしたが、目をこすってよく見ると、こちらに背を向けているものの、まちがいなく友人だった。
何をしてるのだろうか……
声をかけようと思ったそのとき、友人はふらりと揺れ、ドン、と額を壁にぶつけた。そのまま静止する。
訳もわからず見守っていると、友人はゆっくりと振りかぶるように頭を離し、ふたたび壁にドンとぶつけた。
この音だ。自分はさっきからこの音を耳にしていたにちがいない。
そう思うと、Yさんは急に薄気味の悪さを感じた。おそらく寝ぼけているのだろうが、このような夢遊病めいたものは初めて見た。
Yさんは辞めさせようと起き上がり、友人に近づいた。
ドン。
友人は、完全に体重を預けるように、壁に額をぶつける。その姿を間近に見て、Yさんはヒヤリとした。もしかして、頭痛がするというのは、これが原因なのではないか。
Yさんは友人の肩を叩いて目を覚まさせようとしたが、しかし友人は目立った反応をみせない。仕方なしに、Yさんは友人の体を抱き抱えるように支えながら、ベッドに誘導した。
なんとか友人の体をベッドにねかせて、その上に布団をかけた。そのとき、背後から声がした。
「お。」
たった一文字分。だが、たしかに誰かの声だと感じた。それも、さきほど友人が額を打ちつけていた、あの壁のほうから聞こえる。
「お。」
またもや声がした。背後から異様な気配がうずいまいているのを感じる。
Yさんはまったく振り返ることができなかった。ほんの少し動くことすらためらわれた。頭には色々な恐ろしいイメージが浮かび、全身ざわざわと毛が逆立つ感じがする。そちら側の壁は、内見をした例の部屋があるほうなのだ。
しかしずっとそのままでいるわけにもいかず、Yさんは思い切ってテーブルの上にあったリモコンを手に取り、テレビを点けた。
ちょうど午前四時、ニュース番組が始まったところだった。
Yさんは体育座りになって、そのまま明るくなるまでの時間をじっと過ごした。結局、一度も壁のほうを振り返らないまま。
午前六時ごろ、友人は一度目を覚まし、「お前、はえーよ」とYさんに声をかけた。そこでやっとYさんの緊張はほぐれ、壁を振り返った。
何もない。何も。
その日、Yさんはさっそく不動産屋に連絡し、別の物件にすることを伝えた。その際、担当者から「そうしたほうがいいと思います」と言われた。そして彼は「今だから言いますけど」と重要なことを付け加えたのだった。
「昨日の内見のときなんですがね、玄関扉を開ける直前、中から声がしたんですよ。まあ気のせいかもしれませんが、『おいで』って……そう聞こえましてね」
その後、Yさんはシックハウス症候群という室内空気汚染の話で友人を説得し、なんとかそのアパートから退去してもらうに至った。
そして、高くてもいいから、特別な訳のない真っ当な部屋を一緒に探したのだった。
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