幸い(さきはひ)

白木 春織

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第五章

第八話

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 ぴしゃり。

 桐秋は引き戸が閉められたことに意識を戻し、せわしなく自室に戻る。

 早くなっている心臓を落ち着かせようと柱にもたれ、そのままずるずると力なく畳に座りこむ。

——桐秋が話を聞いてしまったのは、偶然だった。

 中路の診察が終わった後、桐秋は日課の鯉の餌やりを忘れていたことに気付き、庭に向かった。

 石橋の上からぱらぱらと餌を撒いていると、離れの一角から声が聞こえてくる。

 中路と千鶴の声だ。

 千鶴が換気のためと常に家じゅうの窓と戸を開けているため、風に乗ってわずかながら声が流れてきたのだ。

 内心、まだ帰っていなかったのか、と桐秋は思う。

 だが、週に一度ああして、千鶴と中路は桐秋の病のことで真剣に話し合っている。

 桐秋の為であるのだから仕方がない。

 そこにそれ以上の感情はないはずだ。

 桐秋は何かの感情を押し込める。

 話す内容が気になりながらも、立ち聞くのはよくないと思い、桐秋は手早く餌やりをすませ、その場から去ろうとする。

 ところが鯉に与える餌が半分を切った頃、桐秋の耳は思わぬ発言を拾ってしまう。

——中路から千鶴への求婚。

 その言葉に桐秋は驚き、餌袋えさぶくろを掴む手が強くなる。

 袋の中のがバサバサと潰されていく。

 橋の下では、鯉が餌を求めパシャパシャと音を立てている。

 が、もはや桐秋の耳には届かない。

 一点に研ぎ澄まされた耳に入ってくるのは、あの医者の声。

 千鶴を人として、看護婦として必要としていること。

 千鶴の笑顔に惹かれていること。

 橋の上で呆然と立ち尽くす・・・。

 ほどなくして、玄関の扉を閉めた音がことさら大きく聞こえ、桐秋はやっとのことで我に返る。

 今の己の状況に、急いで部屋に戻らなければと思う。

 桐秋は手元の、原型がわからないほど中身が潰された袋を池の上でひっくり返すと、あわてて部屋に引き返した。
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