短編集 (by降矢)

降矢菖蒲

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【短編版】余命2年の初恋泥棒聖女は、同い年になった年下勇者に溺愛される。

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「君を選ばずにおいて正解だった。心からそう思うよ」

 彼は言い放った。光さす宮殿の渡り廊下で。

 彼の名はクリストフ・リリェバリ。三大勇者一族リリェバリ公爵家の嫡子で現在22歳。勇者の証である上下白の軍服を見事なまでに着こなしている。

 しっかりと固められたブロンドの髪。アイスブルーの瞳は自信に満ち満ちていて見方によっては不遜とも取れる。

「……申し訳ございません」

 エレノアは弁解することなく深々と頭を下げた。白いカソックの裾にやわらかなミルキーブロンドの髪が触れる。

「返す言葉もありません」

(わたくしは気付いて差し上げられなかった。クリストフ様はずっと助けを、安らぎを求めていたというのに)

 彼もまた使命に生きているのだと、そう思い込んでしまったのだ。

 クリストフは辛抱強く待ち続けた。期間にして5年だ。繰り返される期待と落胆。彼が受けた苦痛は想像に難くない。

「ご多幸をお祈り申し上げます」

 クリストフの傍らに立つ、白いカソック姿の女性に目を向ける。彼女の名はシャロン・レイス。クリストフが自らの手で選んだ新しい婚約者だ。

 三大聖教一族レイス侯爵家の次女。聖教のトップである現教皇は彼女の祖父が務めている。

 青の巻き髪に濃紺の大きな瞳を持つ美女で纏う雰囲気は清らかでありながら儚げ。まさに『深窓の令嬢』といったところ。

 一方で、その瞳からは強い意思を感じた。冷たい炎をたぎらせている。そんなイメージだ。

 エレノアは彼女から向けられるそれらの感情を受け止めきれず、小さく息を呑んだ。

「……それではわたくしはこれで」

 逃げるようにしてその場を後にする。豪華絢爛な回廊に出るなり貴族達の目がエレノアに向いた。嘲笑と侮蔑で回廊が歪んでいく。

 ――性的放縦な聖女。

 それが今、エレノアに向けられている評価だ。この悪評によってクリストフとシャロンの結婚の正当性は一層高まる。

 つまりはこれは二人が結ばれるに必要な過程。エレノアが支払うべき代償だ。その点については心の整理がついている。

 エレノアは聖女の職を奉じている。生まれは三大聖教一族カーライル家の侯爵令嬢。

 彼女が宿す癒しと邪を祓う力は、魔物の脅威に晒されるこの国においては必要不可欠。故に婚姻の義務が、子を成す義務が生じる。醜聞に塗れていようがいまいがこの責務から逃れることは出来ないのだ。

(願わくば愛を望まぬお方を)

 切に願った。自分には愛する資格も、愛される資格もないのだからと。

「オレと結婚してくれ!」

 そんな彼女の前に現れたのが紅髪の少年・ユーリだった。

 彼は小さな村の農夫のせがれ。両親の反対を押し切り、剣の道をひた走らんとする夢に満ち満ちた少年だった。

「……っ」

 キツく噛み締められた唇。力み調子な栗色の瞳。彼が差し出すハルジオン別名『貧乏草』は小刻みに揺れていた。

(貴方となら……)

 エレノアの胸が期待に震える。ユーリとなら愛を育むことが出来るのではないかと。

 ユーリはとても真っ直ぐだから、彼であればサインを見落とすこともないのではないかと。

(何をバカなことを)

 エレノアはその手で期待を握り潰した。彼女には子を成す義務がある。ユーリはまだ10歳。彼女は20歳。年齢もついでに身分も足らない。

 だから、思い出にすることにした。

「分かりました。それでは10年後、貴方が立派な騎士になっていたら、その時は貴方の妻となりましょう」

 ユーリはまだ幼い。軽んじるようで悪いが、その思いが10年続くとは到底思えなかったのだ。

(夢は夢のままに)

 こうしてこの一幕は甘酸っぱい思い出に。記憶の引き出しにしまわれると――そう思っていた。

「なっ、何!?」

 エレノアは捕らわれた。黒い翼の生えた青年――魔王アイザックの手によって。

 黒い水晶の中、瘴気に囲まれた彼女は結界で身を護ることを余儀なくされる。

 魔王の目的は魔族への復讐だった。彼は魔族の王たる大魔王の父と、人間の母との間に生まれた『半魔』。

 物心ついた頃から母と共に虐げられ、搾取され続けてきた。自身では大魔王他、義兄や義姉にあたる魔王達には敵わない。

 故に天敵である勇者他、光の戦士を焚きつけるに至った。そのためにエレノアを攫い、ユーリの故郷を滅ぼしたのだ。

 ――そう。ユーリは勇者だったのだ。

「絶対に助ける! ~~っ、絶対に!!!」

 ユーリの体が七色に輝き出す。とても眩しく、それでいて力強く、優しい光。

「オレがっ、オレが助けるんだ!!!」

 ユーリは宣言通り勇者として大成し、見事エレノアを助け出した。だが、それには10年にも及ぶ時を要してしまう。

 黒水晶の中は亜空間であったらしく、彼女の見た目は捕らわれた時のまま。実年齢は30歳であるものの、その見た目は20歳の頃のままという何とも奇妙な状態になっていた。

 そんなふうにして変わらぬ面がある一方で、とあるものを――掛け替えのないものを消耗してしまっていた。それはずばり命だ。

「ごめんなさい。わたくしはもう長くはないのです」

 エレノアは瘴気に抗うため自らの命を燃やした。結果、彼女の余命は2年に。命の灯はいずれ消え、眠るように息を引き取るのだという。

「そんな……っ」

 ユーリの表情が暗く沈む。自責の念に駆られているようだった。

 貴方のせいじゃない。貴方は仲間と共に懸命に励んでくれた。

 伝えなければならない言葉の用意はある。にもかかわらず、何も言えない。

 終わりを告げる言葉であるからだ。未だ夢を見ているのだと痛感する。この人と。ユーリと愛を育みたいのだと。

「構いません」

 ユーリが切り出した。栗色の瞳に力を込めて。自身の中で余計と捉えているらしい感情は排しているようにも見えた。退けているのはおそらく怒りや悲しみ。

「例え2年でも、1年でも……それこそ1日だっていい。貴方と結ばれるのなら俺は――」

「後悔するわ」

「しませんよ」

「そんなの……っ、分からないでしょう」

 声が震える。喉奥が引きる。視界が歪んでいく。厚顔無恥にも程がある。エレノアは自身を恥じると共に、自ら下した選択を心から悔いた。

「俺は貴方が思っている以上に、ずっとずっとバカなんです」

 エレノアは歪んだ視界を閉じて顔を俯かせた。肩が、顎が意思に反して震える。

「口で言っても伝わらないと思うので示させてもらいますよ。最も貴方が望んでくれればの話ですけど」

 足音がする。顔は上げられそうにない。そこにはきっとユーリがいるから。

「エレノア様、貴方のお気持ちは?」

「……わたくしは――」

「建前ではなく、本心をお聞かせください。可能なら俺の目を見て」

(断らなくては。これ以上貴方を、ユーリを不幸にしてはいけない)

 エレノアは顔を上げた。栗色の瞳と目が合う。凛としている。にもかかわらず、どこか温かで、優しくて。ユーリの纏う光『勇者の光』を彷彿とさせた。

 このままでは暴かれてしまう。エレノアは堪らず目を逸らした。

「それは拒絶ですか? それとも不審ですか?」

「……っ」

 見兼ねた様子のユーリが助け舟を出した。拒絶だと答えればそれで済む。たった一言だ。なのに何も言えない。嗚咽を堪えるのに精いっぱいだ。

「前者なら、もう二度と貴方の前には現れません。先生と師匠の修行に同行して、そうしたらきっと貴方が生きている間に会うこともないでしょう。……ただ」

 衣擦れの音がした。ユーリの体温を一層近くに感じる。かと思えば栗色の瞳と目が合った。下を向いているはずなのに。見ればユーリは屈んでいた。その瞳は挑発的で、悪戯っぽくて。

「もし後者だと言うのなら、望むところですよ」

 白い歯を出して笑う。溌剌はつらつと、無邪気に。

 ――敵わない。

 心の底からそう思った。

「貴方、優しすぎるわ」

「だから、バカなだけなんですって」

 エレノアはユーリの思いを受け入れた。今度こそ偽ることなく本心から。

(余命2年。日々衰弱していく体を思えば成せる子は精々一人。それでもやはり、お父様はユーリとの結婚をお認めくださらないのかしら)

 救国の勇者とはいえ生まれは平民。農夫の倅だ。母はともかく父は首を縦に振らないのではないかと――そう危惧していた。しかしながら、そんな不安もまた杞憂きゆうに終わる。

 ユーリは既に了承を得ていた。その努力でもって父を納得させていたのだ。強さは勿論、その品格にも磨きをかけて。エスコート一つ取ってみてもその努力はうかがい知れた。

 けれど、それでも変わらず苦手意識はあるようで。

「凱旋パーティか……」

 魔王討伐を祝して宮殿で舞踏会が開かれることに。勇者であるユーリは勿論、その妻となったエレノアにも参加が求められた。

 ユーリは鬱屈とした表情を浮かべて深い溜息をついた。大なり小なり何かしらな失敗する未来を想像して滅入っているのだろう。

「不得手なのはダンスかしら?」

「いえ。ダンスは問題ないんですけど。ただ、その他がちょっと……」

「ふふっ、それではここは持ちつ持たれつといきましょうか」

「というと?」

「わたくしはダンスが不得手です。一方で、マナーや立ち振る舞いには一定の心得があります。なので、ダンスの際には貴方が、その他の場面ではわたくしが貴方をフォローする、というのはいかがかしら?」

 ユーリの表情がほころぶ。安心したのだろう。照れ臭そうに頬を掻きながら小さく会釈する。

「助かります」

「交渉成立ね」

 互いに不足している部分を補い合う。その充足感は想像していたよりも深く、広くエレノアの心を満たした。

「あっ……!」

 舞踏の最中、足がもつれて転びかけたところ、ふわりと上体が持ち上がった。ユーリだ。まるで背から翼が生えたような、そんな心地を味わう。

(死後、こんなふうにして貴方を見守ることが出来たらいいのに)

 そんな夢をこっそりと胸に抱く。

「っ!」

 ユーリはエレノアを宙に掲げたままくるりと回った。彼女のブルーグレーのドレスがひらりと舞う。

 突然の出来事に周囲はどう目したが、その機転により生み出された儚くも美しい舞は徐々に浸透。終いには大歓声を生んだ。

「ふふふっ、こんなに楽しいダンスは初めてよ」

「俺もですよ」

 一頻ひとしきり笑い合った後でふと視線を感じた。見れば元婚約者のクリストフがこちらに目を向けていた。

 あの日から10年。30歳となった彼は芳醇な色気を漂わせていたが、生憎とその美貌は歪んでしまっていた。嫉妬、憎悪。伝わりくる感情に臆しかけるが寸でのところで堪えた。

「……ご挨拶に伺わなくては」

「ご一緒します」

 ユーリと共にクリストフの元に向かう。彼は鼻を鳴らして嗤った。牽制のつもりなのだろう。そんな彼の隣には変わらず聖女・シャロンの姿がある。

「ご無沙汰しております。クリストフ様」

「君は変わらないな。10年前、城でわかれたあの日から何一つ変わっていない。羨ましい限りだよ」

 自信に満ち満ちていたアイスブルーの瞳はすさみ、健康的だったその頬は薄っすらとこけてしまっている。

(……おいたわしい)

 何と言葉をかけたらいいのだろう。浮かんだ言葉のすべてが無礼であったり、彼を傷付けるものになってしまうような気がしてならない。

「クリストフ様は、エラの救出にもご助力くださったんですよ」

 切り出したのはユーリだった。嫌味ではない。その言葉尻からは確かな感謝と信頼が滲んでいる。

「後陣だ。体のいい脇役だよ」

「背後の守備が徹底されているからこそ、俺達は戦いに集中することが出来たんです。クリストフ様のお力添えがなければエラを助け出すことはおろか、本拠地に辿り着くことすら叶わなかったでしょう」

「っは、人気取りに必死だな」

「本心ですよ」

 ユーリは一歩も譲らない。信じてほしい。そんなふうに自分を卑下しないでほしい。そんな切なる願いが伝わってくるようだ。

 そんなユーリの願いが伝わってかクリストフの表情は一層歪んでいく。嫉妬、憎悪の感情は変わらずあるがそれだけではない。

 悲しみ、悔しさといった感情も伝わってきた。

 例えるなら迷子の子供。クリストフ自身も帰りたいと願っている。だが、帰り方が分からず途方に暮れている。そんな印象を受けた。

「まさに破れ鍋に綴じ蓋といったところか」

 クリストフはやれやれと首を左右に振りエレノアに目を向けた。

「君を選ばずにおいて良かった」

 身を寄せるシャロンの肩を一層強く抱き寄せる。シャロンはクリストフを肯定するように彼の広い胸に頬を擦り付けた。

(シャロン様は変わらずクリストフ様を慕っているのね)

 その事実にほっと胸を撫で下ろす。少なくとも彼は一人ではない。シャロンと共に深い森の中を彷徨さまよっているのだ。苦境であることに変わりはないが、それならばまだ希望はある。

「参りましょう。クリストフ様」

「ああ。向こうで飲み直そう」

 シャロンに促されるまま去って行く。その背を見送る他貴族達の目は冷たい。10年前の彼を思えば考えられない姿だ。

「落ちぶれたな」

「ああ。何と哀れな」

 貴族達の嘲笑がエレノアの鼓膜を揺する。10年前、彼らはエレノアを性的放縦な聖女と嘲っていた。

(……哀れなのは貴方方の方よ)

 彼らもまたその立場上大小様々な不安を抱えているのだろう。故に他を貶めることでその心を慰めているのだ。理解は出来る。致し方のないこととも思うが、やはりどうにも肯定することは出来ない。

「俺、光魔法はクリストフ様に習ったんですよ」

 ユーリは唐突に語り出した。エレノアに投げかけるにしてはやや声が大きいように思う。貴族達の目がユーリに向く。ほんの僅かにクリストフの背が強張ったような気がした。

「だから俺、知ってるんです。クリストフ様が本当は優しくて、面倒見が良くて……繊細な人だってこと」

 貴族達がどよめき出す。クリストフが透かさず凄まじい剣幕でユーリを睨みつけたが、ユーリはまるで気にしない。本心ですよ。そう言わんばかりに晴れやかな笑顔で返した。嘘偽りなく慕っているのだろう。

「繊細……そうね。仰る通りだわ」

 かつてのエレノアもそうだった。力だけでなく、その精神もまた絶対的なものであると信じて疑わなかった。

 クリストフは罰が悪くなったのか、シャロンを半ば引きずるようにして会場を後にした。人々はぎこちなくも談笑を再開させていく。

「……クリストフ様は今休職中なんです」

「……そう」

「でも、俺は必ず戻ってきてくれるって信じてます。……いや、無理矢理にでも連れ戻すって言った方がいいですね」

 ユーリは深く息をついて、美しく磨き上げられた床に目を向ける。

「この国に残っている勇者は、クリストフ様と俺の二人だけなんですから」

「クリストフ様のお力もまた必要不可欠ということね」

「言うまでもなく。……言うまでもなく! ですからね!」

 ユーリは言い放った。その場にいる全員に向かって。貴族達は気まずそうに肩を縮めて会釈する。

「すみません。はしたなかったですね」

「いいえ。妻として誇らしく思います」

 ユーリは照れ臭そうに鼻の下を擦った。少年期の頃の彼を彷彿とさせるような仕草だ。エレノアの心は一層和んでいく。

「……っ」

 瞬間、体が重たくなった。これは発作だ。命の灯が消えかけていることの顕れ。

「エラ」

 透かさずユーリが支える。エレノアは彼の胸に体を預けつつ笑顔を浮かべる。

「大丈夫よ。少し休めば良くなるから」

「……無理をさせました」

「ふふふっ、こんな充実感のある疲労なら大歓迎よ」

 苦笑するユーリに連れられて会場を後にする。

「また踊りましょうね」

「ご無理のない程度に」

 休憩用にと用意された一室。寝椅子で眠るエレノアの手をユーリは片時も離すことなく握り続けた。彼女はまだここにいる。生きている。その確かな実感を求めるように。

 それから数週間後。エレノアはユーリの故郷『ポップバーグ』を訪れた。

 シンボルである猫じゃらしを思わせるようなポプラの木が村の至るところに。農地と牧場が織りなすのどかな風景が広がっている。

 復興前の村の風景とかなり似ているがやはり別物。似て非なるものだった。元住民であるユーリは一層その違いを強く感じてしまうらしく、移り住む気にはなれないのだという。

 エレノアはユーリと共に慰霊碑に花を手向けた。その帰り道、人の姿もまばらな夕暮れの田舎道を二人並んで歩いていく。

(たぶん……このあたりね)

 エレノアは小さく咳払いをしておもむろに切り出した。

「ユーリ。一つ聞いてもいいかしら?」

「何ですか? 改まって」

「どうしてわたくしを選んでくれたの?」

 ユーリの栗色の瞳が大きく見開く。その直後、忙しなく周囲を見渡した。合点がいったようだ。エレノアは悪戯が成功した子供のように無邪気に微笑む。

 そう。ここは10年前、ユーリがエレノアにプロポーズしてくれた場所であるのだ。

「策士ですね。流石はミシェル様の妹君です」

「誉め言葉として受け取っておくわ」

 エレノアが再度微笑むとユーリは大きく咳払いをした。言葉を整理しているのだろう。唇をへの字にして、赤く染まった空を見上げる。

「超が付くほどの美人に全肯定されたんですよ。……そら惚れるでしょ」

 当時のユーリは否定の中で生きていた。彼はであったから。いくら腕を上げても、成果を積み上げても返ってくるのは否定の声だけだった。

 そのため、彼はひたすらに飢えていたのだ。肯定を。賞賛を求めていた。エレノアはそれを知った上でユーリを肯定した。彼女にもまた否定の中に身を置いて励んだ過去があったからだ。

 『祈り』という聖者/聖女のみが扱える治癒魔法を体得しながら、『回復魔法』を学ぶ。

 一人でも多くの人を救いたい。その一心ではあったが、同時にそれは他の聖者/聖女の怠惰と選民意識を浮き彫りにするものでもあった。

 結果、彼女は激しく煙たがられ孤立。務めに邁進するも評価されることはほとんどなかった。

 ユーリを肯定しにかかったのは、言ってしまえば過去の自分を肯定するため。自分本位な動機に端を発してのことだった。

「軽はずみでしたね」

「後悔しても遅いですよ」

「ふふふっ、それは困りましたね~」

 お茶らけたように返すとユーリはまた大仰に咳払いをした。

「……貴方は?」

「言わなくてはダメ? 何だか照れ臭いわ」

「いい根性していますね。俺にだけ恥をかかせて」

「あら? ふふっ、とっても可愛らしかったですよ」

「……怒りますよ」

「まぁ、怖い!」

 エレノアが笑ったのと同時に風が吹いた。髪の毛を思わせるような細長い草が気まぐれに舞っては飛んでいく。

「……とても真っ直ぐな方だと、そう思ったからよ」

 エレノアは風に弄ばれるミルキーブロンドの髪を押さえ込んだ。肘を立てることでそれとなく表情を隠す。

「ちょっと乱暴な言い方をすると、分かりやすい人。この方のお気持ちならきっと汲んで差し上げられる。見落とさずに済む。……安心して愛を育めるとそう思ったの」

「バカで良かったです」

「あらあら。ふふふっ、物は言いようね」

 二人で並んで風の音を聞く。無言の時間ですら心地いいと感じた。

「……っ」

 また全身が重たくなる。エレノアはそれとなく背筋を伸ばして、さり気なくユーリの方に目を向けた。彼はぼんやりとポプラの木を眺めている。

「貴方がいなくなった後のことを考えるようになりました」

「……苦労をかけます」

「前向きな話しですよ」

 ユーリはエレノアに向かって手を伸ばした。けれど、その手は彼女には触れずさらりと宙を掻く。

「変わらないなってそう思ったんです。たとえ見えなくても、触れることが出来なかったとしても、俺の視線の先には変わらず貴方がいる」

 空っぽなその拳を抱き寄せたい。そんな衝動に駆られる。今ならば出来る。けれど、少なくとも2年後の自分にはそれは出来ない。その現実をまざまざと痛感する。

「巡り合えると信じてます。俺がこの使命を……勇者の使命を果たせたのなら、きっと」

「あら? 生まれ変わっても、変わらずわたくしを選んでくださるの?」

「愚問ですよ」

 エレノアの目尻がじんわりと熱くなる。対するユーリは歯を出して無邪気に笑った。

「俺の心は永遠に貴方のものです」

 得意気だが、その頬はほんのりと赤く色付いている。エレノアは笑みを零しつつ空っぽの拳を抱き寄せた。そこにはエレノアの心臓がある。

「わたくしも、生まれ変わっても貴方と共にありたい」

「いいんですか? 取り消しは利きませんよ?」

「望むところよ」

 ユーリに倣い得意気な笑みを浮かべる。ユーリは破顔した。つられるようにして笑うとそっと抱き寄せられる。

 エレノアの耳にユーリの広い胸が触れた。力強くも心地のいい鼓動に頬が緩む。

「エラ」

 促されるまま顔を上げる。かつては見下ろし、その身を屈めてプロポーズを受けた。あれから10年。今はこうして見上げる形で彼の目を見ている。熱くとろけたその栗色の瞳を。

「……愛してる」

「わたくしも愛しているわ」

 二つの唇が重なる。体温を移し合うようにぴったりと。互いの息遣いを肌で、耳で感じた。

 ユーリの息遣いは遠慮がちで少々苦し気だ。初々しい。もっと愛でたい。そんな浅ましい衝動に駆られて目を開く。

「っ!」

 至近距離で目が合う。どうやら同じ考えであったらしい。互いに罰が悪そうに目を伏せて微笑み合った。

 黄色いポプラの葉が舞う。その様はまるで二人を祝福しつつも茶化すような無邪気な子供のようだった。

 それから1年後、エレノアは子を産んだ。男の子だった。

 エレノア譲りのミルキーブロンドの髪はやわらかさも相まってか何処かヒヨコを思わせる。因みに瞳は栗色。こちらは言わずもがなユーリ譲りだ。

「くそっ、何でだよ……」

 その子はとても素直で人懐っこかったが、なぜかユーリにだけは懐かなかった。抱く度に大泣きをする。その度にユーリは気落ちしてエレノアや仲間達に励まされるといった流れが定番化されつつあった。

 エレノアはユーリから我が子を受け取る。彼は打って変わって上機嫌に。きゃっきゃと眩い笑顔を浮かべる。エレノアは愛おしさのなすままに我が子の額にキスをした。

「この子の名前を決めました」

「………………………………パパイヤとかですか?」

 すっかりいぢけてしまっている。エレノアは苦笑を堪えつつ我が子の名を告げる。

「ルーベン」

「……ルーベン?」

「はい。『神の書』の編さん者。聖教の歴史に名を刻む偉大なるお方の名です」

 カーライルは三大聖教一族だ。故に子息令嬢達には天使や聖教の偉人由来の名が付けられている。かく言うエレノアもそう。彼女の名は博愛の天使からきている。

「加えて『その子を見よ。息子を見よ』という由来を持ちます」

 ルーベンは勇者であるユーリと聖女であるエレノアの子だ。かかる期待は計り知れない。

 しかしながら、その才は必ずしも子に引き継がれるわけではない。どちらかと言えばその確率はかなり低いと言える。

 だからこの名を付けた。気休めにしかならないかもしれないが、少しでもルーベンの心を守ることに繋がれば、胸を張るきっかけになればとそう願って。

「素敵な名前ですね」

 エレノアの真意を汲んでくれたようだ。ユーリの栗色の瞳に力が籠る。この子を、ルーベンを守ろうと誓いを立ててくれているのかもしれない。

「愛称はエルになるかしらね」

「エルか」

 ユーリの手がエルに伸びる。ミルキーブロンドの髪に触れて間もなく彼は激しく泣き出した。

「あらあら」

「……俺なんかしましたっけ?」

「さあ? 心当たりはないのだけれど……もしかすると」

「もしかすると?」

「貴方のことが大好きなのではなくって?」

「…………………………は?」

「愛情の裏返しとでもいうのかしらね? 好きな子ほどイジメたいというか」

「だとしたら大分ひねくれ者ですね」

「そうね。ふふふっ、誰に似たのかしら?」

 どんな親子になっていくのか。想像するだに胸が弾んだ。しかしそれも束の間、心が重たく沈む。

(見ていたかったな。誰よりも近くで。時には笑って、時には泣いて)

「エラ……?」

 エレノアは小さく首を左右に振って笑顔で誤魔化した。残る寿命は半年ほど。少しでも長くこの平穏な日々が続いてほしい。そう切に願った。

 しかしながら、運命は非情だ。エルが生まれて一カ月も経たない頃、魔王襲来の報告が王都中を駆け巡った。

 ユーリはすぐさま仲間と共に魔界との繋がりが目される『古代樹』の森へ。エレノアは居ても立っても居られず侍女とエルと共に教会へ。神に皆の無事を祈った。

「職を辞したというのに熱心なことだな」

「っ! クリストフ様」

 聞き馴染みのある声。振り返ってみれば、そこに立っていたのは案の定エレノアの元婚約者のクリストフだった。

 勇者である彼が何故こんなところに。浮かんだ疑問は瞬時に消える。彼はまだ休職中なのだろう。

「瘴気が発生したそうだ」

 瘴気。それは魔物のみが扱える闇属性の魔法だ。この瘴気を扱えるのは純然たる闇属性の魔物のみ。

 意外なことに魔物は闇属性+他属性といった具合に複合型の魔物が多く、瘴気を扱える魔物はこれまで数える程度にしか確認されてこなかった。

「ああ。被害は甚大だ。現地の回復術士達が懸命に命を繋いでくれているようだが、正直なところ焼け石に水であるそうだ」

「それほどまでに強力な瘴気であるのですね」

「ああ。君達の『祈り』が必要だ」

 現場は聖女/聖者の到着を待ち侘びているという。だが、それには大きな問題がある。

「現存する聖者/聖女は全部で四名。一人は私の妻シャロン、その御父上である教皇、君の兄セオドア、そして君の父上である枢機卿だ」

「……王都の守護を担うお兄様は候補から外さざるを得ないでしょうね。お兄様がいくら強く訴えたところで、きっと聞き入れられない。王都から出ることは叶わないでしょう」

「教皇は言わずもがな。君の父上では力不足だ。そうなると消去法でシャロンということになるが、彼女は現教皇の娘だ。父上は決してお認めにならないだろう」

 つまりは、現役聖者/聖女の中に戦地に向かえる者はいないということになる。そう。の聖者/聖女に限って言えば。

「さぁ、どちらを選ぶ?」

 クリストフは侍女に抱かれたエルとエレノアを交互に見た。侍女は不快感と憤りからか表情を歪めたが、エレノアはそれには続かなかった。

「お優しい方」

「……何?」

 クリストフは自ら汚れ役を買って出たのだ。現地の戦士達を思って。そしてエレノア自身のことを思って。

 エレノアは聖女の務めに誇りを持っていた。彼はそんな彼女を誰よりも近くで見ていたのだ。

 故に知っている。救える命を救えなかった。その事実を知った時、彼女がどれほど無力感に苛まれるのかを。

「メルル。エルをわたくしに」

 侍女のメルルは悲痛な面持ちでエルを手渡した。何も知らない、知り得ないエルは無邪気に手を伸ばして笑う。

「エル。わたくしは貴方を愛しています。……信じてもらえないかもしれないけれど本当よ。勝手な母親でごめんなさいね」

 エレノアはエルの額に口付けるとメルルにそっと預けた。彼女は緑色の大きな瞳から大粒の涙を流して主であるエルを抱き締める。

「……君を選ばずにおいて良かった」

 クリストフは目を合わせない。顎に力を込めて顔を俯かせている。

「ふふふっ、エルに同情してくださっているのですね?」

「戯言を」

「これはとんだ失礼を」

 クリストフのアイスブルーの瞳が光輝く。不遜とも取れるその自信に満ち満ちた輝きにエレノアの胸が躍った。少しずつ、次第に激しく。

「クリストフ様……?」

「乗れ。連れて行ってやる」

「恐れながら軍服ではないようですが……?」

「問題ない。この服装でも十二分に戦える」

 エレノアは目を伏せて頷いた。何度も、何度も。

(励んでくれたのね、ユーリ。心から感謝申し上げます)

「早くしろ」

「はっ、はい! ただいま」

 エレノアは最後にもう一度だけ振り返り、エルに目を向けた。侍女・メルルの胸の中で不思議そうな目をしてこちらを見ている。エレノアは溢れ出そうになった涙を呑んで笑顔を浮かべた。

「エル。お父様と仲良くね」

 エルはなおも不思議そうな顔をしている。十中八九意図はまるで伝わっていないのだろう。エレノアは苦笑一つに教会を後にした。

「あ゛……! がっ……」

「お気を確かに」

「いでぇ……っ、いでぇよ……」

「何とお労しい……」

 現地では瘴気に侵された人々が苦しみに喘いでいた。その数ざっと100人はくだらない。回復術士達も奮闘してくれているが、まさに焼け石に水だ。

 もしかするとクリストフはこの光景を目の当たりにしたことで、行動を起こすに至ったのかもしれない。

「クリストフ様。ありがとうございました」

「礼には及ばない。……精々役目を果たせ」

「はい」

 エレノアはブルーグレーのドレスの裾を摘まんでカーテシーをした。クリストフは何か言いかけて止めた。そのまま何も言わずに森に向かって駆けていく。

「あれはもしやエレノア様では……?」

「何と! 聖女様が! こいつはありがたい!」

「いや。もう職を辞されているはず。お体が悪く、祈りを行うことはもう……」

「何? では、クリストフ様は――」

「誤解です」

 エレノアは言い切った。その口元に微笑みをたたえたまま。

「クリストフ様は自ら汚れ役を買って出てくださったのです。名誉を欲したわたくしの、この浅ましい心を汲んで――」

「なりません! それでは貴方様のお命がッ!!!」

「勇者様に面目が立たん! 頼むから止めてくれ!!!!」

(ユーリ……)

 ユーリの笑った顔、怒った顔、いぢけた顔、泣き顔を一つ二つと思い返していく。

(……ごめんなさい。わたくしは最期のまで最期まで身勝手で不出来な妻でした)

 エレノアは胸の内で謝り広場の中央へ。周囲の戦士達、その一人一人に対して可能な限り目を向けた。

「貴方方はこのデンスターの……いえ、世界の希望です。どうかその輝きを絶やすことなく健やかにあってください」

 エレノアは両手を組んで祈りを捧げた。虹色の霧かかったオーロラのような光が周囲一帯を包み込む。

「聖女様! お止めください!」

「聖女様!!」

 戦士達の体を蝕んでいた紫色のオーラが徐々に薄れていく。彼らの息遣いが荒いものから穏やかなものへ。花が綻ぶように表情も和らいでいった。

「……良かった」

 エレノアの瑠璃るり色の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。それと同時に脱力感が押し寄せる。視界が傾いたのと同時に抱き留められた。

 近くにいた回復術士の女性が支えてくれたようだ。彼女を始め、複数の回復術士達が治療を施してくれたが最早意味をなさない。命そのものを燃やし尽くしてしまったから。

(ユーリ……幻でもいい。叶うことなら貴方に、貴方に会いたい――)

「エラ!!!!」

 閉じかけたまぶたが持ち上がる。霞む意識の中でその姿を探した。

 いた。ユーリがこちらに向かって駆けてくる。白い軍服の腕や脚の部分は所々血で赤く染まっていた。

「ああ。そう……クリストフ様が呼んでくださったのね」

「エラっ! エラ!!」

 回復術士の女性がエレノアを差し出した。ユーリは彼女に代わってエレノアを腕に抱く。

「魔王、は……?」

「倒しました。後は残党を残すのみです」

「大魔王……?」

「分かりません。ただ、あの魔王……アイザックよりも格下な印象を受けました。おそらくは大魔王ではないのでしょう」

「……そう」

「勇者様! 面目ねえ!!」

「聖女様は僕達を助けるために……っ」

 ユーリは静かに首を左右に振った。戦士達は言葉を呑んで顔を俯かせる。

「夫として貴方を誇りに思います」

 エレノアの口角が力なく持ち上がる。

(傷、が……)

 彼の頬には傷が付いていた。幅1センチ以下、長さ5センチ程の切り傷であるようだ。

 エレノアの手がその傷に向かって伸びていく。光は――出さなかった。触れかけた手から力を抜く。

「よろしいのですか?」

「ええ。一秒でも長く貴方と……」

 ユーリの口角が上がる。その鼻先からは呆れたような笑みが零れ落ちた。

「信じてもらえない、わよね」

「喜んでるんですよ」

 短い一言に集約されていた。一秒でも長く共にありたかった。そんな切なる願いが。

「……ごめんなさい」

「約束、お忘れですか?」

 エレノアは首を左右に振る。

「生まれ、変わっても共に……」

「ええ。そうです」

 ユーリの栗色の瞳が涙で濡れていく。だが、決して零さない。笑顔を保ち続けてくれている。

「待っていてください。どんなに遠く離れたところにいたとしても、俺が必ず見つけ出しますから」

 エレノアは頷いた。視界が白くぼやけていく。ユーリの顔ももう見えない。

「愛しています」

「ええ。俺も愛していますよ」

 視界が真っ白に。ユーリの声も、周囲の人々の声も、全身で感じていたユーリの体温も感じなくなった。

(無の世界。これが死……)

 不思議と恐怖を感じなかった。きっと約束のお陰。ユーリと交わしたあの約束のお陰なのだろう。

(……?)

 不意に浮遊感を感じた。恐る恐る目を開けば眼下には見慣れた紅髪が。その周囲には武装した戦士達の姿があった。

(ユーリ……)

 ユーリは泣き出した。エレノアの体を強く抱いて。堪えてくれていたのだ。エレノアが旅立つその瞬間まで。

(ありがとう。……そして、ごめんなさい。………?)

 視界を何かが掠めた。淡く輝くそれは羽であるようだ。思えば背中に違和感がある。

(っ! これは……)

 見ればエレノアの背には白い翼が生えていた。

(これは……カソック……?)

 エレノアは白いカソック姿に翼が生えた状態で宙に浮いていた。

(猶予をいただけたと、そう思っていいのかしら?)

 彼女は小首を傾げた後で深く頷いた。考えるのは後だ。

『……よし』

 意を決して上体を下げてみる。

『くっ! これはなん……とも……っ』

 悪戦苦闘しながらも辛々下降してユーリのもとへ。両腕を伸ばして涙する彼を抱き締めた。ユーリがエレノアに気付く気配は微塵もない。

(……これ以上を望むべきではないわね)

 いつまで傍にいられるのか、あるいは何がきっかけとなって来世に飛ばされるのか現時点ではまるで分からない。分からないが、今はただ共に在れることを喜ぼうと頭を切り替えることにした。

 ――それから20年後。

 エレノアの肖像画の前で、一人の青年が誇らしげな表情を浮かべて立っていた。ミルキーブロンドの前下がりボブ、やや垂れ目がちなその瞳の色は栗色だ。

「母さん、見て見て。どう? 似合うでしょ?」

 青年は上下白の軍服を見せびらかすようにして軽やかに一回転してみせた。彼の名はルーベン・カーライル。エレノアとユーリの一人息子だ。

 顔立ちはエレノアにとてもよく似ている。柔和でありながらどこか軽やかであり気さくな印象を抱かせる。

 ユーリとはまるで似ていない。共通点と言えば瞳の色と、さらさらとした髪質ぐらいのものか。

「俺、勇者になったんだよ」

「むりくりだけどな」

 扉を開けてユーリが入ってくる。彼は今年で41歳になった。変わらず若々しいがその白い頬には薄っすらとほうれい線が。右頬には小さな傷がついている。

 あの日、エレノアが治さずにおいた傷だ。務めを果たすことよりも、共に在ることを選んでくれた。その時の喜びを胸に刻むべく、未だ治さずそのままにしているのだ。

「はいはいはいはい、ですけどそれが何か? ハイブリッドってことでいーじゃん」

 エルの本職は聖者だ。祈りによる治療と邪を祓う結界術を得意としている。彼には酷な話だが、攻め手としての才は欠如していると言わざるを得なかった。

 けれど、彼はめげることなく励んだ。ユーリとの二人三脚の鍛錬の末に勇者の力を扱えるように。

 その威力と彼の言うハイブリッドぶりが評価されて、つい先日晴れてライセンス獲得に至ったというわけだ。

「何が不満なわけ? ……父さんと母さんの子供って感じがしていーじゃん」

 エルはむくれたように。それでいて照れ臭そうに呟いた。

「……そうだな」

 ユーリの頬が緩む。満更でもなさそうだ。

「ぐっ……え~っ、あ~あ~……っと、そうだ! キャルに用があるんだった。俺、ちょっと行ってくるね」

 十中八九照れ隠しだろう。エルはいそいそと忙しなく駆け出す。

「転ぶなよ」

「はぁ? ガキ扱いすんなって――うぉわっ!?」

 エルは盛大につんのめった。因みに言うと、そこには転倒を誘発させるようなものは何もない。

「しまんねーな」

「~~っ、うっさい!!!!」

 エルは顔を真っ赤にして走り出した。微笑むエレノアの横を全速力で通り過ぎていく。

『ふふふっ、エルったら』

「そういうとこ、なんだけどな」

 ユーリは重々しく溜息をついた。エレノアはそんな彼の周囲をくるりと舞う。

「エラ、ごめんな。まだまだ時間がかかりそうだ」

『大丈夫よ。まだまだずっとずっと傍にいてあげて』

 エレノアはそっとユーリを抱き締めた。

 二人はこんなふうにして一方通行なやり取りを重ねていた。

 彼是かれこれ20年。寂しくないと言えば嘘になるが、不思議と心は満たされていた。それはきっと同じ未来を夢見ているとの実感があったから。

 『追想の勇者』ユーリ・カーライルと、彼を見守るエレノア・カーライルの物語は今日も賑やかに、時にほろ苦さを帯びながら続いていく。


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