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第二話
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――あっ、あぶな、あぶなかった……! うっかり流されるところだった……!!
コレーは両手の下で目を見開き、早鐘を打つ心臓をどうにか止めようと深呼吸をした。
美形ぞろいのオリュンポスの神々。その中でも偉大なる全能神ゼウスの兄にして冥府の王ハデス。
老若男女、親子兄弟姉妹親族関係なしのおおらかすぎる恋愛遍歴持ちが数多いる中、お堅い話題しか上がってこない生真面目な神。
そのハデスが! あろうことか姉の子であるコレーを! 冥府に誘拐したのである!
――ゼウス様やアポロン様、ポセイドン様ならまだしも、真面目一辺倒でお母様からの信頼も厚いハデス様が、こんな暴挙に出るなんて……
あまりのことに、コレーは目眩がする思いだった。
コレーの母である地母神デメテルは、ゼウスの名を出そうものなら笑顔のまま辛辣な言葉で実弟を罵る。
なんせコレーの父親はゼウスだ。姉に甘えるかわいい弟を演じ、その隙にあれよあれよと手を出してきた、様々な意味での全能神ゼウスなのだ。
そのような前科があるため、デメテルはコレーを箱入りとして育てた。
女神は普通に神殿へとおすが、男神は門前払いか別室で声のみ、という念の入れよう。
まさに箱入り。出かけるときは必ず連れて行き、目の届く場所でコレーを育て上げたのだ。
『あなたのようにかわいらしい子は、あの弟の目に留まったが最後、気づいたら寝台の上だった、ということになりかねません。いいですか、コレー。ゼウスは、いいえ、オリュンポスの男神たちは、美しいものならば老若男女関係ないのですからね! 気をつけるのですよ!』
これが母の口癖だった。
――それでもお母様、やはりわたしを育てるのは無理があったのです。おかげでコレーは今、最大級の危機に瀕していますよ……!
美しい顔を渋面に替え、コレーは己の胸に手を当てた。
掌に伝わる柔らかな膨らみ。それがただの布であることを知るのは、コレーたち母子とお付きのもの数名だけである。
そう、コレーは地母神の娘ではない、――息子であった。
***
「ちーっす! コレーちゃん元気してるー?」
「!?」
突然かけられた声に肩を飛び上がらせ振り返ると、いつの間にか扉の前に美青年が立っていた。
緩い癖のある金の髪。彫が深く美しい顔立ち。羽根兜を被り、蛇が二匹絡まった杖を手に、いたずら気な笑みを浮かべて扉に凭れかかっている。
「ヘルメス様! どうしてここへ……」
どこから入ってきたのかわからないが、彼の美青年は伝令神ヘルメスであった。
「ゼウス様から伝令のためでっす。いやー、デメテル様がマジおこで世界規模の職務放棄しちゃってるもんだから、飢饉が起きて人間山ほど死んでるんだよねー」
「お、お母様が……」
ヘルメスのあっけらかんとした言葉に、コレーは衝撃のあまりに白目をむくところだった。
普段は温厚で優しく、ゼウスやポセイドン以外には丁寧に対応するデメテルが、よりにもよって職務放棄だなど。
地上の植物を殖やし、育て、実りを与える地母神。人間が生きていくために必要な大地の恵みを司る母が、それほどまでに怒りを表しているというのか。
「でもってヤバイ顔でオリュンポス山に直訴しにきたもんだから、ゼウス様もビビっちゃって。あのヘラ様まですっげーヤバイ顔してんの。『あの』ヘラ様がだよ? そのくらい、怒らせちゃいけない女神怒らせちゃったって、大慌てで俺を使いに出したわけ」
ヘルメスがげんなりとした表情で肩をすくめる。コレーは大事になってしまったと、青ざめた額を押さえた。
嫉妬深くてきつい性格で有名な女神ヘラが引くほどの怒りとは、一体どのようなものだったのだろう。我が母ながらあまり見たくはない。
コレーははたと思い出し、ヘルメスに向き合った。
「いや、そうではなくてですね。何故この部屋に入ることが……」
「盗みと詐欺を司るこの俺が、こんな扉開けられないわけないっしょー」
「そういう問題では……」
「とりあえずさ、コレーちゃん。地上が大混乱中なんで、早めに決着付けないとヤバイんだわ」
コレーの動揺をも遮り、ヘルメスがわざとらしい溜め息をついた。その瞳は本当に困っているようには見えない。
「ですが、今わたしは冥府の客人ですから、冥府王の許可なく地上へ戻ることはできません」
「だよねー」
「かといって、ハデス様の后になることなどできませんし……、どうしたものか……」
コレーは視線を落とし、心の底から溜め息をついた。
ひとときの恋の相手ならばまだしも、男神を正式な后にむかえるなど前例がない。いや、そもそもコレーが男神であることは秘密にしなければならないことなのだ。
だが。
「そうだよね、男じゃ后にはなれないもんね。でもハデス様はそんなこと気にしないと思うけどなー」
困り果てているコレーを見つめながら、ヘルメスが変わらぬ口調で、とんでもないことを言い放った。
「……ヘルメス様、何故それを」
「あ、大丈夫だよ! 俺以外に知ってるやついないと思うから! ゼウス様たちも気づいてないよ!」
「そうではなく」
「だけど、アポロン様は知ってるかなー。君へ求愛しに行ってるし、そもそもあの方男女問わないし。でもデメテル様に強制却下されてるからなー、……あ! 俺も君に求愛しに行ったけど、今は大丈夫だから! あのデメテル様見たらさすがに無理! あれはヤバイ!」
「そうではないのですヘルメス様!」
背中に嫌な汗が流れていく。さきほどまでは感じなかった息苦しさに、コレーの呼吸が浅くなった。
何故という疑念と、やはりという諦念が同時に湧きおこる。
ヘルメスは、ふ、と目を細め、緩やかに口角を上げた。途端、周囲の温度がひやりと下がる。
「神々の伝令神であり、計略と雄弁の神にして魂の導き手、それがこのヘルメス。お優しい地母神の口を割らせるなんて、輝ける君から牛を盗むよりも簡単だね」
先程までの軽薄な青年はどこへ行ったのか、目の前にいるのは紛れもなく狡猾で、偽りの言葉を巧みに操る、アルゴス殺しの伝令神だ。
一瞬気圧されそうになったが、コレーは腹にぐっと力を込めヘルメスを見つめ返す。
怖気づいてはいけない。ここには母もニンフたちもいないのだ。己だけで窮地を乗り越えなければならない。
「……そうですね。では知恵をお貸しください、黄金の杖持つ君よ。ハデス様に諦めてもらい、わたしが無事地上へ戻る策を。このまま母が怒り続ければ、人間は餓死し全滅、神々を崇めるものがいなくなってしまう。冥府も死者で溢れてしまいます」
コレーが真っ直ぐ視線を向けると、ヘルメスは、ふ、と微笑み表情を緩めた。そして、先ほどのように砕けた口調に戻る。
「死者が増えるのは別に平気じゃない? ハデス様有能だし余裕っしょ」
「神殿を祭るものがいなければ、我々神は糧を失います。わかっていらっしゃるでしょう」
「でもなー、第一世代の神々のガチ喧嘩だよ? 地上のひとつやふたつ消えちゃってもしょうがなくない?」
「しょうがなくありません!」
「えぇー? 俺、怖いとこに首突っ込みたくないんだよねー」
「伝令神がなにをおっしゃいますか」
「もー、そこ言われるとなんも返せないわー」
ころころ変わる表情とともに、ヘルメスが手の杖を小さく振る。どこか幼く見える仕草が乙女たちの心を射止めるのだろうが、あいにくコレーには効かなかった。
「ともかく! 地上の平穏を取り戻すためにも、我々がどうにかいたしませんと」
「ハーイ」
コレーがびしりと言い放つと、ヘルメスはやる気があるのかないのかわからない声で応えたのだった。
コレーは両手の下で目を見開き、早鐘を打つ心臓をどうにか止めようと深呼吸をした。
美形ぞろいのオリュンポスの神々。その中でも偉大なる全能神ゼウスの兄にして冥府の王ハデス。
老若男女、親子兄弟姉妹親族関係なしのおおらかすぎる恋愛遍歴持ちが数多いる中、お堅い話題しか上がってこない生真面目な神。
そのハデスが! あろうことか姉の子であるコレーを! 冥府に誘拐したのである!
――ゼウス様やアポロン様、ポセイドン様ならまだしも、真面目一辺倒でお母様からの信頼も厚いハデス様が、こんな暴挙に出るなんて……
あまりのことに、コレーは目眩がする思いだった。
コレーの母である地母神デメテルは、ゼウスの名を出そうものなら笑顔のまま辛辣な言葉で実弟を罵る。
なんせコレーの父親はゼウスだ。姉に甘えるかわいい弟を演じ、その隙にあれよあれよと手を出してきた、様々な意味での全能神ゼウスなのだ。
そのような前科があるため、デメテルはコレーを箱入りとして育てた。
女神は普通に神殿へとおすが、男神は門前払いか別室で声のみ、という念の入れよう。
まさに箱入り。出かけるときは必ず連れて行き、目の届く場所でコレーを育て上げたのだ。
『あなたのようにかわいらしい子は、あの弟の目に留まったが最後、気づいたら寝台の上だった、ということになりかねません。いいですか、コレー。ゼウスは、いいえ、オリュンポスの男神たちは、美しいものならば老若男女関係ないのですからね! 気をつけるのですよ!』
これが母の口癖だった。
――それでもお母様、やはりわたしを育てるのは無理があったのです。おかげでコレーは今、最大級の危機に瀕していますよ……!
美しい顔を渋面に替え、コレーは己の胸に手を当てた。
掌に伝わる柔らかな膨らみ。それがただの布であることを知るのは、コレーたち母子とお付きのもの数名だけである。
そう、コレーは地母神の娘ではない、――息子であった。
***
「ちーっす! コレーちゃん元気してるー?」
「!?」
突然かけられた声に肩を飛び上がらせ振り返ると、いつの間にか扉の前に美青年が立っていた。
緩い癖のある金の髪。彫が深く美しい顔立ち。羽根兜を被り、蛇が二匹絡まった杖を手に、いたずら気な笑みを浮かべて扉に凭れかかっている。
「ヘルメス様! どうしてここへ……」
どこから入ってきたのかわからないが、彼の美青年は伝令神ヘルメスであった。
「ゼウス様から伝令のためでっす。いやー、デメテル様がマジおこで世界規模の職務放棄しちゃってるもんだから、飢饉が起きて人間山ほど死んでるんだよねー」
「お、お母様が……」
ヘルメスのあっけらかんとした言葉に、コレーは衝撃のあまりに白目をむくところだった。
普段は温厚で優しく、ゼウスやポセイドン以外には丁寧に対応するデメテルが、よりにもよって職務放棄だなど。
地上の植物を殖やし、育て、実りを与える地母神。人間が生きていくために必要な大地の恵みを司る母が、それほどまでに怒りを表しているというのか。
「でもってヤバイ顔でオリュンポス山に直訴しにきたもんだから、ゼウス様もビビっちゃって。あのヘラ様まですっげーヤバイ顔してんの。『あの』ヘラ様がだよ? そのくらい、怒らせちゃいけない女神怒らせちゃったって、大慌てで俺を使いに出したわけ」
ヘルメスがげんなりとした表情で肩をすくめる。コレーは大事になってしまったと、青ざめた額を押さえた。
嫉妬深くてきつい性格で有名な女神ヘラが引くほどの怒りとは、一体どのようなものだったのだろう。我が母ながらあまり見たくはない。
コレーははたと思い出し、ヘルメスに向き合った。
「いや、そうではなくてですね。何故この部屋に入ることが……」
「盗みと詐欺を司るこの俺が、こんな扉開けられないわけないっしょー」
「そういう問題では……」
「とりあえずさ、コレーちゃん。地上が大混乱中なんで、早めに決着付けないとヤバイんだわ」
コレーの動揺をも遮り、ヘルメスがわざとらしい溜め息をついた。その瞳は本当に困っているようには見えない。
「ですが、今わたしは冥府の客人ですから、冥府王の許可なく地上へ戻ることはできません」
「だよねー」
「かといって、ハデス様の后になることなどできませんし……、どうしたものか……」
コレーは視線を落とし、心の底から溜め息をついた。
ひとときの恋の相手ならばまだしも、男神を正式な后にむかえるなど前例がない。いや、そもそもコレーが男神であることは秘密にしなければならないことなのだ。
だが。
「そうだよね、男じゃ后にはなれないもんね。でもハデス様はそんなこと気にしないと思うけどなー」
困り果てているコレーを見つめながら、ヘルメスが変わらぬ口調で、とんでもないことを言い放った。
「……ヘルメス様、何故それを」
「あ、大丈夫だよ! 俺以外に知ってるやついないと思うから! ゼウス様たちも気づいてないよ!」
「そうではなく」
「だけど、アポロン様は知ってるかなー。君へ求愛しに行ってるし、そもそもあの方男女問わないし。でもデメテル様に強制却下されてるからなー、……あ! 俺も君に求愛しに行ったけど、今は大丈夫だから! あのデメテル様見たらさすがに無理! あれはヤバイ!」
「そうではないのですヘルメス様!」
背中に嫌な汗が流れていく。さきほどまでは感じなかった息苦しさに、コレーの呼吸が浅くなった。
何故という疑念と、やはりという諦念が同時に湧きおこる。
ヘルメスは、ふ、と目を細め、緩やかに口角を上げた。途端、周囲の温度がひやりと下がる。
「神々の伝令神であり、計略と雄弁の神にして魂の導き手、それがこのヘルメス。お優しい地母神の口を割らせるなんて、輝ける君から牛を盗むよりも簡単だね」
先程までの軽薄な青年はどこへ行ったのか、目の前にいるのは紛れもなく狡猾で、偽りの言葉を巧みに操る、アルゴス殺しの伝令神だ。
一瞬気圧されそうになったが、コレーは腹にぐっと力を込めヘルメスを見つめ返す。
怖気づいてはいけない。ここには母もニンフたちもいないのだ。己だけで窮地を乗り越えなければならない。
「……そうですね。では知恵をお貸しください、黄金の杖持つ君よ。ハデス様に諦めてもらい、わたしが無事地上へ戻る策を。このまま母が怒り続ければ、人間は餓死し全滅、神々を崇めるものがいなくなってしまう。冥府も死者で溢れてしまいます」
コレーが真っ直ぐ視線を向けると、ヘルメスは、ふ、と微笑み表情を緩めた。そして、先ほどのように砕けた口調に戻る。
「死者が増えるのは別に平気じゃない? ハデス様有能だし余裕っしょ」
「神殿を祭るものがいなければ、我々神は糧を失います。わかっていらっしゃるでしょう」
「でもなー、第一世代の神々のガチ喧嘩だよ? 地上のひとつやふたつ消えちゃってもしょうがなくない?」
「しょうがなくありません!」
「えぇー? 俺、怖いとこに首突っ込みたくないんだよねー」
「伝令神がなにをおっしゃいますか」
「もー、そこ言われるとなんも返せないわー」
ころころ変わる表情とともに、ヘルメスが手の杖を小さく振る。どこか幼く見える仕草が乙女たちの心を射止めるのだろうが、あいにくコレーには効かなかった。
「ともかく! 地上の平穏を取り戻すためにも、我々がどうにかいたしませんと」
「ハーイ」
コレーがびしりと言い放つと、ヘルメスはやる気があるのかないのかわからない声で応えたのだった。
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