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二、
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「だから俺止めたよな。危ないって言ったよなぁ? そんな俺の優しさを踏み躙って好き勝手やった結果がこれだよなぁ」
康辰はパーカー姿の奥光に詰め寄った。目の前の男がすでに死んでいるという事実を突きつけられても、衝撃や哀しみの感情よりも先に湧いてきたのは怒りだった。だから、あれだけ言ったのに。一発お見舞いしてやろうかと思ったが、触れることは出来そうにないのでやり場のない怒りが身体中を駆け巡った。しかし奥光は生前と同じ調子で
「いやあ、まさか本当に殺されちゃうとはね。参ったわぁ」とヘラヘラ笑っている。
参ってるのはこっちだ。康辰が鋭い視線を送っても、全く反省している様子はなかった。今更何を言ったところで無駄だ。もう事は起きて、奥光は死んでいるのだから。馬鹿は死んでも治らないとはよく言ったものだ。康辰はため息をつき、上着のポケットに手をつっこむ。
「なんでそんなことになったの」
「それがさぁ、ちっちゃいことでおっさんと喧嘩んなったんだよ。で、まぁ殴ったり殴られたりやってて、あんまりムカついたから俺、『もう二度とこんなとこ来てやんねーからな! 馬鹿! 死ね!』みたいなこと言ったの。そしたらあっちも相当ムカついたらしくて、包丁持ち出してきてグサーって」
奥光はまるで漫画のあらすじでも説明するみたいに、他人事のように自分の死に様を語った。突っ込みたいところは色々あった。語彙力が乏しすぎないか。とか、そんなことで刺すかよ、普通。とか。しかし今優先すべきは状況の整理だとわかっていたため、それらの文句は飲み込んで話を進める。
「それで、お前本当に死んでるの? 意識不明で幽体離脱してるとかそういうオチじゃなくて?」
「死んでる。俺見たし、俺とおっさんの死体。もう血の海って感じで、二人とも確実に死んでたね、ありゃ」
「……待って」
ペラペラと喋る奥光に、康辰は制止をかける。
「二人とも、って……。あいつも死んだの?」
「俺がタダでやられるわけねぇだろ~? 最後の最後でやり返してやったっつーの」
得意げに言うので、康辰は頭を抱えた。つまり今、あの古いアパートの角部屋には奥光とあの男の死体が放置されているということになる。一体、どう収集をつければ良いのか全くもってわからなかった。誰にどうやって何を説明すればいいのだろうか。普段使っていない無職の脳味噌では到底処理しきれない。二十代無職の男と前科持ちの中年男が刃物でお互いを刺して絶命。そう報道される様子を想像すると、中々にカオスだ。
「出来の悪い心中みたい」
康辰が呟くと、奥光はケラケラと笑う。
「ちなみにさぁ、何が原因だったの。その喧嘩」
「おっさんのプリン、俺が食べちゃって」
あんなに怒んなくてもいいじゃんね。と奥光は陽気に言った。康辰は、こいつ殺してやろうか、と思ったけれど、彼は既に死んでいるのでただただ深いため息を吐いた。
ひとまず兄弟らに相談をしようと、康辰は奥光を連れて家に引き返した。一人では荷が重すぎると判断したためだ。三人寄れば文殊の知恵と言うし、馬鹿ばかりでも四人も集まれば何かしらの解決策が見つかるかもしれないという逃避に近い期待を抱いて玄関のドアを開けた。
しかし、すぐにその期待は当てが外れたのだと理解する。
「あ、康辰ちょうどいいとこ来た。コーヒー作ってきてくれない」
リビングの炬燵で暖を取っていた滝辰は、確かに康辰の方を見たが、康辰にしか声をかけなかった。すぐ隣に奥光が存在しているのにも関わらず、視線は康辰のみに向けられていたのだ。三日も連絡が取れず家を開けていた兄が帰ってきたというのに、この反応は不自然に思える。わざと奥光の存在を無視しているようにも見えなかった。
彼にろくに返事もせずに奥光の方を見れば、「やっぱこいつらにも見えねえんだ」と呟いた。康辰はごくりと息を呑む。
「……臣辰いる?」
「え、上にいるけど」
「わかった」
「えーコーヒーはぁ?」
康辰は弟に「自分で入れてこいボケ」と言い捨てる。滝辰の「ケチ!ニート!」という罵声を聞きながら、康辰は奥光の腕を引こうとした。が、その手は空気を掴んだだけで、奥光の身体をすり抜ける。
「二階、行こう」
小声でそう言うと、奥光は居間で寛ぐ弟を少しの間眺めてから、足音もなく階段を上り始めた。康辰はその非現実的な光景に目眩を覚えつつ、その後に続く。奥光と並んで、康辰は次男の部屋のドアを全力で開けた。するとベッドの上で携帯を弄っていた臣辰が、驚いたように目を見開いて康辰の方を見る。
「ただいま」
康辰は縋るような思いでそう絞り出した。その唯ならぬ様子に臣辰は、急にドアを開けたことを咎めもせずに「どうした、何かあったのか」と困惑したように言うが、やはり奥光の存在に触れることはなかった。
心配する優しき兄の対応もそこそこに部屋を後にし、最後の望みとして両親の元へと向かった康辰だが、結果は同じことだった。
「なに、これ。どういうこと」
康辰は逃げるように玄関を出、早足で家から離れるとやっとその疑問を投げかけた。だが、奥光も戸惑っている様子で腕を組み、首を傾けている。
「いや、俺もわかんないって。ただ康辰に会う前に、高校の時の同級生みっけたから話しかけたんだけどガン無視だったんだよ。康辰には見えてるみたいだから、じゃああいつらも大丈夫かな~って思ったんだけど……」
そういえば、路地裏の野良猫達も奥光の存在を全く気にも留めていなかったように思う。猫は霊感が強いだのなんだのと聞いたことがあるが、その割には威嚇も何もしていなかった。人間にも動物にも、義兄弟にも、そして血の繋がった父親にも、奥光は見えていないということになる。
「何で俺にだけ見えるんだろう……」
康辰は今までそういった類のものを見た記憶はない。しかし、今はっきりと奥光の姿が見えて、会話まで成立している。奥光も何かを考えるように黙り込んだ。が、すぐに「わかんね」と諦めたように項垂れた。
「もしかして、全部俺が見てる幻覚?」
「は?」
「あまりにも家族以外の人間と接触しなさすぎて、頭がおかしくなったか……?」
「いや、ちげえって。ほんもんだって!」
疲弊した康辰が自分自身をも疑い出すと、奥光は此処に来て初めて焦ったように康辰を宥め始めた。脳がすっかり処理落ちして道端に蹲り「変な薬をやった覚えはないけど、でも脳の異常で見えないはずのものが見えたり聞こえないはずの音が聞こえる病気もあるし……」と分析を始めた康辰を必死に励ましていた奥光だが、ふと、「あ」と声をあげる。
「じゃあ見に行く?」
「何を」
「俺達の死体」
奥光は、それ見たらさすがにお前も信じるでしょ。と、名案だとでも言いたげに笑う。
かんかんと安っぽい金属音を響かせて階段を上る。土埃の溜まった外廊下を歩くと、饐えた臭いが鼻をついたが、それがこのアパートの住人が放つ生活臭なのか角部屋から放たれる異臭なのかは判断がつかなかった。
「ここだよね」
戸を目前にした康辰は周りに人の気配がないことを確認し、小声で奥光に尋ねる。
「そう。まだ誰にも見つかってねえんだな~」
おっさん、血縁者とかいないっぽかったからなぁ。彼はそう独り言のように呟くと、眉尻を下げた。
「俺また自分の死体見んの嫌だわ。やす、ちょっと見てこいよ」
「いや、俺だって嫌なんだけど。どうすんの、腐ってたら」
「いやー、冬だし、だいじょぶだろ……」
兄の刺殺死体を見たくない康辰と、自分の死体を見たくない奥光はしばらくの間部屋の前で押し問答をする。しかし、近隣住民に怪しまれても困るため、渋々康辰が折れることになった。
一度はノブを握ったがドアを開く勇気が出ず、康辰はドア横にある面格子の取り付けられた小窓から中を覗き込む。汚れたガラスごしに、六畳ほどの和室が伺えた。外観と同様に室内も古寂れており、日当たりも悪いようでやけに薄暗い。康辰は恐る恐る視線を巡らせる。テレビと、ちゃぶ台と、それから赤黒く染まった足が四本。
康辰はすぐに視線を外して、その場に座り込んだ。服が汚れるのも気にせず、外壁に背を預ける。ひんやりとした温度が服を通り抜けて康辰の背に伝わってきた。
「あった?」
「……あった。足、見えた……」
「足だけ? もっとちゃんと見て俺がどんなんなってるか確認しろよ~」
「ふざけんな、トラウマんなるわ!」
康辰が声を張ると、奥光はしゃがみこんで「康辰、声でかい!」と辺りをキョロキョロと見回した。康辰は慌てて両手で口元を抑えたが、幸い住民が顔を覗かせることもなく、誰かに聞かれた様子はなさそうだった。
「どうしようか。もう皆ここに呼んで全部見せる? そしたら信じてくれっかな」
奥光はようやく自分が置かれてる状況を理解し始めたのか、困った顔で言う。だが、
「そんな残酷なことできないって……」
康辰は奥光の提案にはのれなかった。自分はことの前兆をなんとなくではあるが感じていて、この最悪の事態も全く予想していないわけではなかった。さらに、死んだとはいえ奥光の存在を認識していて意思疎通までできるからこそ冷静でいられるのだ。何の前触れもなく兄の、息子の刺殺死体なんか見せられた日には、たまったものではないだろう。しかも、相手はあの強盗なのだ。感情の起伏が激しい滝辰なんかは気が触れてしまうかもしれないし、母と父だって、悲しいでは済まされないだろう。
第一、康辰が端から端まで説明しても信じてもらえるか怪しい。それどころか、頭がおかしくなったと思われる可能性まである。
「っていうか、こいつはどうなったの」
ふと、康辰は思った。あの強盗も死んでいるのならば、奥光と同じように霊体となってどこかを彷徨っているのではないか。
「いや、探したよ。こうなってから二日間探し歩いたんだよ、一人で。でも、どっこにもいねえの。つーか、おっさん以外にもさ、幽霊っぽいのどこにもいないんだよ」
「ああ、確かに。幽霊になったら幽霊同士会話できるとか、そういう感じかと思ったけど……」
「いや、ぜんぜん。何にも見えない」
どうやら、自分が霊になったからといって他の霊を感知できるわけではないようだ。だったら、尚更康辰にのみ彼の姿が見える理由がわからない。自分を殺した男の魂を探し出し地獄に突き落とすために舞い戻っただとか、そういう話でもないようだった。
「まぁ、どっかしらにはいるのかもしんないけど、見えないんじゃ文句も言えねえし」
後悔なんかするようなタイプでもないし、もう地獄にでも落ちてるかもね。奥光は膝を抱えて、壁に凭れ掛かる。何気なく使われた後悔という言葉に、康辰は引っかかった。
「奥光は、何か後悔があるってこと?」
彼は口を結び、顎に手を添えて考え込むように目を瞑る。
「あれかなぁ。俺、最後に康辰と微妙な感じで別れちゃったじゃん。だから、お前のこと心配だったのかも」
嫌な別れ方をしたという認識があったことに驚いた。再会した時から、あの朝のことなんて気にも留めていないだろうと思っていたのだが、この無神経な長男にも人の心を察する能力が残っていたようだ。つまり現状、奥光の心残りは康辰との最後の会話で、康辰の存在が彼をこの世に留めているという可能性が高い。康辰は黙って膝に顔を埋める。
「まぁあとは、童貞のまま死んだことだな、やっぱ」
「え、お前ってやっぱ童貞だったんだ。それはシンプルに同情する」
鼻で笑ってやると、奥光は「お前にも一生童貞の呪いをかけてやる」と悔しそうに康辰を睨む。しかしそれからまた眉を八の字にして情けない顔で「どうする? これ」と部屋の中を指差した。康辰は痺れた足をよろめかせながら立ち上がる。
「一旦、帰ろう。どうするか考えさせて」
奥光は、康辰に続いて腰を上げ、黙って頷いた。
その晩、とっくに日付を跨いだ午前二時過ぎ、凍えるような冷気に震えながら康辰は再びあの饐えた臭いが漂うアパートに戻ってきていた。手には自宅の倉庫から引っ張り出した木柄のシャベルと懐中電灯が握られていて、奥光は「ほんとにやんの?」と気乗りしない様子でそれらを見下ろす。
日中、一度自宅に戻った康辰は、奥光の存在を無いものとして扱い普段通りに二人の兄弟と時間を共にした。その間奥光は彼らに話しかけてみたり、康辰にちょっかいを出してみたりと自由にやっていたが、やがて飽きたのか部屋の隅っこで寝息を立て始めた。この状況でよく眠れるものだと少し感心する。
康辰には、兄の死体を確認した時からずっと、おぼろげに頭の中にある考えが浮かんでいた。家に帰って家族の顔を見ればその異常とも言える考えも消えるのではないかと思っていたが、しかしそれは極めて平穏で平常な空間で過ごすことにより、より強固なものになっていた。
それでも何度か、やはり全て打ち明けるべきではないかと逡巡した。素直に全て──とはいかずとも、兄が最近懐いていた男に殺されたのだという事実だけでも──を説明し、警察に通報するのが一番正しいことだと理解はしていた。だが、兄弟や両親の呑気な顔をみていると、このあまりにも残酷な真実を突きつけてもいいものかと戸惑う気持ちが湧き上がる。あまり認めたくはないことだったが、弟達にとって奥光という長男の存在は、それなりに大きいものだった。きっと本当のことを知ったが最後、我が家は今まで通りには回らなくなる。その終止符を打つ覚悟が、康辰にはなかった。それに。「あいつらには内緒な」と言った生前の奥光の声が、康辰の耳の奥でずっとリフレインしていた。
腹が痛いからと嘘をついて銭湯に行く兄弟を見送ったあと、康辰は奥光に「死体を隠そうと思う」と告げた。奥光は「何で!? 何でそうなった!? 落ち着けよ!」と慌てていたが、康辰が己の考えをつらつらと語り続けると、「まぁ確かに、俺のせいで皆がしんみりするのとかは嫌だな」とぽそりと呟いた。その言葉を聞いて、康辰の心は決まった。
「康辰、まだ引き返せるよ。やめとけば?」
「奥光だって賛成したでしょ」
「そうだけどさぁ……」
隠し通す必要がある。でも、あのままではいずれバレてしまう。だったら、証拠ごと消すしかない。多少疑惑が残ったって構わない。奥光がこの部屋で死んでいたという痕跡さえ隠すことができれば、それでいい。
康辰は冷え切ったステンレス製のノブを握り、今度こそその鍵のかかっていない扉を開けた。かび臭さと、錆びた鉄を思わせる強い臭いが鼻をつく。遮光されていない窓から差し込んだ月の明かりだけが、暗い室内をぼんやりと照らしている。暗闇に目が慣れてきた康辰が土足のまま部屋に上がり、キッチンのフローリングを抜けてすりガラスの仕切り戸を開けると、部屋のど真ん中で二人の男が折り重なるようにして絶命していた。全身の血液が、頭から足元まで物凄い速さで落ちていった気がした。康辰は、たまらずに目を閉じる。
「うわぁ、なんか、グロ」
背後の奥光が、自分の死体を見た人間の感想にしては簡単すぎる八文字を口に出した。あまりにも他人事だ。康辰はそろそろと目を開けて、シャベルと懐中電灯をそっと畳の上に置いた。それから小さく深呼吸をし、男の下敷きとなっている奥光の脇に手を回す。まるで冷凍の肉にでも触っているかのように冷たくて、硬い。康辰は喉の奥がヒッと鳴ったが、構わずに兄の身体を引っ張って、男の下から引きずり出す。暗くてその姿がはっきり見えないのが救いだった。
中肉中背とはいえ、成人男性の身体を動かすのはかなりの力を必要とした。康辰は畳に膝をついて、ぜいぜいと荒くなった息を整える。
「康辰、大丈夫?」
「奥光、重すぎ」
「しょうがないじゃん、死んでんだから」
そりゃあ、そうか。康辰は可笑しくなって、少し笑った。
臭気と体力の消耗で強烈な吐き気を覚えた康辰だが、そんな暇はないとなんとか堪えて、冷え切った重たい兄の身体を背に担ぐ。シャベルを杖にしてどうにか立ち上がり、周囲を警戒しながら部屋を出た。振り返ると、奥光は突っ立って男の死体を見下ろしていたが、「行くよ」と声をかけると、「へいよ」と顔を上げて康辰に続いた。
夜道は静まり返っていて、康辰の足音がやけに響いて聞こえた。人に見られたとしても、酔い潰れた兄を背負っているように映るべく、できるだけ平静を装って歩く。確実に怪しまれるであろうシャベルと懐中電灯は、アパートの鉄骨階段の裏手に隠すように置いてきた。しかし、職務質問でもされようものなら、一巻の終わりだ。
康辰は背中に冷凍肉のような死体を背負っているのにも関わらず、緊張と一種の興奮により寒さも暑さも感じなくなっていた。怪しまれた場合の逃走ルートを何度も脳内で反復する。心臓がバクバクと激しい収縮運動を繰り返して、康辰は今自分がどこに向かってるのかもわからなくなりそうだった。その間、奥光はスリルがどうのだアドレナリンがどうのだとゆうゆうと話しかけてきたが、康辰の耳には一つも届かなかった。
康辰の不安を余所に、二人は誰にも鉢会うことなくあっさりと目的の丘までたどり着くことができた。康辰はもう一往復して道具を持ってくると、懐中電灯の電源を入れて、今は葉もつけていない大きな桜の木の根っこを掘り起こしにかかる。
「がんばれー、康辰」
奥光に応援されながら、奥光を埋める穴を必死で掘る。土は思っていたよりも硬く、シャベルの刃先を差し込むのにも一々体力を奪われた。それに、案外重さもあって、堕落した生活で衰えきった腕はすぐに悲鳴をあげ始める。康辰は息を切らしながら、とにかく穴を広く深くすることだけを考えて機械的に身体を動かした。奥光は応援に飽きたのか、地面に転がしてある己の死体を眺めている。なんだ、この状況は。康辰は、ザクザクと土に刃先が突き刺さる音と狂ったような自分の心音と獣のような呼吸音に潰されそうになりつつ、どこか冷静にこの状況の異常さを感じる。
やっとのことで兄の死体を埋め終わった頃には、朝日が登り始め、空が白んでいた。
「お疲れー」
足が棒のように強張り立ち尽くしていた康辰に、奥光は眠たげに言う。
「早く帰って風呂入って、寝よ」
不自然に均された地面の上でその言葉を聞いた康辰は、「うん」とだけ絞り出す。まるで、まだこの兄を背負っているかのように身体が重たかったが、彼は既に康辰の足の下に埋葬されている。康辰はその場にしゃがみ込んで、泥と乾いた血に塗れた手で何度も踏みつけた地面をざらりとなぞった。
「行くよ」
奥光が焦ったそうに康辰を呼ぶ。康辰は、途中で脱ぎ捨てた厚手のジャンパーと懐中電灯を回収し、のろのろと後を追った。
康辰はパーカー姿の奥光に詰め寄った。目の前の男がすでに死んでいるという事実を突きつけられても、衝撃や哀しみの感情よりも先に湧いてきたのは怒りだった。だから、あれだけ言ったのに。一発お見舞いしてやろうかと思ったが、触れることは出来そうにないのでやり場のない怒りが身体中を駆け巡った。しかし奥光は生前と同じ調子で
「いやあ、まさか本当に殺されちゃうとはね。参ったわぁ」とヘラヘラ笑っている。
参ってるのはこっちだ。康辰が鋭い視線を送っても、全く反省している様子はなかった。今更何を言ったところで無駄だ。もう事は起きて、奥光は死んでいるのだから。馬鹿は死んでも治らないとはよく言ったものだ。康辰はため息をつき、上着のポケットに手をつっこむ。
「なんでそんなことになったの」
「それがさぁ、ちっちゃいことでおっさんと喧嘩んなったんだよ。で、まぁ殴ったり殴られたりやってて、あんまりムカついたから俺、『もう二度とこんなとこ来てやんねーからな! 馬鹿! 死ね!』みたいなこと言ったの。そしたらあっちも相当ムカついたらしくて、包丁持ち出してきてグサーって」
奥光はまるで漫画のあらすじでも説明するみたいに、他人事のように自分の死に様を語った。突っ込みたいところは色々あった。語彙力が乏しすぎないか。とか、そんなことで刺すかよ、普通。とか。しかし今優先すべきは状況の整理だとわかっていたため、それらの文句は飲み込んで話を進める。
「それで、お前本当に死んでるの? 意識不明で幽体離脱してるとかそういうオチじゃなくて?」
「死んでる。俺見たし、俺とおっさんの死体。もう血の海って感じで、二人とも確実に死んでたね、ありゃ」
「……待って」
ペラペラと喋る奥光に、康辰は制止をかける。
「二人とも、って……。あいつも死んだの?」
「俺がタダでやられるわけねぇだろ~? 最後の最後でやり返してやったっつーの」
得意げに言うので、康辰は頭を抱えた。つまり今、あの古いアパートの角部屋には奥光とあの男の死体が放置されているということになる。一体、どう収集をつければ良いのか全くもってわからなかった。誰にどうやって何を説明すればいいのだろうか。普段使っていない無職の脳味噌では到底処理しきれない。二十代無職の男と前科持ちの中年男が刃物でお互いを刺して絶命。そう報道される様子を想像すると、中々にカオスだ。
「出来の悪い心中みたい」
康辰が呟くと、奥光はケラケラと笑う。
「ちなみにさぁ、何が原因だったの。その喧嘩」
「おっさんのプリン、俺が食べちゃって」
あんなに怒んなくてもいいじゃんね。と奥光は陽気に言った。康辰は、こいつ殺してやろうか、と思ったけれど、彼は既に死んでいるのでただただ深いため息を吐いた。
ひとまず兄弟らに相談をしようと、康辰は奥光を連れて家に引き返した。一人では荷が重すぎると判断したためだ。三人寄れば文殊の知恵と言うし、馬鹿ばかりでも四人も集まれば何かしらの解決策が見つかるかもしれないという逃避に近い期待を抱いて玄関のドアを開けた。
しかし、すぐにその期待は当てが外れたのだと理解する。
「あ、康辰ちょうどいいとこ来た。コーヒー作ってきてくれない」
リビングの炬燵で暖を取っていた滝辰は、確かに康辰の方を見たが、康辰にしか声をかけなかった。すぐ隣に奥光が存在しているのにも関わらず、視線は康辰のみに向けられていたのだ。三日も連絡が取れず家を開けていた兄が帰ってきたというのに、この反応は不自然に思える。わざと奥光の存在を無視しているようにも見えなかった。
彼にろくに返事もせずに奥光の方を見れば、「やっぱこいつらにも見えねえんだ」と呟いた。康辰はごくりと息を呑む。
「……臣辰いる?」
「え、上にいるけど」
「わかった」
「えーコーヒーはぁ?」
康辰は弟に「自分で入れてこいボケ」と言い捨てる。滝辰の「ケチ!ニート!」という罵声を聞きながら、康辰は奥光の腕を引こうとした。が、その手は空気を掴んだだけで、奥光の身体をすり抜ける。
「二階、行こう」
小声でそう言うと、奥光は居間で寛ぐ弟を少しの間眺めてから、足音もなく階段を上り始めた。康辰はその非現実的な光景に目眩を覚えつつ、その後に続く。奥光と並んで、康辰は次男の部屋のドアを全力で開けた。するとベッドの上で携帯を弄っていた臣辰が、驚いたように目を見開いて康辰の方を見る。
「ただいま」
康辰は縋るような思いでそう絞り出した。その唯ならぬ様子に臣辰は、急にドアを開けたことを咎めもせずに「どうした、何かあったのか」と困惑したように言うが、やはり奥光の存在に触れることはなかった。
心配する優しき兄の対応もそこそこに部屋を後にし、最後の望みとして両親の元へと向かった康辰だが、結果は同じことだった。
「なに、これ。どういうこと」
康辰は逃げるように玄関を出、早足で家から離れるとやっとその疑問を投げかけた。だが、奥光も戸惑っている様子で腕を組み、首を傾けている。
「いや、俺もわかんないって。ただ康辰に会う前に、高校の時の同級生みっけたから話しかけたんだけどガン無視だったんだよ。康辰には見えてるみたいだから、じゃああいつらも大丈夫かな~って思ったんだけど……」
そういえば、路地裏の野良猫達も奥光の存在を全く気にも留めていなかったように思う。猫は霊感が強いだのなんだのと聞いたことがあるが、その割には威嚇も何もしていなかった。人間にも動物にも、義兄弟にも、そして血の繋がった父親にも、奥光は見えていないということになる。
「何で俺にだけ見えるんだろう……」
康辰は今までそういった類のものを見た記憶はない。しかし、今はっきりと奥光の姿が見えて、会話まで成立している。奥光も何かを考えるように黙り込んだ。が、すぐに「わかんね」と諦めたように項垂れた。
「もしかして、全部俺が見てる幻覚?」
「は?」
「あまりにも家族以外の人間と接触しなさすぎて、頭がおかしくなったか……?」
「いや、ちげえって。ほんもんだって!」
疲弊した康辰が自分自身をも疑い出すと、奥光は此処に来て初めて焦ったように康辰を宥め始めた。脳がすっかり処理落ちして道端に蹲り「変な薬をやった覚えはないけど、でも脳の異常で見えないはずのものが見えたり聞こえないはずの音が聞こえる病気もあるし……」と分析を始めた康辰を必死に励ましていた奥光だが、ふと、「あ」と声をあげる。
「じゃあ見に行く?」
「何を」
「俺達の死体」
奥光は、それ見たらさすがにお前も信じるでしょ。と、名案だとでも言いたげに笑う。
かんかんと安っぽい金属音を響かせて階段を上る。土埃の溜まった外廊下を歩くと、饐えた臭いが鼻をついたが、それがこのアパートの住人が放つ生活臭なのか角部屋から放たれる異臭なのかは判断がつかなかった。
「ここだよね」
戸を目前にした康辰は周りに人の気配がないことを確認し、小声で奥光に尋ねる。
「そう。まだ誰にも見つかってねえんだな~」
おっさん、血縁者とかいないっぽかったからなぁ。彼はそう独り言のように呟くと、眉尻を下げた。
「俺また自分の死体見んの嫌だわ。やす、ちょっと見てこいよ」
「いや、俺だって嫌なんだけど。どうすんの、腐ってたら」
「いやー、冬だし、だいじょぶだろ……」
兄の刺殺死体を見たくない康辰と、自分の死体を見たくない奥光はしばらくの間部屋の前で押し問答をする。しかし、近隣住民に怪しまれても困るため、渋々康辰が折れることになった。
一度はノブを握ったがドアを開く勇気が出ず、康辰はドア横にある面格子の取り付けられた小窓から中を覗き込む。汚れたガラスごしに、六畳ほどの和室が伺えた。外観と同様に室内も古寂れており、日当たりも悪いようでやけに薄暗い。康辰は恐る恐る視線を巡らせる。テレビと、ちゃぶ台と、それから赤黒く染まった足が四本。
康辰はすぐに視線を外して、その場に座り込んだ。服が汚れるのも気にせず、外壁に背を預ける。ひんやりとした温度が服を通り抜けて康辰の背に伝わってきた。
「あった?」
「……あった。足、見えた……」
「足だけ? もっとちゃんと見て俺がどんなんなってるか確認しろよ~」
「ふざけんな、トラウマんなるわ!」
康辰が声を張ると、奥光はしゃがみこんで「康辰、声でかい!」と辺りをキョロキョロと見回した。康辰は慌てて両手で口元を抑えたが、幸い住民が顔を覗かせることもなく、誰かに聞かれた様子はなさそうだった。
「どうしようか。もう皆ここに呼んで全部見せる? そしたら信じてくれっかな」
奥光はようやく自分が置かれてる状況を理解し始めたのか、困った顔で言う。だが、
「そんな残酷なことできないって……」
康辰は奥光の提案にはのれなかった。自分はことの前兆をなんとなくではあるが感じていて、この最悪の事態も全く予想していないわけではなかった。さらに、死んだとはいえ奥光の存在を認識していて意思疎通までできるからこそ冷静でいられるのだ。何の前触れもなく兄の、息子の刺殺死体なんか見せられた日には、たまったものではないだろう。しかも、相手はあの強盗なのだ。感情の起伏が激しい滝辰なんかは気が触れてしまうかもしれないし、母と父だって、悲しいでは済まされないだろう。
第一、康辰が端から端まで説明しても信じてもらえるか怪しい。それどころか、頭がおかしくなったと思われる可能性まである。
「っていうか、こいつはどうなったの」
ふと、康辰は思った。あの強盗も死んでいるのならば、奥光と同じように霊体となってどこかを彷徨っているのではないか。
「いや、探したよ。こうなってから二日間探し歩いたんだよ、一人で。でも、どっこにもいねえの。つーか、おっさん以外にもさ、幽霊っぽいのどこにもいないんだよ」
「ああ、確かに。幽霊になったら幽霊同士会話できるとか、そういう感じかと思ったけど……」
「いや、ぜんぜん。何にも見えない」
どうやら、自分が霊になったからといって他の霊を感知できるわけではないようだ。だったら、尚更康辰にのみ彼の姿が見える理由がわからない。自分を殺した男の魂を探し出し地獄に突き落とすために舞い戻っただとか、そういう話でもないようだった。
「まぁ、どっかしらにはいるのかもしんないけど、見えないんじゃ文句も言えねえし」
後悔なんかするようなタイプでもないし、もう地獄にでも落ちてるかもね。奥光は膝を抱えて、壁に凭れ掛かる。何気なく使われた後悔という言葉に、康辰は引っかかった。
「奥光は、何か後悔があるってこと?」
彼は口を結び、顎に手を添えて考え込むように目を瞑る。
「あれかなぁ。俺、最後に康辰と微妙な感じで別れちゃったじゃん。だから、お前のこと心配だったのかも」
嫌な別れ方をしたという認識があったことに驚いた。再会した時から、あの朝のことなんて気にも留めていないだろうと思っていたのだが、この無神経な長男にも人の心を察する能力が残っていたようだ。つまり現状、奥光の心残りは康辰との最後の会話で、康辰の存在が彼をこの世に留めているという可能性が高い。康辰は黙って膝に顔を埋める。
「まぁあとは、童貞のまま死んだことだな、やっぱ」
「え、お前ってやっぱ童貞だったんだ。それはシンプルに同情する」
鼻で笑ってやると、奥光は「お前にも一生童貞の呪いをかけてやる」と悔しそうに康辰を睨む。しかしそれからまた眉を八の字にして情けない顔で「どうする? これ」と部屋の中を指差した。康辰は痺れた足をよろめかせながら立ち上がる。
「一旦、帰ろう。どうするか考えさせて」
奥光は、康辰に続いて腰を上げ、黙って頷いた。
その晩、とっくに日付を跨いだ午前二時過ぎ、凍えるような冷気に震えながら康辰は再びあの饐えた臭いが漂うアパートに戻ってきていた。手には自宅の倉庫から引っ張り出した木柄のシャベルと懐中電灯が握られていて、奥光は「ほんとにやんの?」と気乗りしない様子でそれらを見下ろす。
日中、一度自宅に戻った康辰は、奥光の存在を無いものとして扱い普段通りに二人の兄弟と時間を共にした。その間奥光は彼らに話しかけてみたり、康辰にちょっかいを出してみたりと自由にやっていたが、やがて飽きたのか部屋の隅っこで寝息を立て始めた。この状況でよく眠れるものだと少し感心する。
康辰には、兄の死体を確認した時からずっと、おぼろげに頭の中にある考えが浮かんでいた。家に帰って家族の顔を見ればその異常とも言える考えも消えるのではないかと思っていたが、しかしそれは極めて平穏で平常な空間で過ごすことにより、より強固なものになっていた。
それでも何度か、やはり全て打ち明けるべきではないかと逡巡した。素直に全て──とはいかずとも、兄が最近懐いていた男に殺されたのだという事実だけでも──を説明し、警察に通報するのが一番正しいことだと理解はしていた。だが、兄弟や両親の呑気な顔をみていると、このあまりにも残酷な真実を突きつけてもいいものかと戸惑う気持ちが湧き上がる。あまり認めたくはないことだったが、弟達にとって奥光という長男の存在は、それなりに大きいものだった。きっと本当のことを知ったが最後、我が家は今まで通りには回らなくなる。その終止符を打つ覚悟が、康辰にはなかった。それに。「あいつらには内緒な」と言った生前の奥光の声が、康辰の耳の奥でずっとリフレインしていた。
腹が痛いからと嘘をついて銭湯に行く兄弟を見送ったあと、康辰は奥光に「死体を隠そうと思う」と告げた。奥光は「何で!? 何でそうなった!? 落ち着けよ!」と慌てていたが、康辰が己の考えをつらつらと語り続けると、「まぁ確かに、俺のせいで皆がしんみりするのとかは嫌だな」とぽそりと呟いた。その言葉を聞いて、康辰の心は決まった。
「康辰、まだ引き返せるよ。やめとけば?」
「奥光だって賛成したでしょ」
「そうだけどさぁ……」
隠し通す必要がある。でも、あのままではいずれバレてしまう。だったら、証拠ごと消すしかない。多少疑惑が残ったって構わない。奥光がこの部屋で死んでいたという痕跡さえ隠すことができれば、それでいい。
康辰は冷え切ったステンレス製のノブを握り、今度こそその鍵のかかっていない扉を開けた。かび臭さと、錆びた鉄を思わせる強い臭いが鼻をつく。遮光されていない窓から差し込んだ月の明かりだけが、暗い室内をぼんやりと照らしている。暗闇に目が慣れてきた康辰が土足のまま部屋に上がり、キッチンのフローリングを抜けてすりガラスの仕切り戸を開けると、部屋のど真ん中で二人の男が折り重なるようにして絶命していた。全身の血液が、頭から足元まで物凄い速さで落ちていった気がした。康辰は、たまらずに目を閉じる。
「うわぁ、なんか、グロ」
背後の奥光が、自分の死体を見た人間の感想にしては簡単すぎる八文字を口に出した。あまりにも他人事だ。康辰はそろそろと目を開けて、シャベルと懐中電灯をそっと畳の上に置いた。それから小さく深呼吸をし、男の下敷きとなっている奥光の脇に手を回す。まるで冷凍の肉にでも触っているかのように冷たくて、硬い。康辰は喉の奥がヒッと鳴ったが、構わずに兄の身体を引っ張って、男の下から引きずり出す。暗くてその姿がはっきり見えないのが救いだった。
中肉中背とはいえ、成人男性の身体を動かすのはかなりの力を必要とした。康辰は畳に膝をついて、ぜいぜいと荒くなった息を整える。
「康辰、大丈夫?」
「奥光、重すぎ」
「しょうがないじゃん、死んでんだから」
そりゃあ、そうか。康辰は可笑しくなって、少し笑った。
臭気と体力の消耗で強烈な吐き気を覚えた康辰だが、そんな暇はないとなんとか堪えて、冷え切った重たい兄の身体を背に担ぐ。シャベルを杖にしてどうにか立ち上がり、周囲を警戒しながら部屋を出た。振り返ると、奥光は突っ立って男の死体を見下ろしていたが、「行くよ」と声をかけると、「へいよ」と顔を上げて康辰に続いた。
夜道は静まり返っていて、康辰の足音がやけに響いて聞こえた。人に見られたとしても、酔い潰れた兄を背負っているように映るべく、できるだけ平静を装って歩く。確実に怪しまれるであろうシャベルと懐中電灯は、アパートの鉄骨階段の裏手に隠すように置いてきた。しかし、職務質問でもされようものなら、一巻の終わりだ。
康辰は背中に冷凍肉のような死体を背負っているのにも関わらず、緊張と一種の興奮により寒さも暑さも感じなくなっていた。怪しまれた場合の逃走ルートを何度も脳内で反復する。心臓がバクバクと激しい収縮運動を繰り返して、康辰は今自分がどこに向かってるのかもわからなくなりそうだった。その間、奥光はスリルがどうのだアドレナリンがどうのだとゆうゆうと話しかけてきたが、康辰の耳には一つも届かなかった。
康辰の不安を余所に、二人は誰にも鉢会うことなくあっさりと目的の丘までたどり着くことができた。康辰はもう一往復して道具を持ってくると、懐中電灯の電源を入れて、今は葉もつけていない大きな桜の木の根っこを掘り起こしにかかる。
「がんばれー、康辰」
奥光に応援されながら、奥光を埋める穴を必死で掘る。土は思っていたよりも硬く、シャベルの刃先を差し込むのにも一々体力を奪われた。それに、案外重さもあって、堕落した生活で衰えきった腕はすぐに悲鳴をあげ始める。康辰は息を切らしながら、とにかく穴を広く深くすることだけを考えて機械的に身体を動かした。奥光は応援に飽きたのか、地面に転がしてある己の死体を眺めている。なんだ、この状況は。康辰は、ザクザクと土に刃先が突き刺さる音と狂ったような自分の心音と獣のような呼吸音に潰されそうになりつつ、どこか冷静にこの状況の異常さを感じる。
やっとのことで兄の死体を埋め終わった頃には、朝日が登り始め、空が白んでいた。
「お疲れー」
足が棒のように強張り立ち尽くしていた康辰に、奥光は眠たげに言う。
「早く帰って風呂入って、寝よ」
不自然に均された地面の上でその言葉を聞いた康辰は、「うん」とだけ絞り出す。まるで、まだこの兄を背負っているかのように身体が重たかったが、彼は既に康辰の足の下に埋葬されている。康辰はその場にしゃがみ込んで、泥と乾いた血に塗れた手で何度も踏みつけた地面をざらりとなぞった。
「行くよ」
奥光が焦ったそうに康辰を呼ぶ。康辰は、途中で脱ぎ捨てた厚手のジャンパーと懐中電灯を回収し、のろのろと後を追った。
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