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四、
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空気がすっかりと冷え込んで、吐く息が白いもやとなって空中で離散する。
いつか吸ったマルボロの味を回顧しながら階段を下り、諏訪もその後に続いた。青木はこの頃、諏訪がいつ階段を踏み外すか気がかりでならなかった。しかしそんな心配もよそに、ジャージの上からジャンパーを羽織って着膨れしている男は大きなあくびをしつつ「部屋の中と外の温度がほとんど変わらんというのは、いかがなもんかね」とヘラヘラしている。青木は概ね同意しながらも、そんな文句を吐きつつ裸足にサンダルなのはどういう了見なんだと眉間を揉んだ。
戸を二回叩くと、「はいはい」とゆったりした声とのしのしと歩く音が聞こえてきて、程なくして大家がぬっと顔を出す。
「いらっしゃい。もう出来てるよ、入った入った」
「お邪魔します」
「おじゃましま~す」
初めて足を踏み入れた大家の家は物で溢れかえっていて、青木と諏訪は物を踏まないようにそろそろと歩いた。台所には白い棚が設置されていて、ガラスの奥で無数の食器たちが積み重なっている。その下では、雑誌の束や巨大な犬の置物などが無秩序に並んでいる。和室に入るとド真ん中に正方形のコタツが設けられていて、その周りを箪笥やテレビ、立派な仏壇や本棚が取り囲んでいた。コタツのテーブルの上では、大ぶりな鍋がぐつぐつと中身を煮立たせている。
暖かい空気が流れる部屋をきょろきょろと見回して、本当に自分の部屋と同じ間取りなのかと唖然とした。
大家が薄い牡丹色の布を持ち上げてコタツの中に入り込んだので、青木はその右隣に、諏訪は大家の正面に座った。冷えた足の先が途端に温まる。
「ああ、あったけえや。ここは天国か」
諏訪はそう言ってテーブルの上に突っ伏した。少し前に青木が切ったために長さの揃っていない髪が散らばる。大家は諏訪の言動を面白がっているらしく、喉の奥をくつくつ鳴らしながら鍋の蓋を取った。もわっと蒸気が上がる。茹で上がった肉と春菊、白滝に白菜に豆腐といった具材が美味そうに揺れている。
「青木くんの部屋にはコタツがないらしいねぇ」
「そうなんだ、俺はこいつのことを修行僧か何かと思う時があるよ。毎晩毎晩寒くて仕方がない」
「毛布を沢山やってるだろ、湯たんぽだってある」
「もっと文明の利器を活用しようぜ、今何世紀だと思ってるんだ?」
青木と諏訪がやり合っていると、大家が小皿に具をよそってそれぞれの前に置いたので、停戦とした。三人は手を合わせて「いただきます」と声を揃える。
「遠慮しないで食べな。いつも青木くんが美味しいものをくれるから、そのお礼だよ」
「青木は婆ちゃんのことが好きなんだってよ」
「あらぁ、ババア冥利に尽きるね。あの世の旦那に嫉妬されちゃうよ」
白滝をすすりながら仏壇に目をやると、短髪に顎髭をたくわえた彫りの深い男がモノクロに笑っている。目尻にシワが寄っていて年の功を感じる笑顔だが、どこか幼くも見える。
「旦那さん、いつ死んじゃったの?」
青木がそう聞くと、コタツの中で諏訪が足を蹴った。青木は無視を決め込む。
「七年前とかだったかね」
「そうかぁ、じゃあ婆ちゃん、さみしいね」
蹴ったくせに、話に食いついたのは諏訪だった。テレビ画面には複数の男女が何やら楽しそうに談笑する様子が映し出されていて、青木はその音声を聞き流しつつ鍋の中で揺らめいている白滝を捕まえては小皿に移す。
「あははは、まぁ寂しくないと言ったら嘘になるね。反面で清々する気持ちがあったのも事実だけどね」
「え、どうして?もう好きじゃなかったとか?」
「四十年も一緒にいたからねぇ、好きとか嫌いじゃなくなってたんだよ。もう、生活の一部みたいになっちまってたんだねぇ」
大家は自分の箸で肉を取って青木の皿に次々と放り込み、「若者は肉を食べな」と諏訪の皿にも肉を盛る。
「ずっと好きでいるのって難しいと思う?」
肉を口に詰め込んでいる諏訪がもごもごと喋る。暑くなってきたのかジャンパーを脱いでジャージの袖をまくり始めたのを見て、腕の注射痕に大家が気づいてしまうのではないかと肝を冷やした。しかし大家は気にしたふうもなく、クタクタになった白菜を咀嚼している。
「好きっていうのは、恋愛感情ってことかい?」
「そうそう」
「燃え上がるのは一瞬で、いざくっついちまえばあとは延々と日常が続くだけだからね。愛情はあっても、いつしか恋ではなくなるのさ」
「へぇ、そういうもんかぁ。なんか悲しいな」
「そうでもないさ、むしろ恋じゃなくなってからが楽しいんだよ。恋ってのは一種の病気だからねぇ、正気に戻った男と女はそこで初めて本当の相手を知ることになる。そこからが本番さ」
大家が不敵に笑い、そおっと豆腐をすくう。恋愛話は得意なようで、大家はいつもよりも饒舌だ。青木は二本の棒の上で震えている豆腐を目で追って、「シラフで見た旦那さんは、どんな人だったの?」と聞いてみた。
「そりゃあいい男だったよ、私が選んだだけあってね。頑固で子供っぽいところが欠点ではあったけど、あの人との人生は素晴らしいものだった。もういつ死んだって悔いはないんだけど、なかなかお迎えが来てくれないのさ」
「さみしいこと言わないでよ」
咄嗟にそう口にすると、諏訪が目を丸くした。大家は恍惚とした表情で豆腐を頬張り、ふと思い出したかのように「ご飯いる?」と問う。青木が「いらない」と答えると諏訪も頷き、それから何を考えているのか天井を見上げ、箸を咥えたまま首を傾ける。
「でも、すごいよなぁ四十年って。五年後とか十年後ですら想像できないってのに」
「私からしたら、あんた達の歳なんてまだ生まれたばっかりみたいなもんだよ。物語でいうプロローグさ。これからどんどん面白くなっていくんだからね」
のっぺりした声からは励ましや同情などの含みは感じられず、大家が本心からそう思っているのがうかがえた。
しかし、と青木は思う。読み続けていっても一向に面白くならない本だってそこらじゅうにある。むしろ、あまりにもつまらなく退屈で、または辛気臭くて悲惨で、プロローグが一番マシだったなんてこともあるんじゃないだろうか。そこまで考えて、それらを自分の中だけにしまい込んだ。持論を口に出したところで共感されないことは、もうずっと昔から知っている。
青木と大家が鍋をつついていると、箸を手に持ったまま黙りこくっていた諏訪が言う。
「プロローグって、どういう意味?」
大家が盛大に笑った。
礼を言って大家の部屋を後にし、再び寒空の下に立つと、骨の奥から凍っていくような心地になった。午後の七時を過ぎたくらいなのに、空はすっかり暗くなっていて星さえ見えている。青木は大家の「また二人でおいで」という言葉を反芻しながらコートのポケットに手を突っ込んで寒さを紛らわせた。
「酒でも買いに行かないか」
顔を青くした諏訪が言う。
「もう帰った方がいいんじゃない」
「俺は酒が飲みたいんだ」
高らかに意思表明をしてさっさと歩いていってしまうので、肩にかけていた黒いマフラーをぐるぐると巻き直して後を追った。少し後ろを歩きながら諏訪の様子を伺うとガタガタとネジ巻きのオモチャみたいに肩を震わせていて、それが寒さからくるものなのか、はたまた別の理由なのかは判断がつかなかった。
諏訪は寒い寒いと呟きながらも額に汗をかいている。
「諏訪、大丈夫?」
「最近身体のあちこちが痛くて困る、今年の冬は妙に冷えるしな。青木、コタツを買おうぜ」
「この前布団を買ったばっかりじゃない。僕にそんな余裕はないから諏訪が金を出してくれるならいいよ」
「実はな、仕事を辞めたんだ。辞めたというか、クビになったというか」
道路の中央でゆらゆらと歩を進める諏訪が淡々と言った。車通りの少ない道とはいえ、自由が過ぎるのではないか。前を歩いている諏訪の表情は見えないが、きっと何の感情も浮かべていないのだろうと思った。
「そうか、まぁしょうがないよ。しばらくゆっくりしればいいさ」
青木は、諏訪が仕事をしていないことにとっくに気づいていたため、驚きもせずにそう声をかけた。というか、朝方に帰ってきて寝て、昼過ぎに起きて出かけていく男がまともに働いていると誰が思うのだろうか。おまけに腕には点々と穴が空いていて、人の家に酸っぱい匂いを持ち帰ってくるのだ。少しは取り繕う姿勢を見せたらどうだ、と呆れていたぐらいだ。
「悪いな」
弱々しく謝った諏訪は、次の瞬間には足をもつれさせて体勢を崩し、コンクリートに額を思い切り打ち付けていた。
青木は心臓がきゅっと縮み上がる思いで、うつ伏せで動かなくなった諏訪に駆け寄る。
「諏訪、諏訪! 大丈夫? 頭からいったろ、今」
肩を抱いて起こしてやると、眠たそうな目で見上げられた。ただでさえ薬に侵されている脳みそがさらにやられてしまったのではないかと心配になり、指を二本諏訪の目の前で立てて「これは?」と聞くと「指」と返ってきてますます不安になる。頭を打ったはずの諏訪は何故か鼻血を垂らしていて、のろのろと上半身を起こしその場に座り込んだ。
「俺はたまに、気が狂いそうになる時があるよ」
はっきりとした口調に安堵する。鼻血を流しっぱなしにしたまま、諏訪がマルボロを血に塗れた口に咥えて火をつけた。青木はその動作をぼんやりと見下ろしている。
「でも、いくら消費税が上がって給料が下がっても、上司に殴られても女にフラれても仕事がなくなっても、友達が死んでも、俺たちは簡単には狂わない」
唇をほとんど動かさずに、かったるそうに言う。唸るように低い声を一つも漏らさずに受け取ろうと、青木は耳をそばだてることに集中した。
「ギリギリのところで生かされてて、おかしくなんてなれないんだ。異常なぐらい正常であり続けるんだろうな、死ぬまで」
煙と一緒に、感情の欠落した言葉が吐き出された。サンダルを放り出した諏訪の素足は冷え切ってしまっているのか、赤くなっている。青木は首に巻いていたマフラーを外して痛々しい足元にかけてやった。剥き出しになった首からどんどんと体温を奪われていくのを感じつつ、概ね同意だなと思う。
「いっそ、狂人にでもなれた方が楽だろうね」
言って、並んで腰を下ろすと、コンクリートの冷たさが布越しに伝わってきて悲鳴をあげそうになった。コタツの温もりが恋しい。
諏訪に煙草を一本よこすようにと手を差し出すと、「身体に悪い」と払いのけられた。お前がそれを言うのかと思うとなんだか馬鹿馬鹿しくなって、そのままごろりと道路に寝転ぶ。氷のようなコンクリートと接する部分から全身に冷ややかな温度が蔓延し、泣いてしまいそうだった。
あれは、何月ごろの話だっただろうか。生暖かい温度と草の匂いと、ぱらぱらと降る桜の花びらをよく覚えている。
ライブ本番が迫る中、出演するハコの近くの土手で、長島と共にアコースティックギターを抱えて練習と称しだらだらと駄弁っていた。男女二人を乗せた自転車が通り過ぎると、長島は唐突に「ねぇ、青木はそのケがあるの?」とゆったりした声で言った。ピンと来ない青木は「何が?」と質問で返す。
「女が嫌いなのかなって思って」
「そういうのはよくわからないんだ。でも多分、男も女も好きじゃない」
「もったいないなぁ、女を抱きたいとも思わないの?あんな気持ちいいものを知らないなんて、もったいないよ」
そう嘆きながら、ギターを原っぱに置く。いよいよ練習する気が無くなったなとおかしくなった。長島はしょっちゅう女の体の良さについて熱弁を振るっていて、周囲に「アイツは女が好きなんじゃなくて、女体が好きなだけなんだ」と笑われていたし、本人もそれを否定しなかった。細っこくて、欲を感じさせない清楚な顔立ちをしているため、そのギャップを周囲は面白がっていて、長島自身もそれを上手く利用して立ち回っているようだった。
下世話な話を嫌がる人の前ではそういった話をあまりしないので、青木は突然長島が女について話を振ってきたため些か珍しさを感じた。
「思うもんか。セックスなんて痛くて辛いだけだ」
「驚いた、経験があったんだ」
青木は言ってすぐに後悔した。普段経験の有無を聞かれても一切話さないが、この時どうして正直に自分の弱みを晒してしまったのかはわからない。ただ、長島は人が腹の内を晒したくなるような雰囲気を持っていたのは確かだ。
長島の言う経験とは程遠いであろう行為を思い起こして、心臓から嫌な音がし始めた。物心ついた頃から散々叩き込まれた肉と肉が触れ合う感じ、物のように扱われている時の恐怖と惨めさ、野生動物みたいな下品な荒い息遣い、全てが昨日のことのように生々しく再生されて、身体に詰まっている全部を吐き出したくなり手で口元を覆った。
「ごめん、嫌なことを聞いたみたいだ。大丈夫?」
俯いていると長島が珍しく焦った様子で細長い指を伸ばしてきたため、それを「大丈夫」と牽制する。緩やかな風が薄ピンク色の花びらを運んできてはそこら中に散らしていて、行き場をなくした長島の手が一枚の花びらを捕まえた。
「本当に?」
「本当に」
納得していない顔だったが、それ以上追及してはいけないと判断したらしく、頷いてから続ける。
「まぁ、青木がソッチだとして、誰に言おうってわけじゃないから安心してよ。もちろん諏訪にもね」
「そうしてくれると助かる」
青木があっさりとそう返すと、一瞬間があってから、長島は嬉しそうに笑い出した。
「いやぁ、健気だねぇ」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、「君らがどうなっていくのか、楽しみだなぁ。ちゃんと結末を見届けたいんだから、青木が頑張ってよ」と楽観的に言ってのけた。
青木は「見世物じゃないんだけど」とふてくされながらも、悪い気はしなかった。この男ののんきな反応を見て、肩の荷が下りたような、許されたような気持ちになったのだ。
「あ、男も女も好きじゃないってことは、俺のことも好きじゃないの?」
真剣な顔で言う長島に「長島は嫌いじゃないよ」と返せば、ふくれっ面で中指を立てられた。
見届けたいと長島は言った。黒く縁取られた無表情が、カラフルな花が、藤本の濡れた目元が蘇る。
もう少し待ってくれても良かったんじゃないかと、文句を言いたくなった。もし長島がまだ生きていたなら、何を話しただろう。話すことができたなら、何かが変わっていただろうか。僕も、諏訪も。そんな途方も無いことを、いつまでも考えていた。
いつか吸ったマルボロの味を回顧しながら階段を下り、諏訪もその後に続いた。青木はこの頃、諏訪がいつ階段を踏み外すか気がかりでならなかった。しかしそんな心配もよそに、ジャージの上からジャンパーを羽織って着膨れしている男は大きなあくびをしつつ「部屋の中と外の温度がほとんど変わらんというのは、いかがなもんかね」とヘラヘラしている。青木は概ね同意しながらも、そんな文句を吐きつつ裸足にサンダルなのはどういう了見なんだと眉間を揉んだ。
戸を二回叩くと、「はいはい」とゆったりした声とのしのしと歩く音が聞こえてきて、程なくして大家がぬっと顔を出す。
「いらっしゃい。もう出来てるよ、入った入った」
「お邪魔します」
「おじゃましま~す」
初めて足を踏み入れた大家の家は物で溢れかえっていて、青木と諏訪は物を踏まないようにそろそろと歩いた。台所には白い棚が設置されていて、ガラスの奥で無数の食器たちが積み重なっている。その下では、雑誌の束や巨大な犬の置物などが無秩序に並んでいる。和室に入るとド真ん中に正方形のコタツが設けられていて、その周りを箪笥やテレビ、立派な仏壇や本棚が取り囲んでいた。コタツのテーブルの上では、大ぶりな鍋がぐつぐつと中身を煮立たせている。
暖かい空気が流れる部屋をきょろきょろと見回して、本当に自分の部屋と同じ間取りなのかと唖然とした。
大家が薄い牡丹色の布を持ち上げてコタツの中に入り込んだので、青木はその右隣に、諏訪は大家の正面に座った。冷えた足の先が途端に温まる。
「ああ、あったけえや。ここは天国か」
諏訪はそう言ってテーブルの上に突っ伏した。少し前に青木が切ったために長さの揃っていない髪が散らばる。大家は諏訪の言動を面白がっているらしく、喉の奥をくつくつ鳴らしながら鍋の蓋を取った。もわっと蒸気が上がる。茹で上がった肉と春菊、白滝に白菜に豆腐といった具材が美味そうに揺れている。
「青木くんの部屋にはコタツがないらしいねぇ」
「そうなんだ、俺はこいつのことを修行僧か何かと思う時があるよ。毎晩毎晩寒くて仕方がない」
「毛布を沢山やってるだろ、湯たんぽだってある」
「もっと文明の利器を活用しようぜ、今何世紀だと思ってるんだ?」
青木と諏訪がやり合っていると、大家が小皿に具をよそってそれぞれの前に置いたので、停戦とした。三人は手を合わせて「いただきます」と声を揃える。
「遠慮しないで食べな。いつも青木くんが美味しいものをくれるから、そのお礼だよ」
「青木は婆ちゃんのことが好きなんだってよ」
「あらぁ、ババア冥利に尽きるね。あの世の旦那に嫉妬されちゃうよ」
白滝をすすりながら仏壇に目をやると、短髪に顎髭をたくわえた彫りの深い男がモノクロに笑っている。目尻にシワが寄っていて年の功を感じる笑顔だが、どこか幼くも見える。
「旦那さん、いつ死んじゃったの?」
青木がそう聞くと、コタツの中で諏訪が足を蹴った。青木は無視を決め込む。
「七年前とかだったかね」
「そうかぁ、じゃあ婆ちゃん、さみしいね」
蹴ったくせに、話に食いついたのは諏訪だった。テレビ画面には複数の男女が何やら楽しそうに談笑する様子が映し出されていて、青木はその音声を聞き流しつつ鍋の中で揺らめいている白滝を捕まえては小皿に移す。
「あははは、まぁ寂しくないと言ったら嘘になるね。反面で清々する気持ちがあったのも事実だけどね」
「え、どうして?もう好きじゃなかったとか?」
「四十年も一緒にいたからねぇ、好きとか嫌いじゃなくなってたんだよ。もう、生活の一部みたいになっちまってたんだねぇ」
大家は自分の箸で肉を取って青木の皿に次々と放り込み、「若者は肉を食べな」と諏訪の皿にも肉を盛る。
「ずっと好きでいるのって難しいと思う?」
肉を口に詰め込んでいる諏訪がもごもごと喋る。暑くなってきたのかジャンパーを脱いでジャージの袖をまくり始めたのを見て、腕の注射痕に大家が気づいてしまうのではないかと肝を冷やした。しかし大家は気にしたふうもなく、クタクタになった白菜を咀嚼している。
「好きっていうのは、恋愛感情ってことかい?」
「そうそう」
「燃え上がるのは一瞬で、いざくっついちまえばあとは延々と日常が続くだけだからね。愛情はあっても、いつしか恋ではなくなるのさ」
「へぇ、そういうもんかぁ。なんか悲しいな」
「そうでもないさ、むしろ恋じゃなくなってからが楽しいんだよ。恋ってのは一種の病気だからねぇ、正気に戻った男と女はそこで初めて本当の相手を知ることになる。そこからが本番さ」
大家が不敵に笑い、そおっと豆腐をすくう。恋愛話は得意なようで、大家はいつもよりも饒舌だ。青木は二本の棒の上で震えている豆腐を目で追って、「シラフで見た旦那さんは、どんな人だったの?」と聞いてみた。
「そりゃあいい男だったよ、私が選んだだけあってね。頑固で子供っぽいところが欠点ではあったけど、あの人との人生は素晴らしいものだった。もういつ死んだって悔いはないんだけど、なかなかお迎えが来てくれないのさ」
「さみしいこと言わないでよ」
咄嗟にそう口にすると、諏訪が目を丸くした。大家は恍惚とした表情で豆腐を頬張り、ふと思い出したかのように「ご飯いる?」と問う。青木が「いらない」と答えると諏訪も頷き、それから何を考えているのか天井を見上げ、箸を咥えたまま首を傾ける。
「でも、すごいよなぁ四十年って。五年後とか十年後ですら想像できないってのに」
「私からしたら、あんた達の歳なんてまだ生まれたばっかりみたいなもんだよ。物語でいうプロローグさ。これからどんどん面白くなっていくんだからね」
のっぺりした声からは励ましや同情などの含みは感じられず、大家が本心からそう思っているのがうかがえた。
しかし、と青木は思う。読み続けていっても一向に面白くならない本だってそこらじゅうにある。むしろ、あまりにもつまらなく退屈で、または辛気臭くて悲惨で、プロローグが一番マシだったなんてこともあるんじゃないだろうか。そこまで考えて、それらを自分の中だけにしまい込んだ。持論を口に出したところで共感されないことは、もうずっと昔から知っている。
青木と大家が鍋をつついていると、箸を手に持ったまま黙りこくっていた諏訪が言う。
「プロローグって、どういう意味?」
大家が盛大に笑った。
礼を言って大家の部屋を後にし、再び寒空の下に立つと、骨の奥から凍っていくような心地になった。午後の七時を過ぎたくらいなのに、空はすっかり暗くなっていて星さえ見えている。青木は大家の「また二人でおいで」という言葉を反芻しながらコートのポケットに手を突っ込んで寒さを紛らわせた。
「酒でも買いに行かないか」
顔を青くした諏訪が言う。
「もう帰った方がいいんじゃない」
「俺は酒が飲みたいんだ」
高らかに意思表明をしてさっさと歩いていってしまうので、肩にかけていた黒いマフラーをぐるぐると巻き直して後を追った。少し後ろを歩きながら諏訪の様子を伺うとガタガタとネジ巻きのオモチャみたいに肩を震わせていて、それが寒さからくるものなのか、はたまた別の理由なのかは判断がつかなかった。
諏訪は寒い寒いと呟きながらも額に汗をかいている。
「諏訪、大丈夫?」
「最近身体のあちこちが痛くて困る、今年の冬は妙に冷えるしな。青木、コタツを買おうぜ」
「この前布団を買ったばっかりじゃない。僕にそんな余裕はないから諏訪が金を出してくれるならいいよ」
「実はな、仕事を辞めたんだ。辞めたというか、クビになったというか」
道路の中央でゆらゆらと歩を進める諏訪が淡々と言った。車通りの少ない道とはいえ、自由が過ぎるのではないか。前を歩いている諏訪の表情は見えないが、きっと何の感情も浮かべていないのだろうと思った。
「そうか、まぁしょうがないよ。しばらくゆっくりしればいいさ」
青木は、諏訪が仕事をしていないことにとっくに気づいていたため、驚きもせずにそう声をかけた。というか、朝方に帰ってきて寝て、昼過ぎに起きて出かけていく男がまともに働いていると誰が思うのだろうか。おまけに腕には点々と穴が空いていて、人の家に酸っぱい匂いを持ち帰ってくるのだ。少しは取り繕う姿勢を見せたらどうだ、と呆れていたぐらいだ。
「悪いな」
弱々しく謝った諏訪は、次の瞬間には足をもつれさせて体勢を崩し、コンクリートに額を思い切り打ち付けていた。
青木は心臓がきゅっと縮み上がる思いで、うつ伏せで動かなくなった諏訪に駆け寄る。
「諏訪、諏訪! 大丈夫? 頭からいったろ、今」
肩を抱いて起こしてやると、眠たそうな目で見上げられた。ただでさえ薬に侵されている脳みそがさらにやられてしまったのではないかと心配になり、指を二本諏訪の目の前で立てて「これは?」と聞くと「指」と返ってきてますます不安になる。頭を打ったはずの諏訪は何故か鼻血を垂らしていて、のろのろと上半身を起こしその場に座り込んだ。
「俺はたまに、気が狂いそうになる時があるよ」
はっきりとした口調に安堵する。鼻血を流しっぱなしにしたまま、諏訪がマルボロを血に塗れた口に咥えて火をつけた。青木はその動作をぼんやりと見下ろしている。
「でも、いくら消費税が上がって給料が下がっても、上司に殴られても女にフラれても仕事がなくなっても、友達が死んでも、俺たちは簡単には狂わない」
唇をほとんど動かさずに、かったるそうに言う。唸るように低い声を一つも漏らさずに受け取ろうと、青木は耳をそばだてることに集中した。
「ギリギリのところで生かされてて、おかしくなんてなれないんだ。異常なぐらい正常であり続けるんだろうな、死ぬまで」
煙と一緒に、感情の欠落した言葉が吐き出された。サンダルを放り出した諏訪の素足は冷え切ってしまっているのか、赤くなっている。青木は首に巻いていたマフラーを外して痛々しい足元にかけてやった。剥き出しになった首からどんどんと体温を奪われていくのを感じつつ、概ね同意だなと思う。
「いっそ、狂人にでもなれた方が楽だろうね」
言って、並んで腰を下ろすと、コンクリートの冷たさが布越しに伝わってきて悲鳴をあげそうになった。コタツの温もりが恋しい。
諏訪に煙草を一本よこすようにと手を差し出すと、「身体に悪い」と払いのけられた。お前がそれを言うのかと思うとなんだか馬鹿馬鹿しくなって、そのままごろりと道路に寝転ぶ。氷のようなコンクリートと接する部分から全身に冷ややかな温度が蔓延し、泣いてしまいそうだった。
あれは、何月ごろの話だっただろうか。生暖かい温度と草の匂いと、ぱらぱらと降る桜の花びらをよく覚えている。
ライブ本番が迫る中、出演するハコの近くの土手で、長島と共にアコースティックギターを抱えて練習と称しだらだらと駄弁っていた。男女二人を乗せた自転車が通り過ぎると、長島は唐突に「ねぇ、青木はそのケがあるの?」とゆったりした声で言った。ピンと来ない青木は「何が?」と質問で返す。
「女が嫌いなのかなって思って」
「そういうのはよくわからないんだ。でも多分、男も女も好きじゃない」
「もったいないなぁ、女を抱きたいとも思わないの?あんな気持ちいいものを知らないなんて、もったいないよ」
そう嘆きながら、ギターを原っぱに置く。いよいよ練習する気が無くなったなとおかしくなった。長島はしょっちゅう女の体の良さについて熱弁を振るっていて、周囲に「アイツは女が好きなんじゃなくて、女体が好きなだけなんだ」と笑われていたし、本人もそれを否定しなかった。細っこくて、欲を感じさせない清楚な顔立ちをしているため、そのギャップを周囲は面白がっていて、長島自身もそれを上手く利用して立ち回っているようだった。
下世話な話を嫌がる人の前ではそういった話をあまりしないので、青木は突然長島が女について話を振ってきたため些か珍しさを感じた。
「思うもんか。セックスなんて痛くて辛いだけだ」
「驚いた、経験があったんだ」
青木は言ってすぐに後悔した。普段経験の有無を聞かれても一切話さないが、この時どうして正直に自分の弱みを晒してしまったのかはわからない。ただ、長島は人が腹の内を晒したくなるような雰囲気を持っていたのは確かだ。
長島の言う経験とは程遠いであろう行為を思い起こして、心臓から嫌な音がし始めた。物心ついた頃から散々叩き込まれた肉と肉が触れ合う感じ、物のように扱われている時の恐怖と惨めさ、野生動物みたいな下品な荒い息遣い、全てが昨日のことのように生々しく再生されて、身体に詰まっている全部を吐き出したくなり手で口元を覆った。
「ごめん、嫌なことを聞いたみたいだ。大丈夫?」
俯いていると長島が珍しく焦った様子で細長い指を伸ばしてきたため、それを「大丈夫」と牽制する。緩やかな風が薄ピンク色の花びらを運んできてはそこら中に散らしていて、行き場をなくした長島の手が一枚の花びらを捕まえた。
「本当に?」
「本当に」
納得していない顔だったが、それ以上追及してはいけないと判断したらしく、頷いてから続ける。
「まぁ、青木がソッチだとして、誰に言おうってわけじゃないから安心してよ。もちろん諏訪にもね」
「そうしてくれると助かる」
青木があっさりとそう返すと、一瞬間があってから、長島は嬉しそうに笑い出した。
「いやぁ、健気だねぇ」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、「君らがどうなっていくのか、楽しみだなぁ。ちゃんと結末を見届けたいんだから、青木が頑張ってよ」と楽観的に言ってのけた。
青木は「見世物じゃないんだけど」とふてくされながらも、悪い気はしなかった。この男ののんきな反応を見て、肩の荷が下りたような、許されたような気持ちになったのだ。
「あ、男も女も好きじゃないってことは、俺のことも好きじゃないの?」
真剣な顔で言う長島に「長島は嫌いじゃないよ」と返せば、ふくれっ面で中指を立てられた。
見届けたいと長島は言った。黒く縁取られた無表情が、カラフルな花が、藤本の濡れた目元が蘇る。
もう少し待ってくれても良かったんじゃないかと、文句を言いたくなった。もし長島がまだ生きていたなら、何を話しただろう。話すことができたなら、何かが変わっていただろうか。僕も、諏訪も。そんな途方も無いことを、いつまでも考えていた。
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ひょんな事がきっかけで、カメラにはまる女の子がファインダー越しに見つけた世界。なぜかいつもそこに貴方がいた。恋愛に鈍感でも被写体には敏感です。恋愛よりもカメラが大事! そんか彼女を気長に粘り強く自分のテリトリーに引き込みたい陸上自衛隊員との恋のお話?
※小説家になろう、カクヨムにも公開しています。
※もちろん、フィクションです。
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