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一、
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かんかん照りという言葉は、今日のために作られたのではないかと本気で思ってしまうような、そんな忌々しい天気だった。
「もうたくさんだ。そう思うよな、なぁ、思うだろ」
三十八円と赤い字で書いてあるシールが貼りついたおにぎりを貪っていた諏訪が、ボソボソと低く抑揚の無い声で言った。米粒の中に押し込まれていた梅干がべしゃりと地面に落下し、赤茶けた髪で目を隠した彼の黒光りしている靴が、赤くて柔らかいそれを踏み潰した。
気分が悪くなって、しかし同時に腹が鳴った青木は、渇いてひりついた喉からしばらくぶりに声を絞り出す。
「どうしてこんな所で待ってたんだ、早く部屋に入ろう。こんな暑いところにいたら変になるよ、塩分が足りなくなるんだって。あぁでも、摂りすぎたら摂りすぎたで病気になるらしいよ、おかしくない?」
返事はない。
アパートの二階へ通じる、鉄製の錆びた階段。諏訪はその三段目に融合でもしたかのように違和感なく座っていたが、ふと足を上げて靴の裏側を青木に見せる。薄汚れた靴底の中でひしゃげた果肉だけが鮮やかに存在を主張しており、酸っぱい匂いが鼻を通って胃に到達した気がした。
青木は梅干が嫌いだった。
親指と人差し指で諏訪の眉間をトンと押すと、意思のない人形みたいにぐらりと倒れ、五段目の段差に後頭部をぶつけた。ごぉんと低い音が、寺の鐘の音のように重たく響く。
「痛い、てめぇ」
唸る諏訪の手から溢れた米粒が散乱し、三十八分の三十ぐらいが無駄になった。白い粒が、しおれた海苔の内側から逃げ出して、からからに乾いた砂をまぶしている。青木の額からどわっと汗が噴き出した。
「ほら、早く」
僅かに振動する階段を登り、見慣れた部屋へと向かう。手すりが日の光を吸収して熱を孕んでいた。青木は、学校から担いで来た重たいギターケースをさっさと下ろして冷たい麦茶で渇いた胃を洗いたいと思っていた。が、
「待って」
まだ五段目に頭をくっつけている諏訪が制止をかけ、続けて平坦な声で「鍵を無くしたんだ」とぽつりと言った。
青木はそれを聞いて、なるほどと納得がいった。だからこんなに蒸し暑い中、地蔵のようにぼけっと座り込んでいたのか。近所の喫茶店にでも入っていればいいのにという思いは、散らばった米粒に紛れるようにして地面に落下した。
「どうして、どこで」
「わからない、彼女に捨てられたのかもしれない」
「だから嫌だったんだよ、僕の部屋の鍵を渡すのは」
「でもお前のうちの鍵が無かったら、俺はどこに帰ればいい」
「彼女の家にでも行けばいいだろ」
ぶっきらぼうに言ってからポケットに手を突っ込み、自分の汗で湿った鍵を取り出す。鈍く光るそれを鍵穴に差し込めば、ガチャという安っぽい音がした。木目の粗い戸を引くと、いつの間にか階段を登ってきていた諏訪が堂々と敷居を跨ぎ、梅干しがへばり付いた革靴を玄関に放り捨てた。
「持ってたんだね、喪服」
転がった革靴をつま先で整えながら、扇風機の前に鎮座する諏訪に声をかける。青木は諏訪と出会ってから一年も経っているのに、彼がネクタイを締めているところをこの日初めて目にした。普段はよれよれのシャツにジーパンというスタイルを好んでいる諏訪が正装している様は、どうしてか普段よりも馬鹿に見える。金貸しの下っ端とか、ヤクザ映画の序盤で上の人間に上手いこと言いくるめられて特攻して死ぬ奴とか、法外な値段を請求してくるクラブの用心棒とか、そんな感じだ。
「借り物だよこれは。彼女の元彼の忘れ物らしいんだが、サイズがピッタリで助かった」
青木の抱く感想なんてつゆ知らず得意げに腕を伸ばしてみせる彼は、しかし袖の裾が少し短いように見える。青木は気づかぬふりをしてギターケースを壁に立てかけて「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「お前は、持ってるのか?」
「僕は高校の制服で行くよ」
青木は自分が着ているワイシャツをつまんで見せる。
「そうか、お前まだ学生だったな」
首を縦に振ってから冷蔵庫を開けて、今朝作っておいた麦茶を取り出す。まるでサウナのように蒸している木造の部屋に冷気が流れ込んで、一瞬だけ心地よくなり目を閉じた。一口の簡易コンロと流し台しかないキッチンにちょこんと置かれている透明なグラスの群れから、少し悩んだ後に一つだけ手に取り、茶色く透き通った液体を注ぐ。
「青木ってさ、金持ちなんだよな」
扇風機が作り出す風を受けて、傷んだ髪をなびかせている諏訪が口を開いた。畳のほつれを日に焼けた指先で弄りながら、小さな机と薄っぺらい布団ぐらいしか物が置かれていない青木の部屋をぐるりと見渡している。
「親がね」
「なんか、偉いセンセエなんだろ?」
「学者。物理学とかやってる」
青木は、この話題に興味がないのを隠しもせずに答える。実際詳しいことは知らないし、知ろうと思ったこともない。
「そのご子息様が何でこんなに汚いアパートに住んでるんだよ、もっといい所だっていくらでも借りられるだろ」
「好きなんだよ、こういうのが」
「お前、マゾヒストか」
送風を独り占めしている諏訪が、不可思議なものを見るような視線を台所に突っ立っている青木に向けた。そんなに暑いのならジャケットを脱げばいいんじゃないかと心の中で指摘しながら、グラスを傾けて麦茶を飲み込む。蝉のやかましい鳴き声が閉め切った窓越しに絶え間なく聞こえてきて、一匹残らず焼き払ってやりたくなった。そもそも、蝉は何故よりにもよって、ただでさえ暑くて苛立たしい夏に鳴くのだろう、しんみりと心寂しい冬ならばまだここまで苛立つこともないかもしれないのに。
空になったグラスにもう一度麦茶を注いで諏訪に渡すと、礼もなしに受け取って喉を鳴らして飲みきり「なにも、こんな暑い時に死ぬことねえよな」と湿った唇を動かした。
「夏が好きって言ってたのにね」
「好きだからこそかもしれないが」
のんびりとした調子でそう言って、諏訪は真っ黒なズボンのポケットからマルボロと汚れたライターを引っ張り出す。人の家だぞと今更言っても仕方がないことはわかりきっているため、火をつける様子を黙って眺めていると、扇風機がメンソールの香りをしけた部屋中に振り撒いた。こもった熱気と煙を吸い込んだ青木は悪心が喉元をせり上がってくるのを感じて払拭するために二度頭を振ったが、振動により余計に気分が悪くなった。
「なぁ、葬式って花とかいるんだっけ」
悪心の原因である煙を悠然と吐き出しながら諏訪が言う。
「いらないよ、必要なのは金だけじゃないかな」
「祝儀か、いくらぐらいが相場なんだ?」
「馬鹿、祝ってどうするんだよ、香典だろ」
差し出された諏訪のくたくたな長財布から三千円を抜き取り、帰り道に文具屋で買った香典袋に包んだ。この三枚は一体諏訪の何時間分の給料なのだろうかと、薄っぺらい札が入った白い包みを人差し指と親指で挟んでみる。ずいぶん軽いな、と思った。
宗派は分からなかったため、無難に『御霊前』と筆ペンで書いたが、字がよれていて不恰好だった。字を書く時、青木は小学生の頃の書き初めの宿題を思い出して嫌な気持ちになる。一生懸命書いても、その出来に納得いかないらしい両親から何度もやり直しを要求され、その度に手ひどく叩かれたものだ。半紙にぼろぼろと涙を落としながら、この行為に一体何の意味があるのだろうと真剣に考えたが、無垢な小学生がその答えに辿り着くことはなかった。今ならば、何の意味もないとすぐにわかるものだが。
まぁ、でも。諏訪の三歳児の落書きのような字よりはまだ読めるだろうし、そもそも諏訪が御霊前という漢字を知っているとは思えなかったため、これで良いのだと自分に言い聞かせる。
「それを吸い終わったら出よう」
筆ペンを机の上に転がしつつそう声をかければ、短くなった煙草を小皿に押し付けて火を消し「あぁ」とだるそうに立ち上がった。扇風機を切って、グラスを流し台に置いて連れ立って部屋を出る。陽炎が立つアスファルトを踏ん付けて、ブレザーを羽織り、酷く遠くに感じる駅までの道のりを歩いた。
「長島、電車に飛び込んだんだってな。ぴょんって、縄跳びでもするみたいにジャンプしてさ、ぎゃりぎゃりーって電車のブレーキ音が鳴ってさ、辺りは血まみれ。肉なんかもそこら中に飛び散って、ホームにいた客は吐いたり倒れたりしたって。売店のババアなんかは、気違いみたいに泣き喚いてたって話だよ」
両の黒目が違う方向を向いている金髪の男がにやにやしながら、青木に耳打ちをした。長島の母親らしき女がすすり泣き、父親らしき男がその肩を抱いている姿を遠くに見ながら、「らしいね」と簡単に相槌を打つ。隣にいる諏訪には聞こえていないのか、男と青木には何の関心も持たずに親族席の方向に目線をやっていた。
黒を纏った人間がひしめき合う会場では坊主の野太い歌声がやけに大きく響いていて、どこか現実味がない。
「お前らさ、長島が死ぬ前の日に会ってたんだってな。何してたんだよ」
どこで知ったのか、男がしゃがれた声を絞って言った。青木は坊主の眩しい禿頭と木魚の滑らかな曲線を見比べながら脳内を整理し、
「いつも集まってる飲み屋があるだろ、あそこで会って二、三時間話しただけだよ。いつもと変わらないように見えた、いや、むしろいつもより機嫌が良いようにすら見えたな」
と事情聴取をしに来た警察に言ったことと寸分違わぬ供述をした。
先日、綺麗とは言い難いが酒もつまみも安く贔屓にしている居酒屋の暖簾をくぐった青木と諏訪は、偶然にも友人の長島と顔を合わせた。彼が一人で飲んでいるなんて珍しいと思ったのだが、「誰かしらが来るだろうと思ってさ」と赤ら顔で笑っていたので、すぐに納得し同じ卓で酒を飲み、飯を食い、最近はライブをしても客が来ないだとか給料日前だから金が無いだとか、ありきたりな会話をして別れたのだ。
訃報を聞いてから何度も記憶を辿ったが、そこに死を匂わせるようなものは無かったように思えた。しかし、それこそが長島の覚悟の現れのようでもあり、青木は閉口した。
「本当か? 最後にお前らに何か言い残したりしてないのか」
「特に、何も。いつもと同じようなくだらない話をして、『また』と言って別れたよ」
「へぇ、それで次の日飛び込みねぇ」
男がわざとらしく顎に手を添えて、考えるポーズをとった。喪服にそぐわない金髪が揺れる。葬式にその頭は無いんじゃないかと言いたかったが、辺りを見回せば似たような色の頭がそこら中にあったため、音楽をやっている連中なんてそんなもんかと思い直した。なんせ、黒髪の青木と長島が地味だとか珍しいだとか言われていたぐらいなのだ。
「なぁ、お前らが長島を自殺に追い込んだとか、そんな可能性はないか?」
男は尚もにやにやしながら言った。青木は男が最初からそれを聞きたがっているであろうことを察していたため、心を少しも動かすことなく「さぁな」と返すことができた。しかし、直後に諏訪の声が被さる。
「お前、早くどこかへ行け」
感情が抜け落ちたかのような調子に聞こえたが、僅かに怒気が含まれていることが青木にはわかった。聞こえないふりをするなら、最後までし通してほしい。
周囲のカラフルな頭達がちらちらと三人の様子を伺っていて、人間は思いの外耳がいいのだと感心する。
「聞こえなかったか?」
「冗談の通じない奴め」
諏訪が再度促すと、男はにやけたまま捨て台詞を吐いて通路の方向へと歩いていった。ぼんやりとその背中を見送っていると、やがて黒い集団の中に溶け込んで見えなくなる。
諏訪が歯を噛み合わせたままぼそっと呟いた。
「誰だかわかりゃしねぇなぁ」
青木は一瞬何のことか理解できなかったが、すぐに諏訪の視線が長島の遺影に向けられていることに気がつく。黒い額に収まっている長島の顔は証明写真か何かなのか、つまらなそうに口を結んでいて、生前の陽気で人懐っこい面影はどこにも無い。
諏訪の瞳はどろりと濁っていた。青木も「うん」と同意した。
それから、葬儀は呆気なくもスムーズに進み、長島の身体は燃やされて、白くてかさかさした骨になった。棺桶が開くことは一度もなかったし、骨も全てが揃っている訳では無さそうだった。ついこの間まで言葉を交わしていた友人がただの肉となり、ついには骨だけになったことが、青木には異様な出来事のように思えて仕方がなかった。
式も終わりに近づき、会食所へは行かずに早々に切りあげようとしていると、二十歳前後に見える女に「青木さんと諏訪さんでしょうか?」と声をかけられた。女は先ほどまで泣いていたことがすぐにわかるほど目が充血し瞼も腫れぼったかったが、声や表情から芯の強さが見え隠れしていて、青木はたじろいだ。
「俺が諏訪で、これが青木です」
「長島から、よく伺っていました」
諏訪の言葉に女は安心したらしく、人の良さそうな笑顔を浮かべる。きっと彼女だな。青木が邪推するとほぼ同時に遠慮という言葉を知らない諏訪が「彼女さんですか?」とぬけぬけと聞いた。
「そうです。藤本と申します」
「藤本さん、俺らねぇ結構アイツと仲がよかったんですよ。青木の家で三人で夜通し喋ったり、ススキ公園の向かいに嫌な爺さんが住んでるでしょ?あそこに花火を打ち込んだこともあったな。ちょっと前なんか、一緒にライブもやったよ」
「私、それ見にいってたんですよ」
「え、そうなの?アイツ、彼女がいるなんて一言も言わないんだもんなぁ」
「隠してたみたいなんです、恥ずかしがって」
「確かにアイツはそういう所があったな。肝心なことは秘密にするんだ」
二人がまるで、まだ長島が存在しているかのように話すので、青木もそこに参加しようとした。しかし途中で、諏訪と藤本に好奇の目を向けている参列者たちと視線がぶつかった。白と黒で揃えられた式場と、色とりどりの花と頭のコントラストに吐き気を覚えた。
青木は一度えづいてから、藤本に向かって
「あの、すみませんでした。僕たち、前の日に彼に会っていたのに」
と軽く頭を下げた。周囲の黒が深くなった気がした。
しかし、藤本はそれを制し
「ううん、私もね、前日に電話したんだけど何にも気づかなかったから。遺書っていうか、殴り書きが残っていて『今までありがとう、じゃあまた』とか書いてあるわけ。死んじゃうっていうのに、またも何もないでしょ。最後まで、よくわからない奴だったのよ」
と慈しむように笑った。
「ああ、ごめんなさい引き止めて。もうお帰りかしら?」
「はい。ご家族にもよろしくお伝えください」
「ありがとう、お気をつけて」
お悔やみの言葉とやらを述べようかと思ったが、更に胸が悪くなりそうだったため会釈だけして歩き始める。諏訪に至っては呑気に手なんか振っている。
藤本の姿が見えなくなってから、諏訪が上機嫌な声で言った。
「いい女だよなあ」
「そうだね」
「長島は酷い男だよ、あんなイイ人を残して死ぬなんて」
自動ドアを抜けて外に出ると、むっとした熱気に襲われて目眩がする。ブレザーのボタンに手をかけている最中に、諏訪がジャケットを脱いで肩にかけてしまったため、青木はボタンを全て外したブレザーのポケットに手を入れてぶらぶらと動かした。
「ってことは、アイツは素人童貞じゃなかったってことか?エーブイと風俗で借金が膨らむ一方だとかいう話を俺たちは馬鹿正直に信じていたってのに、アイツはあんないい女とよろしくやってたのか」
不服そうな声音で諏訪がつらつらと文句を垂れた。
「長島は嘘をつくのが趣味だったのかもしれないな」
青木は、長島の無邪気なようでいて欺瞞的な笑顔を思い返して言う。
「わけがわからん」
「二十歳だというのも、ホテルの受付をやっているというのも、大槻ケンヂが好きというのも、全部嘘だったりして」
「人間不信になりそうだ」
「人間というのも嘘かもしれないよ」
「アイツは一体、なんだったんだ」
諏訪が数珠を掌で転がしながら笑い声をあげた。肌を焦がすように降り注ぐ夏の陽射しが、黒を纏った二人に突き刺さって、拭っても拭っても汗が滴ってキリがない。大きな雫が目に入って沁み、青木は瞼を痙攣させる。
「青木は、天国と地獄ってあると思うか?」
「無ければいいと思ってるけど、どうして?」
「いや、自殺するとどっちにも行けないって言うだろ。長島はどこに行くんだろうと思ってさ」
式場から離れて駅に近づいてくると、飲食店やコンビニがそこかしこに現れ人も増えてきた。有象無象をぼんやりと目で追いかけながら、死んだ後にまで個々の意識が続いていくなんて、どちらにしろ地獄じゃないかと嘆かわしい気持ちになる。諏訪は死んだ長島の身を案じているらしく、真面目くさった面で「自殺すると、魂がずっと彷徨い続けるって言うよな」などと喋っている。
「諏訪は、天国と地獄どっちに行きたいの?」
「そりゃあ、天国に決まってるだろ」
「そうか。じゃあ僕も天国がいいな」
「じゃあって何だよ」
青木はクスクスと喉の奥で笑って券売機で六駅先までの切符を買い、諏訪は「今日は彼女の所に行く、明日仕事だから」と、三駅先の切符を買った。諏訪に自宅というものが無いことや、彼女の家から職場までが近いことを知っていたため「うん」と返して、改札を通る。
諏訪は彼女の家で泣くのだろうかと考えながら、口を開けて待ち構えていた電車に乗れば、クーラーの恩恵を全身に浴びた諏訪が「あぁ、天国」と感嘆する。青木も「ここが天国か」と深く息を吸い込む。身体の内側にまで冷気が流れ込んできて、小さく咽せた。
二駅通過したところで諏訪が思い出したように「ちなみに、ヒトゴロシは地獄に落ちるらしい」と声を潜めたので、都市伝説を信仰する小学生を見守るような心境で、窓枠の中で次々と移り変わる風景をぼうっと眺めた。
アパートに帰ると、腰の曲がった大家がさらに腰を曲げて地面に水を撒いていた。ボタボタと重たい音がして、砂が水を吸ってまだら模様に色を濃くしている。頭のてっぺんで結われている髪を忙しなく揺らしていた大家は、やがて青木の存在に気がついて桶をその辺に置き、ゆっくりと近づいてくる。
「塩、かけてあげようかね」
「うん、お願いします」
葬儀場で貰った紙袋から小さなお清めの塩の袋を探し出して大家に手渡すと、それを乱暴に破って青木の背中に振りかけた。「はい、良いよ」と大家が中々に力強く背中を二度叩く。呼吸が一瞬止まったが、老人のこういった大雑把で豪快な振る舞いを気に入っていた青木は痛みを飲み込んだ。
大家は庭に置いている木製の椅子を二つ引っ張ってきて、「座んな」と言い、片方の椅子によたよたと腰を下ろした。青木がそれに倣らうと、大家はポシェットから青いステンレス製の水筒を抜き取って蓋の部分に中身を注ぎ「飲みな、冷えてるよ」とよこす。骨と血管が浮き出た皮の薄い手から、生白い手に青色のカップが渡る。
「ありがとう」
麦茶かと思って口に含むと、それは紅茶だった。よく冷えていて歯に沁みたが、美味い。「もう一杯ちょうだい」とねだると大家は満更でもないという顔で水筒を傾ける。
「お友達は?」
「諏訪はもう帰ったよ」
「そうなの。じゃあ寂しいねぇ」
今度は飲む前に香りを楽しむことにしたが、嗅いだところで特に何の感想も出てこなかった。らしくないことはやめようと思い、一気に飲み干して返却すると、大家もそのカップで紅茶をちまちまと飲み始める。
「二人は正反対のように見えるけど、仲がいいんだね」
「そう見える?」
「だっていつも一緒にいるじゃないの」
大家の言葉を受け、そうだろうかと思い返してみる。
諏訪は仕事終わりや休みの日にふらっと現れ、青木の部屋に何時間も居座ったり、そのまま布団で眠ったりもする。起きてから仕事に行ったり、休みだともう一泊していくことも多い。青木は学校に行く以外は基本家にいるが、諏訪が週に三度や四度は平気で訪れるため、自家の鍵を渡していた。何せ、お互いに電話機を持っていないから、いつ来るだとかいついないだとかの連絡が取れないし、家主が眠りこけている深夜であっても諏訪は遠慮なくドアを叩いて陽気に「早く開けろ」などとのたまうのだ。
そんな生活をもう一年も繰り返している。確かに、側から見たらいつも一緒にいると思われてもおかしくはない頻度だ、青木はむず痒くなった。
辺りは日が傾き始め、紅茶の香りに包まれる二人に影が落ちる。子供の騒ぐ声や蟬の鳴き声は息を潜め、スーパーの袋を提げた女やスーツ姿の男が歩いていくのが見える。ぐう、と腹から音がして、朝から何も食べていないことを思い出した。
「それに、彼が来るようになってから、青木くんは明るくなったように見えるよ」
大家がくぐもった声で、口をもごもごと動かす。耳の遠い老人に、腹の鳴き声は聞こえなかったらしい。
「それは、そうかな?そうかもしれない」
「ここに越してきたばかりの頃は、元気がなかったからね」
シワだらけの顔の中の黒く濡れた瞳が二つ、まっすぐに向けられる。落ち着かない気持ちになった青木は、その視線から逃れるように赤が滲み出した空を見上げて湿っぽい匂いを嗅ぎながら、去年の初夏の記憶を呼び起こす。
一年前、青木は痣と擦り傷と恥辱感を引きづりながらこの崩れかけのアパートに転がり込んだ。
息子をいたぶる事に喜びを覚える父親と、父と同じ性癖を持つ母親からの仕打ちにとうとう耐えきれなくなり、父親の醜く肥え太った腹の肉にアイスピックを突き刺して逃亡したのだ。ぶよぶよした分厚い肉からは、きっとドロッとした脂が噴水みたいに噴き出すんだろうと予想していたが、実際に出たのはほんの少しの血液だった。
父親と母親は、十数年もの間されるがままになっていた内気な息子の突然の反撃に驚いたらしく、呆然としていた。どうして加害者達は、無抵抗の被害者が腹の底で報復の機会を伺っているということを想像できないのだろう。偉い学者と言っても、所詮はお勉強だけできる平和ボケした阿保でしかない。
父親への攻撃に成功した青木は息が弾んで手が震えた。全身が心臓になってしまったかのようにうるさかった。札束と着替えだけを詰めた通学カバンを引ったくり、力の入らない足をがむしゃらに動かして家から飛び出して夜の道を駆けた。人生で初めて気分が良くなった喜びから、歌を歌った。道中のゴミ捨て場でむき出しのアコースティックギターがじっと佇んでいて、左頬を赤く腫らした青木は『傘がない』を口ずさみながらにこりと微笑み、つるりとしたネックをしっかりと掴んだ。
雨が降っていたのかどうかはもう覚えていないが、体がぐっしょりと濡れていて気持ちが悪かった。
諏訪と出会ったのは、その少し後だった。
その日、青木は放課後に楽器屋へ寄った帰り道、運悪く同級生数人に遭遇してしまいしつこく金をせびられていた。校内ではリスクを恐れてか絡んで来ないクセに、監視の目が届かない所で張り切りだすのが気に食わないと思い、「金は無い」と言い張った。実際に家を出てから節約に節約を重ねていたため嘘ではないのだが、家柄を知っている同級生は納得いかぬようで拳を振り上げた。殴られるのだろうと面倒くさい気持ちで目を閉じたが、しかしその数分後、彼らは惨めにも地面に転がっていて、手の甲の皮をズル剥けにした茶髪の男が彼らを見下していたのだ。
これが諏訪だった。
「どうして助けてくれたの」
のした男たちを放置して田んぼ道をのろのろと歩きながら尋ねると、諏訪は「イライラしてたから、誰でもいいから殴りたかった」と手を握ったり開いたりしながら殺人犯の犯行動機のような台詞を吐いた。伸びきった稲の大群が気持ちよさそうに揺れるのを横目に見つつ、じりじりと太陽に焼かれる。二つの足音が大げさに響く。自宅まで一生かかってもつかないのでは無いかと錯覚するほどに居心地が悪いのは、不自然な沈黙のせいだと気づいていた。
「それ、弦?」
諏訪は、青木が手に持っている楽器屋のビニール袋の中身に興味を示した。
「うん、アコギの弦」
「お前、ギターが弾けるのか?」
「少しだけ」
どういうわけか、咄嗟に嘘をついた。数日前にギターを拾ったものの、弾き方なんて全く分からずに置物と化していたのに。しかし、諏訪がこの時初めて笑顔を見せて「見かけによらず、かっこいいな」と言うので、訂正する機会を失ってしまった。仏頂面で目つきの悪い男のことを怖いとすら感じていたが、笑った顔は意外にも幼い。
「君、いくつ?」
「十七。お前は」
「僕は十六、高一」
「その制服は二岡高校だろ、頭のいい坊ちゃんなんだな」
「そんなことない、親に言われたから通ってるだけだよ。君はどこの高校?」
「俺は高校にゃ行ってないんだ。駅前の冨山製鉄所ってところであくせく働いてるよ」
諏訪が所々黒く汚れた作業着に入っている「冨山製鉄所」という刺繍を指差す。その五文字を目で辿ると、青木は自分が身にまとっている汚れひとつ無い薄っぺらい制服を無性に恥ずかしいと思った。
「なぁ坊ちゃん、今度聞きに行っていいか」
「何を」
「ギターに決まってるだろ」
「別にいいけど」
アパートの名前と最寄駅と簡単な経路を教えてやると、諏訪は手の甲に油性ペンを走らせた。細かい汗でてらてらと光っている小麦色の肌に、ミミズのような黒い字の羅列が這う。
もちろん冗談だろうと思った。別れ際になんとなく思いつきで言ってみただけだろうと。仕事に戻ると言っていたから、どうせインクも落ちてしまうし、そうしたら男は今日のことなんてすっかり忘れてしまうはずだ。第一、お互いの名前すら知らないのだから、と。
来るわけがないと繰り返し唱えながらも、家に帰ると買ってきた弦を張り、「アコースティックギター入門書」というタイトルの教本を開いた。
「来るわけないだろ、絶対に来ない」
独り言ちて、ペグを回して弦を引っ張る。
「でも、万が一来てしまって嘘がバレるのは困る」
誰に向けたのかわからないその言い訳は、部屋に立ち込める不快な熱に溶けて消えた。畳がズボンから滲み出た汗を吸う。青木は食事を摂るのも忘れ、ただ黙々と弦を抑えてコードを暗記し続けた。歴史の年号や英単語を覚えるよりもずっと簡単で、一つ一つの音をしっかりと噛みしめながらあらゆるコードを鳴らしていった。
翌々日、青木の期待通りに諏訪はアパートにやって来た。しかし、「ギター少年はどこだ」と大声を出しながら各部屋を回るという暴挙に出た諏訪に部屋番号を教えておかなかったことを後悔した。
「一度、小さいハコで一緒にやったこともあるんだ。僕がギターを弾いて、諏訪が歌って」
青木は大家に、諏訪との出会いを簡単に話して聞かせた。もちろん、越してきた理由は伏せてだが。人からどう見られるかなんて滅多に気にしないタチだが、どうしてか、大家には両親のことを知られたく無かったのだ。背景を知った大家に哀れみの目を向けられたり、避けられたりすることを想像すると、小さな針で胸をつつかれているような心地になって落ち着かなくなる。
「すごいじゃないのさ、二人とも音楽が好きなんだねぇ」
大家が嬉しそうに言うが、青木は答えない。代わりに、長島の顔をぼんやりと思い浮かべた。
「死んだ奴とも、そのハコで出会ったんだ」
「事故?」
「ううん、自殺」
「そうかい、それは悲しいねぇ」
大家が本当に悲しそうな声でそう言って俯いたので、心底驚いた。見ず知らずの人間の死に心を痛めるだなんて、優しい人間もいるものだ。
「じゃあ、そのお友達の分まで、青木くんが生きてやんないとね」
今度も答えずに、曖昧に口角を上げて目を細める。
大家を部屋まで送り、階段を登っている途中で鍵を作り直すべきかと考えた。諏訪がなくした鍵が誰かの手に渡り、物取りでもされたらと想像したところで、こんな見るからに金がなさそうな家に強盗をしに来る奴なんていないだろうと結論付けた。
ローファーを脱ぎ紙袋を放り投げてネクタイに手をかけたところで、微かに煙草の香りが残っていることに気づき、電気も付けず肺が苦しくなるほどに空気を吸う。そうして余計に虚しくなって、壁にもたれて黙っているギターケースに目をやった。
「本当は、音楽なんて別に好きじゃないんだ。でもそう言っていた方が都合がいいから、そういう事にしてるだけなんだよ」
ネクタイとブレザーが畳の上に落ちる。その亡骸に見向きもせずに、冷蔵庫を開けて麦茶が半分ほどに減ったポッドを取り出して、中身を流し台にぶちまける。置きっ放しにしていたグラスに飛沫がひっかかった。キャビネットの中からティーパックを探してポッドに入れ、水道水を注ぐ。暗闇の中で、透明な水が茶色く染まっていく。
「長島の分も生きるなんてのは、無理だと思うな」
青木は、母親がこの家を訪ねてきた時のことを思い返していた。父親は、「息子に刺された」なんて素直に言えば社会的地位を脅かすと思ったらしく、自分の不注意で怪我をしたと医者に説明したという。外面だけはいいコイツららしいな、と青子は小さく笑った。母親は、今回の件は絶対に口外しないようにと釘を刺して、代わりに高校を卒業するまでは一人暮らしを認めることとそのための金銭的な援助をすることを約束した。そして「あなたが行く大学は私達が決めるから、それに従ってちょうだいね。高校を卒業したらまた家に戻ってくるのよ、ねぇ、次に勝手なことをしたら、お父さんは何をするかわからないんだから。あなたは、私達の可愛い一人息子なんだからね」と朗らかに死刑宣告をして、鈍い音を立てて扉を閉めたのだ。
「戻ったらまた、好き勝手に弄くり回されるんだ。今度はもう逃げられないだろうから、それが僕の寿命だろうな」
誰にも拾われない言葉が次々と死んでいった。
ポッドから水が溢れ出したため蛇口を閉めると、途端に瞼が重くなってその場にうずくまる。今日は、よく喋ったから疲れた。空っぽになった腹が悲鳴を上げていたが気にしてやる余裕もなく、畳に敷いてある布団まで這っていく気力もなく、諦めてコトンと眠りに落ちた。
「もうたくさんだ。そう思うよな、なぁ、思うだろ」
三十八円と赤い字で書いてあるシールが貼りついたおにぎりを貪っていた諏訪が、ボソボソと低く抑揚の無い声で言った。米粒の中に押し込まれていた梅干がべしゃりと地面に落下し、赤茶けた髪で目を隠した彼の黒光りしている靴が、赤くて柔らかいそれを踏み潰した。
気分が悪くなって、しかし同時に腹が鳴った青木は、渇いてひりついた喉からしばらくぶりに声を絞り出す。
「どうしてこんな所で待ってたんだ、早く部屋に入ろう。こんな暑いところにいたら変になるよ、塩分が足りなくなるんだって。あぁでも、摂りすぎたら摂りすぎたで病気になるらしいよ、おかしくない?」
返事はない。
アパートの二階へ通じる、鉄製の錆びた階段。諏訪はその三段目に融合でもしたかのように違和感なく座っていたが、ふと足を上げて靴の裏側を青木に見せる。薄汚れた靴底の中でひしゃげた果肉だけが鮮やかに存在を主張しており、酸っぱい匂いが鼻を通って胃に到達した気がした。
青木は梅干が嫌いだった。
親指と人差し指で諏訪の眉間をトンと押すと、意思のない人形みたいにぐらりと倒れ、五段目の段差に後頭部をぶつけた。ごぉんと低い音が、寺の鐘の音のように重たく響く。
「痛い、てめぇ」
唸る諏訪の手から溢れた米粒が散乱し、三十八分の三十ぐらいが無駄になった。白い粒が、しおれた海苔の内側から逃げ出して、からからに乾いた砂をまぶしている。青木の額からどわっと汗が噴き出した。
「ほら、早く」
僅かに振動する階段を登り、見慣れた部屋へと向かう。手すりが日の光を吸収して熱を孕んでいた。青木は、学校から担いで来た重たいギターケースをさっさと下ろして冷たい麦茶で渇いた胃を洗いたいと思っていた。が、
「待って」
まだ五段目に頭をくっつけている諏訪が制止をかけ、続けて平坦な声で「鍵を無くしたんだ」とぽつりと言った。
青木はそれを聞いて、なるほどと納得がいった。だからこんなに蒸し暑い中、地蔵のようにぼけっと座り込んでいたのか。近所の喫茶店にでも入っていればいいのにという思いは、散らばった米粒に紛れるようにして地面に落下した。
「どうして、どこで」
「わからない、彼女に捨てられたのかもしれない」
「だから嫌だったんだよ、僕の部屋の鍵を渡すのは」
「でもお前のうちの鍵が無かったら、俺はどこに帰ればいい」
「彼女の家にでも行けばいいだろ」
ぶっきらぼうに言ってからポケットに手を突っ込み、自分の汗で湿った鍵を取り出す。鈍く光るそれを鍵穴に差し込めば、ガチャという安っぽい音がした。木目の粗い戸を引くと、いつの間にか階段を登ってきていた諏訪が堂々と敷居を跨ぎ、梅干しがへばり付いた革靴を玄関に放り捨てた。
「持ってたんだね、喪服」
転がった革靴をつま先で整えながら、扇風機の前に鎮座する諏訪に声をかける。青木は諏訪と出会ってから一年も経っているのに、彼がネクタイを締めているところをこの日初めて目にした。普段はよれよれのシャツにジーパンというスタイルを好んでいる諏訪が正装している様は、どうしてか普段よりも馬鹿に見える。金貸しの下っ端とか、ヤクザ映画の序盤で上の人間に上手いこと言いくるめられて特攻して死ぬ奴とか、法外な値段を請求してくるクラブの用心棒とか、そんな感じだ。
「借り物だよこれは。彼女の元彼の忘れ物らしいんだが、サイズがピッタリで助かった」
青木の抱く感想なんてつゆ知らず得意げに腕を伸ばしてみせる彼は、しかし袖の裾が少し短いように見える。青木は気づかぬふりをしてギターケースを壁に立てかけて「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「お前は、持ってるのか?」
「僕は高校の制服で行くよ」
青木は自分が着ているワイシャツをつまんで見せる。
「そうか、お前まだ学生だったな」
首を縦に振ってから冷蔵庫を開けて、今朝作っておいた麦茶を取り出す。まるでサウナのように蒸している木造の部屋に冷気が流れ込んで、一瞬だけ心地よくなり目を閉じた。一口の簡易コンロと流し台しかないキッチンにちょこんと置かれている透明なグラスの群れから、少し悩んだ後に一つだけ手に取り、茶色く透き通った液体を注ぐ。
「青木ってさ、金持ちなんだよな」
扇風機が作り出す風を受けて、傷んだ髪をなびかせている諏訪が口を開いた。畳のほつれを日に焼けた指先で弄りながら、小さな机と薄っぺらい布団ぐらいしか物が置かれていない青木の部屋をぐるりと見渡している。
「親がね」
「なんか、偉いセンセエなんだろ?」
「学者。物理学とかやってる」
青木は、この話題に興味がないのを隠しもせずに答える。実際詳しいことは知らないし、知ろうと思ったこともない。
「そのご子息様が何でこんなに汚いアパートに住んでるんだよ、もっといい所だっていくらでも借りられるだろ」
「好きなんだよ、こういうのが」
「お前、マゾヒストか」
送風を独り占めしている諏訪が、不可思議なものを見るような視線を台所に突っ立っている青木に向けた。そんなに暑いのならジャケットを脱げばいいんじゃないかと心の中で指摘しながら、グラスを傾けて麦茶を飲み込む。蝉のやかましい鳴き声が閉め切った窓越しに絶え間なく聞こえてきて、一匹残らず焼き払ってやりたくなった。そもそも、蝉は何故よりにもよって、ただでさえ暑くて苛立たしい夏に鳴くのだろう、しんみりと心寂しい冬ならばまだここまで苛立つこともないかもしれないのに。
空になったグラスにもう一度麦茶を注いで諏訪に渡すと、礼もなしに受け取って喉を鳴らして飲みきり「なにも、こんな暑い時に死ぬことねえよな」と湿った唇を動かした。
「夏が好きって言ってたのにね」
「好きだからこそかもしれないが」
のんびりとした調子でそう言って、諏訪は真っ黒なズボンのポケットからマルボロと汚れたライターを引っ張り出す。人の家だぞと今更言っても仕方がないことはわかりきっているため、火をつける様子を黙って眺めていると、扇風機がメンソールの香りをしけた部屋中に振り撒いた。こもった熱気と煙を吸い込んだ青木は悪心が喉元をせり上がってくるのを感じて払拭するために二度頭を振ったが、振動により余計に気分が悪くなった。
「なぁ、葬式って花とかいるんだっけ」
悪心の原因である煙を悠然と吐き出しながら諏訪が言う。
「いらないよ、必要なのは金だけじゃないかな」
「祝儀か、いくらぐらいが相場なんだ?」
「馬鹿、祝ってどうするんだよ、香典だろ」
差し出された諏訪のくたくたな長財布から三千円を抜き取り、帰り道に文具屋で買った香典袋に包んだ。この三枚は一体諏訪の何時間分の給料なのだろうかと、薄っぺらい札が入った白い包みを人差し指と親指で挟んでみる。ずいぶん軽いな、と思った。
宗派は分からなかったため、無難に『御霊前』と筆ペンで書いたが、字がよれていて不恰好だった。字を書く時、青木は小学生の頃の書き初めの宿題を思い出して嫌な気持ちになる。一生懸命書いても、その出来に納得いかないらしい両親から何度もやり直しを要求され、その度に手ひどく叩かれたものだ。半紙にぼろぼろと涙を落としながら、この行為に一体何の意味があるのだろうと真剣に考えたが、無垢な小学生がその答えに辿り着くことはなかった。今ならば、何の意味もないとすぐにわかるものだが。
まぁ、でも。諏訪の三歳児の落書きのような字よりはまだ読めるだろうし、そもそも諏訪が御霊前という漢字を知っているとは思えなかったため、これで良いのだと自分に言い聞かせる。
「それを吸い終わったら出よう」
筆ペンを机の上に転がしつつそう声をかければ、短くなった煙草を小皿に押し付けて火を消し「あぁ」とだるそうに立ち上がった。扇風機を切って、グラスを流し台に置いて連れ立って部屋を出る。陽炎が立つアスファルトを踏ん付けて、ブレザーを羽織り、酷く遠くに感じる駅までの道のりを歩いた。
「長島、電車に飛び込んだんだってな。ぴょんって、縄跳びでもするみたいにジャンプしてさ、ぎゃりぎゃりーって電車のブレーキ音が鳴ってさ、辺りは血まみれ。肉なんかもそこら中に飛び散って、ホームにいた客は吐いたり倒れたりしたって。売店のババアなんかは、気違いみたいに泣き喚いてたって話だよ」
両の黒目が違う方向を向いている金髪の男がにやにやしながら、青木に耳打ちをした。長島の母親らしき女がすすり泣き、父親らしき男がその肩を抱いている姿を遠くに見ながら、「らしいね」と簡単に相槌を打つ。隣にいる諏訪には聞こえていないのか、男と青木には何の関心も持たずに親族席の方向に目線をやっていた。
黒を纏った人間がひしめき合う会場では坊主の野太い歌声がやけに大きく響いていて、どこか現実味がない。
「お前らさ、長島が死ぬ前の日に会ってたんだってな。何してたんだよ」
どこで知ったのか、男がしゃがれた声を絞って言った。青木は坊主の眩しい禿頭と木魚の滑らかな曲線を見比べながら脳内を整理し、
「いつも集まってる飲み屋があるだろ、あそこで会って二、三時間話しただけだよ。いつもと変わらないように見えた、いや、むしろいつもより機嫌が良いようにすら見えたな」
と事情聴取をしに来た警察に言ったことと寸分違わぬ供述をした。
先日、綺麗とは言い難いが酒もつまみも安く贔屓にしている居酒屋の暖簾をくぐった青木と諏訪は、偶然にも友人の長島と顔を合わせた。彼が一人で飲んでいるなんて珍しいと思ったのだが、「誰かしらが来るだろうと思ってさ」と赤ら顔で笑っていたので、すぐに納得し同じ卓で酒を飲み、飯を食い、最近はライブをしても客が来ないだとか給料日前だから金が無いだとか、ありきたりな会話をして別れたのだ。
訃報を聞いてから何度も記憶を辿ったが、そこに死を匂わせるようなものは無かったように思えた。しかし、それこそが長島の覚悟の現れのようでもあり、青木は閉口した。
「本当か? 最後にお前らに何か言い残したりしてないのか」
「特に、何も。いつもと同じようなくだらない話をして、『また』と言って別れたよ」
「へぇ、それで次の日飛び込みねぇ」
男がわざとらしく顎に手を添えて、考えるポーズをとった。喪服にそぐわない金髪が揺れる。葬式にその頭は無いんじゃないかと言いたかったが、辺りを見回せば似たような色の頭がそこら中にあったため、音楽をやっている連中なんてそんなもんかと思い直した。なんせ、黒髪の青木と長島が地味だとか珍しいだとか言われていたぐらいなのだ。
「なぁ、お前らが長島を自殺に追い込んだとか、そんな可能性はないか?」
男は尚もにやにやしながら言った。青木は男が最初からそれを聞きたがっているであろうことを察していたため、心を少しも動かすことなく「さぁな」と返すことができた。しかし、直後に諏訪の声が被さる。
「お前、早くどこかへ行け」
感情が抜け落ちたかのような調子に聞こえたが、僅かに怒気が含まれていることが青木にはわかった。聞こえないふりをするなら、最後までし通してほしい。
周囲のカラフルな頭達がちらちらと三人の様子を伺っていて、人間は思いの外耳がいいのだと感心する。
「聞こえなかったか?」
「冗談の通じない奴め」
諏訪が再度促すと、男はにやけたまま捨て台詞を吐いて通路の方向へと歩いていった。ぼんやりとその背中を見送っていると、やがて黒い集団の中に溶け込んで見えなくなる。
諏訪が歯を噛み合わせたままぼそっと呟いた。
「誰だかわかりゃしねぇなぁ」
青木は一瞬何のことか理解できなかったが、すぐに諏訪の視線が長島の遺影に向けられていることに気がつく。黒い額に収まっている長島の顔は証明写真か何かなのか、つまらなそうに口を結んでいて、生前の陽気で人懐っこい面影はどこにも無い。
諏訪の瞳はどろりと濁っていた。青木も「うん」と同意した。
それから、葬儀は呆気なくもスムーズに進み、長島の身体は燃やされて、白くてかさかさした骨になった。棺桶が開くことは一度もなかったし、骨も全てが揃っている訳では無さそうだった。ついこの間まで言葉を交わしていた友人がただの肉となり、ついには骨だけになったことが、青木には異様な出来事のように思えて仕方がなかった。
式も終わりに近づき、会食所へは行かずに早々に切りあげようとしていると、二十歳前後に見える女に「青木さんと諏訪さんでしょうか?」と声をかけられた。女は先ほどまで泣いていたことがすぐにわかるほど目が充血し瞼も腫れぼったかったが、声や表情から芯の強さが見え隠れしていて、青木はたじろいだ。
「俺が諏訪で、これが青木です」
「長島から、よく伺っていました」
諏訪の言葉に女は安心したらしく、人の良さそうな笑顔を浮かべる。きっと彼女だな。青木が邪推するとほぼ同時に遠慮という言葉を知らない諏訪が「彼女さんですか?」とぬけぬけと聞いた。
「そうです。藤本と申します」
「藤本さん、俺らねぇ結構アイツと仲がよかったんですよ。青木の家で三人で夜通し喋ったり、ススキ公園の向かいに嫌な爺さんが住んでるでしょ?あそこに花火を打ち込んだこともあったな。ちょっと前なんか、一緒にライブもやったよ」
「私、それ見にいってたんですよ」
「え、そうなの?アイツ、彼女がいるなんて一言も言わないんだもんなぁ」
「隠してたみたいなんです、恥ずかしがって」
「確かにアイツはそういう所があったな。肝心なことは秘密にするんだ」
二人がまるで、まだ長島が存在しているかのように話すので、青木もそこに参加しようとした。しかし途中で、諏訪と藤本に好奇の目を向けている参列者たちと視線がぶつかった。白と黒で揃えられた式場と、色とりどりの花と頭のコントラストに吐き気を覚えた。
青木は一度えづいてから、藤本に向かって
「あの、すみませんでした。僕たち、前の日に彼に会っていたのに」
と軽く頭を下げた。周囲の黒が深くなった気がした。
しかし、藤本はそれを制し
「ううん、私もね、前日に電話したんだけど何にも気づかなかったから。遺書っていうか、殴り書きが残っていて『今までありがとう、じゃあまた』とか書いてあるわけ。死んじゃうっていうのに、またも何もないでしょ。最後まで、よくわからない奴だったのよ」
と慈しむように笑った。
「ああ、ごめんなさい引き止めて。もうお帰りかしら?」
「はい。ご家族にもよろしくお伝えください」
「ありがとう、お気をつけて」
お悔やみの言葉とやらを述べようかと思ったが、更に胸が悪くなりそうだったため会釈だけして歩き始める。諏訪に至っては呑気に手なんか振っている。
藤本の姿が見えなくなってから、諏訪が上機嫌な声で言った。
「いい女だよなあ」
「そうだね」
「長島は酷い男だよ、あんなイイ人を残して死ぬなんて」
自動ドアを抜けて外に出ると、むっとした熱気に襲われて目眩がする。ブレザーのボタンに手をかけている最中に、諏訪がジャケットを脱いで肩にかけてしまったため、青木はボタンを全て外したブレザーのポケットに手を入れてぶらぶらと動かした。
「ってことは、アイツは素人童貞じゃなかったってことか?エーブイと風俗で借金が膨らむ一方だとかいう話を俺たちは馬鹿正直に信じていたってのに、アイツはあんないい女とよろしくやってたのか」
不服そうな声音で諏訪がつらつらと文句を垂れた。
「長島は嘘をつくのが趣味だったのかもしれないな」
青木は、長島の無邪気なようでいて欺瞞的な笑顔を思い返して言う。
「わけがわからん」
「二十歳だというのも、ホテルの受付をやっているというのも、大槻ケンヂが好きというのも、全部嘘だったりして」
「人間不信になりそうだ」
「人間というのも嘘かもしれないよ」
「アイツは一体、なんだったんだ」
諏訪が数珠を掌で転がしながら笑い声をあげた。肌を焦がすように降り注ぐ夏の陽射しが、黒を纏った二人に突き刺さって、拭っても拭っても汗が滴ってキリがない。大きな雫が目に入って沁み、青木は瞼を痙攣させる。
「青木は、天国と地獄ってあると思うか?」
「無ければいいと思ってるけど、どうして?」
「いや、自殺するとどっちにも行けないって言うだろ。長島はどこに行くんだろうと思ってさ」
式場から離れて駅に近づいてくると、飲食店やコンビニがそこかしこに現れ人も増えてきた。有象無象をぼんやりと目で追いかけながら、死んだ後にまで個々の意識が続いていくなんて、どちらにしろ地獄じゃないかと嘆かわしい気持ちになる。諏訪は死んだ長島の身を案じているらしく、真面目くさった面で「自殺すると、魂がずっと彷徨い続けるって言うよな」などと喋っている。
「諏訪は、天国と地獄どっちに行きたいの?」
「そりゃあ、天国に決まってるだろ」
「そうか。じゃあ僕も天国がいいな」
「じゃあって何だよ」
青木はクスクスと喉の奥で笑って券売機で六駅先までの切符を買い、諏訪は「今日は彼女の所に行く、明日仕事だから」と、三駅先の切符を買った。諏訪に自宅というものが無いことや、彼女の家から職場までが近いことを知っていたため「うん」と返して、改札を通る。
諏訪は彼女の家で泣くのだろうかと考えながら、口を開けて待ち構えていた電車に乗れば、クーラーの恩恵を全身に浴びた諏訪が「あぁ、天国」と感嘆する。青木も「ここが天国か」と深く息を吸い込む。身体の内側にまで冷気が流れ込んできて、小さく咽せた。
二駅通過したところで諏訪が思い出したように「ちなみに、ヒトゴロシは地獄に落ちるらしい」と声を潜めたので、都市伝説を信仰する小学生を見守るような心境で、窓枠の中で次々と移り変わる風景をぼうっと眺めた。
アパートに帰ると、腰の曲がった大家がさらに腰を曲げて地面に水を撒いていた。ボタボタと重たい音がして、砂が水を吸ってまだら模様に色を濃くしている。頭のてっぺんで結われている髪を忙しなく揺らしていた大家は、やがて青木の存在に気がついて桶をその辺に置き、ゆっくりと近づいてくる。
「塩、かけてあげようかね」
「うん、お願いします」
葬儀場で貰った紙袋から小さなお清めの塩の袋を探し出して大家に手渡すと、それを乱暴に破って青木の背中に振りかけた。「はい、良いよ」と大家が中々に力強く背中を二度叩く。呼吸が一瞬止まったが、老人のこういった大雑把で豪快な振る舞いを気に入っていた青木は痛みを飲み込んだ。
大家は庭に置いている木製の椅子を二つ引っ張ってきて、「座んな」と言い、片方の椅子によたよたと腰を下ろした。青木がそれに倣らうと、大家はポシェットから青いステンレス製の水筒を抜き取って蓋の部分に中身を注ぎ「飲みな、冷えてるよ」とよこす。骨と血管が浮き出た皮の薄い手から、生白い手に青色のカップが渡る。
「ありがとう」
麦茶かと思って口に含むと、それは紅茶だった。よく冷えていて歯に沁みたが、美味い。「もう一杯ちょうだい」とねだると大家は満更でもないという顔で水筒を傾ける。
「お友達は?」
「諏訪はもう帰ったよ」
「そうなの。じゃあ寂しいねぇ」
今度は飲む前に香りを楽しむことにしたが、嗅いだところで特に何の感想も出てこなかった。らしくないことはやめようと思い、一気に飲み干して返却すると、大家もそのカップで紅茶をちまちまと飲み始める。
「二人は正反対のように見えるけど、仲がいいんだね」
「そう見える?」
「だっていつも一緒にいるじゃないの」
大家の言葉を受け、そうだろうかと思い返してみる。
諏訪は仕事終わりや休みの日にふらっと現れ、青木の部屋に何時間も居座ったり、そのまま布団で眠ったりもする。起きてから仕事に行ったり、休みだともう一泊していくことも多い。青木は学校に行く以外は基本家にいるが、諏訪が週に三度や四度は平気で訪れるため、自家の鍵を渡していた。何せ、お互いに電話機を持っていないから、いつ来るだとかいついないだとかの連絡が取れないし、家主が眠りこけている深夜であっても諏訪は遠慮なくドアを叩いて陽気に「早く開けろ」などとのたまうのだ。
そんな生活をもう一年も繰り返している。確かに、側から見たらいつも一緒にいると思われてもおかしくはない頻度だ、青木はむず痒くなった。
辺りは日が傾き始め、紅茶の香りに包まれる二人に影が落ちる。子供の騒ぐ声や蟬の鳴き声は息を潜め、スーパーの袋を提げた女やスーツ姿の男が歩いていくのが見える。ぐう、と腹から音がして、朝から何も食べていないことを思い出した。
「それに、彼が来るようになってから、青木くんは明るくなったように見えるよ」
大家がくぐもった声で、口をもごもごと動かす。耳の遠い老人に、腹の鳴き声は聞こえなかったらしい。
「それは、そうかな?そうかもしれない」
「ここに越してきたばかりの頃は、元気がなかったからね」
シワだらけの顔の中の黒く濡れた瞳が二つ、まっすぐに向けられる。落ち着かない気持ちになった青木は、その視線から逃れるように赤が滲み出した空を見上げて湿っぽい匂いを嗅ぎながら、去年の初夏の記憶を呼び起こす。
一年前、青木は痣と擦り傷と恥辱感を引きづりながらこの崩れかけのアパートに転がり込んだ。
息子をいたぶる事に喜びを覚える父親と、父と同じ性癖を持つ母親からの仕打ちにとうとう耐えきれなくなり、父親の醜く肥え太った腹の肉にアイスピックを突き刺して逃亡したのだ。ぶよぶよした分厚い肉からは、きっとドロッとした脂が噴水みたいに噴き出すんだろうと予想していたが、実際に出たのはほんの少しの血液だった。
父親と母親は、十数年もの間されるがままになっていた内気な息子の突然の反撃に驚いたらしく、呆然としていた。どうして加害者達は、無抵抗の被害者が腹の底で報復の機会を伺っているということを想像できないのだろう。偉い学者と言っても、所詮はお勉強だけできる平和ボケした阿保でしかない。
父親への攻撃に成功した青木は息が弾んで手が震えた。全身が心臓になってしまったかのようにうるさかった。札束と着替えだけを詰めた通学カバンを引ったくり、力の入らない足をがむしゃらに動かして家から飛び出して夜の道を駆けた。人生で初めて気分が良くなった喜びから、歌を歌った。道中のゴミ捨て場でむき出しのアコースティックギターがじっと佇んでいて、左頬を赤く腫らした青木は『傘がない』を口ずさみながらにこりと微笑み、つるりとしたネックをしっかりと掴んだ。
雨が降っていたのかどうかはもう覚えていないが、体がぐっしょりと濡れていて気持ちが悪かった。
諏訪と出会ったのは、その少し後だった。
その日、青木は放課後に楽器屋へ寄った帰り道、運悪く同級生数人に遭遇してしまいしつこく金をせびられていた。校内ではリスクを恐れてか絡んで来ないクセに、監視の目が届かない所で張り切りだすのが気に食わないと思い、「金は無い」と言い張った。実際に家を出てから節約に節約を重ねていたため嘘ではないのだが、家柄を知っている同級生は納得いかぬようで拳を振り上げた。殴られるのだろうと面倒くさい気持ちで目を閉じたが、しかしその数分後、彼らは惨めにも地面に転がっていて、手の甲の皮をズル剥けにした茶髪の男が彼らを見下していたのだ。
これが諏訪だった。
「どうして助けてくれたの」
のした男たちを放置して田んぼ道をのろのろと歩きながら尋ねると、諏訪は「イライラしてたから、誰でもいいから殴りたかった」と手を握ったり開いたりしながら殺人犯の犯行動機のような台詞を吐いた。伸びきった稲の大群が気持ちよさそうに揺れるのを横目に見つつ、じりじりと太陽に焼かれる。二つの足音が大げさに響く。自宅まで一生かかってもつかないのでは無いかと錯覚するほどに居心地が悪いのは、不自然な沈黙のせいだと気づいていた。
「それ、弦?」
諏訪は、青木が手に持っている楽器屋のビニール袋の中身に興味を示した。
「うん、アコギの弦」
「お前、ギターが弾けるのか?」
「少しだけ」
どういうわけか、咄嗟に嘘をついた。数日前にギターを拾ったものの、弾き方なんて全く分からずに置物と化していたのに。しかし、諏訪がこの時初めて笑顔を見せて「見かけによらず、かっこいいな」と言うので、訂正する機会を失ってしまった。仏頂面で目つきの悪い男のことを怖いとすら感じていたが、笑った顔は意外にも幼い。
「君、いくつ?」
「十七。お前は」
「僕は十六、高一」
「その制服は二岡高校だろ、頭のいい坊ちゃんなんだな」
「そんなことない、親に言われたから通ってるだけだよ。君はどこの高校?」
「俺は高校にゃ行ってないんだ。駅前の冨山製鉄所ってところであくせく働いてるよ」
諏訪が所々黒く汚れた作業着に入っている「冨山製鉄所」という刺繍を指差す。その五文字を目で辿ると、青木は自分が身にまとっている汚れひとつ無い薄っぺらい制服を無性に恥ずかしいと思った。
「なぁ坊ちゃん、今度聞きに行っていいか」
「何を」
「ギターに決まってるだろ」
「別にいいけど」
アパートの名前と最寄駅と簡単な経路を教えてやると、諏訪は手の甲に油性ペンを走らせた。細かい汗でてらてらと光っている小麦色の肌に、ミミズのような黒い字の羅列が這う。
もちろん冗談だろうと思った。別れ際になんとなく思いつきで言ってみただけだろうと。仕事に戻ると言っていたから、どうせインクも落ちてしまうし、そうしたら男は今日のことなんてすっかり忘れてしまうはずだ。第一、お互いの名前すら知らないのだから、と。
来るわけがないと繰り返し唱えながらも、家に帰ると買ってきた弦を張り、「アコースティックギター入門書」というタイトルの教本を開いた。
「来るわけないだろ、絶対に来ない」
独り言ちて、ペグを回して弦を引っ張る。
「でも、万が一来てしまって嘘がバレるのは困る」
誰に向けたのかわからないその言い訳は、部屋に立ち込める不快な熱に溶けて消えた。畳がズボンから滲み出た汗を吸う。青木は食事を摂るのも忘れ、ただ黙々と弦を抑えてコードを暗記し続けた。歴史の年号や英単語を覚えるよりもずっと簡単で、一つ一つの音をしっかりと噛みしめながらあらゆるコードを鳴らしていった。
翌々日、青木の期待通りに諏訪はアパートにやって来た。しかし、「ギター少年はどこだ」と大声を出しながら各部屋を回るという暴挙に出た諏訪に部屋番号を教えておかなかったことを後悔した。
「一度、小さいハコで一緒にやったこともあるんだ。僕がギターを弾いて、諏訪が歌って」
青木は大家に、諏訪との出会いを簡単に話して聞かせた。もちろん、越してきた理由は伏せてだが。人からどう見られるかなんて滅多に気にしないタチだが、どうしてか、大家には両親のことを知られたく無かったのだ。背景を知った大家に哀れみの目を向けられたり、避けられたりすることを想像すると、小さな針で胸をつつかれているような心地になって落ち着かなくなる。
「すごいじゃないのさ、二人とも音楽が好きなんだねぇ」
大家が嬉しそうに言うが、青木は答えない。代わりに、長島の顔をぼんやりと思い浮かべた。
「死んだ奴とも、そのハコで出会ったんだ」
「事故?」
「ううん、自殺」
「そうかい、それは悲しいねぇ」
大家が本当に悲しそうな声でそう言って俯いたので、心底驚いた。見ず知らずの人間の死に心を痛めるだなんて、優しい人間もいるものだ。
「じゃあ、そのお友達の分まで、青木くんが生きてやんないとね」
今度も答えずに、曖昧に口角を上げて目を細める。
大家を部屋まで送り、階段を登っている途中で鍵を作り直すべきかと考えた。諏訪がなくした鍵が誰かの手に渡り、物取りでもされたらと想像したところで、こんな見るからに金がなさそうな家に強盗をしに来る奴なんていないだろうと結論付けた。
ローファーを脱ぎ紙袋を放り投げてネクタイに手をかけたところで、微かに煙草の香りが残っていることに気づき、電気も付けず肺が苦しくなるほどに空気を吸う。そうして余計に虚しくなって、壁にもたれて黙っているギターケースに目をやった。
「本当は、音楽なんて別に好きじゃないんだ。でもそう言っていた方が都合がいいから、そういう事にしてるだけなんだよ」
ネクタイとブレザーが畳の上に落ちる。その亡骸に見向きもせずに、冷蔵庫を開けて麦茶が半分ほどに減ったポッドを取り出して、中身を流し台にぶちまける。置きっ放しにしていたグラスに飛沫がひっかかった。キャビネットの中からティーパックを探してポッドに入れ、水道水を注ぐ。暗闇の中で、透明な水が茶色く染まっていく。
「長島の分も生きるなんてのは、無理だと思うな」
青木は、母親がこの家を訪ねてきた時のことを思い返していた。父親は、「息子に刺された」なんて素直に言えば社会的地位を脅かすと思ったらしく、自分の不注意で怪我をしたと医者に説明したという。外面だけはいいコイツららしいな、と青子は小さく笑った。母親は、今回の件は絶対に口外しないようにと釘を刺して、代わりに高校を卒業するまでは一人暮らしを認めることとそのための金銭的な援助をすることを約束した。そして「あなたが行く大学は私達が決めるから、それに従ってちょうだいね。高校を卒業したらまた家に戻ってくるのよ、ねぇ、次に勝手なことをしたら、お父さんは何をするかわからないんだから。あなたは、私達の可愛い一人息子なんだからね」と朗らかに死刑宣告をして、鈍い音を立てて扉を閉めたのだ。
「戻ったらまた、好き勝手に弄くり回されるんだ。今度はもう逃げられないだろうから、それが僕の寿命だろうな」
誰にも拾われない言葉が次々と死んでいった。
ポッドから水が溢れ出したため蛇口を閉めると、途端に瞼が重くなってその場にうずくまる。今日は、よく喋ったから疲れた。空っぽになった腹が悲鳴を上げていたが気にしてやる余裕もなく、畳に敷いてある布団まで這っていく気力もなく、諦めてコトンと眠りに落ちた。
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