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第一章 幻との邂逅

1-4 招かれざる客、麗銀の力

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 フィーナは事情聴取後、即座に他のギルド職員に情報を伝達した。ギルド総出で手の空いている階級の高い幻導士エレメンターがリストアップされていく。

 白羽の矢が立ったのは、このギルド最強とも噂される麗銀級の三人組。

 一人はオーガスタス・マッシベンという、巨大な戦鎚バトルメイスを背負った巨漢で、はち切れんばかりの筋肉と濃い体毛が苔むした大岩を連想させる。幻導士の間では「神代巨像ギガース」と呼ばれ、いたって面倒見も良く、ここ一帯の幻導士のリーダー的存在として慕われている。

 二人目はカミラ・スオードナイトという女性幻導士。切れ長の目に金髪、白い鎧に白い盾、これまた白い直剣を装備した、通り名「聖騎士パラディン」の概念が具象化されたような麗人だ。最前線で敵の攻撃を一身に受ける盾役を務め、美しい装備のあちこちに古傷が見られる。

 三人目はサイラス・メイジシャン。学者にも見える小柄で痩せた体に、薄汚れた長い杖、目が隠れるほど深く被ったとんがり帽子がトレードマークの無口な男だ。腕は確かだが口数は極端に少なく、その不気味さから「亡霊(ファントム)」で通ってしまっている。それを本人がどう思っているかは不明。

 一見バラバラな3人がパーティを組んでいる理由は、二人曰く幼馴染の腐れ縁。だが、縁だけで組み続けられるほど幻導士の世界は甘くない。相互の能力、呼吸が噛み合ってのギルド最強であることは本人以外の誰もが認めるところだ。

 一応リーダーを務めているオーガスタスが、フィーナから交雑熊ハイブリッドベアの話を聞き、快諾した。

「すぐに向かいます。魔物の血が混ざった奴を、野放しにはしておけませんから」
「急な依頼を引き受けていただき、ありがとうございます」
「何、緊急事態を解決するのが俺達の役目です。何よりフィーナさんからの頼みとくれば、たとえ火の中水の中──」

 まあ……こういう事情も混じっていたりする。カミラがため息をついた。

「おい。すぐに向かうんじゃなかったのか」
「……『順風テイルウィンド』」
「おぉっ!? おいサイラス、こっちの準備がま──」

 サイラスは催促の代わりに術式を呟き、三人は空荷の馬車を凌ぐ速度で駆け出す。オーガスタスの言葉が急速に引き延ばされ、低く小さな音へと変わっていく。
 風属性幻素(エアロエレメント)の特性は「疾駆と拡散」。人の身体に付加術エンチャントとして施せば、驚異的な速度で長距離を移動できる。無論、鍛え抜いた肉体がなければ負荷に耐え切れず怪我をするが。
 突然の風に帽子を抑えて屈んだフィーナは、姿勢を正し、既に見えなくなりつつある三人の背中に祈る。

「どうか、これ以上の犠牲が出ませんように」







 森の中でシェラとテレザは、牧場主から教わったモリキノコの群生地のすぐ手前まで来ていた。

「あ、向こうが開けてますよ!」

 息を切らしたシェラが、額に浮いた汗をぬぐう。危険な痕跡がないかは勿論、匂いが分からぬよう風下を選んで慎重に進んできたために心身とも消耗は激しいが、やっと目的地に着けた喜びに頬が緩んだ。
 しかしテレザの顔に安堵はなく、むしろ怪訝そうに形の良い唇を歪ませていた。何をそんなに気にしているのかと、シェラは尋ねる。

「どうか、したんですか?」
「シッ。……向こうから、何か臭う」
「へ?」

 言葉と同時、テレザに伏せるよう手で合図された。ひんやりとした地面を頬の間近に感じる。
 先に何かが来ているのだろうか? シェラの鼻では、自分の下の土の匂いしかわからない。もし向こうにいるのが猛獣なら、自分は気づかず前に進んで、哀れな被食者となっていただろう。そんな想像がついて一気に血の気を失う。ガタガタと震える手でローブを固く握りしめた。

「大丈夫。そういう恐怖は、幻導士に必要な資質よ」

 そんな臆病なシェラの手を、囁きと共に一回り大きな手が包み込む。

「私がいるから。ね? さ、しっかり息を吐いてー、まだ吐いてー……はい、吸って良いわよ」

 言われるがままシェラは肺を空っぽにして一気に吸う。すると、不思議と呼吸が整い、震えも止まった。同時に、冷えきった手に体温が戻ってくるのが分かる。

「すー、はー……」
「落ち着いた?」
「は、はい。ありがとうございます。それで、向こうの様子は……」
「そうね……この距離じゃまだ、何かこっちに向かってることしか分からない。私が見てくるから、あなたはここで待ってて。何かあったら、すぐ引き返してちょうだい」

 シェラの返事を待たず、テレザは音もなく木々の間を抜けてキノコの群生地へと踏みいる。背の高い草の陰に隠れてじっと音の出所を見極めていると、果たして森の中から何かを引きずる音、そして小さく呻くような声が聞こえた。臭いも同時に強まり、シェラの鼻でも嗅ぎ分けられるようになる。
 これは……血の臭いだ。やがてテレザの前に姿を現したのは、異様な雰囲気を纏う熊だった。

「こりゃ大物ね」

 体色こそフォレストベアらしく薄茶色、体長も大きく見積もって三メートルほど。ウォーグリズリーとしては小さいが、その瞳は真っ赤に染まり、完全に魔物のものと言って良い。手足も爪も太く、長く発達し、フォレストベアの皮を被ったウォーグリズリーという表現がしっくりくる。

「(被害者の救出は……無理ね。もう助からない)」

 口に咥えられた幻導士は、ここに来るまでに何度かつまみ食いされたのだろう。顔の皮は丸々剥がされ、左の手足は付け根の骨を残して食い尽くされていた。それでもまだ辛うじて息はあるようだが、本人にとっては不幸でしかない。臭いのもとはこれか。

「ひ、うっ……!」

 事態を悟ったシェラは口を押さえ、必死で悲鳴と嘔吐を噛み殺した。しかし完全に腰が抜け、逃げ出すどころではない。牧場主の話にあった熊とはこいつだったようだ。それがまさか交雑熊ハイブリッドベアだとは、テレザにとっても予想外である。
 万全ならともかく病み上がりの今、テレザ一人で倒せるという自信はない。

「……」

 テレザの取った選択は、待ち。熊の顔には傷があった。恐らく、開けたこの場所でゆったりと獲物を貪るはずだ。より悲惨な姿にされる犠牲者には申し訳ないが、その隙に逃げることにする。一層息を潜め、交雑熊の行動をじっと観察する。幸い熊は獲物に夢中なようで、ゆっくり食べられる場所を探して歩き回っている。テレザの隠れている茂みに来る気配はない。

「(不謹慎だけど、この血の臭いは助かった。こちらの存在が割れることはないし、今のうちに逃げましょう)」

 熊が獲物を地面に置き、改めて食いつこうとする。それを確認して、テレザがシェラの元へと戻ろうと静かに移動を始めた、まさにその時。

サクッ

 小さな音がした直後、熊の唸り声が響く。何事かと思ってテレザが振り返ると、完全に死に体と思っていた幻導士の残った右腕が何と持ち上げられ、指先に形成した刃で熊の顔についた傷を抉っていた。どうやら金属性幻素メタル・エレメントの使い手だったらしい。驚嘆すべき生命力と執念だが、テレザとしては全く嬉しくない悪あがきである。

 怒り狂った熊は目を爛々と赤く滾らせ、小癪な抵抗を見せた幻導士の目掛け、前足を力任せに振り下ろした。強烈な圧迫を受けてへし折れた肋骨が勢いよく体外へと飛び出し、爪で切り裂かれた脇腹から内蔵がダラリと垂れ下がる。一瞬だけ大きく痙攣し、今度こそ幻導士は息絶えた。

「うっ……! オェッ、げほっ」

 丁度光景が見えてしまい、シェラは堪えきれず木陰で嘔吐した。
 熊の怒りはなお収まらないようで、やおら遺体を口にくわえ直して首を捻り、放り投げる。鮮血をまき散らしながら宙を舞った遺体は、あろうことかテレザの潜む草陰を直撃した。

「ちょっと! ……ったく。最悪だけど、やるしかないわね」

 立ち上がったテレザは、振りかかった血と草を払いのけながら熊を睨み据え、構える。
 なぎ倒された草の中から突然姿を現したテレザに、熊は一瞬動きを止めた。しかし驚きよりも怒りが上回ったらしい。牙を剥きだし、涎をまき散らしながら突進する。

 当然だが、熊の身体能力は人間とは比較にならない。人間が歩きにくいと感じる道であっても、熊は平然と走破できる。その最高時速は五十キロを超え、馬に追いついたなんて話もある。太い毛の密集した毛皮と皮下脂肪を鎧、発達した手足を凶器として、熊は生態系の頂点に君臨している。

「そんな化け物に人間が勝つには……」

 非力な人間は、彼らに対抗する術を磨いた。幻素エレメントの術式はもちろん、相手を研究し、何をしてくるのか予測し、有効な戦術を立ててきた。
 例えば、熊に代表される四足動物の突進に対しては……

「ギリギリまで引きつけて、斜め前に転がる!」

 テレザは地面を転がり、熊のすぐ脇をすり抜ける。横や後ろに避けようとしても、尋常ではない脚力で追いつかれる。だがどんな動物であろうと、急に後ろに進むことは不可能だ。

「そして後ろを取ったら、重い一撃を!」

 熊が振り向くより早く、攻撃の構えを取る。左足を前に出した半身の姿勢から左の手の平を照準のように熊の顔の高さへ掲げ、右拳は固く握りこんで腰の横に。
 拳から陽炎が立ち上り、やがて赤々とした炎が渦を巻く。彼女が扱うのは炎属性幻素(フレアエレメント)。「燃焼と爆発」を特性とし、優れた攻撃力・制圧力を誇る反面、制御が難しく燃費が悪い。

 牙を空振りした熊が忌々し気に振り向くその瞬間。拳に宿った炎が一本の杭を象る。そしてテレザが腰をさらに落とし、地面を蹴った。

「爆ぜよ、剛拳──『熱杭ヒートパイク』!」

 渾身の右正拳突き。
 熊の顔面に燃える杭が打ち込まれ、肉を焼き焦がした。さらに杭は内部で爆発し、強烈な破裂音と共に森の中へ吹き飛ばす。反動で数歩後退し、テレザは煙の向こうを見つめる。

「……痛っ」

 右の脇腹に鈍い痛みを感じ、顔をしかめる。

 熊にやられた傷ではない。先日ハイオークを討ち取った際に末期の悪あがきをもらい、肺まで達そうかという重傷を負っていた。病み上がりの体にいきなり全力の負荷をかけたせいで、その傷の痛みがぶり返したか。

「まずった……熊、死んでてくれないかしら」

 炎属性幻素フレアエレメントの制御において、テレザの技量は相当高い領域にある。『熱杭ヒートパイク』は本来、大きな杭を作っての範囲攻撃として知られている。だが彼女は拡散しやすい炎を籠手に凝縮し、敵の体内に撃ち込んで爆発させることで、高い威力をそのままに幻素の消費を大幅に抑えることに成功している。

 そんなテレザの一撃をモロに喰らってなお、熊は森から戻ってきた。顔の左半分は焼き潰され、白い頬骨が一部覗いている。浅く荒い息遣いから、重傷を負っているのは間違いない。
 が、まだ目の前のテレザに一撃入れる程度の元気はある。そしてその一撃をモロに喰らえば、テレザは死ぬ。

「まだやる気満々って感じね。良いわ、死ぬまでぶん殴ってあげる」

 痛みを闘争心で抑え込み、テレザは熊の潰れた左目側へと回り込み続け、間合いを計る。

「うわ、ぁ……」

 シェラはテレザの戦いぶりを見て、呆けたような感嘆の声しかでてこなかった。熊の突進を回避して後ろに回り込み、即座に大威力の反撃を撃ち込む。馬車で読んだ図鑑にはそれが最善と書いてあったが、それが簡単に出来たら誰だって苦労はない。

「そうだ。ギルドに戻って、連絡を……」

 ここにいても、シェラに何かできるわけではない。元来た道を戻ろうとして、足音に気が付く。咄嗟に近くの木に隠れ──る間もなく、足音の主は彼女の元にたどり着いてしまった。
 毛むくじゃらの大男と、白い鎧の美人と、亡霊のような男の三人組。シェラを見ると、彼らの顔は少し和らいだように見えた。

「お前、生存者か! 怪我はないか!?」
「あ、う……」

 大男が目を見開いて、間近に顔を近づけて安否を聞いてきた。悪気はないのだろうがシェラからすると、遠目で見ていた熊よりもこの男のほうが怖い。

「やめろオーガスタス。お前に怯えきっているじゃないか……。私は、カミラと申します。ギルドより救援に参りました、ご安心を」

 額に手を当てた美人が、大男をシェラから遠ざけた。座り込んでいるシェラに視線の高さを合わせ、丁寧に名乗る。差し出されたギルドの階級票は、麗銀級。シェラは安堵しつつ、自分の知る情報を伝えねばと口を開いた。

「あ、ありがとうございます。今……!」

 テレザさんという幻導士が、病み上がりの体で対峙しているんです。そう伝えたいのだが、シェラは焦るあまり言葉を舌の付け根で渋滞させてしまう。だがオーガスタスはその様子から、何となく言いたいことを察した。

「急いで救援に入るぞ! サイラス、奴の気を引いてくれ。その隙に救出を――――」
「……『風鋏エアロシザース』」

 オーガスタスが言い終わる前に、サイラスと呼ばれた亡霊のような男は術式を完成させていた。真空の刃が、テレザに飛びかかろうと身構える熊、その付近に生えた草を一斉に刈り取り、気を逸らす。

 同時にカミラが駆け出し、テレザと入れ替わるように熊と相対する。

「救援に参りました!」

「え!? よく分かんないけどありがとう!」

 新たな挑戦者にいら立ちも露わ、荒い鼻息とともに熊が立ち上がって威嚇する。そのまま両腕を大きく広げ、カミラを抱きしめるように腕を振り下ろす。
 いわゆるベアハッグ。その恐怖の一撃を前にして一歩も引かず、カミラは盾で衝撃を受けきった。

「……すっご」

 その卓越した技量を目にしたテレザがぽつりとこぼした賞賛は、

「そこだぁぁあ!!」

 その隙を狙っていたオーガスタスの怒号にかき消された。その巨体からは考えられないほどのスピードで戦鎚バトルメイスを地面スレスレに構えたまま熊の懐へ飛び込み、天まで届かせんと振りぬく!

「必!殺!『全開衝打フルイパンクト』!!」

 顎に打ち付けられた戦鎚バトルメイスの尖端は顎関節をひしゃげさせて脳にまで達し、三百キロはゆうに超えるだろう巨体を仰向けにひっくり返した。手足を目いっぱい伸ばしてビクッビクッと不気味に痙攣を続ける熊だったが……やがてそれも収まり、森は元の静寂を取り戻した。
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