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第二部
Act.5 老人と孫
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処刑開始から四日目の今日、キリエはムータロに朝食を取らせて寝かしつけると、有給を申請し職場を後にした。そしてその足で王都郊外の実家に向かう。賃貸馬車と歩きで45分ほど。森に面した閑散とした住宅地の中の一軒、三方を生垣で囲った横板張りの瀟洒な木造住宅。小さな庭を横切り、胡桃材のドアをノックすると、ガチャリと鍵が開き、目当ての人物はすぐに現れた。
「おお、久しぶりじゃのう」
古の魔法使いじみた白髪と白髭。長年の風雨にさらされ続けた枯れ木のような痩身に、地色のゆったりした作務衣。やや白みを帯びてしまった瞳は、しかし未だその柔和さの奥に鋭さと知性を湛えてキリエを見上げている。
法曹一筋で長年勤め上げ、最後には検察長官にまで上り詰めた後、退官。その後は多くのオファーを固辞し、通常の再雇用として今は主に若手たちの指導にあたっているその小柄な老人。キリエの祖父である。
「久しぶりに連絡が来たかと思えば、急に会いたいとはの。何かあったか?」
「うん……ちょっと話があって」
玄関をくぐりながらそう言った孫娘の目の下には、黒ずんだ隈がはっきりと見て取れた。冷たいグレーの瞳は、そこはかとなく、追い詰められた肉食魔獣のような、憔悴した危うい光を帯びているようにも見えた。なんとなく予期していたが、やはり、どうやら楽しい話ではなさそうだった。
「仕事のことか?」
心なしか硬い口調になって祖父は問うた。
彼はキリエが処刑官として働いていることを良く思っていない。
彼女が持つ特殊な気質のことは承知している。
管理局の監獄の薄暗い地下で、自分の孫娘が何をしているのか。
そんな仕事の話など聞きたくも無い、というのが、彼の偽らざる思いだった。
「……それも関係あるけど」
廊下を歩き、二人は応接間に入る。
遮音魔術が効いた窓のないこの部屋は、沈鬱で灰色の、まったりと重い静けさで満ちていた。
「とにかくまあ、座りなさい」
祖父は孫娘にソファを勧めた。
キリエは背もたれには体を預けず、組んだ手を閉じた膝に乗せ、そこに視線を落とし、やや背を丸めた姿勢でソファに座った。
祖父は彼女のその姿に懐かしさを感じた。そうだった、キリエは小さな子供の頃、何か良くないことをしてお説教をされるときは、よくこんな姿勢をしていたものだった。
(ま、文字通り大きくはなったが、まだまだ子供みたいなもんじゃからの……)
二人はソファに座って、黒檀の小卓子を挟んで向かい合った。
キリエは目を伏せたまま、しばし沈黙。
祖父は何も言わず、彼女が話し出すのを待った。
やがて孫娘は、目を伏せたまま弱々しく切り出した。
「……どうして教えてくれなかったの?」
何を? と祖父が問うより早く、キリエは続けた。
「わたし、双子のピッグスがいるんでしょ」
† † †
腹が疼く。
喉が乾く。
肺が熱い。
頭が重い。
首が痒い。
骨が痛い。
息が辛い。
汗が臭い。
目が回る。
耳が鳴る。
鼻が詰る。
おしっこしたい。
うんこしたい。
嘔吐したい。
動きたい。
でも。
腕が無い。
脚も無い。
何も無い。
動けない。
そう、おれは。
動けない、何もできない、脂肪塊。
妙に韻を踏んだ言葉たちが、熱で茹で上がった脳を駆け巡った。
不快。あらゆる身体的不快さが、いま彼を襲っている。
腹の中心に縦に走る縫合痕。その裏側の部位が、化膿していた。
雑菌による感染症であった。
「うぅぅ……ぅぅぅぅぅ…………」
漏れる呻き。
朦朧とする意識の中、ふと、何者かの気配を感じた。
根元から四肢切断された今はなき右手側のベッド脇に、誰かがいる。
埋没縫合処置された首を無理やり回し、なんとか顔をそちらに向けた。
(あ、あ、あああ………!)
そこにいたのは、いつか夢に見た見知らぬ若い男女だった。
彼らは困ったような、悲しんでいるような表情を浮かべて、こちらを見下ろしている。
女が手で顔を覆って肩を震わせ始めた。
男が彼女の頭を胸に抱き、何事か慰めるように声をかけている。
彼らのその姿に、ひどく懐かしい感覚があった。
同時に、ひどく寂しい確信があった。
彼らは、自分を捨ててどこかへ去ってしまうのだ。
ほどなくして、彼らは背を向けた。
確信の通りに。あたかも予定調和のごとく。
(……嫌だ、もう置いていかないで……おれも一緒に、そっちにいくから……)
管理局地下七階=キリエ専用フロア。
その中の一室、受刑者拘留室。
高さ1.5メートルに設定された介助機構付き寝台の上。
夢と現の間、病熱の苦悶の中で、ムータロは力を振り絞って、少しずつ、緩慢な芋虫のように、ベッド端へ向かって背中で這いずり始めた。
† † †
「なんと……では、あの青年が……」
キリエの説明を聞いた祖父が、抑制された驚きの声を上げた。
「やっぱりそうなんだね……。おじいちゃんはどこまで知ってたの? 可能性はあるとは思ってた、って感じなの?」
詰問する孫娘に、祖父は説明した。
キリエに双子の兄がいることは事実であること。
だがムータロが当人だということはもちろん知らなかったこと。
公開されている管理局の日報を読み、ちょうど年齢が合致したピッグスが収容されたことを目にする度に、会いに赴いて司法取引を持ちかけていたこと。
「そっか……。だけどそもそも、最初に聞いたけど、どうして教えてくれなかったの?」
すると祖父は、苦虫を噛み潰したような顔になってこう答えた。
「……本当は、お前が分別つく年頃になったら教えようと思っておった。じゃが、あのピッグスたちにお前は何をした? あれを見て、わしは心底悲しかった。お前の兄の件はもう、わしの胸だけにしまっておこう、と思ったよ。怖かったんじゃ。もし教えたら、いつかお前がお前の兄を探し出して、嬉々として同じように残酷な行為を行うのではないかと」
“あのピッグスたち”とは、キリエが数年前、医学生だった頃に、祖父のコネで管理局から調達してもらった人体実験用のピッグスたちのことだった。確かに彼らに対しては、いま処刑官としておこなっていることほどではないにせよ、それなりに苛烈な処置を施した。
だが、それは彼らが赤の他人だったから出来たことだ。
いくらなんでも自分の兄に対し、
「そんなことするわけないじゃん………!」
キリエは祖父に対し怒りが湧き上がるのを感じた。
祖父が自分をそういう人間だと思っていた、ということが悔しかった。
しかし今はそのことをぶつけている場合ではない。
胸に溜まった息を吐ききり、気を取り直すと、ムータロ救出の可能性を探求することに専念する。
「その司法取引って、今からは無理なの?」
「無理じゃ。手続き上、それはもうできん」
「だったらまた、あのピッグスたちみたいにはできない?」
「……いや、残念じゃがそれも難しい。まず、当時の管理局は色々と緩かった。それにあの頃の管理局局長はわしの法曹学生時代の同期で、友人じゃった。だが奴は……すでにこの世にはおらん。今の局長はずいぶん若いようじゃし、もはやわしのコネクションなど無いに等しい」
キリエがもっとも期待していた展開は、早くも崩れた。
いろいろと顔の効く祖父ならば、と思っていたが、そう簡単ではないらしい。
「お前としては、どうするつもりなんじゃ?」
祖父はキリエに水を向ける。
キリエは、自分がなんとかこっそりとムータロを連れ出せないか検討しているが、そこにひとつ、大きな懸念がある旨を話した。
「なるほど、獄司に怪しまれている、とな……」
「うん。なんでかわたし、そいつに嫌われてるみたいで」
「どんなやつじゃ?」
キリエが獄司の特徴を伝えると、祖父はすぐ合点したようだった。
「ああ、あの獄司の彼じゃな。会ったよ。ずいぶん体格のいい」
「そうそう、そいつ。すごく嫌な奴なの。ほんと、あんなやついなくなれば……」
と、キリエは毒づき始める。
すると祖父はたしなめるように、キリエに幼い頃から繰り返し教えてきたことを言った。
「キリエよ。あまり他人を悪く言ってはいかん。お前が思っている以上に世間は狭い。他人にはなるべく良くするに越したことはない。縁というものは不思議でな、良くも悪くも、お前がしたことは結局、お前に全て帰ってくるんじゃぞ」
今回だってそうじゃろう。
祖父はそう思ったが、そこまで言葉にはしなかった。
それはいまキリエがいちばん実感しているはずだからだ。
†
二人はそれから1時間ほど話したが、妙案は出なかった。
「さて、話が煮詰まって来たな。なんとか出来んか、わしも動いてみよう。お前もいろいろ検討しておくんじゃ。くれぐれも早まった真似はいかんぞ。連携は緊密にな。”ゲート”では形が残ってしまうから、何かあれば念のため、こうして直接話した方が良いじゃろう」
うん、わかった。と言ってキリエがソファを立つ。
キリエは背を向けて歩き出し、部屋を出ようとする。
そのとき、祖父が後ろから硬い声をかけた。
「ときにキリエよ、彼は今、どうなんじゃ」
ムータロの何がどうなのかを省いた尋ね方。
この問いには二通りの解釈があった。
ムータロがいまどんな状態なのか。
ムータロがいま何をしているのか。
祖父がどちらを念頭に置いているのかは、聞くまでもなかった。
だがキリエは顔だけで半分振り返ると、下唇を噛み、目を伏せてこう答えた。
「彼は…………… ひとまずご飯をたべて、今は眠ってるはず」
祖父のその問いに対し、誠実に答える勇気を持てなかった。それほどまでに、自分がムータロに施した処置は惨いものだった。
「そうか…… ならよいんじゃ」
察することに長けた奥ゆかしき老人は、今はそれ以上を聞かなかった。
† † †
===================
お元気かしら?
この間はばったり会って、お話楽しかったわ。
市場で食材を色々買っていたようだけど、誰に作って食べさせたのかしら?
キリエちゃんの作った料理を食べられるなんて、本当に幸運な殿方ね。
ところで、最近少し元気が無いんじゃなくて?
きっと色々悩みや気になることがあるのね。
大丈夫、恋の悩みならこの私に任せなさい。
これでも昔はずいぶんもてたものよ。たくさんの男の子たちが私を争ってそれはもう…………って私ったら、最近こうやってすぐ昔の話を始めちゃうのよね。やっぱり歳なのかしら? ほんと、歳はとりたくないわねぇ。
というわけで、久しぶりにお茶でもいかがかしら?
キリエちゃんならいつでも大歓迎よ。
来るときはメッセージちょうだいね。美味しいお茶請けを用意しておくから。
それじゃ、待ってるわね。
===================
実家から戻ってみると、キリエ宅の”ゲート”にはそんなメッセージが届いていた。
送信元を見ずとも、文面だけで誰からなのか分かる。
いつもながら上機嫌な文面である。彼女はきっと常に上機嫌なのだ。
だがキリエは、
(ほんっと、なんて空気の読めないメッセージなの……)
正直、そう思ってしまった。
キリエは最近、マーガレットのことを避け気味だった。
別に嫌いになったわけではない。ただ彼女は、キリエにとって避けたい方面の話題を、察することなくぶっこんでくることが多々あり、それをかわすのを最近少し面倒に感じてきたのだ。
そもそも今は、お茶などしている場合では無い。
キリエはメッセージを無視した。
さて、そんなことより一刻も早く、ムータロ救出の手法を考え出さねばならない。
時間は限られているのだから。
今日のように有給を取って処刑完了日までの時間稼ぎという手もあるけど限度があるし、それにムータロの体力だっていつまで持つかわからないし、でも今日はもう有給取っちゃったから世話しに行ったら処刑完了日迫っちゃうし、そしてなにより、あの獄司のことをなんとかしないといけないし、あいつが周りのみんなにある事ない事いろいろと喋ってるかもしれないし、いやあいつのことだから絶対喋ってるだろうし……………… ああもう、どうすればいい………
だめだ。だいぶ頭が疲れていて、このまま考え込んでも妙案が浮かぶ気がしなかった。
(はあ……)
ベッドに倒れ込んで溜息をつく。
するとふいに、今日会話した祖父の言葉が脳内再生された。
──他人にはなるべくよくしておくに越したことはない──
それはその通りだと思うけど、今はそんな状況じゃないでしょ。
と、キリエも脳内で反論する。すると、
──縁というものは不思議でな──
と、脳内祖父から再反論。
キリエはまぶたの裏に、マーガレットのあの朗らかな顔を思い出す。
ボリューミーなブルネットヘアー、年齢の割に大柄な体格。
止まらないマシンガントーク、なんでも自分に都合の良いように解釈してしまう曲解能力。
疲れる相手ではあった。
それでも、嫌いにはなれない人だった。
枕に顔を埋め、そこに染み付いた自分の髪の匂いを呼吸しながら、キリエは思う。
”自分がしたことは結局、自分に全て帰ってくる”んだっけ。
じゃあ私が今日、寂しがりの老婦人のお茶の相手をしたら、一体何が返ってくるっていうのかな。
──お前が思っている以上に世間は狭い──
と、またもや脳内祖父。
(ああもう、頭ん中でうるさいよ…… わかったわよ。よくわからないけど、とにかく分かったから………)
†
脳内祖父の執拗な説得に根負けしたキリエはベッドから体を起こした。
そして、「今日、少しだけ大丈夫ですか」と、メッセージを送信した。
返信は、その5秒後に来たのだった。
「おお、久しぶりじゃのう」
古の魔法使いじみた白髪と白髭。長年の風雨にさらされ続けた枯れ木のような痩身に、地色のゆったりした作務衣。やや白みを帯びてしまった瞳は、しかし未だその柔和さの奥に鋭さと知性を湛えてキリエを見上げている。
法曹一筋で長年勤め上げ、最後には検察長官にまで上り詰めた後、退官。その後は多くのオファーを固辞し、通常の再雇用として今は主に若手たちの指導にあたっているその小柄な老人。キリエの祖父である。
「久しぶりに連絡が来たかと思えば、急に会いたいとはの。何かあったか?」
「うん……ちょっと話があって」
玄関をくぐりながらそう言った孫娘の目の下には、黒ずんだ隈がはっきりと見て取れた。冷たいグレーの瞳は、そこはかとなく、追い詰められた肉食魔獣のような、憔悴した危うい光を帯びているようにも見えた。なんとなく予期していたが、やはり、どうやら楽しい話ではなさそうだった。
「仕事のことか?」
心なしか硬い口調になって祖父は問うた。
彼はキリエが処刑官として働いていることを良く思っていない。
彼女が持つ特殊な気質のことは承知している。
管理局の監獄の薄暗い地下で、自分の孫娘が何をしているのか。
そんな仕事の話など聞きたくも無い、というのが、彼の偽らざる思いだった。
「……それも関係あるけど」
廊下を歩き、二人は応接間に入る。
遮音魔術が効いた窓のないこの部屋は、沈鬱で灰色の、まったりと重い静けさで満ちていた。
「とにかくまあ、座りなさい」
祖父は孫娘にソファを勧めた。
キリエは背もたれには体を預けず、組んだ手を閉じた膝に乗せ、そこに視線を落とし、やや背を丸めた姿勢でソファに座った。
祖父は彼女のその姿に懐かしさを感じた。そうだった、キリエは小さな子供の頃、何か良くないことをしてお説教をされるときは、よくこんな姿勢をしていたものだった。
(ま、文字通り大きくはなったが、まだまだ子供みたいなもんじゃからの……)
二人はソファに座って、黒檀の小卓子を挟んで向かい合った。
キリエは目を伏せたまま、しばし沈黙。
祖父は何も言わず、彼女が話し出すのを待った。
やがて孫娘は、目を伏せたまま弱々しく切り出した。
「……どうして教えてくれなかったの?」
何を? と祖父が問うより早く、キリエは続けた。
「わたし、双子のピッグスがいるんでしょ」
† † †
腹が疼く。
喉が乾く。
肺が熱い。
頭が重い。
首が痒い。
骨が痛い。
息が辛い。
汗が臭い。
目が回る。
耳が鳴る。
鼻が詰る。
おしっこしたい。
うんこしたい。
嘔吐したい。
動きたい。
でも。
腕が無い。
脚も無い。
何も無い。
動けない。
そう、おれは。
動けない、何もできない、脂肪塊。
妙に韻を踏んだ言葉たちが、熱で茹で上がった脳を駆け巡った。
不快。あらゆる身体的不快さが、いま彼を襲っている。
腹の中心に縦に走る縫合痕。その裏側の部位が、化膿していた。
雑菌による感染症であった。
「うぅぅ……ぅぅぅぅぅ…………」
漏れる呻き。
朦朧とする意識の中、ふと、何者かの気配を感じた。
根元から四肢切断された今はなき右手側のベッド脇に、誰かがいる。
埋没縫合処置された首を無理やり回し、なんとか顔をそちらに向けた。
(あ、あ、あああ………!)
そこにいたのは、いつか夢に見た見知らぬ若い男女だった。
彼らは困ったような、悲しんでいるような表情を浮かべて、こちらを見下ろしている。
女が手で顔を覆って肩を震わせ始めた。
男が彼女の頭を胸に抱き、何事か慰めるように声をかけている。
彼らのその姿に、ひどく懐かしい感覚があった。
同時に、ひどく寂しい確信があった。
彼らは、自分を捨ててどこかへ去ってしまうのだ。
ほどなくして、彼らは背を向けた。
確信の通りに。あたかも予定調和のごとく。
(……嫌だ、もう置いていかないで……おれも一緒に、そっちにいくから……)
管理局地下七階=キリエ専用フロア。
その中の一室、受刑者拘留室。
高さ1.5メートルに設定された介助機構付き寝台の上。
夢と現の間、病熱の苦悶の中で、ムータロは力を振り絞って、少しずつ、緩慢な芋虫のように、ベッド端へ向かって背中で這いずり始めた。
† † †
「なんと……では、あの青年が……」
キリエの説明を聞いた祖父が、抑制された驚きの声を上げた。
「やっぱりそうなんだね……。おじいちゃんはどこまで知ってたの? 可能性はあるとは思ってた、って感じなの?」
詰問する孫娘に、祖父は説明した。
キリエに双子の兄がいることは事実であること。
だがムータロが当人だということはもちろん知らなかったこと。
公開されている管理局の日報を読み、ちょうど年齢が合致したピッグスが収容されたことを目にする度に、会いに赴いて司法取引を持ちかけていたこと。
「そっか……。だけどそもそも、最初に聞いたけど、どうして教えてくれなかったの?」
すると祖父は、苦虫を噛み潰したような顔になってこう答えた。
「……本当は、お前が分別つく年頃になったら教えようと思っておった。じゃが、あのピッグスたちにお前は何をした? あれを見て、わしは心底悲しかった。お前の兄の件はもう、わしの胸だけにしまっておこう、と思ったよ。怖かったんじゃ。もし教えたら、いつかお前がお前の兄を探し出して、嬉々として同じように残酷な行為を行うのではないかと」
“あのピッグスたち”とは、キリエが数年前、医学生だった頃に、祖父のコネで管理局から調達してもらった人体実験用のピッグスたちのことだった。確かに彼らに対しては、いま処刑官としておこなっていることほどではないにせよ、それなりに苛烈な処置を施した。
だが、それは彼らが赤の他人だったから出来たことだ。
いくらなんでも自分の兄に対し、
「そんなことするわけないじゃん………!」
キリエは祖父に対し怒りが湧き上がるのを感じた。
祖父が自分をそういう人間だと思っていた、ということが悔しかった。
しかし今はそのことをぶつけている場合ではない。
胸に溜まった息を吐ききり、気を取り直すと、ムータロ救出の可能性を探求することに専念する。
「その司法取引って、今からは無理なの?」
「無理じゃ。手続き上、それはもうできん」
「だったらまた、あのピッグスたちみたいにはできない?」
「……いや、残念じゃがそれも難しい。まず、当時の管理局は色々と緩かった。それにあの頃の管理局局長はわしの法曹学生時代の同期で、友人じゃった。だが奴は……すでにこの世にはおらん。今の局長はずいぶん若いようじゃし、もはやわしのコネクションなど無いに等しい」
キリエがもっとも期待していた展開は、早くも崩れた。
いろいろと顔の効く祖父ならば、と思っていたが、そう簡単ではないらしい。
「お前としては、どうするつもりなんじゃ?」
祖父はキリエに水を向ける。
キリエは、自分がなんとかこっそりとムータロを連れ出せないか検討しているが、そこにひとつ、大きな懸念がある旨を話した。
「なるほど、獄司に怪しまれている、とな……」
「うん。なんでかわたし、そいつに嫌われてるみたいで」
「どんなやつじゃ?」
キリエが獄司の特徴を伝えると、祖父はすぐ合点したようだった。
「ああ、あの獄司の彼じゃな。会ったよ。ずいぶん体格のいい」
「そうそう、そいつ。すごく嫌な奴なの。ほんと、あんなやついなくなれば……」
と、キリエは毒づき始める。
すると祖父はたしなめるように、キリエに幼い頃から繰り返し教えてきたことを言った。
「キリエよ。あまり他人を悪く言ってはいかん。お前が思っている以上に世間は狭い。他人にはなるべく良くするに越したことはない。縁というものは不思議でな、良くも悪くも、お前がしたことは結局、お前に全て帰ってくるんじゃぞ」
今回だってそうじゃろう。
祖父はそう思ったが、そこまで言葉にはしなかった。
それはいまキリエがいちばん実感しているはずだからだ。
†
二人はそれから1時間ほど話したが、妙案は出なかった。
「さて、話が煮詰まって来たな。なんとか出来んか、わしも動いてみよう。お前もいろいろ検討しておくんじゃ。くれぐれも早まった真似はいかんぞ。連携は緊密にな。”ゲート”では形が残ってしまうから、何かあれば念のため、こうして直接話した方が良いじゃろう」
うん、わかった。と言ってキリエがソファを立つ。
キリエは背を向けて歩き出し、部屋を出ようとする。
そのとき、祖父が後ろから硬い声をかけた。
「ときにキリエよ、彼は今、どうなんじゃ」
ムータロの何がどうなのかを省いた尋ね方。
この問いには二通りの解釈があった。
ムータロがいまどんな状態なのか。
ムータロがいま何をしているのか。
祖父がどちらを念頭に置いているのかは、聞くまでもなかった。
だがキリエは顔だけで半分振り返ると、下唇を噛み、目を伏せてこう答えた。
「彼は…………… ひとまずご飯をたべて、今は眠ってるはず」
祖父のその問いに対し、誠実に答える勇気を持てなかった。それほどまでに、自分がムータロに施した処置は惨いものだった。
「そうか…… ならよいんじゃ」
察することに長けた奥ゆかしき老人は、今はそれ以上を聞かなかった。
† † †
===================
お元気かしら?
この間はばったり会って、お話楽しかったわ。
市場で食材を色々買っていたようだけど、誰に作って食べさせたのかしら?
キリエちゃんの作った料理を食べられるなんて、本当に幸運な殿方ね。
ところで、最近少し元気が無いんじゃなくて?
きっと色々悩みや気になることがあるのね。
大丈夫、恋の悩みならこの私に任せなさい。
これでも昔はずいぶんもてたものよ。たくさんの男の子たちが私を争ってそれはもう…………って私ったら、最近こうやってすぐ昔の話を始めちゃうのよね。やっぱり歳なのかしら? ほんと、歳はとりたくないわねぇ。
というわけで、久しぶりにお茶でもいかがかしら?
キリエちゃんならいつでも大歓迎よ。
来るときはメッセージちょうだいね。美味しいお茶請けを用意しておくから。
それじゃ、待ってるわね。
===================
実家から戻ってみると、キリエ宅の”ゲート”にはそんなメッセージが届いていた。
送信元を見ずとも、文面だけで誰からなのか分かる。
いつもながら上機嫌な文面である。彼女はきっと常に上機嫌なのだ。
だがキリエは、
(ほんっと、なんて空気の読めないメッセージなの……)
正直、そう思ってしまった。
キリエは最近、マーガレットのことを避け気味だった。
別に嫌いになったわけではない。ただ彼女は、キリエにとって避けたい方面の話題を、察することなくぶっこんでくることが多々あり、それをかわすのを最近少し面倒に感じてきたのだ。
そもそも今は、お茶などしている場合では無い。
キリエはメッセージを無視した。
さて、そんなことより一刻も早く、ムータロ救出の手法を考え出さねばならない。
時間は限られているのだから。
今日のように有給を取って処刑完了日までの時間稼ぎという手もあるけど限度があるし、それにムータロの体力だっていつまで持つかわからないし、でも今日はもう有給取っちゃったから世話しに行ったら処刑完了日迫っちゃうし、そしてなにより、あの獄司のことをなんとかしないといけないし、あいつが周りのみんなにある事ない事いろいろと喋ってるかもしれないし、いやあいつのことだから絶対喋ってるだろうし……………… ああもう、どうすればいい………
だめだ。だいぶ頭が疲れていて、このまま考え込んでも妙案が浮かぶ気がしなかった。
(はあ……)
ベッドに倒れ込んで溜息をつく。
するとふいに、今日会話した祖父の言葉が脳内再生された。
──他人にはなるべくよくしておくに越したことはない──
それはその通りだと思うけど、今はそんな状況じゃないでしょ。
と、キリエも脳内で反論する。すると、
──縁というものは不思議でな──
と、脳内祖父から再反論。
キリエはまぶたの裏に、マーガレットのあの朗らかな顔を思い出す。
ボリューミーなブルネットヘアー、年齢の割に大柄な体格。
止まらないマシンガントーク、なんでも自分に都合の良いように解釈してしまう曲解能力。
疲れる相手ではあった。
それでも、嫌いにはなれない人だった。
枕に顔を埋め、そこに染み付いた自分の髪の匂いを呼吸しながら、キリエは思う。
”自分がしたことは結局、自分に全て帰ってくる”んだっけ。
じゃあ私が今日、寂しがりの老婦人のお茶の相手をしたら、一体何が返ってくるっていうのかな。
──お前が思っている以上に世間は狭い──
と、またもや脳内祖父。
(ああもう、頭ん中でうるさいよ…… わかったわよ。よくわからないけど、とにかく分かったから………)
†
脳内祖父の執拗な説得に根負けしたキリエはベッドから体を起こした。
そして、「今日、少しだけ大丈夫ですか」と、メッセージを送信した。
返信は、その5秒後に来たのだった。
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