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第二部
Act.2 キリエ
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王都の初夏の深夜ミッドナイト。
アップタウンから管理局へと続くストリート。
人通りはない。時折遠くから響く野犬の遠吠え。
闇を心細く照らす街灯。それに群がる羽虫。
湿り気を含んだ生暖かい空気。
キリエは走っていた。
長いストライドで、懸命に。
服装は着の身着のまま、だいぶ地味目な普段着だ。
白のブラウス。インディゴ染色された綿ズボン。
ぺったんこの革製婦人靴。
いかにも秀才ガリ勉女子といった風の丸眼鏡。
毎日、ここを通勤している。
歩きで30分ほどの道だ。
管理局の公用馬車ならもっと速いが、キリエはあえて徒歩で通っていた。
道端の花、街路樹、季節の移ろい、太陽、風、人々の活気。
そういうものを五感で感じながら歩いていると、いつもあっという間に職場に着いてしまうのだ。
そう、いつもなら。
だが今は。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ………」
歩き慣れた道が、この世の善きもので満ちていたはずのこの道が、こんなにも苦しく遠いとは。
親族殺しは、この世界の宗教でもっとも固く戒められている禁忌の一つだった。
聖典が必修となっているこの国の教育において、人々は皆、幼い頃からそういった宗教的感性を嫌というほど刷り込まれて育つ。それはエリニュスとて例外ではない。特にキリエは、祖父の古風な価値観で躾けられたせいもあるだろうか、かなり信心深い性格に育っていた。
そんな彼女である。
事実を知って平静でいられるはずもなく、着の身着のまま部屋を飛び出すと、ドアも開け放ったまま、夜更けのストリートを走り出したのだった。
ゆえに彼女は走っていた。
長いストライドで、懸命に。
走るという行為には、どこか瞑想めいたところがある。
胸を乱す思いとともに、心の中のスクリーンには関連性のない想念も次々と浮かんで消えて行く。
去来するのは、なぜか自分の過去のことだった。
†
一人で過ごすことの多い子供だった。
家にはお手伝いさんはいたが、家族は祖父だけだった。
両親の顔は知らない。いや、今となっては”知らなかった”というべきか。
祖父からは、両親は死んだとだけ聞かされていた。
それが真実かどうかは分からない。
キリエ自身、特に調べようとも思わなかった。
一人の時間は本を、特に聖典を多く読んで過ごした。
その中で生き生きと語られる七神の物語に、少女の心を躍らせた。
ある時、道でひどく転び、膝を強く擦りむいた。
やせっぽちの幼い少女の皮膚は薄く、傷からは赤い血液が流れ、その奥には白いものが見えていた。
灼熱の痛み。涙が溢れて止まらない。
間が悪く、周りには助けてくれる大人は誰もいない。
信心深い少女は、神に縋った。
七神のうち、治癒魔術を得意とする彼女に。
”フローレンス、すごく痛いの! 私にあなたの治癒魔術を貸して!”
すると、膝を覆っていた両手に不思議な光が宿った。
赤い光が傷に流れ込み、みるみる塞がっていく。
治癒魔術が発現したのだ。
あの時の嬉しさは、今でも強く覚えている。
フローレンスが自分を選んだのだと思った。
あなたはこの力で、傷ついた弱きものたちを救いなさい。
彼女がそう言っているように思えた。
†
やや過ぎて、夏。
ある出来事が、自分の道を決定づけた。
きっかけは好奇心だった。
自分の治癒魔術がどの程度のものか、もっと良く知りたかった。
キリエは近所の雑木林の中を、傷ついた生き物を探して歩いた。
だが、なんでもそうだが、探している時ほど見つからないものなのだ。
羽虫、甲虫、爬虫、小鳥、小動物。
林の中では、傷ついているものはすべて死んでいた。
死んでいるものに治癒魔術をかけても、何も起こらなかった。
”ちょうどよく傷ついていて、まだ生きているもの”が必要だった。
だが探せど探せど、一向に見つからなかった。
途方に暮れかけた時、ひとつのアイディアを思いついた。
それはなんだか悪いことのような気もした。
だがすぐに思い直した。
大丈夫。自分が治してあげればいいだけだ。
昼下がりの葉陰で休む1匹の青蛙を見つけた。
ぷっくりと可愛らしい小さな蛙だった。
捕まえた。
ぴょんぴょん跳ねて逃れようとするその後ろ足を、親指と人差し指で挟んだ。
少し逡巡したが、やがて思い切って力を込めた。
パキム、とあっけない音がして、蛙の後ろ足がだらりと垂れた。
手に、生き物の小さな震えが伝わってきた。
見ると、体を小刻みにぷるぷる震わせながら、口はまるで何かを訴えるようにパクパクしている。
それは、可愛くて、可哀想な姿だった。
その時、お腹の下のほうで何かが、じゅん、となった。
いつもおしっこが出るあたりだ。
今までに覚えたことのない感覚だった。
なんだろう。よくわからない。でも、何だかへんなかんじ。
もっとよくこの感覚を確かめたい。
よし、もう一回、もう片方の足で試してみよう…
パキム。
両後ろ足がだらりと力なく垂れた。
手に感じる震えが、先ほどよりも小さくなった。
目をやると、今度は口が開きっぱなしになって、その中の舌がピクピク痙攣しているのだった。
ああ、痛がってるんだ。
可哀想。でも、なんだか。
──可愛い──
じゅん
まただ。
やっぱり、この蛙くんの、この可愛くて可哀想な姿を見ていると、お腹の下の方が湿っぽくなるのだ。
何だかへん。へんなきもち。きもち?
うん、なんか、きもちいいかも。
前足が2本、まだ残っていた。
何もない空中を必死で掴もうとするように懸命に動くそれを、親指と人差し指でそっと挟んだ。
小さな蛙は手の中で激しく暴れ出した。
これから身に降りかかる、いともたやすく行われるえげつない行為を予期したかのように。
†
羽虫、甲虫、爬虫、小鳥、小動物。
キリエは、小さな生き物たちを集め始めた。
折っては治癒し、捥いでは治癒し、潰しては治癒した。
そして、痛苦に悶える彼らの姿を見て、幼い蕾を湿らせた。
すごく悪いことをしているような気もしていた。
不安だった。こんなことをしていいのだろうか。
少女は聖典に答えを求めた。
フローレンスに関する、ある一節が目に止まった。
曰く、
”彼女は、その卓越した治癒魔術によって多くの人々を治癒した”
そしてその後は、
──医療技術の研究にも尽力したという──
医療技術。研究。
それは、治癒術使いのキリエにとって、格好のエクスキューズとなった。
そうだ、これは”医療技術の研究”なのだ。
ありがとう、フローレンス。
また貴女に導かれたわ。
やっぱりわたし、あなたに選ばれたのね!
すっかり迷いの消えたキリエは、すぐに準備に取り掛かった。
医療なのだから、そのための道具が必要だ。
街や文献で目にしたものを参考にし、日用品を改造して色々と自作した。
手術刀。
針。
鉗子。
拘束帯。
処置台。
服装にもこだわった。
医療の神の象徴たる赤い十字の意匠を、衣服に盛り込んだ。
ほどなく準備は整った。いざ、研究開始だ。
とある静かな午後。
祖父のいない時間帯。
自分の部屋。
赤い十字の装備に身を包み、手術刀を構える自分。
決して逃れられない手術台に捕らえられた、可愛い生き物患者たち。
──さあ、はじめるよ──
じゅん
”あ、なんかきた”
そう思うと同時に、下腹部から背骨を通って脳髄に、閃光のような快感が迫り上がった。
灰色の瞳が赤く染まって爛々と輝いた。
ふと、鼻から上唇に、何か液体が流れる感覚。
舌先で舐め取る。鉄の味。
興奮のあまり出た、鼻血だった。
†
甘美な嗜虐の日々。
しかし、唐突にその終わりは訪れた。
ベッド下に隠していた”患者達”が、祖父に見つかったのだ。
普段は温厚な祖父だったが、この時はキリエに対し強く怒りを見せた。
あれほど叱られたのは、後にも先にもあの時きりだ。
祖父はキリエの”手術道具”を没収すると、そういった行為を固く禁じたのであった。
†
将来就きたい職業は早くから決まっていた。
もしそれになれなければ、この社会で自分はきっと、まっとうには生きていけないだろう。
子供ながらに、そんな自覚があった。
危機感と、そこから生まれた目的意識。それに生来の地頭の良さが相まって、学業では優秀な成績を修め、飛び級に飛び級を重ねた。
十六歳で王都の医療系最高学府を卒業し、管理局に就職した。
入局後のキャリア面談では、処刑官を希望した。
人事担当者は総合職を薦めたが、キリエは頑として譲らなかった。
当然だった。
自分は、処刑官になるために、管理局に就職したのだから。
はしたない話だが、正直、我慢の限界だったのだ。
幼き夏の日に芽生えた嗜虐的な熱情は、この頃にはもう、破裂しそうなほどに巨きく育っていた。
度し難きもの、それは、まったくもって自分自身のことであった。
†
仕事は概ね順調だった。
もともとけじめをきっちりつけるタチなぶん、処刑時には心のまま、どこまでも残酷になれた。
医療技術と治癒魔術を駆使したオンリーワンの苛烈な処刑スタイルで瞬く間に頭角を現すと、3ヶ月後には主任に昇格して専用のフロアを与えられた。
天職とも言える仕事。十分すぎる俸給。
誰もが羨む美しい容姿。不老長寿 。
約束された素晴らしい未来。順風満帆の人生。
それでも、やはり人の子である。
迷いも無かったわけではない。
†
ある時、年端もいかない幼いピッグスを処刑担当することになった。
7歳。テロ用の魔術物資の輸送に関わった、ということだった。
さすがのキリエもその時ばかりは、熱情よりも母性が優った。
”処置”は一切行わなかった。
この子がせめて最後の時間を子供らしく過ごせるよう、手を尽くしてやりたいと思った。
傷を癒してやり、体を洗ってやった。
料理を作ってやり、歯を磨いてやった。
話を聞いてやり、聖典を読んで聞かせてやった。
うなされて眠る小さな体を、朝まで抱きしめてやった。
怯えていた少年の心は次第にほぐれ、二人はまるで本当の母と子であるかのように、七日間を過ごした。
そして最終日。
特別に取り寄せた安楽死用の麻酔剤だった。
”暗い”
と最後の言葉を残し、幼いピッグスはキリエの腕の中で息を引き取った。
処刑後しばらく、疑問に苛まれる日々が続いた。
なぜ自分は”こう”なのか。
自分がしているのは、本当に許されるべき行為なのか。
見せしめで彼らレジスタンスを残酷に処刑することが、本当にテロ抑止たり得るのか。
そもそもなぜピッグスは差別されねばならないのか。
本当はおかしいのは、この社会ではないのか……?
考え始めると、疑問は尽きなかった。
だが、だからと言って何をするというわけでもなかった。
エリニュスとはいえ、言ってしまえばそれは、人間のちょっと優れた亜種というだけの存在だ。
神でもなければ悪魔でもない。自分など1匹の哺乳類に過ぎない。
生家はそこそこ余裕があったが、とはいえ貴族でもなければ豪商でもない。
王都の小市民として、一介の労働者として、まずは目の前の日常をこなさねばならなかった。
理性的に無理やり整理をつけて、疑問は心の深くへしまい込んだ。
そうして日々を過ごすうち、あの少年のことも、彼と過ごした七日間のことも、次第に思い出さなくなっていった。
キリエはますます仕事に打ち込んだ。熱情の赴くまま、さらに苛烈に、より残酷に、悪魔のように丹念に、じっくりと愛を込め。
生まれてきた以上、自身の境遇を良くしたいと願うのは、誰だろうと自然なことだ。
自分の場合、それは、処刑官になることだった。
もし処刑官になれていなければ、この社会で自分はきっと、まっとうには生きていなかっただろうから。
そして自分はいま、十分過ぎるほど恵まれている。
だから、疑問はあっても、この道で良かったと思っていたのだ。
そう、今日までは。
†
「はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ………」
管理局第七監獄にたどり着いたキリエは、息を切らしながら夜間ゲートに顔を出した。
守衛が訝しんで声を掛ける。
「こんな時間に、そんなに慌ててどうしたんです?」
「すみません、ちょっと受刑者の体調が心配で……入れてもらえますか?」
ずれた丸眼鏡を直しながら、キリエはスマートに事実のみを伝える。
「相変わらずご熱心なことだ。どうぞ」
「ありがとう」
鉄格子が開き、キリエは守衛に一礼しながら中に入った。
アップタウンから管理局へと続くストリート。
人通りはない。時折遠くから響く野犬の遠吠え。
闇を心細く照らす街灯。それに群がる羽虫。
湿り気を含んだ生暖かい空気。
キリエは走っていた。
長いストライドで、懸命に。
服装は着の身着のまま、だいぶ地味目な普段着だ。
白のブラウス。インディゴ染色された綿ズボン。
ぺったんこの革製婦人靴。
いかにも秀才ガリ勉女子といった風の丸眼鏡。
毎日、ここを通勤している。
歩きで30分ほどの道だ。
管理局の公用馬車ならもっと速いが、キリエはあえて徒歩で通っていた。
道端の花、街路樹、季節の移ろい、太陽、風、人々の活気。
そういうものを五感で感じながら歩いていると、いつもあっという間に職場に着いてしまうのだ。
そう、いつもなら。
だが今は。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ………」
歩き慣れた道が、この世の善きもので満ちていたはずのこの道が、こんなにも苦しく遠いとは。
親族殺しは、この世界の宗教でもっとも固く戒められている禁忌の一つだった。
聖典が必修となっているこの国の教育において、人々は皆、幼い頃からそういった宗教的感性を嫌というほど刷り込まれて育つ。それはエリニュスとて例外ではない。特にキリエは、祖父の古風な価値観で躾けられたせいもあるだろうか、かなり信心深い性格に育っていた。
そんな彼女である。
事実を知って平静でいられるはずもなく、着の身着のまま部屋を飛び出すと、ドアも開け放ったまま、夜更けのストリートを走り出したのだった。
ゆえに彼女は走っていた。
長いストライドで、懸命に。
走るという行為には、どこか瞑想めいたところがある。
胸を乱す思いとともに、心の中のスクリーンには関連性のない想念も次々と浮かんで消えて行く。
去来するのは、なぜか自分の過去のことだった。
†
一人で過ごすことの多い子供だった。
家にはお手伝いさんはいたが、家族は祖父だけだった。
両親の顔は知らない。いや、今となっては”知らなかった”というべきか。
祖父からは、両親は死んだとだけ聞かされていた。
それが真実かどうかは分からない。
キリエ自身、特に調べようとも思わなかった。
一人の時間は本を、特に聖典を多く読んで過ごした。
その中で生き生きと語られる七神の物語に、少女の心を躍らせた。
ある時、道でひどく転び、膝を強く擦りむいた。
やせっぽちの幼い少女の皮膚は薄く、傷からは赤い血液が流れ、その奥には白いものが見えていた。
灼熱の痛み。涙が溢れて止まらない。
間が悪く、周りには助けてくれる大人は誰もいない。
信心深い少女は、神に縋った。
七神のうち、治癒魔術を得意とする彼女に。
”フローレンス、すごく痛いの! 私にあなたの治癒魔術を貸して!”
すると、膝を覆っていた両手に不思議な光が宿った。
赤い光が傷に流れ込み、みるみる塞がっていく。
治癒魔術が発現したのだ。
あの時の嬉しさは、今でも強く覚えている。
フローレンスが自分を選んだのだと思った。
あなたはこの力で、傷ついた弱きものたちを救いなさい。
彼女がそう言っているように思えた。
†
やや過ぎて、夏。
ある出来事が、自分の道を決定づけた。
きっかけは好奇心だった。
自分の治癒魔術がどの程度のものか、もっと良く知りたかった。
キリエは近所の雑木林の中を、傷ついた生き物を探して歩いた。
だが、なんでもそうだが、探している時ほど見つからないものなのだ。
羽虫、甲虫、爬虫、小鳥、小動物。
林の中では、傷ついているものはすべて死んでいた。
死んでいるものに治癒魔術をかけても、何も起こらなかった。
”ちょうどよく傷ついていて、まだ生きているもの”が必要だった。
だが探せど探せど、一向に見つからなかった。
途方に暮れかけた時、ひとつのアイディアを思いついた。
それはなんだか悪いことのような気もした。
だがすぐに思い直した。
大丈夫。自分が治してあげればいいだけだ。
昼下がりの葉陰で休む1匹の青蛙を見つけた。
ぷっくりと可愛らしい小さな蛙だった。
捕まえた。
ぴょんぴょん跳ねて逃れようとするその後ろ足を、親指と人差し指で挟んだ。
少し逡巡したが、やがて思い切って力を込めた。
パキム、とあっけない音がして、蛙の後ろ足がだらりと垂れた。
手に、生き物の小さな震えが伝わってきた。
見ると、体を小刻みにぷるぷる震わせながら、口はまるで何かを訴えるようにパクパクしている。
それは、可愛くて、可哀想な姿だった。
その時、お腹の下のほうで何かが、じゅん、となった。
いつもおしっこが出るあたりだ。
今までに覚えたことのない感覚だった。
なんだろう。よくわからない。でも、何だかへんなかんじ。
もっとよくこの感覚を確かめたい。
よし、もう一回、もう片方の足で試してみよう…
パキム。
両後ろ足がだらりと力なく垂れた。
手に感じる震えが、先ほどよりも小さくなった。
目をやると、今度は口が開きっぱなしになって、その中の舌がピクピク痙攣しているのだった。
ああ、痛がってるんだ。
可哀想。でも、なんだか。
──可愛い──
じゅん
まただ。
やっぱり、この蛙くんの、この可愛くて可哀想な姿を見ていると、お腹の下の方が湿っぽくなるのだ。
何だかへん。へんなきもち。きもち?
うん、なんか、きもちいいかも。
前足が2本、まだ残っていた。
何もない空中を必死で掴もうとするように懸命に動くそれを、親指と人差し指でそっと挟んだ。
小さな蛙は手の中で激しく暴れ出した。
これから身に降りかかる、いともたやすく行われるえげつない行為を予期したかのように。
†
羽虫、甲虫、爬虫、小鳥、小動物。
キリエは、小さな生き物たちを集め始めた。
折っては治癒し、捥いでは治癒し、潰しては治癒した。
そして、痛苦に悶える彼らの姿を見て、幼い蕾を湿らせた。
すごく悪いことをしているような気もしていた。
不安だった。こんなことをしていいのだろうか。
少女は聖典に答えを求めた。
フローレンスに関する、ある一節が目に止まった。
曰く、
”彼女は、その卓越した治癒魔術によって多くの人々を治癒した”
そしてその後は、
──医療技術の研究にも尽力したという──
医療技術。研究。
それは、治癒術使いのキリエにとって、格好のエクスキューズとなった。
そうだ、これは”医療技術の研究”なのだ。
ありがとう、フローレンス。
また貴女に導かれたわ。
やっぱりわたし、あなたに選ばれたのね!
すっかり迷いの消えたキリエは、すぐに準備に取り掛かった。
医療なのだから、そのための道具が必要だ。
街や文献で目にしたものを参考にし、日用品を改造して色々と自作した。
手術刀。
針。
鉗子。
拘束帯。
処置台。
服装にもこだわった。
医療の神の象徴たる赤い十字の意匠を、衣服に盛り込んだ。
ほどなく準備は整った。いざ、研究開始だ。
とある静かな午後。
祖父のいない時間帯。
自分の部屋。
赤い十字の装備に身を包み、手術刀を構える自分。
決して逃れられない手術台に捕らえられた、可愛い生き物患者たち。
──さあ、はじめるよ──
じゅん
”あ、なんかきた”
そう思うと同時に、下腹部から背骨を通って脳髄に、閃光のような快感が迫り上がった。
灰色の瞳が赤く染まって爛々と輝いた。
ふと、鼻から上唇に、何か液体が流れる感覚。
舌先で舐め取る。鉄の味。
興奮のあまり出た、鼻血だった。
†
甘美な嗜虐の日々。
しかし、唐突にその終わりは訪れた。
ベッド下に隠していた”患者達”が、祖父に見つかったのだ。
普段は温厚な祖父だったが、この時はキリエに対し強く怒りを見せた。
あれほど叱られたのは、後にも先にもあの時きりだ。
祖父はキリエの”手術道具”を没収すると、そういった行為を固く禁じたのであった。
†
将来就きたい職業は早くから決まっていた。
もしそれになれなければ、この社会で自分はきっと、まっとうには生きていけないだろう。
子供ながらに、そんな自覚があった。
危機感と、そこから生まれた目的意識。それに生来の地頭の良さが相まって、学業では優秀な成績を修め、飛び級に飛び級を重ねた。
十六歳で王都の医療系最高学府を卒業し、管理局に就職した。
入局後のキャリア面談では、処刑官を希望した。
人事担当者は総合職を薦めたが、キリエは頑として譲らなかった。
当然だった。
自分は、処刑官になるために、管理局に就職したのだから。
はしたない話だが、正直、我慢の限界だったのだ。
幼き夏の日に芽生えた嗜虐的な熱情は、この頃にはもう、破裂しそうなほどに巨きく育っていた。
度し難きもの、それは、まったくもって自分自身のことであった。
†
仕事は概ね順調だった。
もともとけじめをきっちりつけるタチなぶん、処刑時には心のまま、どこまでも残酷になれた。
医療技術と治癒魔術を駆使したオンリーワンの苛烈な処刑スタイルで瞬く間に頭角を現すと、3ヶ月後には主任に昇格して専用のフロアを与えられた。
天職とも言える仕事。十分すぎる俸給。
誰もが羨む美しい容姿。不老長寿 。
約束された素晴らしい未来。順風満帆の人生。
それでも、やはり人の子である。
迷いも無かったわけではない。
†
ある時、年端もいかない幼いピッグスを処刑担当することになった。
7歳。テロ用の魔術物資の輸送に関わった、ということだった。
さすがのキリエもその時ばかりは、熱情よりも母性が優った。
”処置”は一切行わなかった。
この子がせめて最後の時間を子供らしく過ごせるよう、手を尽くしてやりたいと思った。
傷を癒してやり、体を洗ってやった。
料理を作ってやり、歯を磨いてやった。
話を聞いてやり、聖典を読んで聞かせてやった。
うなされて眠る小さな体を、朝まで抱きしめてやった。
怯えていた少年の心は次第にほぐれ、二人はまるで本当の母と子であるかのように、七日間を過ごした。
そして最終日。
特別に取り寄せた安楽死用の麻酔剤だった。
”暗い”
と最後の言葉を残し、幼いピッグスはキリエの腕の中で息を引き取った。
処刑後しばらく、疑問に苛まれる日々が続いた。
なぜ自分は”こう”なのか。
自分がしているのは、本当に許されるべき行為なのか。
見せしめで彼らレジスタンスを残酷に処刑することが、本当にテロ抑止たり得るのか。
そもそもなぜピッグスは差別されねばならないのか。
本当はおかしいのは、この社会ではないのか……?
考え始めると、疑問は尽きなかった。
だが、だからと言って何をするというわけでもなかった。
エリニュスとはいえ、言ってしまえばそれは、人間のちょっと優れた亜種というだけの存在だ。
神でもなければ悪魔でもない。自分など1匹の哺乳類に過ぎない。
生家はそこそこ余裕があったが、とはいえ貴族でもなければ豪商でもない。
王都の小市民として、一介の労働者として、まずは目の前の日常をこなさねばならなかった。
理性的に無理やり整理をつけて、疑問は心の深くへしまい込んだ。
そうして日々を過ごすうち、あの少年のことも、彼と過ごした七日間のことも、次第に思い出さなくなっていった。
キリエはますます仕事に打ち込んだ。熱情の赴くまま、さらに苛烈に、より残酷に、悪魔のように丹念に、じっくりと愛を込め。
生まれてきた以上、自身の境遇を良くしたいと願うのは、誰だろうと自然なことだ。
自分の場合、それは、処刑官になることだった。
もし処刑官になれていなければ、この社会で自分はきっと、まっとうには生きていなかっただろうから。
そして自分はいま、十分過ぎるほど恵まれている。
だから、疑問はあっても、この道で良かったと思っていたのだ。
そう、今日までは。
†
「はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ………」
管理局第七監獄にたどり着いたキリエは、息を切らしながら夜間ゲートに顔を出した。
守衛が訝しんで声を掛ける。
「こんな時間に、そんなに慌ててどうしたんです?」
「すみません、ちょっと受刑者の体調が心配で……入れてもらえますか?」
ずれた丸眼鏡を直しながら、キリエはスマートに事実のみを伝える。
「相変わらずご熱心なことだ。どうぞ」
「ありがとう」
鉄格子が開き、キリエは守衛に一礼しながら中に入った。
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女子の体操着を盗んだという身に覚えのない罪を着せられ、僕は皆の信頼を失った。
クラスメイトからは日常的に罵倒を浴びせられ、向けられるのは蔑みの目。
さらに、信じていた初恋だった女友達でさえ僕を見限った。
両親からは拒絶され、姉からもいないものと扱われる日々。
……だが、転機は訪れる。冤罪だった事が明かになったのだ。
それを機に、今まで僕を蔑ろに扱った人達から次々と謝罪の声が。
皆は僕と関係を戻したいみたいだけど、今更仲直りなんてできない。
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