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駿河編
一体何を考えてるんだ?
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「結局、あの方の狙いは何だったのか?甚だ読めませぬな」
「某もです、あれほど大きな隙を見せておきながら何も動きが無いというのは妙ですなぁ」
「そうか、其方達でもわからぬか...やはり叔父上は翻意など持ってはおらぬのでは無いか?」
「しかし油断めされるな、あの方こそ今川家随一の名将であることは疑いようが無いのですから」
「真に」
今川輝宗が京の都を出立してから3日、別れを惜しみ、涙さえ流した面々が、暫くの間誰も入れぬようにした城の一室で密談を続けていた。
今川氏真、松平三河守元康、浅井備前守長政、朝倉左衛門府義景。
六角、三好、織田、畠山、一色、斎藤が滅びた今、この4名と何人かの欠員メンバーが、全国を収める主な大名たちだった。
「叔父上のお考えが知りたい、やはり私が直接話すべきだったか...」
「しかし、あのお方も本意を話されませんからな...」
今や副将軍となった氏真が頭をを抱えてつつ言ったそれに、左衛門府が追従するように頷く。
朝倉義景、切れるという噂は聞かないものの手堅い仕事をする男だ。
がっしりとした肉体とその深い瞳は、名門朝倉家に相応しい堂々とした佇まいだ。
この会議のまとめ役でもある。
「はっはっは!しからば、手前が今からでもご隠居様に尋ねて参りましょう!!手前ならばご隠居様も自らの目的を喋る筈!」
「相変わらず備前守殿は声が大きい、しかし私も同意です。今となってあの方が何をしたかったのかがわからなくなってしまった」
備前守の大きな言葉に対し、隣でも三河守が同意する。
浅井長政、松平元康。
浅井は良き同盟相手であり、今では幕府に仕える大名の1人だ。大柄で粗雑ではあるが、戦においてこれより頼もしい男はいない。
それに双璧を成すのが松平元康、古くから今川に臣従しており、強かな男だ。 中背中肉の温和な男だが、時々何を考えているか読めないところある、狸に似た男と裏では揶揄されているらしい。
「本当に、全くその通りだな」
氏真は、彼らの反応を見て、自分の考えていることが正常だと確信していた。
今川輝宗という男についての評価は「謎」という一言に尽きる。
市井の噂曰く、その鬼才は軍略の鬼と称され、今川の軍師でもあった太原雪斎に認められる程。
刀は愚か武芸百般に通じ、彼の師は3日で彼の才能を見抜き免許皆伝を授けたと言う。
内政では大殿をも超える才覚を見せ、大殿の成果となっていることの大半が本来輝宗のものであったとか。
そして何よりも輝宗が得意だったのは、人材を見抜くその目だ。
彼が日本中から命じて呼んだその者たちは、百姓や浪人、罪人である。
木下藤吉郎、山口新太郎教高、山内伊右衛門一豊、前田利家、竹中半兵衛、織田家家臣の一部など、彼らは様々な役職でその頭角を現し、今では今川に無くてはならない人物となっている。
松平元康もその1人ではある、本来元康は今川に忠誠を誓う国人領主程度の扱いでしか無く、その兵の精強さを買われていたものの独立はできなかった。
しかし輝宗の口添えもあり、今や今川の重鎮として氏真からも厚い信頼を得ている。
「思えば叔父上の為されることには必ず理由があった」
「真に、あの方が動かれる時は、常に水面下で何かが起きている時でした。皆様方は織田殿を知っておられましたか?」
「知っておる!亡き義元公によって滅ぼされた、織田家の当主にしてうつけ者と呼ばれた男であろう!」
「左様、ですがあの方はうつけなどではありませなんだ。某、縁あって幼少期に織田殿とよしみを通じた経験がありまするが、あれはうつけなどではありませぬ。あの方は才あるお方でありました」
三河守がほぅと一息着く声が聞こえる、彼の話は続く。
「かつて、大殿が上洛される際の最大の障害が織田殿でありました、織田殿は少ない兵力ながら巧みな戦略をもって大殿を抑えようとしていましたが、流石に多勢に無勢。織田殿は乾坤一擲の策を持ってして大殿の首を直接狙いましたがそれも不発。あえなく城を枕に討ち死にいたしました」
「それは手前らも知っていること!しかし!それに何故ご隠居様が関わって来るのだ!あの方は駿河後方で城を守っていただけに過ぎん!」
「もっと言えば叔父上は城を守っていた訳では無い、寿桂尼様に文で呼ばれたからと言って地方の城より、遠路はるばる駿府城まで来ただけに過ぎない」
そんな2人の反論を、三河守は首を振って否定した。
「殿、あのお方が文で呼び出されただけで城へと出向くなどそのような訳がありますまい。それではまるで童のようではありませぬか。当時の大殿は上洛と言えど焦っておりました、同盟を結んだとは言え周囲には武田、北条と言う大名が並び、いつ同盟を破棄するかわかったものでありませぬ。一刻も早く上洛せねばと焦っていたことでしょう」
「しかし、あそこでご隠居様が駿府城に入られた。つまり言外にどんな敵が来ようとも私が今川の本拠地を守ると大殿に示したのでございます、その知らせを聞いて大殿は涙されたとか。以来、大殿からは焦りが無くなり、かつての慎重さを取り戻したお陰で織田殿を討てたのでございます」
「元康、貴様、それが無ければ大殿が負けていたとでも言いたいのか?」
左衛門府の言葉に、この場の会議の様子が少し変化する。しかし、三河守はそれを笑って否定した。
「いいえ、そうではありませぬ。大殿が絶対有利の状況だったのは間違いなく、勝利を私も疑ってはおりませなんだ。ですが、ご隠居様はこのように戦の節々で田舎の城から文を、時には自分の足を使い今川の天下に尽力されて来ました。それは評価せねばなりますまい」
三河守のその言葉に、一同は大きく頷く。
「実はな、私はこの葬儀の後、叔父上が私を殺そうと動くと思っていたのだ」
「なんと」
「そんな馬鹿な!」
「そうだ、其方たちの反応通り、そんなことは起こらなかった。しかし叔父上はお前たちが言っている通り優秀な方だ、恐らく私よりもずっとな。そう思うと叔父上が天下を取る為に動くのは当然と考えてしまったのだ。許せ」
「殿...」
氏真は、何かを憂うように空を見る。それは今ここにいない叔父への精一杯の謝罪だった。
「その葬儀はいい機会だった、私が病に倒れ、叔父上が私を殺し、天下人へと名乗りを上げる絶好の機会。私は裏で動き、叔父上が怪しいそぶりを見せればすぐに対応できるようにしていたのだが、叔父上は何もしなかった。あのお方はまさに普段通り、面倒くさそうに喪主を完璧に勤め、そして唐突に旅に出てしまわれた」
「しかし、ご隠居様とて旅に出たと言われるのにも何らかの考えがあるのでは...」
「いいのだ、左衛門府。叔父上は私の器量を見咎め出ていかれた、そう思うことにしよう。父上もあの方を制御できていたとは言い難い。鳳凰は籠には収まらぬ。羽ばたかせ、どうなるかを楽しみにしておこう」
「わかりました、監視はこちらでつけておきます」
こうして、今川輝宗に関する話題は終わる。
副将軍の仕事は山積みだ...
◇◇◇◇
「クソッ!何故誰も脅威に気付かない!」
雨が降っている。
そんな、誰もいない城の個室で、1人の男が畳を叩き怒っていた。
周りには誰もおらず、完全に1人で思案にふけっている。
その姿は影で見えず、深い闇に自らを溶け込ませていた。
「あの男は!私の夢を!希望を!奪った男だぞ!!!!」
あの男とは、輝宗のことであった。
人は、恨みを持つ。
それは、ほんの少しのミス、ほんの少しの手抜きで容易く発露する。
輝宗は、武将としては優秀では無くとも人としては酷く優秀だった。
優しく、温和、争いを好まず、戦国時代という苛烈で厳しい世界においても、かつての日本人としての道徳心を忘れてはいない。
それは、周りの人に対しても同じことで、だからこそ彼は輝宗を恨んでいた。
『輝宗様?何故そんなに本ばかり読んでおられるのですか!』
『君か...私はね、ここにいることが仕事なのだよ。』
『城主とは、そういうものではありませぬ!城主とは、民衆を見て、土地を知り、国を守るものです!』
『素晴らしい、実に模範的だ。それが正解とは言わないが、それを正解と言えない世界は寂しいものだな』
『皮肉を...!』
『まぁまぁ、どちらにせよ私はこの片田舎の城で本を読んで過ごすのがお似合いさ』
あの方ほど、自らの才を無駄遣いしていた人間は居なかった。
外は出れば、あの方を褒め称える言葉ばかりが出てくる。
「だが違う!あの男は必ずや今の状況を壊しに来る!」
彼は、独立を望んでいた。
長い間続いて来た、『今川』という呪縛とも言うべき繋がり。それは、弱い勢力しか無い彼にとってある意味仕方のないことなのかも知れない。
幼少期の人質生活、元服し、松平の家を継いでもそれは変わらなかった。
だが、彼には希望があった。
織田信長、今川と真っ向から戦い、勝つ可能性のあった男。
彼を救ってくれる筈だった男、だがそんな彼は死んだ。
故に彼は復讐する、だが彼には家臣がいた、守るべき者もいた。
彼はその全てを見捨てて復讐に走るほど子供では無い。
現状天下を掌握している氏真は殺せない、なら、護衛も少なく旅をしている老人を殺すことは可能か?
勿論、バレないようにという前提条件付きではあるが、十分に可能だろう。
ちなみに、男が自分の復讐心を無視しても国益の為に輝宗を殺そうとする理由は他にもあった。
各地で未だに不穏な影はある。
本願寺等一向宗の勢力は、三河では駆逐されたものの、各地で根強く勢力を広げている。具体的に言えば越後、安芸などだ。
越後の長尾景虎が幕府の元に来れないのもそうした背景があるのだ。
まだ、各地での小競り合いや謀反は続いているという背景が。
本当に戦の時代が終わりを迎えているとは言い難い今、ここで爆弾を抱えては行けない。
そう男は復讐心を抜きにしても、そう判断していた。
たとえ、自らの主人の命に背こうともーーーー
「半蔵はいるか?」
「ここに」
途端、男の背後にもう1人の男が出現した。
出現した、というのは別に幻覚でも揶揄でもなんでも無い。
霧のように、幻の如く、その男は出現したのだ。
見た目は普通の男で、着ている者も小汚い。だが、その眼がただ者では無いということを暗に伝えている。
「1人、殺して欲しい人間がいる」
「最近旅に出た隠居をですか?」
「あぁ」
「難しいですな、本人も武芸に通じていると聞きますし、供回りにも優秀な者がおりまする。それに他にも監視の人間もおります。バレぬよう殺すのは厳しいかと」
「できるのか、できないのかを聞いているのだ。」
「造作も無きこと、はぐれの甲賀者や伊賀者を使わせましょう」
そう言うと、服部半蔵、そう元康に言われた男は再度幻影のように消えていく。
雷が鳴った。
雷の僅かな光に照らされ、男の顔が露わになる。
「殺してやる、私の希望を潰した男、今川輝宗!!!!」
そこには、松平三河守元康がいた。
異なる世界では天下を手中に収めた程の男が、今1人の英雄に牙を剥く。
それが、この物語の序章となることを、誰もがまだ知らない。
「某もです、あれほど大きな隙を見せておきながら何も動きが無いというのは妙ですなぁ」
「そうか、其方達でもわからぬか...やはり叔父上は翻意など持ってはおらぬのでは無いか?」
「しかし油断めされるな、あの方こそ今川家随一の名将であることは疑いようが無いのですから」
「真に」
今川輝宗が京の都を出立してから3日、別れを惜しみ、涙さえ流した面々が、暫くの間誰も入れぬようにした城の一室で密談を続けていた。
今川氏真、松平三河守元康、浅井備前守長政、朝倉左衛門府義景。
六角、三好、織田、畠山、一色、斎藤が滅びた今、この4名と何人かの欠員メンバーが、全国を収める主な大名たちだった。
「叔父上のお考えが知りたい、やはり私が直接話すべきだったか...」
「しかし、あのお方も本意を話されませんからな...」
今や副将軍となった氏真が頭をを抱えてつつ言ったそれに、左衛門府が追従するように頷く。
朝倉義景、切れるという噂は聞かないものの手堅い仕事をする男だ。
がっしりとした肉体とその深い瞳は、名門朝倉家に相応しい堂々とした佇まいだ。
この会議のまとめ役でもある。
「はっはっは!しからば、手前が今からでもご隠居様に尋ねて参りましょう!!手前ならばご隠居様も自らの目的を喋る筈!」
「相変わらず備前守殿は声が大きい、しかし私も同意です。今となってあの方が何をしたかったのかがわからなくなってしまった」
備前守の大きな言葉に対し、隣でも三河守が同意する。
浅井長政、松平元康。
浅井は良き同盟相手であり、今では幕府に仕える大名の1人だ。大柄で粗雑ではあるが、戦においてこれより頼もしい男はいない。
それに双璧を成すのが松平元康、古くから今川に臣従しており、強かな男だ。 中背中肉の温和な男だが、時々何を考えているか読めないところある、狸に似た男と裏では揶揄されているらしい。
「本当に、全くその通りだな」
氏真は、彼らの反応を見て、自分の考えていることが正常だと確信していた。
今川輝宗という男についての評価は「謎」という一言に尽きる。
市井の噂曰く、その鬼才は軍略の鬼と称され、今川の軍師でもあった太原雪斎に認められる程。
刀は愚か武芸百般に通じ、彼の師は3日で彼の才能を見抜き免許皆伝を授けたと言う。
内政では大殿をも超える才覚を見せ、大殿の成果となっていることの大半が本来輝宗のものであったとか。
そして何よりも輝宗が得意だったのは、人材を見抜くその目だ。
彼が日本中から命じて呼んだその者たちは、百姓や浪人、罪人である。
木下藤吉郎、山口新太郎教高、山内伊右衛門一豊、前田利家、竹中半兵衛、織田家家臣の一部など、彼らは様々な役職でその頭角を現し、今では今川に無くてはならない人物となっている。
松平元康もその1人ではある、本来元康は今川に忠誠を誓う国人領主程度の扱いでしか無く、その兵の精強さを買われていたものの独立はできなかった。
しかし輝宗の口添えもあり、今や今川の重鎮として氏真からも厚い信頼を得ている。
「思えば叔父上の為されることには必ず理由があった」
「真に、あの方が動かれる時は、常に水面下で何かが起きている時でした。皆様方は織田殿を知っておられましたか?」
「知っておる!亡き義元公によって滅ぼされた、織田家の当主にしてうつけ者と呼ばれた男であろう!」
「左様、ですがあの方はうつけなどではありませなんだ。某、縁あって幼少期に織田殿とよしみを通じた経験がありまするが、あれはうつけなどではありませぬ。あの方は才あるお方でありました」
三河守がほぅと一息着く声が聞こえる、彼の話は続く。
「かつて、大殿が上洛される際の最大の障害が織田殿でありました、織田殿は少ない兵力ながら巧みな戦略をもって大殿を抑えようとしていましたが、流石に多勢に無勢。織田殿は乾坤一擲の策を持ってして大殿の首を直接狙いましたがそれも不発。あえなく城を枕に討ち死にいたしました」
「それは手前らも知っていること!しかし!それに何故ご隠居様が関わって来るのだ!あの方は駿河後方で城を守っていただけに過ぎん!」
「もっと言えば叔父上は城を守っていた訳では無い、寿桂尼様に文で呼ばれたからと言って地方の城より、遠路はるばる駿府城まで来ただけに過ぎない」
そんな2人の反論を、三河守は首を振って否定した。
「殿、あのお方が文で呼び出されただけで城へと出向くなどそのような訳がありますまい。それではまるで童のようではありませぬか。当時の大殿は上洛と言えど焦っておりました、同盟を結んだとは言え周囲には武田、北条と言う大名が並び、いつ同盟を破棄するかわかったものでありませぬ。一刻も早く上洛せねばと焦っていたことでしょう」
「しかし、あそこでご隠居様が駿府城に入られた。つまり言外にどんな敵が来ようとも私が今川の本拠地を守ると大殿に示したのでございます、その知らせを聞いて大殿は涙されたとか。以来、大殿からは焦りが無くなり、かつての慎重さを取り戻したお陰で織田殿を討てたのでございます」
「元康、貴様、それが無ければ大殿が負けていたとでも言いたいのか?」
左衛門府の言葉に、この場の会議の様子が少し変化する。しかし、三河守はそれを笑って否定した。
「いいえ、そうではありませぬ。大殿が絶対有利の状況だったのは間違いなく、勝利を私も疑ってはおりませなんだ。ですが、ご隠居様はこのように戦の節々で田舎の城から文を、時には自分の足を使い今川の天下に尽力されて来ました。それは評価せねばなりますまい」
三河守のその言葉に、一同は大きく頷く。
「実はな、私はこの葬儀の後、叔父上が私を殺そうと動くと思っていたのだ」
「なんと」
「そんな馬鹿な!」
「そうだ、其方たちの反応通り、そんなことは起こらなかった。しかし叔父上はお前たちが言っている通り優秀な方だ、恐らく私よりもずっとな。そう思うと叔父上が天下を取る為に動くのは当然と考えてしまったのだ。許せ」
「殿...」
氏真は、何かを憂うように空を見る。それは今ここにいない叔父への精一杯の謝罪だった。
「その葬儀はいい機会だった、私が病に倒れ、叔父上が私を殺し、天下人へと名乗りを上げる絶好の機会。私は裏で動き、叔父上が怪しいそぶりを見せればすぐに対応できるようにしていたのだが、叔父上は何もしなかった。あのお方はまさに普段通り、面倒くさそうに喪主を完璧に勤め、そして唐突に旅に出てしまわれた」
「しかし、ご隠居様とて旅に出たと言われるのにも何らかの考えがあるのでは...」
「いいのだ、左衛門府。叔父上は私の器量を見咎め出ていかれた、そう思うことにしよう。父上もあの方を制御できていたとは言い難い。鳳凰は籠には収まらぬ。羽ばたかせ、どうなるかを楽しみにしておこう」
「わかりました、監視はこちらでつけておきます」
こうして、今川輝宗に関する話題は終わる。
副将軍の仕事は山積みだ...
◇◇◇◇
「クソッ!何故誰も脅威に気付かない!」
雨が降っている。
そんな、誰もいない城の個室で、1人の男が畳を叩き怒っていた。
周りには誰もおらず、完全に1人で思案にふけっている。
その姿は影で見えず、深い闇に自らを溶け込ませていた。
「あの男は!私の夢を!希望を!奪った男だぞ!!!!」
あの男とは、輝宗のことであった。
人は、恨みを持つ。
それは、ほんの少しのミス、ほんの少しの手抜きで容易く発露する。
輝宗は、武将としては優秀では無くとも人としては酷く優秀だった。
優しく、温和、争いを好まず、戦国時代という苛烈で厳しい世界においても、かつての日本人としての道徳心を忘れてはいない。
それは、周りの人に対しても同じことで、だからこそ彼は輝宗を恨んでいた。
『輝宗様?何故そんなに本ばかり読んでおられるのですか!』
『君か...私はね、ここにいることが仕事なのだよ。』
『城主とは、そういうものではありませぬ!城主とは、民衆を見て、土地を知り、国を守るものです!』
『素晴らしい、実に模範的だ。それが正解とは言わないが、それを正解と言えない世界は寂しいものだな』
『皮肉を...!』
『まぁまぁ、どちらにせよ私はこの片田舎の城で本を読んで過ごすのがお似合いさ』
あの方ほど、自らの才を無駄遣いしていた人間は居なかった。
外は出れば、あの方を褒め称える言葉ばかりが出てくる。
「だが違う!あの男は必ずや今の状況を壊しに来る!」
彼は、独立を望んでいた。
長い間続いて来た、『今川』という呪縛とも言うべき繋がり。それは、弱い勢力しか無い彼にとってある意味仕方のないことなのかも知れない。
幼少期の人質生活、元服し、松平の家を継いでもそれは変わらなかった。
だが、彼には希望があった。
織田信長、今川と真っ向から戦い、勝つ可能性のあった男。
彼を救ってくれる筈だった男、だがそんな彼は死んだ。
故に彼は復讐する、だが彼には家臣がいた、守るべき者もいた。
彼はその全てを見捨てて復讐に走るほど子供では無い。
現状天下を掌握している氏真は殺せない、なら、護衛も少なく旅をしている老人を殺すことは可能か?
勿論、バレないようにという前提条件付きではあるが、十分に可能だろう。
ちなみに、男が自分の復讐心を無視しても国益の為に輝宗を殺そうとする理由は他にもあった。
各地で未だに不穏な影はある。
本願寺等一向宗の勢力は、三河では駆逐されたものの、各地で根強く勢力を広げている。具体的に言えば越後、安芸などだ。
越後の長尾景虎が幕府の元に来れないのもそうした背景があるのだ。
まだ、各地での小競り合いや謀反は続いているという背景が。
本当に戦の時代が終わりを迎えているとは言い難い今、ここで爆弾を抱えては行けない。
そう男は復讐心を抜きにしても、そう判断していた。
たとえ、自らの主人の命に背こうともーーーー
「半蔵はいるか?」
「ここに」
途端、男の背後にもう1人の男が出現した。
出現した、というのは別に幻覚でも揶揄でもなんでも無い。
霧のように、幻の如く、その男は出現したのだ。
見た目は普通の男で、着ている者も小汚い。だが、その眼がただ者では無いということを暗に伝えている。
「1人、殺して欲しい人間がいる」
「最近旅に出た隠居をですか?」
「あぁ」
「難しいですな、本人も武芸に通じていると聞きますし、供回りにも優秀な者がおりまする。それに他にも監視の人間もおります。バレぬよう殺すのは厳しいかと」
「できるのか、できないのかを聞いているのだ。」
「造作も無きこと、はぐれの甲賀者や伊賀者を使わせましょう」
そう言うと、服部半蔵、そう元康に言われた男は再度幻影のように消えていく。
雷が鳴った。
雷の僅かな光に照らされ、男の顔が露わになる。
「殺してやる、私の希望を潰した男、今川輝宗!!!!」
そこには、松平三河守元康がいた。
異なる世界では天下を手中に収めた程の男が、今1人の英雄に牙を剥く。
それが、この物語の序章となることを、誰もがまだ知らない。
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