上 下
28 / 31

エピローグ(1)

しおりを挟む
 誰かにベッドを揺らされることはなかった。

 仕事だなんて言って起こされるようなこともない。

 目覚まし時計が鳴るよりも早く開いた瞳が、真っ白な天井をうつす。頭を起こすために視線を動かすと、カーテンの隙間から漏れた光に、ポスターやカレンダーが照らされていた。


「朝だ……」


 ぽつりと呟かれた言葉の持ち主は、私、七瀬こよみに間違いない。

 ベッドから体を起こしてカーテンを開く。青い空に光る太陽。正真正銘の朝だった。


「よく寝たなあ」


 うんと伸びをすると、寝ている間に凝り固まったからだが柔らかくなるのを感じた。

 何か、大事なことを忘れているような気がする。なんだっけ。

 今日は学校で、一時間目は確か国語。予習はしていないけれど、漢字の宿題は終わらせている。


「まあいいか……」


 大事な事なら、きっとそのうち思い出すはずだもんね。

 パジャマから着替えて、鏡の前でおかしいところがないかをチェックする。部屋から出る前に赤いランドセルの中身を確かめると、今日の時間割の教科書がしっかりと詰まっていた。私の家では、ランドセルの中身と次の日の服を前日に用意する決まりなの。だから、忘れ物とかもしたことないんだけど、どうしてか今日は不安だ。

 まあいいか、なんてつぶやいてみせたけど、内心全然良くない。自分を納得させるために、思ったことは口に出したほうがいいなんて言うけれど、今の場合は逆効果だったみたい。

 頭の中で正体のわからないものがぐるぐる飛び回ってる。


「こよみ、起きてるのー?」

「あ、うん! 今降りる!」


 そんな思考を無理やり断ち切ったのはお母さんの声だった。私の脳内を飛ぶ何かを的確に打ち落とす。

 慌てて部屋から出て、階段を降りると良い匂いが鼻に飛び込んでくる。

 パンの焼ける匂いと、優しいシチューの匂い。それから、テレビの音。


「おはよう!」

「あら、おはよう。ちゃんと起きてたのね」

「おはよう、こよみ。お父さんも今起きたところなんだ」

「お姉ちゃん、おはよ」


 お母さんがキッチンに立っていて、お父さんは眠たそうに目をこすっている。私と同じで早起きな弟の康太は、パンを口に詰め込みながらそう言ってひらひらと手を振った。

 いつもの光景だ。いつもの光景なのに。


「え、ちょっとやだ、こよみどうしたの?」

「こ、こよみっ? 泣いてるのか?」


 あれ、私、どうしちゃったんだろう。

 ほっぺたがどんどん濡れていくのを感じる。鼻水まで出てきて、息を吸い込むとズッと汚い音がした。


「どこか痛い? 体調悪いの?」


 キッチンからでてきたお母さんが、私のおでこに手をあてる。冷たい掌を感じて、ますます涙が止まらなくなった。

 お父さんはおろおろしているし、康太は心配そうに眉を寄せている。

 止めなきゃダメって思えば思うほど、どんどん溢れてくる。まったくもう、涙ってば天邪鬼なんだから。って、そんなこと言ってる場合じゃないよ。何か悲しいことがあったわけじゃないし、どこかが痛いわけでもないのに、胸の奥をぎゅっと何回も握られている感じがする。


「お、かあさ、あの、朝ごはん食べるよ」

「朝ごはんって、そんなに泣いてるのに……」

「だ、いじょうぶ……」


 大丈夫には見えないよね。でもなんでかもわからないんじゃどうしようもないもん。


「それなら、顔を洗っておいで。用意してるわね」


 私の様子を見て首を傾げたお母さんがそう言った。

 洗面所の鏡は大人の人でもちゃんと見られるように、大きくなっている。私の身長だと、ちょうど鏡の半分くらいだ。

 ひっどい顔。泣いたのは一瞬なのに、目の周りが真っ赤です。

 前はこうやって顔を洗っていると、はやく用意しろなんて言われてたっけ。

 ……誰に?

 家族は誰も、私の用意を急かしたことなんてないよね。たまに康太が、交代してとは言ってくるけど。

 うーん、夢でも見ていたかな。

 リビングに戻ると、お母さんも食卓に座っていた。もちろん、私のぶんのご飯が用意されている。当たり前なんだけど、大事にしなきゃいけない風景な気がして、またしても立ち止まってしまう。


「ねえ、今日は学校辞めとく?」

「ううん、行くよ。ごめんね、シチューがすごく美味しそうで……」

「変な子ねえ」


 そうです。今日はどうしてか変な子です。自分でもわからないんだもん、何かを言って心配させたくない。

 もう泣くものかと気合を入れてご飯を食べたんだけど、今度は全然泣きたくなんてならなくて、ちょっぴり拍子抜け。さっきのは何だったんだろう。

 先に食べ終えた康太は友達と約束があるからとはやめに家を出て行った。なんでも学校の前に公園でキャッチボールをするんだって。どこにそんな元気があるのかわからない私は、ご飯を食べてから部屋に戻る。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

スコウキャッタ・ターミナル

nono
児童書・童話
「みんなと違う」妹がチームの優勝杯に吐いた日、ついにそのテディベアをエレンは捨てる。すると妹は猫に変身し、謎の二人組に追われることにーー 空飛ぶトラムで不思議な世界にやってきたエレンは、弱虫王子とワガママ王女を仲間に加え、妹を人間に戻そうとするが・・・

灯りの点る小さな家

サクラ
児童書・童話
「私」はいじめられっ子。 だから、いつも嘘を家族に吐いていた。 「楽しい1日だったよ」 正直に相談出来ないまま、両親は他界。そんな一人の「私」が取った行動は……。 いじめられたことのある人、してしまったことのある人に読んでほしい短編小説。

【完結】最愛の人 〜三年後、君が蘇るその日まで〜

雪則
恋愛
〜はじめに〜 この作品は、私が10年ほど前に「魔法のiらんど」という小説投稿サイトで執筆した作品です。 既に完結している作品ですが、アルファポリスのCMを見て、当時はあまり陽の目を見なかったこの作品にもう一度チャンスを与えたいと思い、投稿することにしました。 完結作品の掲載なので、毎日4回コンスタントにアップしていくので、出来ればアルファポリス上での更新をお持ちして頂き、ゆっくりと読んでいって頂ければと思います。 〜あらすじ〜 彼女にふりかかった悲劇。 そして命を救うために彼が悪魔と交わした契約。 残りの寿命の半分を捧げることで彼女を蘇らせる。 だが彼女がこの世に戻ってくるのは3年後。 彼は誓う。 彼女が戻ってくるその日まで、 変わらぬ自分で居続けることを。 人を想う気持ちの強さ、 そして無情なほどの儚さを描いた長編恋愛小説。 3年という途方もなく長い時のなかで、 彼の誰よりも深い愛情はどのように変化していってしまうのだろうか。 衝撃のラストを見たとき、貴方はなにを感じますか?

ダイヤモンド・ライト

須賀雅木
ファンタジー
とある冬の夜、暗殺者の青年は森の奥の館に忍び込む。そこで出会ったのは、少女の姿の王様・アレキサンドラ。ひょんな事から彼女に弱みを握られた青年は、天真爛漫な彼女に振り回されていく。身分も年齢も離れた二人の、夜の密会のお話。 ※本作は別サイトで連載している作品です: http://blacktime777.blog.fc2.com/blog-entry-322.html?cr=02bnk6beeli4pkfikbu9290fu6

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

どろんこたろう

ケンタシノリ
児童書・童話
子どもにめぐまれなかったお父さんとお母さんは、畑のどろをつかってどろ人形を作りました。すると、そのどろ人形がげんきな男の子としてうごき出しました。どろんこたろうと名づけたその男の子は、その小さな体で畑しごとを1人でこなしてくれるので、お父さんとお母さんも大よろこびです。 ※幼児から小学校低学年向けに書いた創作昔ばなしです。 ※このお話で使われている漢字は、小学2年生までに習う漢字のみを使用しています。

あの小さな魔女と眠りに落ちよう

kiruki
児童書・童話
急な体超不良に襲われた小さな魔女は、いつも通りの"おやすみ"が言えたのだろうか。 長い寿命を持つ大魔女と、彼女に幼い頃拾われた男の話。 エブリスタ、ピクシブにも投稿中。

結ぶ

れお
児童書・童話
ある小さな国、貧しい兄弟とその身分の違う友達

処理中です...