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登校拒否
登校拒否
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短編小説「登校拒否」 献残屋藤吉郎
1)「登校拒否」
引きこもりも「登校拒否」も原因は同じようなものだ、、、全てが己から始まった心の拒絶だ。
暖かい温室の様な中で咲いた花は、、野辺で咲いた花よりは弱い。。。
動物園の様ないつでも餌をもらえるような檻の中の動物は、、野生ではなかなか生きてはいけないように、、
人間は環境に溶け込んでいけるものと、、己のうちの殻に閉じこもってしまうものがいるような、、、
そんな違った性格の人間が溶け込む会うのは時間がかかる。
その溶剤の役目が学校であり幼稚園や保育所であるのだ、、、そして、、人と人、が笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら成長していくのであった。
そんな環境に馴染めない、、溶け込めない人間が弾けて、いつの間にか隅っこに逃げてしまうのだ、、、それをみ逃さずに、よくよく人を観察して、、特に心の叫びを聞き届けないとな、、
先生とは,、教師とは言えないような、、、
学問に優れていることはいいことだが、、、子供の心を読まないとな、、、
そして、引っ張って行かなければ、、子供を教えることは出来ないような、、、
先生も教師も大変な仕事だな、、天職なのかも知れない。
2)福沢諭吉の言葉「人の上に人をつくらず、、人の下に人をつくらず、、、」
家族とは勝手な生き物の集まりだ、、、子供が幼少の頃には一緒に遊んだり、、可愛いと言っては
人は面白い、、不思議ないきもの
何故に同じ人間に生まれて、同じに平等に生きられないのだろう、、、
人間にはもって生まれた性格や才能が有って、全ての人間がひとりひとりが異なって生まれて来て、、違った生活空間で来ている、、、育てられているのであった。
それだけでも同じにはならない。
生まれて、育ててくれる親も違い、、人間の容姿はまったく違っている。大きい小さい、、太い細いと、、そして、「男と女」はまるっきり違う。
更に生まれた家の貧富の差にもより、、昔でいえば「身分の違い」が、、、人を同じにはしていないのだ。。
人間をこの世に創り、送り出した神は、、「情けも仏もない」のだ、、、
しかし、、右を向いても左を見ても、まるっきり同じ姿では味も素っ気もない、、、
この世は上手く出来てる。。。
才能の良しあしは「人を競わせるような、、、」、、時には争わせて「人の向上」をはかり、、
「人間の進歩発展」をするような。。。
全てが同じではだめなのかも知れない、、、しかし、、人の生きる道で何かが同じでなければ「平等」はない、、、それが人に課せられた永遠の「課題、、宿題」なのかも知れない。。。
そして、、神は残虐である、、「なぜ、、人の世界に身体障害者を、精神障害者を送り出すのか、、」
「なぜだ、、どうしと、、」と言いたい。。
その立場に置かれたひとは「人よりも数倍の心労」がある筈だ。。せめて、同じであって欲しい。
福沢諭吉の言葉「人の上に人をつくらず、、人の下に人を人をつくらず」は、、いろいろな解釈ができる、、むずかしい、、、
今、、学校や職場に行きたがらない「拒否心」は日々の人間関係で生まれてしまうもの、、、
まずは家庭環境での空間で、、親が、近親者が、、幼少時代に子供を授かっら、、「可愛い、、愛おしい、、」というだけで、頬釣りして抱きしめて育ててはいけないような。。
子供を人任せにして、、悪くなれば「学校が」「職場が」」とか「人が、、友達が」という風な考えは捨てないと、、、「己の育て方を、、」よくよく反省して考えないと。。。
3)行きたくないと学校へ、、職場
子供が朝起きて来ない、、起こしに行くと、、「頭が痛い、、、」とか「腹が痛いとか」と言って、
學校を休みたがる。。子供なら、、友達と会って遊ぶことが楽しい筈だ、、
それが嫌がる、、親はその事情を早く知るべきである、、、普通は子供の我儘と思い、、
「だめでしょう、、行かないと、、」簡単な諭しで行くと思い、、そん場を斬りぬけてしまう、、、
そして、、一日ぐらいは休んでもいいかと、、しかし、そんな日は続くのであった。
親はなんとかして行かせる、、行きたくない本当の理由を知ろうともせずに、無理矢理に行かせる。
そして、、登校拒否の本当の訳、、それは「苛め」があったのだ。
子供が「登校拒否」をするには必ず原因があるのだった、、、それを知ろうとしない親も馬鹿である。
何故に早く原因究明をしないのか、傷口は小さい方が縫い合わせし易いのだ。
大きくなった傷口は縫えないかも知れないのだ、、、そして、縫える傷口ならばいい、、親も世間も縫えなくなってから、、事件になって、、初めて騒ぐのだった。
「どうしてくれる、、、責任はだれが取るのだ、、」と、、遅いのだよ。。。
全く馬鹿げている、、、どうして、もっと早く気づいてやれない、、対処が出来ないものかと、、
「登校拒否」から始まり、、「家庭内暴力」が起きて、、「苛め」に発展して最悪な「自殺」が起きる、、、初めて事の重大さに気づき、、大騒ぎをする。。
そして、、、これからどうすると、、対策を練る、、、
まったく馬鹿な、知恵の無い大人たちが考える、、繰り返す「登校拒否」「家庭内暴力」「苛め」「自殺」と、、、その対策の愚劣な事か、、、考えろよ、、
「ましな答え」を、、、天国か地獄へ行った子供たちが笑っているよ、、、
懲りずに繰り返す愚行な大人たちよと、、、
そんな日は来るのだろうか、、、考えろ、、、地球規模の危機を、、、
登校拒否の原因にはいろいろな要因が絡んでくる、、、その一つが
1)家族団欒が少なくなる。
家族とは勝手な生き物の集まりだ、、、子供が幼少の頃には一緒に遊んだり、、可愛いと言っては
いっしょにいる時間が長く、、というよりは作っていたような、、、
そして、、子供が小学5年とか6年の頃になると、、不思議な現象が家庭内にも起こる。
人とは家族であっても「慣れあい」が出来る、、「これくらいはいいか」とかの甘えである。
そして、、「無いとは言えない、飽きである、、」男と女がまず、、「いても居なくても同じなような」
いわゆる「空気」になってしまう。
親と子供も同じで、、何時もいるから、ついつい、、何かあるごとに「後回し」になる、
そして、、いつの間にか夫婦でも、親と子供の間にも「会話」が減っていくような、、極端な話が無言が多くなる、、それが「親子の断絶」の始まりのような、、、
そして、、昔は子供部屋などは特別な環境以外にはなかった。ほとんどが家族が寝る時には一緒の部屋で布団を並べて敷いて寝ていた。大きな家の場合に年より夫婦だけが別の部屋で、、夫婦とその子供たちは一緒だった。。そして、ご飯を食べる時にも同じ「ちゃぶ台」昔のテーブルだ、、一緒に食べた。。
農家などへ行くと、俗にいうお大臣の家などでは一人一人の小さなお膳で食べていた、、、それでも同じ部屋の中だった。
そんな訳で家族の親と子供、、年より夫婦の会話があった。
古い仕来りはあったが、、礼儀もしっかりしていた。
夜の団欒の時にも一部屋で過ごしていたのである、、、
ところが戦後になって、、時が過ぎ、、経済的にゆとりが出たきた日本では建売住宅とか、土地の分譲が始まり、、各家庭が独立して家を持つようになった。そして、田舎から都会への進出が始まり、、ひと家庭で一つの家を所有する時代が来たのである。
また、、少子化が始まり子供一人が多く成り、、家の中に子供部屋が出来るようになった。
そして、個人個人のプライバシーなどと称して、、秘密が多くなった。
夫婦でも子供でも分からない時間が出来た。それも「引きこもり」の要因の一つのようでもあるような、、、
誰が悪いわけもなく、、自分たちで子供の各部屋生活を作り、、人の持っている性格により「引きこもり」などという現象を起こしたような気もする。
2)会話が無くなるような、、、
一人の少年、無太郎は3人弟妹の長男です、、、小学に入るまではおしゃべりな明るい子供だった。小学校へ通うようになっても同じように明るく振舞っていた。しかし、二人の弟が妹が小学校へ入学して、無太郎が小学5年生に成ったころに、親からテストの成績が悪いと怒られた、そして、弟や妹と比較されたのである、、そんな学業などのテストの点数で弟や妹は褒められて、、自分は怒られた。
それがたび重ねているうちに、無太郎は勉強が嫌いになっていった、、世の中の出来事から見れば些細な事であるが、子供無太郎には大きな痛手となり、心に刻み込まれていって自然に負い目となっていった。
そして、いつもいい成績の弟や妹は褒められて行くのを見ていて、、徐々に物いわぬ子供になっていったのであった。
そんな両親は無太郎の痛みを知るわけがなかった、、なぜかというと、、、
親は無太郎に、、、「どうしたの、、あなたはテストが良くないね、、もう少し、頑張らにと、、弟や妹に負けないようね、、あなたは長男なのだからしっかりして頂戴、、」と、、親にしてみれば怒っている訳ではない、、励ましているのだった。
しかし、そこに大きな落とし穴があったのだった。
子供も大人も誰しも人間のプライバシーを比較されたり、、本人の前で「よしあし」を言われたりすることは禁物である、、
誰しも自分の欠点というか負の面を云われるのは辛いもので、、
云われるくらいなら顔を見せないほうがいい、、会わないほうがいい、、会話を避けた方がいいとなり、、自分の部屋がある子供は出て来なくなる。
人は誰しも小言を云われたり、注意をされるのは嫌である、、、なるべく言われないように一人になるようだ、、、
それが度重なっていくうちに、、やることが全て、面倒くさく成っていく。そして、起きることさえ面倒になっていくのだった。
子供も大人も「楽」な行動を選ぶような、、、「言い訳」を考えて寝てしまう、、、
無太郎も母親が朝、起きて来ないの起こすと、、「お母さん、頭が痛くて学校を休みたい、、動けないよ、、」と、甘えることは知っていた。
最初は良かったが「言い訳」が通用しなくなっていくのだった。
そんなことの繰り返しをして行くうちに親も騙せなくなり、、今度は何をするかというと、、、居直ることをするのであった。
部屋の鍵を空けない、、親が少し強く言うと、、、「うるさい、、うるさいんだよ」と更に不貞腐れるのだった。
そして、、優しい親の心を知ってか知らずか、、逆らってくるのだった、
何も食べずに部屋に閉じこもる子供が心配で、親は怒ることが出来ずに優しく接しようとする、、、
無太郎の場合も最初は部屋から出てこないが食事時間には出てきたのであった。
しかし、「登校拒否」が始まり、部屋から出て来なくなって1か月が過ぎたころからには親に物を投げつけたりするようになった。
母親は一人では対処できなくなり、、無太郎の父親にも相談したが、、そのうちにそのうちにと言ったが、、手遅れになっていった。
子供は体も多きくなり、、体格的にも対応が出来なくなっていた。
そして、家庭内は一人の「引きこもり」が始まってから、環境が一遍していったのである。。毎日,重苦しい、笑いの無い家庭になっていったのであった
3)引きこもりにはいくつかの要因が絡み合って、、
子供も大人も引きこもりには生活環境や親子や身内の関係、、更には学校とか職場とかの人間関係が絡んで起きるので、一概には「これが原因」とは言えないような気がする。
そして、本人の性格や気性などが関わるので難しい。引きこもりは「突然」に起こるのではなく、、徐々に行動や気持ちに変化が表れて、親がよくよく本人を観察していれば分かる筈である、、しかし、誰しも日々の生活が忙しい、、、心にゆとりを持って生活していることが少ないのだ、、、子供が幼少の頃には親も注意を払って、、「危ない、、それは駄目よ、、」とか、、「それはしてはいけない、、」とか、窘めることが多い。
そして、、関わることが親も子供も、なぜか楽しいような、、笑顔を見せながら生活にも余裕があった。
しかし、子供も成長してくると、、、「うるさいよ、、そんなことは分かっている、、」とか関りから逃げるような、、、
そんなこともあり、、「放任主義」をとる親も出てくる。
また、、「それくらいは自分でやりなさい、、いつまでも子供じゃあないのだから、、」と、、突き放す親もいる。
親子関係は難しい、、、本当は構ってもらいたいと思う子供もいる筈で有る、、その親子関係の距離が人により違いがあって、「こうだと、、」と言えない。
その辺にも気持ちのくい違いが出来て、、心の行き来が狂ってくるようだ、、、
そして、気が付いたら「会話」が無くなり、、引きこもりにつながっていく、、親子の断絶が始まってしまう。
子供が成長する頃には経済的にもお金が必要になり、、共働きが多くなって、孤立化していくようだった。
親も仕事と家庭の両立で肉体的に疲れ、、子供も部活や課外授業や「学習塾」などで肉体的に精神的にも負担が増えて、疲れがでるようだった、、、
御互いの肉体的疲れや精神的な悩みが増えて、、いつの間にか無口になり、、「会話」が少なくなる
そんな家庭環境で生活空間で生活することが、、正直言って「面倒臭く」なり、、お互いが無理をして「背伸び」をしているような、、
そこに「引きこもり」という落とし穴に嵌るようであった。
しかし、、「引きこもり」問題は課題が多く難しい、、言えることがひとつだけあるような「早く気が付き、傷口が小さい時」に、、お互いで話し合うことの様な気がする。。。。
そして、、引きこもりが始り、、同時に家庭内暴力が始まるのも要因の一つだ。
1)家庭内暴力
子供にも大人にもあるようだ、、「家庭内暴力」は、、、
昔と違い、、今は夫婦二人で育てることが多く、、その上に友働きが多い。
そんよってしまう。
友働きの場合などは、、朝は忙しともあった、、「誰誰ちゃん、、いくよ、、」と言いながら、親が守る様に育てる、、年寄りがいると更に可愛がるのだった。
子供はその生活が当たり前とおもうようになってしまう。
お祖母ちゃん、、おじいちゃんに、、「誰誰ちゃん。。可愛い、いい子だね」と褒められて育ってしまうことが多い。
そんな子供が、、今までにあったnoiDこともなく、話したこともない仲間が居る中にほうり込まれてしまうのである、、、
それは、、「ライオンかも知れない、、狼かもしれない、、像かも知れない」のだ、、見たことのない生き物と一緒に一つの檻の中に入れられてしまうのだから、、」子供によっては環境が変わるので、、本人そのものも変化し
環境に順応する子供もいれば、、閉鎖的なってしまう子供もいるのだ。。子供とは難しい、、、
2)家庭外でに不満が、、、
子供も成長仕切れない中途半端な大人の格好をした大人が、、親や近親者と生活した延長で、家庭以外の社会空間に出た時、、、「こんな筈ではなかった、、どうして、自分の考えが通じないのだ、、、
と、、繰り返し思う。その繰り返しが自信をうしなっていくのだった。
學校で社会現場での「やるさなさ、、、不甲斐なさが、、」行動が出来ないことが、、意見が通らが積み重なって「こころの中に鬱憤の膿がたまり、、」その膿の吐き出し口を求めて、、それが暴力となって表れるような。
その暴力が内に出るか外に出るかによって「呼び方というか、扱い方が千葉って来る。」のだった。。
家庭内で家族対して、大概は親にする暴力で、、、それは「甘え」の表現のヒツかも知れないのだ。
そして、社会や職場、学校での暴力は刑事事件にも発展して、社会問題に取り上げられる。。
いわゆる「非行」として、、、
家庭内だけなら、、話合いや気づかいで、穏便にすることも出来れるが、、暴力程度では警察沙汰になることもある。。。
いずれにしても「暴力」は駄目なのだ。
社会で取り締まられている「暴力団」は現在は厳しく規制をされて、、公安委員会からは「広域指定暴力団」として管理されている。。そんなところから「大きい、小さいの違い」は有っても「暴力」は絶対の駄目なのだ。
だから、、「引きこもり」や「登校拒否」や「職場放棄」にならないように、、、日々、」管理者や教育者は監視指導には注意して行動をしないと、、、
この行為も出発点は家庭である。。
特に子供を育てることは難しい、、そして、育成することは「更に至難の領域」なのだ、、、
簡単に子供を育てることは考えないほうが、、時代が進むほど、難しくなっていくような、、、
時代が、、世の中が「少子化」だからと云って、むやみに、、やたらに「子供を増やす」ことを考えないほうがいい。。。
現在の世界、、地球規模で考えた方が、、、、ウクライナでの戦争、、パレスチナとイスラエルの戦闘での子供たちの残酷物語、、ビルマでの悲劇、、そして、台湾問題が、、、更には北朝鮮のミサル発射など、、、世界各地での自然災害が起きて、、地球環境に危機が迫っている。
人々よ考えてみて欲しい。。もぅともつと「モアモアモア」に。。。
暴力がどうのこうのな言ってる場合でないのだ、、、
世の中が亡くなったらどうする、、、今こそ、、地球規模で考えろって、、、叫びたい。。。
「馬鹿野郎、、、人間ども、、、」と、、
3)飛び出す暴力
人の暴力とは限りがないような、、、一度吹きだしたら噴火が止まらない「火山」のようにマグマを流す。。周囲を溶かしながら、、巻き込みながら、傷つけていく、、時には命を奪う。。。
最初は小さなゲンコツも平手打ちも大ききなると、、物を手にして暴れるようだ、、、
どうしてというほどに暴れる、、、
多分、自」分でも止まらなくなるように、、人に危害を加える。
人とは怖ろしい生き物だ、、、なんでというほ力が出てくる、、、火山が爆発すると溶岩が流れ出す。。。其の勢いは徐々になる。。
しかし、、時がたち、、冷えてくると固まる、、人間も同じだ、、時間が経ち冷静になると嘘のように静かになる、、、
人も話し合い、、初めから冷静なら「暴力」はいらない。
それならば原因になることを究明して、、助け合い、話合いで暴力は防げる筈だ、、
しかし、出来ずに暴力を振るうのだ、、、
振るう方も「我慢せずに」、、「云えよ」「話せよ」、、「黙る前に口を開け」
そして、、思いっきり討論しろと言いたい、、
無言は美徳とされた時代は終わったのだ、、只、黙っていては分からないのだ、、
人には素晴らしい武器がある、、それは「言葉」なのだ。。
云いすぎかもしれないが話すことが「美徳」なのだ、、話して、納得して、無暴力で行きたいものだ。。。
そして、、子供の不登校や「引きこもり」「家庭内暴力」から始まった子供の暴動は
「いじめ」まで発展する。。。
1)苛め、、、
引きこもりからはじまり、、家族への暴力行為が起こり、、学校などで友達関係への苛めが起ると問題である、、いわゆる学校内暴力が起きることがある。
友達同士の喧嘩ならまだいい、、それが団体で「個人一人」を苛めると、、苛められた子供に悲劇が起きるのだ、、、最悪の場合は「自殺」というような形で表れてくる。
ものあ無くてはならないような。。
出来ることから始めるとすれば、、極端な話が、、個室をなくしてオープンにすることだ、その反動で「プライバシーの問題」が起る、、難しい。
昔は大部屋だった、、しかし、、今は違うと反感をされる。
引きこもりはどうして起こるのか、、家庭内に引きこもるのには、理由がある筈だと思うことが大事だ。
まずはその理を、、訳を聞きださないと、、大事なことはひきこもることを、、「なんでと人は怒れば怒るほど、、追求すればするほど、、人とは自分の穴倉にはいってしまう。
それを重ねるうちに「穴倉」から出て来なくなるのであった。
穴倉に入る前に、、入り口で話さないと。。。
「子供が学校に行きたくなかったら、、休ませればいい、、」そして、本人がやりたいことをやらせるのだ、、、話合いで決めてやればいいような、、、
いろいろいる子供たちの中には「勉強が嫌いなこどもいる」「団体行動が嫌いな子供もいる」それを無理やりさせることは無い、、、その子供の不向きが有るのだから、、それを親は指導者は見出すことが必要だ。。
穴倉の入り口で防ぐことが大事だ。それには普段からの観察が必要であり、、無暗やたらに子供を創るな、、、考えて行動をしろよとと言いたい。
それが苛め対策の基礎だと思う,,大人たちが考えて「コヅクリ」をしろと言いたい,、何度も言い
2)苛め(その2)
、
穴倉から引き出したら、、子供や大人でもすきなことやらせてやる、、得意なことがあるのだ。。誰でも彼でも学校での勉強を好きな奴ばかりではない、、嫌いな奴が多いのだ。
英語が好きな奴、、数学が好きな奴、、絵をかくことが得意な奴、、音楽が好きで歌うことがなによりも好きな奴、運動神経が飛び向けているいる奴と色々いる。
大人になったら得意な分野で仕事は一本道が多い。
だから、、子供に対してやれと、攻めるなよと言いたい、考えてみろよ、、自分の子供時代を、、、自分の能力を考えろだよ。
「鳶が鷹を産むようにはいかないのだ、、」
子供時代には「のびのびと、、」慌てずに生きましょう、、、
黙ってても成長するから、、暖かい心で見守らないと、、穴倉に入ってしまうよ、、、まずは「ひきこもり」をさせないように、、周りの大人が気遣わないと。。。大人でも周囲の家族が優しく接しなければダメだ。
人の優しい心が大事だ、、
人とは「やっては駄目とか、、それはいけないと、、」と、、何から何までダメ押しでは、息が詰まり、、反発して、、逆切れを起こすのだ。
「なんでも駄目はやめましょう、、、やりたいことを話し合いをしながらやる、、ダメなら、なんで駄目かを相談する」
そんな努力を親も子供もすれば、、いいのではないかな、、、
兎に角「ひきこもり」を防ぎ、、楽しい家族団欒を、気を抜かずに作ることが一番大事なようだ。
1)「登校拒否」
引きこもりも「登校拒否」も原因は同じようなものだ、、、全てが己から始まった心の拒絶だ。
暖かい温室の様な中で咲いた花は、、野辺で咲いた花よりは弱い。。。
動物園の様ないつでも餌をもらえるような檻の中の動物は、、野生ではなかなか生きてはいけないように、、
人間は環境に溶け込んでいけるものと、、己のうちの殻に閉じこもってしまうものがいるような、、、
そんな違った性格の人間が溶け込む会うのは時間がかかる。
その溶剤の役目が学校であり幼稚園や保育所であるのだ、、、そして、、人と人、が笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら成長していくのであった。
そんな環境に馴染めない、、溶け込めない人間が弾けて、いつの間にか隅っこに逃げてしまうのだ、、、それをみ逃さずに、よくよく人を観察して、、特に心の叫びを聞き届けないとな、、
先生とは,、教師とは言えないような、、、
学問に優れていることはいいことだが、、、子供の心を読まないとな、、、
そして、引っ張って行かなければ、、子供を教えることは出来ないような、、、
先生も教師も大変な仕事だな、、天職なのかも知れない。
2)福沢諭吉の言葉「人の上に人をつくらず、、人の下に人をつくらず、、、」
家族とは勝手な生き物の集まりだ、、、子供が幼少の頃には一緒に遊んだり、、可愛いと言っては
人は面白い、、不思議ないきもの
何故に同じ人間に生まれて、同じに平等に生きられないのだろう、、、
人間にはもって生まれた性格や才能が有って、全ての人間がひとりひとりが異なって生まれて来て、、違った生活空間で来ている、、、育てられているのであった。
それだけでも同じにはならない。
生まれて、育ててくれる親も違い、、人間の容姿はまったく違っている。大きい小さい、、太い細いと、、そして、「男と女」はまるっきり違う。
更に生まれた家の貧富の差にもより、、昔でいえば「身分の違い」が、、、人を同じにはしていないのだ。。
人間をこの世に創り、送り出した神は、、「情けも仏もない」のだ、、、
しかし、、右を向いても左を見ても、まるっきり同じ姿では味も素っ気もない、、、
この世は上手く出来てる。。。
才能の良しあしは「人を競わせるような、、、」、、時には争わせて「人の向上」をはかり、、
「人間の進歩発展」をするような。。。
全てが同じではだめなのかも知れない、、、しかし、、人の生きる道で何かが同じでなければ「平等」はない、、、それが人に課せられた永遠の「課題、、宿題」なのかも知れない。。。
そして、、神は残虐である、、「なぜ、、人の世界に身体障害者を、精神障害者を送り出すのか、、」
「なぜだ、、どうしと、、」と言いたい。。
その立場に置かれたひとは「人よりも数倍の心労」がある筈だ。。せめて、同じであって欲しい。
福沢諭吉の言葉「人の上に人をつくらず、、人の下に人を人をつくらず」は、、いろいろな解釈ができる、、むずかしい、、、
今、、学校や職場に行きたがらない「拒否心」は日々の人間関係で生まれてしまうもの、、、
まずは家庭環境での空間で、、親が、近親者が、、幼少時代に子供を授かっら、、「可愛い、、愛おしい、、」というだけで、頬釣りして抱きしめて育ててはいけないような。。
子供を人任せにして、、悪くなれば「学校が」「職場が」」とか「人が、、友達が」という風な考えは捨てないと、、、「己の育て方を、、」よくよく反省して考えないと。。。
3)行きたくないと学校へ、、職場
子供が朝起きて来ない、、起こしに行くと、、「頭が痛い、、、」とか「腹が痛いとか」と言って、
學校を休みたがる。。子供なら、、友達と会って遊ぶことが楽しい筈だ、、
それが嫌がる、、親はその事情を早く知るべきである、、、普通は子供の我儘と思い、、
「だめでしょう、、行かないと、、」簡単な諭しで行くと思い、、そん場を斬りぬけてしまう、、、
そして、、一日ぐらいは休んでもいいかと、、しかし、そんな日は続くのであった。
親はなんとかして行かせる、、行きたくない本当の理由を知ろうともせずに、無理矢理に行かせる。
そして、、登校拒否の本当の訳、、それは「苛め」があったのだ。
子供が「登校拒否」をするには必ず原因があるのだった、、、それを知ろうとしない親も馬鹿である。
何故に早く原因究明をしないのか、傷口は小さい方が縫い合わせし易いのだ。
大きくなった傷口は縫えないかも知れないのだ、、、そして、縫える傷口ならばいい、、親も世間も縫えなくなってから、、事件になって、、初めて騒ぐのだった。
「どうしてくれる、、、責任はだれが取るのだ、、」と、、遅いのだよ。。。
全く馬鹿げている、、、どうして、もっと早く気づいてやれない、、対処が出来ないものかと、、
「登校拒否」から始まり、、「家庭内暴力」が起きて、、「苛め」に発展して最悪な「自殺」が起きる、、、初めて事の重大さに気づき、、大騒ぎをする。。
そして、、、これからどうすると、、対策を練る、、、
まったく馬鹿な、知恵の無い大人たちが考える、、繰り返す「登校拒否」「家庭内暴力」「苛め」「自殺」と、、、その対策の愚劣な事か、、、考えろよ、、
「ましな答え」を、、、天国か地獄へ行った子供たちが笑っているよ、、、
懲りずに繰り返す愚行な大人たちよと、、、
そんな日は来るのだろうか、、、考えろ、、、地球規模の危機を、、、
登校拒否の原因にはいろいろな要因が絡んでくる、、、その一つが
1)家族団欒が少なくなる。
家族とは勝手な生き物の集まりだ、、、子供が幼少の頃には一緒に遊んだり、、可愛いと言っては
いっしょにいる時間が長く、、というよりは作っていたような、、、
そして、、子供が小学5年とか6年の頃になると、、不思議な現象が家庭内にも起こる。
人とは家族であっても「慣れあい」が出来る、、「これくらいはいいか」とかの甘えである。
そして、、「無いとは言えない、飽きである、、」男と女がまず、、「いても居なくても同じなような」
いわゆる「空気」になってしまう。
親と子供も同じで、、何時もいるから、ついつい、、何かあるごとに「後回し」になる、
そして、、いつの間にか夫婦でも、親と子供の間にも「会話」が減っていくような、、極端な話が無言が多くなる、、それが「親子の断絶」の始まりのような、、、
そして、、昔は子供部屋などは特別な環境以外にはなかった。ほとんどが家族が寝る時には一緒の部屋で布団を並べて敷いて寝ていた。大きな家の場合に年より夫婦だけが別の部屋で、、夫婦とその子供たちは一緒だった。。そして、ご飯を食べる時にも同じ「ちゃぶ台」昔のテーブルだ、、一緒に食べた。。
農家などへ行くと、俗にいうお大臣の家などでは一人一人の小さなお膳で食べていた、、、それでも同じ部屋の中だった。
そんな訳で家族の親と子供、、年より夫婦の会話があった。
古い仕来りはあったが、、礼儀もしっかりしていた。
夜の団欒の時にも一部屋で過ごしていたのである、、、
ところが戦後になって、、時が過ぎ、、経済的にゆとりが出たきた日本では建売住宅とか、土地の分譲が始まり、、各家庭が独立して家を持つようになった。そして、田舎から都会への進出が始まり、、ひと家庭で一つの家を所有する時代が来たのである。
また、、少子化が始まり子供一人が多く成り、、家の中に子供部屋が出来るようになった。
そして、個人個人のプライバシーなどと称して、、秘密が多くなった。
夫婦でも子供でも分からない時間が出来た。それも「引きこもり」の要因の一つのようでもあるような、、、
誰が悪いわけもなく、、自分たちで子供の各部屋生活を作り、、人の持っている性格により「引きこもり」などという現象を起こしたような気もする。
2)会話が無くなるような、、、
一人の少年、無太郎は3人弟妹の長男です、、、小学に入るまではおしゃべりな明るい子供だった。小学校へ通うようになっても同じように明るく振舞っていた。しかし、二人の弟が妹が小学校へ入学して、無太郎が小学5年生に成ったころに、親からテストの成績が悪いと怒られた、そして、弟や妹と比較されたのである、、そんな学業などのテストの点数で弟や妹は褒められて、、自分は怒られた。
それがたび重ねているうちに、無太郎は勉強が嫌いになっていった、、世の中の出来事から見れば些細な事であるが、子供無太郎には大きな痛手となり、心に刻み込まれていって自然に負い目となっていった。
そして、いつもいい成績の弟や妹は褒められて行くのを見ていて、、徐々に物いわぬ子供になっていったのであった。
そんな両親は無太郎の痛みを知るわけがなかった、、なぜかというと、、、
親は無太郎に、、、「どうしたの、、あなたはテストが良くないね、、もう少し、頑張らにと、、弟や妹に負けないようね、、あなたは長男なのだからしっかりして頂戴、、」と、、親にしてみれば怒っている訳ではない、、励ましているのだった。
しかし、そこに大きな落とし穴があったのだった。
子供も大人も誰しも人間のプライバシーを比較されたり、、本人の前で「よしあし」を言われたりすることは禁物である、、
誰しも自分の欠点というか負の面を云われるのは辛いもので、、
云われるくらいなら顔を見せないほうがいい、、会わないほうがいい、、会話を避けた方がいいとなり、、自分の部屋がある子供は出て来なくなる。
人は誰しも小言を云われたり、注意をされるのは嫌である、、、なるべく言われないように一人になるようだ、、、
それが度重なっていくうちに、、やることが全て、面倒くさく成っていく。そして、起きることさえ面倒になっていくのだった。
子供も大人も「楽」な行動を選ぶような、、、「言い訳」を考えて寝てしまう、、、
無太郎も母親が朝、起きて来ないの起こすと、、「お母さん、頭が痛くて学校を休みたい、、動けないよ、、」と、甘えることは知っていた。
最初は良かったが「言い訳」が通用しなくなっていくのだった。
そんなことの繰り返しをして行くうちに親も騙せなくなり、、今度は何をするかというと、、、居直ることをするのであった。
部屋の鍵を空けない、、親が少し強く言うと、、、「うるさい、、うるさいんだよ」と更に不貞腐れるのだった。
そして、、優しい親の心を知ってか知らずか、、逆らってくるのだった、
何も食べずに部屋に閉じこもる子供が心配で、親は怒ることが出来ずに優しく接しようとする、、、
無太郎の場合も最初は部屋から出てこないが食事時間には出てきたのであった。
しかし、「登校拒否」が始まり、部屋から出て来なくなって1か月が過ぎたころからには親に物を投げつけたりするようになった。
母親は一人では対処できなくなり、、無太郎の父親にも相談したが、、そのうちにそのうちにと言ったが、、手遅れになっていった。
子供は体も多きくなり、、体格的にも対応が出来なくなっていた。
そして、家庭内は一人の「引きこもり」が始まってから、環境が一遍していったのである。。毎日,重苦しい、笑いの無い家庭になっていったのであった
3)引きこもりにはいくつかの要因が絡み合って、、
子供も大人も引きこもりには生活環境や親子や身内の関係、、更には学校とか職場とかの人間関係が絡んで起きるので、一概には「これが原因」とは言えないような気がする。
そして、本人の性格や気性などが関わるので難しい。引きこもりは「突然」に起こるのではなく、、徐々に行動や気持ちに変化が表れて、親がよくよく本人を観察していれば分かる筈である、、しかし、誰しも日々の生活が忙しい、、、心にゆとりを持って生活していることが少ないのだ、、、子供が幼少の頃には親も注意を払って、、「危ない、、それは駄目よ、、」とか、、「それはしてはいけない、、」とか、窘めることが多い。
そして、、関わることが親も子供も、なぜか楽しいような、、笑顔を見せながら生活にも余裕があった。
しかし、子供も成長してくると、、、「うるさいよ、、そんなことは分かっている、、」とか関りから逃げるような、、、
そんなこともあり、、「放任主義」をとる親も出てくる。
また、、「それくらいは自分でやりなさい、、いつまでも子供じゃあないのだから、、」と、、突き放す親もいる。
親子関係は難しい、、、本当は構ってもらいたいと思う子供もいる筈で有る、、その親子関係の距離が人により違いがあって、「こうだと、、」と言えない。
その辺にも気持ちのくい違いが出来て、、心の行き来が狂ってくるようだ、、、
そして、気が付いたら「会話」が無くなり、、引きこもりにつながっていく、、親子の断絶が始まってしまう。
子供が成長する頃には経済的にもお金が必要になり、、共働きが多くなって、孤立化していくようだった。
親も仕事と家庭の両立で肉体的に疲れ、、子供も部活や課外授業や「学習塾」などで肉体的に精神的にも負担が増えて、疲れがでるようだった、、、
御互いの肉体的疲れや精神的な悩みが増えて、、いつの間にか無口になり、、「会話」が少なくなる
そんな家庭環境で生活空間で生活することが、、正直言って「面倒臭く」なり、、お互いが無理をして「背伸び」をしているような、、
そこに「引きこもり」という落とし穴に嵌るようであった。
しかし、、「引きこもり」問題は課題が多く難しい、、言えることがひとつだけあるような「早く気が付き、傷口が小さい時」に、、お互いで話し合うことの様な気がする。。。。
そして、、引きこもりが始り、、同時に家庭内暴力が始まるのも要因の一つだ。
1)家庭内暴力
子供にも大人にもあるようだ、、「家庭内暴力」は、、、
昔と違い、、今は夫婦二人で育てることが多く、、その上に友働きが多い。
そんよってしまう。
友働きの場合などは、、朝は忙しともあった、、「誰誰ちゃん、、いくよ、、」と言いながら、親が守る様に育てる、、年寄りがいると更に可愛がるのだった。
子供はその生活が当たり前とおもうようになってしまう。
お祖母ちゃん、、おじいちゃんに、、「誰誰ちゃん。。可愛い、いい子だね」と褒められて育ってしまうことが多い。
そんな子供が、、今までにあったnoiDこともなく、話したこともない仲間が居る中にほうり込まれてしまうのである、、、
それは、、「ライオンかも知れない、、狼かもしれない、、像かも知れない」のだ、、見たことのない生き物と一緒に一つの檻の中に入れられてしまうのだから、、」子供によっては環境が変わるので、、本人そのものも変化し
環境に順応する子供もいれば、、閉鎖的なってしまう子供もいるのだ。。子供とは難しい、、、
2)家庭外でに不満が、、、
子供も成長仕切れない中途半端な大人の格好をした大人が、、親や近親者と生活した延長で、家庭以外の社会空間に出た時、、、「こんな筈ではなかった、、どうして、自分の考えが通じないのだ、、、
と、、繰り返し思う。その繰り返しが自信をうしなっていくのだった。
學校で社会現場での「やるさなさ、、、不甲斐なさが、、」行動が出来ないことが、、意見が通らが積み重なって「こころの中に鬱憤の膿がたまり、、」その膿の吐き出し口を求めて、、それが暴力となって表れるような。
その暴力が内に出るか外に出るかによって「呼び方というか、扱い方が千葉って来る。」のだった。。
家庭内で家族対して、大概は親にする暴力で、、、それは「甘え」の表現のヒツかも知れないのだ。
そして、社会や職場、学校での暴力は刑事事件にも発展して、社会問題に取り上げられる。。
いわゆる「非行」として、、、
家庭内だけなら、、話合いや気づかいで、穏便にすることも出来れるが、、暴力程度では警察沙汰になることもある。。。
いずれにしても「暴力」は駄目なのだ。
社会で取り締まられている「暴力団」は現在は厳しく規制をされて、、公安委員会からは「広域指定暴力団」として管理されている。。そんなところから「大きい、小さいの違い」は有っても「暴力」は絶対の駄目なのだ。
だから、、「引きこもり」や「登校拒否」や「職場放棄」にならないように、、、日々、」管理者や教育者は監視指導には注意して行動をしないと、、、
この行為も出発点は家庭である。。
特に子供を育てることは難しい、、そして、育成することは「更に至難の領域」なのだ、、、
簡単に子供を育てることは考えないほうが、、時代が進むほど、難しくなっていくような、、、
時代が、、世の中が「少子化」だからと云って、むやみに、、やたらに「子供を増やす」ことを考えないほうがいい。。。
現在の世界、、地球規模で考えた方が、、、、ウクライナでの戦争、、パレスチナとイスラエルの戦闘での子供たちの残酷物語、、ビルマでの悲劇、、そして、台湾問題が、、、更には北朝鮮のミサル発射など、、、世界各地での自然災害が起きて、、地球環境に危機が迫っている。
人々よ考えてみて欲しい。。もぅともつと「モアモアモア」に。。。
暴力がどうのこうのな言ってる場合でないのだ、、、
世の中が亡くなったらどうする、、、今こそ、、地球規模で考えろって、、、叫びたい。。。
「馬鹿野郎、、、人間ども、、、」と、、
3)飛び出す暴力
人の暴力とは限りがないような、、、一度吹きだしたら噴火が止まらない「火山」のようにマグマを流す。。周囲を溶かしながら、、巻き込みながら、傷つけていく、、時には命を奪う。。。
最初は小さなゲンコツも平手打ちも大ききなると、、物を手にして暴れるようだ、、、
どうしてというほどに暴れる、、、
多分、自」分でも止まらなくなるように、、人に危害を加える。
人とは怖ろしい生き物だ、、、なんでというほ力が出てくる、、、火山が爆発すると溶岩が流れ出す。。。其の勢いは徐々になる。。
しかし、、時がたち、、冷えてくると固まる、、人間も同じだ、、時間が経ち冷静になると嘘のように静かになる、、、
人も話し合い、、初めから冷静なら「暴力」はいらない。
それならば原因になることを究明して、、助け合い、話合いで暴力は防げる筈だ、、
しかし、出来ずに暴力を振るうのだ、、、
振るう方も「我慢せずに」、、「云えよ」「話せよ」、、「黙る前に口を開け」
そして、、思いっきり討論しろと言いたい、、
無言は美徳とされた時代は終わったのだ、、只、黙っていては分からないのだ、、
人には素晴らしい武器がある、、それは「言葉」なのだ。。
云いすぎかもしれないが話すことが「美徳」なのだ、、話して、納得して、無暴力で行きたいものだ。。。
そして、、子供の不登校や「引きこもり」「家庭内暴力」から始まった子供の暴動は
「いじめ」まで発展する。。。
1)苛め、、、
引きこもりからはじまり、、家族への暴力行為が起こり、、学校などで友達関係への苛めが起ると問題である、、いわゆる学校内暴力が起きることがある。
友達同士の喧嘩ならまだいい、、それが団体で「個人一人」を苛めると、、苛められた子供に悲劇が起きるのだ、、、最悪の場合は「自殺」というような形で表れてくる。
ものあ無くてはならないような。。
出来ることから始めるとすれば、、極端な話が、、個室をなくしてオープンにすることだ、その反動で「プライバシーの問題」が起る、、難しい。
昔は大部屋だった、、しかし、、今は違うと反感をされる。
引きこもりはどうして起こるのか、、家庭内に引きこもるのには、理由がある筈だと思うことが大事だ。
まずはその理を、、訳を聞きださないと、、大事なことはひきこもることを、、「なんでと人は怒れば怒るほど、、追求すればするほど、、人とは自分の穴倉にはいってしまう。
それを重ねるうちに「穴倉」から出て来なくなるのであった。
穴倉に入る前に、、入り口で話さないと。。。
「子供が学校に行きたくなかったら、、休ませればいい、、」そして、本人がやりたいことをやらせるのだ、、、話合いで決めてやればいいような、、、
いろいろいる子供たちの中には「勉強が嫌いなこどもいる」「団体行動が嫌いな子供もいる」それを無理やりさせることは無い、、、その子供の不向きが有るのだから、、それを親は指導者は見出すことが必要だ。。
穴倉の入り口で防ぐことが大事だ。それには普段からの観察が必要であり、、無暗やたらに子供を創るな、、、考えて行動をしろよとと言いたい。
それが苛め対策の基礎だと思う,,大人たちが考えて「コヅクリ」をしろと言いたい,、何度も言い
2)苛め(その2)
、
穴倉から引き出したら、、子供や大人でもすきなことやらせてやる、、得意なことがあるのだ。。誰でも彼でも学校での勉強を好きな奴ばかりではない、、嫌いな奴が多いのだ。
英語が好きな奴、、数学が好きな奴、、絵をかくことが得意な奴、、音楽が好きで歌うことがなによりも好きな奴、運動神経が飛び向けているいる奴と色々いる。
大人になったら得意な分野で仕事は一本道が多い。
だから、、子供に対してやれと、攻めるなよと言いたい、考えてみろよ、、自分の子供時代を、、、自分の能力を考えろだよ。
「鳶が鷹を産むようにはいかないのだ、、」
子供時代には「のびのびと、、」慌てずに生きましょう、、、
黙ってても成長するから、、暖かい心で見守らないと、、穴倉に入ってしまうよ、、、まずは「ひきこもり」をさせないように、、周りの大人が気遣わないと。。。大人でも周囲の家族が優しく接しなければダメだ。
人の優しい心が大事だ、、
人とは「やっては駄目とか、、それはいけないと、、」と、、何から何までダメ押しでは、息が詰まり、、反発して、、逆切れを起こすのだ。
「なんでも駄目はやめましょう、、、やりたいことを話し合いをしながらやる、、ダメなら、なんで駄目かを相談する」
そんな努力を親も子供もすれば、、いいのではないかな、、、
兎に角「ひきこもり」を防ぎ、、楽しい家族団欒を、気を抜かずに作ることが一番大事なようだ。
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